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1巻
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「リッちゃん? 魔法みたいって!」
シエラさんは目を見開いた。
「あ、その、子どもみたいな感想ですみません」
「……リツ、これはシエラの魔法だ」
「え? 魔法なんてあるわけないじゃないですか。あ、それともやっぱりこれは夢なんですか?」
そう尋ねると、ディーンさんとシエラさんが顔を見合わせた。そして。
「リツ、これは夢ではない。現実だ」
ディーンさんに目を見てきっぱりと言い切られ、僕は息を飲む。隣に立つシエラさんも困ったように見つめている。
「ディーンハルト様、これはどういうことかしら。私にはリッちゃんが嘘を言っているようには思えないんだけど。それによく考えるとリッちゃんの色彩って……」
シエラさんは眉をひそめ、言葉を濁した。
「リツ、中庭に来たときのことを覚えているか? どうやってあそこへ来たのか」
「それは、えっと、さっきも話しましたけど、何もわからなくて……」
震える手を押さえるようにきつく握ると、爪が手のひらに食いこんで痛みが走る。夢ならきっと痛みはしない。目を逸らしてきた疑問が急に頭の中をぐるぐると回り出し、心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
自宅で明日帰ってくる妹たちにマフィンを焼いていたはずなのに、どうして聞いたこともないような国の王宮にいるのか?
気を失っている間に誰かに連れてこられたのか?
そもそもグラッツェリア王国とはどこなのか?
英語もろくに話せないのに、どうしてふたりと会話できている?
答えを求めてディーンさんを見ると、彼は僕以上につらそうな顔でこちらを見ていた。
「私が知っているのは、リツが空から落ちてきているところからだ。上空に不思議な魔力を感じて見上げると、リツがふわりと浮かぶようにゆっくりと落ちてきていた。駆け寄ると、急に落ちる速度が上がり慌てて受け止めたんだ」
物理法則を無視した不思議な話。空から人がゆっくりと落ちてくるなんて……
でも、もしここが本当に〝異世界〟なんだとしたら――
妹がよく読んでいたライトノベルにそんな物語があると話していた。事故で亡くなって異世界へ転生したり、聖女として召喚されたり。どの主人公も異世界で活躍したり、楽しみを見つけたり、新しい人生を満喫しているんだと熱く語っていた。そして、僕に聞いてきた。
『もし異世界に行ったら、お兄ちゃんなら何がしたい?』
そのときになんて返事したのかは覚えてないけど、そんなこと起こるわけないって思いこんでた。それなのに、まさか自分の身に起こるなんて。
「リツはどこまで覚えているんだ? 自宅にいたと言ったな」
ディーンさんの問いかけに喉がひりつく。
「……はい。僕は日本という国に住んでいて、ここに来るまでは家にいました。そこでマフィン、さっきディーンさんが食べたお菓子を焼いていたんです。それを袋につめて明日、会社に……仕事場に持っていこうと玄関に持っていったところで意識を失ってしまって。あの中庭で目を覚ましたみたいです」
「ニホン……聞いたことがないな」
やっぱりここは異世界なのかな。意識すると、もうそうとしか思えなくなった。
「日本、いえ、日本だけじゃなく僕がいた世界に魔法はありませんでした。魔法はファンタジー、作り話で実際にはないんです」
「魔法がない……だが、マフィンだったか。菓子を作っていたのだろう? 魔法がないのに作れるものなのか。いや、菓子作りに限らず、そもそも生活ができるのか」
ディーンさんはそう言って、想像できないと眉間に皺を寄せた。隣で黙って聞いていたシエラさんも困ったような笑みを浮かべ首を横に振る。
そんなふたりに向かって、魔法の代わりに科学技術が生活を支えていること、その技術を使って料理をしたり仕事したりしていることを伝えた。日本での生活を淡々と説明していたつもりだったのに話せば話すほど、ディーンさんが驚けば驚くほど、これまでの日常が遠くに感じられる。
僕は本当に来てしまったんだ、たったひとりで異世界へ……
異世界に来た実感が湧いてくる。
「教えてくれてありがとう、リツ。続きはまたにしよう」
いつの間にかディーンさんに抱きしめられていた。そっと頭をなでられ、ディーンさんの肩口に顔を押しつける。
「ディーンさん……」
知らないうちに泣いていたみたいで、ディーンさんのローブを濡らしてしまった。
「ディーンさん、僕は日本へ、元の世界へ帰れるでしょうか。魔法で戻してもらえますか」
「残念だが……力になれずすまない」
そんな……一縷の望みも虚しく絶たれ、言葉の代わりに涙が溢れ出す。
「大丈夫だ、リツ。私がいる」
ディーンさんの声が優しく胸に落ちる。
出会ったばかりの彼に頼るのに抵抗がないわけじゃない。でもその言葉はとても心強く、不安に沈む僕をすくい上げてくれる。
甘やかされるままに泣き続けた僕は、そのままディーンさんの腕の中で眠りに落ちていた。
第二章 異世界の食事と魔法のパン
目を覚ますと再びディーンさんの腕の中……ということはなく、大きめのカウチソファに寝かされていた。掛け布団代わりにローブがかけられていたけど、これはきっとディーンさんのものだろう。
無意識ににおいを嗅ぐと、優しい香りがした。香水をつけているのかな。心が落ち着き、起きたばかりなのにまた目蓋がとろんと落ちてくる。
「……コホン」
小さく響いた咳払いにハッと顔を上げると、カウチのうしろにディーンさんが立っていた。気のせいかもしれないけど、その頬が少し赤いように見える。
「す、すみません。僕、寝ちゃったんですね」
慌てて身体を起こすと、空いたスペースにディーンさんが座った。
「顔色がよくなったな。気分はどうだ?」
「もう大丈夫です。これ、ありがとうございました」
ローブを軽く畳んで手渡すと、ディーンさんはそのまま肘置きにかける。
「何か食べられそうか?」
「ありがとうございます。何から何まですみません」
マフィンを味見してから何も食べていないお腹は空腹を訴えている。頭を下げると、ディーンさんはポンポンと僕の頭を触り、そのまま髪をかき混ぜるようになでた。
「かまわない。すぐに準備させよう。……だが、期待はしないでくれ。おそらくリツの口には合わないだろう」
ため息とともに、ディーンさんの手が止まる。
「え? たしかに僕は庶民なので、王宮の料理は合わないかもしれませんが」
「そうではない。あのマフィンを食べて感じたが、リツの世界の料理はうまいんじゃないか」
「……どういうことでしょうか」
「大袈裟だと言ったが、本当に私はリツの作ったあのマフィン以上にうまいものを知らない。というより、料理でも菓子でもあんなにうまいと感じたことはない。ここの料理もおいしくないわけではないが」
「はぁ……」
人それぞれ好みはあるし、僕の作るものも元の世界にあるものも全部がおいしいわけじゃない。
そもそも地域によって――この場合は世界によってかな――食文化に違いがあるのはわかる。気候が違えば入手できる食材や調味料が違うし、科学技術がないから家電製品はないみたいなので調理方法も違うんだろう。
けれどその場所その場所で文化は発展するものだ。
それにここは王宮。たとえ王族じゃなくても、ディーンさんは宰相で立場のある人みたいなのでそれなりの食事をとっているはず。ディーンさんの言おうとしていることがよくわからない。うーんと考えている間に、彼はメイドさんに食事の準備を頼んでいた。
机に並べられたのは、ふたり分のパンとクリームシチューとサラダ。
おいしそうに見える。強いて言えば、パンが見慣れているものより色が濃く固そうなくらいだ。
「とりあえず、少しだけ食べてみてくれ」
「いただきます」
まずはクリームシチューをひと口。
「……? えっと……んん? 味がしない?」
次にパンをかじってみた。
「ッ! な、何これ……しょっぱい……」
それも半端なしょっぱさじゃない。塩の塊を口に突っ込んだような味がする。
「リツ⁉ すぐに吐き出すんだ」
ディーンさんはそう言ってくれるけど、せっかく用意してもらった食べ物を吐き出すのは申し訳なく首を振る。飲みこもうと頑張ってみるが、許容量を超えた塩分に舌がピリピリと痛み出し、なかなか喉を通らない。
ゆっくりと時間をかけながら飲みこむと、ディーンさんが水を渡してくれる。ひんやりとした水で口を潤し、塩分を流すとやっと人心地ついた。
「ディーンさん、どうしてこのパンはこんなにしょっぱいんですか? シチューは全然味がしないのに」
「シチューに味がないのは、パンを浸して食べるのが前提なんだ。パンの味ありきで作られたと聞いている。そしてパンは、製パン魔法を使える者が作っているんだが、必ずこの味になるんだ。最初に食べ方を伝えておけばよかったな。すまない」
「いえ、初めて食べるのに僕も不注意でした。それよりせいパン……製パン? 製パン魔法ってなんですか」
「その名の通り、パンを作製する魔法だ。材料を揃えて、魔法をかけるとパンになるらしい。実際に魔法をかけてるところを見たことはないが」
材料を準備して魔法をかけるだけで、一瞬でパンになるってこと? 発酵も成形も不要ってこと?
パンを一から作るとなると、手間暇かけてやっと出来上がるのに、魔法って本当にすごい。魅力的すぎる。
だけど、完成するのがこれじゃあまともに食べられない。どのくらいの塩が使われているかわからないけど、あきらかに身体にはよくないだろう。
「塩を少なくすれば、もっと食べやすくなるんじゃないですか?」
「いや、レシピがとても細かく決まっているらしく、少しでも分量を変えるとパンは作れないらしい」
「うーん、なるほど……魔法って難しいんですね。ならいっそのこと、材料はあるんだから普通にパンを焼けばいいんじゃないですか?」
首を傾げながらディーンさんを見ると、驚いたような表情を浮かべている。
「パンを焼く? 焼くというのは、火魔法を使うということか?」
「え?」
「うん?」
「……」
「……」
しばらく無言で見つめ合ってしまった。
「パンを焼く」
「はい」
何か大きくすれ違っている。言葉は通じているのに、うまく意図が伝わらない。それはディーンさんも感じているのか、顎に手を当てながら考えこんでいた。
「リツは……魔法を使わずに料理をすると言ったな」
確認するように問いかけられ、こくりとうなずく。
「魔法のない世界でしたので。ここでは魔法を使って料理をするのが普通なんですか?」
「そうだ。調理魔法という魔法で作る、らしい」
「らしい? ディーンさんは調理魔法を使えないということですか?」
「いや、調理魔法は簡単な生活魔法の範囲だから私でも使えるが、立場上使ったことはないな。私は公爵家の者なんだが、基本的に貴族は製パン魔法を使える人を雇い、使用人が調理魔法で食事を準備している。製菓魔法など特殊な魔法を扱える人を雇う家もあるが」
貴族の生活は漫画のイメージでしかないけど調理とは無縁なんだろう。
「そう、だったんですね……。じゃあ貴族以外の方は、どうしているのでしょうか」
「平民や下級貴族の一部は製パン魔法を使える者からパンを買い、ほかの者は自分たちで調理魔法を使っている」
パン屋さんは存在するのか。それよりも貴族だけではなく平民も魔法で料理するということは、まさか。
「魔法を使わずに料理をする人はいない、ということですか」
「そうだ」
「食材を切ったり、焼いたり、煮たり、茹でたりしないってことですか?」
どうしても信じられず、ディーンさんに細かく尋ねる。
「すまない、切ったり焼いたりはわかるが、煮たり茹でたりとはどういうことを指すんだ?」
「……今、ここが異世界なんだって一番実感しました」
一瞬、目眩がした。とんでもない世界に来てしまった……
世界の常識が違いすぎる。魔法がある世界だと聞いたときより衝撃は大きいかもしれない。魔法は漫画や映画で見たことがあるからなんとなく想像はできる。でも、料理をしない世界は無理だ。そんな世界に来てしまったわけだけど、まったくイメージがわかない。これからここでどうやって生活していけばいいんだろう。
目を閉じたまま頭を抱えていると、ディーンさんがそばに寄ってきてくれた。
「リツ、無理に食べなくていい。気分が悪いなら、もう休むか?」
「いえ、大丈夫です。最後までいただいただきます」
魔法で作るとはいえ、これを用意してくれた人がいることに変わりはない。それに食べ物を粗末にするのは気が引けた。ちゃんと現実を受け止めようと、しょっぱいパンを食べながら決意する。
元の世界に戻る方法や仕事のこと、妹たちのこと。考えないといけないことはたくさんある。
今ごろ妹たちはどうしているだろう。家に僕がいないことにもう気づいたかな。
ふたりの好きなものをたくさん並べて、久しぶりに食卓を囲もうと思っていた。離れている間のことを聞いたり、卒業後のことを話そうと楽しみにしていたのに。
ふたりに会うためになんとしてでも帰らないと。
でも、異世界から無事に帰るにはどうすればいいのかなんてわからない。
いや、だからこそ、まずこの世界で生き延びなければ。生きるためには食事が不可欠。長年、自分好みの味付けで食事を作ってきたから、この世界の食事にいつまでも耐えられないだろう。
当面の目標は食事改善だ。
向かいで同じものを食べていたディーンさんに見守られながら、ふやけるほどパンをシチューに浸し、素材の味を活かしたサラダを箸休めに食べ、なんとか完食する。
食事を終えると、風呂を勧められた。ちょうどさっぱりしたかったので、ありがたい提案だったが、こっちの世界にはマフィンの入った紙袋しか持ってきていなかったから着替えがない。それをディーンさんに相談すると。
「着替えは用意してあるから大丈夫だ。その格好もリツによく似合っているが、こちらでは少々目立つからな」
シャツにデニムパンツではさすがにこの王宮に馴染まないかと、ディーンさんと自身の服装を見比べる。
「助かりますけど……ディーンさんのはちょっと大きいかもしれません」
ちょっとどころではないだろう。絶対にディーンさんのサイズは大きい。まず身長が違うし、同じものを食べてるのに『お兄ちゃん細すぎ! うらやましい!』と妹に嘆かれるほど貧弱な僕では身幅も合わない。
「大丈夫だ。リツの身体に合うものがある。侍従のものになるが、今日のところはそれを着てほしい」
「十分です。ありがとうございます」
「では、浴室に案内しよう。着替えはその間に準備させる」
案内されたのは、ドアで隔てられたすぐ隣の部屋だった。
仮眠室らしい。自宅で使っていた八畳の自分の部屋よりずっと広い空間に、ダブルサイズのベッドとソファセット、クローゼット。さらに、たくさんの本が納められた棚が置かれている。仮眠室というには生活感に溢れた部屋だ。
「ここってもしかして」
「あぁ。私の部屋のようなものだ。家は別にあるが、ほとんどここで寝起きしている」
それは仕事が忙しくて家に帰ることができないってことかな。だから顔色も悪いし、クマもひどいのかもしれない。
「お仕事、大変なんですね」
隣に立つディーンさんの顔を見上げると、返事の代わりに苦笑が返ってきた。図星ってことか。
今は自分のことに精一杯で人の心配をする余裕はないはずなのに、ディーンさんのことはとても気になる。彼が優しく気遣ってくれるから、僕も少しでも返したい。何かディーンさんの役に立てることがあるかな?
仮眠室の奥にバスルームへ続く扉があった。隣接する扉はトイレらしい。魔石を利用しているそうで、水を流すのに魔法は必要ないようだと安心していたら。
「……」
広めの浴室内には、バスタブと石鹸類しかなかった。蛇口とシャワーヘッドがどこにも設置されていない。
「ディーンさん、あの、お湯ってどこから……?」
首を傾げると、ディーンさんはハッと気づいたように目を見開き、ばつが悪そうに咳払いをした。
「魔法だな」
「やっぱり……」
この世界に魔法は必須。トイレだけでも回避できてよかったと思うしかない。
「今後のことは考えるが、今は私も一緒に入ろう。一度発動すれば一定時間お湯を出し続けることはその場にいなくても可能だ。だが、自分の真上でなければ魔法がかけられないんだ」
それなら魔法を使った瞬間、シャワーでずぶ濡れになるのか。シャワーは基本的にひとりで浴びるから、問題はないんだと思うけど。この世界の魔法は製パン魔法以外も融通が利かないらしい。
「一緒に入ってかまわないだろうか?」
「もちろんです。僕は慣れてますし、大丈夫で――」
「なんだと⁉」
言い終わる前に、ディーンさんに肩を掴まれ大声で遮られる。
「ええ? な、なんですか?」
怒ってる? いや、ディーンさんは困っているようにも見える。眉間にぐっと力を入れた強い視線に射抜かれ戸惑うが、肩を掴まれているので身動きできない。何か変なことを言っただろうか。
「慣れているとはどういう意味だ? 人と、男と風呂へ入り慣れているということか⁉」
「男? そうですね、弟とも入ってましたし、よく近所の銭湯とか温泉行ったりしてました……」
もしかしてこの世界ってそういうのないのかな? 文化の違いがここにもあったのか。ひとりで入るのが当たり前なら驚いても不思議じゃない。
そう考えていると、ディーンさんは戸惑った顔で肩を解放する。
「銭湯や温泉というのは、公衆浴場のことか? 他国にはあると聞くが、この国にはないな。ここでは……いや、いい。つまり公衆浴場で慣れているということか」
「そうですよ?」
「わかった。……大丈夫だ」
何が大丈夫なのかさっぱりわからないけど、ディーンさんの中では一応解決したらしい。気になるけど、大丈夫だと言うばかりでそれ以上何も教えてくれない。
話題を逸らすように、浴室に入るよう急かされてしまう。ディーンさんは素早く衣服を脱ぐと、足早に先に浴室へ入っていった。そんなに追及されたくない話だったのか。
無理やり聞き出すつもりもないので大人しく服を脱ぎ、腰にタオルを巻いた格好で浴室に入る。ディーンさんが魔法でミストを出してくれたらしく、部屋はじんわりと温かい。霧に包まれたようで視界は悪いが、貧弱な身体を晒すのは恥ずかしいので助かる。
「寒くはないか?」
「大丈夫です」
「シャワーを出す。熱かったらすぐに言いなさい」
うなずきながら天井を見上げると、シャワーヘッドも何もない空間からお湯が噴き出てきた。これはちょっと楽しいかもしれない。
目を閉じて不思議な湯を堪能していると、笑いを堪えたような声で話しかけられた。
「気持ちよさそうなところ悪いが、石鹸の使い方はわかるか?」
「はい。あ、よかったら頭を洗いましょうか? 僕、結構うまいんですよ」
食事もベッドもシャワーも何もかもしてもらうばかりだったので、お礼ができればとディーンさんに提案する。
「それは、そのさっき話していた公衆浴場で、誰かにしていたということか?」
「そうですね、銭湯とかでも弟の頭よく洗ってました」
毎晩、弟を風呂に入れていたので、人の頭を洗うのには慣れている。
「シャワーのお礼にどうですか?」
「では、頼む」
バスルーム用の椅子に腰掛けてもらい、僕はうしろに回った。近づいてわかったけど、やっぱりディーンさんは鍛えてるみたいで、無駄なく筋肉がついた理想的な身体をしている。うらやましい……
体格差にちょっと拗ねた気持ちになりながら石鹼を手に取り、モコモコに泡立てる。濡れたディーンさんの銀髪にそれをのせ、地肌を指の腹で優しくマッサージしながら洗っていく。すると、彼から唸るような声が漏れた。
「痛かったですか?」
「いや、逆だ。こんなに気持ちいいとは思わなかった……」
ほうっと息をつくディーンさんの肩から力が抜けていく。
「気に入ってもらえました?」
「とても。毎晩頼みたいぐらいだ」
「いいですよ~。喜んでもらえたなら何よりです」
ちっぽけなことだけれど、お世話になりっぱなしのディーンさんに恩返しできて少しだけ安心した。魔法が使えなくても、役に立てることがある。それがわかっただけでディーンさんと一緒に入ってよかった。
入念に頭を洗ったあと、魔法を使って出してもらったお湯で泡を洗い流す。
「このまま身体も洗いましょうか?」
そう問いかけると、ディーンさんの肩がピクリと跳ね喉が鳴った。振り返ってこちらを見つめる彼の銀糸から雫が流れ落ちる。吸いこまれそうな蒼い流し目が艶やかで、ぞくりと背が震えた。
さっきまでのリラックスした表情から一変し、妖艶な雰囲気に圧倒され逃げ腰になる。何かまずいことを言っただろうか?
「それはこの手で私の全身に触れる、ということか?」
ディーンさんはそう言いながら、僕の手を取る。
「……っ!」
ボディタオルかそれに代わるものを使うつもりだったと言いたいのに、ディーンさんに見つめられてうまく口が動かない。いくら男同士でも、素手で裸体を洗うなんて恥ずかしすぎる。
取られた手を引かれ顔がぐっと近づいた。濡れた耳に熱い吐息がかかる。
「リツ、私の理性を試しているのか? 悪い子だな。それとも、お仕置きをされたいのか?」
意地悪な言葉とは裏腹に蕩けるような甘い低音を吹きこまれ、耳たぶを甘噛みされた。やわやわと食まれ、ちゅっと音を立てて吸い上げられると、無意識に腰が震える。
「ひゃぁ……んんっ」
高い声が出てしまい咄嗟に手で口を覆う。
「かわいい声だな。ずっと聞いていたい。……いや、名残惜しいが、今夜はこれくらいにしておこう」
敏感になった耳をディーンさんがなでる。
僕は耐えきれずその場にへたりこんだ。心臓が痛いくらいに強く脈打ち、全身が火照ったように熱くなっている。
――今、何が起こったんだ?
「しばらくは湯が出続けるから、落ち着いたら出ておいで」
混乱したまま座っていると、シャワーが降り注いできた。
「は、はい……」
なんとか返事したものの、その体勢から動けないまま噛まれた耳を押さえ続けた。どうしてこんなことをしたのだろうと思うけど、いくら考えてもディーンさんの意図はまったくわからない。
……ちょっとからかわれただけだ。忘れよう。
深呼吸を繰り返し、気持ちを整える。身体の火照りが冷めるころには、降り注いでいたシャワーはいつの間にか止まっていた。
シエラさんは目を見開いた。
「あ、その、子どもみたいな感想ですみません」
「……リツ、これはシエラの魔法だ」
「え? 魔法なんてあるわけないじゃないですか。あ、それともやっぱりこれは夢なんですか?」
そう尋ねると、ディーンさんとシエラさんが顔を見合わせた。そして。
「リツ、これは夢ではない。現実だ」
ディーンさんに目を見てきっぱりと言い切られ、僕は息を飲む。隣に立つシエラさんも困ったように見つめている。
「ディーンハルト様、これはどういうことかしら。私にはリッちゃんが嘘を言っているようには思えないんだけど。それによく考えるとリッちゃんの色彩って……」
シエラさんは眉をひそめ、言葉を濁した。
「リツ、中庭に来たときのことを覚えているか? どうやってあそこへ来たのか」
「それは、えっと、さっきも話しましたけど、何もわからなくて……」
震える手を押さえるようにきつく握ると、爪が手のひらに食いこんで痛みが走る。夢ならきっと痛みはしない。目を逸らしてきた疑問が急に頭の中をぐるぐると回り出し、心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
自宅で明日帰ってくる妹たちにマフィンを焼いていたはずなのに、どうして聞いたこともないような国の王宮にいるのか?
気を失っている間に誰かに連れてこられたのか?
そもそもグラッツェリア王国とはどこなのか?
英語もろくに話せないのに、どうしてふたりと会話できている?
答えを求めてディーンさんを見ると、彼は僕以上につらそうな顔でこちらを見ていた。
「私が知っているのは、リツが空から落ちてきているところからだ。上空に不思議な魔力を感じて見上げると、リツがふわりと浮かぶようにゆっくりと落ちてきていた。駆け寄ると、急に落ちる速度が上がり慌てて受け止めたんだ」
物理法則を無視した不思議な話。空から人がゆっくりと落ちてくるなんて……
でも、もしここが本当に〝異世界〟なんだとしたら――
妹がよく読んでいたライトノベルにそんな物語があると話していた。事故で亡くなって異世界へ転生したり、聖女として召喚されたり。どの主人公も異世界で活躍したり、楽しみを見つけたり、新しい人生を満喫しているんだと熱く語っていた。そして、僕に聞いてきた。
『もし異世界に行ったら、お兄ちゃんなら何がしたい?』
そのときになんて返事したのかは覚えてないけど、そんなこと起こるわけないって思いこんでた。それなのに、まさか自分の身に起こるなんて。
「リツはどこまで覚えているんだ? 自宅にいたと言ったな」
ディーンさんの問いかけに喉がひりつく。
「……はい。僕は日本という国に住んでいて、ここに来るまでは家にいました。そこでマフィン、さっきディーンさんが食べたお菓子を焼いていたんです。それを袋につめて明日、会社に……仕事場に持っていこうと玄関に持っていったところで意識を失ってしまって。あの中庭で目を覚ましたみたいです」
「ニホン……聞いたことがないな」
やっぱりここは異世界なのかな。意識すると、もうそうとしか思えなくなった。
「日本、いえ、日本だけじゃなく僕がいた世界に魔法はありませんでした。魔法はファンタジー、作り話で実際にはないんです」
「魔法がない……だが、マフィンだったか。菓子を作っていたのだろう? 魔法がないのに作れるものなのか。いや、菓子作りに限らず、そもそも生活ができるのか」
ディーンさんはそう言って、想像できないと眉間に皺を寄せた。隣で黙って聞いていたシエラさんも困ったような笑みを浮かべ首を横に振る。
そんなふたりに向かって、魔法の代わりに科学技術が生活を支えていること、その技術を使って料理をしたり仕事したりしていることを伝えた。日本での生活を淡々と説明していたつもりだったのに話せば話すほど、ディーンさんが驚けば驚くほど、これまでの日常が遠くに感じられる。
僕は本当に来てしまったんだ、たったひとりで異世界へ……
異世界に来た実感が湧いてくる。
「教えてくれてありがとう、リツ。続きはまたにしよう」
いつの間にかディーンさんに抱きしめられていた。そっと頭をなでられ、ディーンさんの肩口に顔を押しつける。
「ディーンさん……」
知らないうちに泣いていたみたいで、ディーンさんのローブを濡らしてしまった。
「ディーンさん、僕は日本へ、元の世界へ帰れるでしょうか。魔法で戻してもらえますか」
「残念だが……力になれずすまない」
そんな……一縷の望みも虚しく絶たれ、言葉の代わりに涙が溢れ出す。
「大丈夫だ、リツ。私がいる」
ディーンさんの声が優しく胸に落ちる。
出会ったばかりの彼に頼るのに抵抗がないわけじゃない。でもその言葉はとても心強く、不安に沈む僕をすくい上げてくれる。
甘やかされるままに泣き続けた僕は、そのままディーンさんの腕の中で眠りに落ちていた。
第二章 異世界の食事と魔法のパン
目を覚ますと再びディーンさんの腕の中……ということはなく、大きめのカウチソファに寝かされていた。掛け布団代わりにローブがかけられていたけど、これはきっとディーンさんのものだろう。
無意識ににおいを嗅ぐと、優しい香りがした。香水をつけているのかな。心が落ち着き、起きたばかりなのにまた目蓋がとろんと落ちてくる。
「……コホン」
小さく響いた咳払いにハッと顔を上げると、カウチのうしろにディーンさんが立っていた。気のせいかもしれないけど、その頬が少し赤いように見える。
「す、すみません。僕、寝ちゃったんですね」
慌てて身体を起こすと、空いたスペースにディーンさんが座った。
「顔色がよくなったな。気分はどうだ?」
「もう大丈夫です。これ、ありがとうございました」
ローブを軽く畳んで手渡すと、ディーンさんはそのまま肘置きにかける。
「何か食べられそうか?」
「ありがとうございます。何から何まですみません」
マフィンを味見してから何も食べていないお腹は空腹を訴えている。頭を下げると、ディーンさんはポンポンと僕の頭を触り、そのまま髪をかき混ぜるようになでた。
「かまわない。すぐに準備させよう。……だが、期待はしないでくれ。おそらくリツの口には合わないだろう」
ため息とともに、ディーンさんの手が止まる。
「え? たしかに僕は庶民なので、王宮の料理は合わないかもしれませんが」
「そうではない。あのマフィンを食べて感じたが、リツの世界の料理はうまいんじゃないか」
「……どういうことでしょうか」
「大袈裟だと言ったが、本当に私はリツの作ったあのマフィン以上にうまいものを知らない。というより、料理でも菓子でもあんなにうまいと感じたことはない。ここの料理もおいしくないわけではないが」
「はぁ……」
人それぞれ好みはあるし、僕の作るものも元の世界にあるものも全部がおいしいわけじゃない。
そもそも地域によって――この場合は世界によってかな――食文化に違いがあるのはわかる。気候が違えば入手できる食材や調味料が違うし、科学技術がないから家電製品はないみたいなので調理方法も違うんだろう。
けれどその場所その場所で文化は発展するものだ。
それにここは王宮。たとえ王族じゃなくても、ディーンさんは宰相で立場のある人みたいなのでそれなりの食事をとっているはず。ディーンさんの言おうとしていることがよくわからない。うーんと考えている間に、彼はメイドさんに食事の準備を頼んでいた。
机に並べられたのは、ふたり分のパンとクリームシチューとサラダ。
おいしそうに見える。強いて言えば、パンが見慣れているものより色が濃く固そうなくらいだ。
「とりあえず、少しだけ食べてみてくれ」
「いただきます」
まずはクリームシチューをひと口。
「……? えっと……んん? 味がしない?」
次にパンをかじってみた。
「ッ! な、何これ……しょっぱい……」
それも半端なしょっぱさじゃない。塩の塊を口に突っ込んだような味がする。
「リツ⁉ すぐに吐き出すんだ」
ディーンさんはそう言ってくれるけど、せっかく用意してもらった食べ物を吐き出すのは申し訳なく首を振る。飲みこもうと頑張ってみるが、許容量を超えた塩分に舌がピリピリと痛み出し、なかなか喉を通らない。
ゆっくりと時間をかけながら飲みこむと、ディーンさんが水を渡してくれる。ひんやりとした水で口を潤し、塩分を流すとやっと人心地ついた。
「ディーンさん、どうしてこのパンはこんなにしょっぱいんですか? シチューは全然味がしないのに」
「シチューに味がないのは、パンを浸して食べるのが前提なんだ。パンの味ありきで作られたと聞いている。そしてパンは、製パン魔法を使える者が作っているんだが、必ずこの味になるんだ。最初に食べ方を伝えておけばよかったな。すまない」
「いえ、初めて食べるのに僕も不注意でした。それよりせいパン……製パン? 製パン魔法ってなんですか」
「その名の通り、パンを作製する魔法だ。材料を揃えて、魔法をかけるとパンになるらしい。実際に魔法をかけてるところを見たことはないが」
材料を準備して魔法をかけるだけで、一瞬でパンになるってこと? 発酵も成形も不要ってこと?
パンを一から作るとなると、手間暇かけてやっと出来上がるのに、魔法って本当にすごい。魅力的すぎる。
だけど、完成するのがこれじゃあまともに食べられない。どのくらいの塩が使われているかわからないけど、あきらかに身体にはよくないだろう。
「塩を少なくすれば、もっと食べやすくなるんじゃないですか?」
「いや、レシピがとても細かく決まっているらしく、少しでも分量を変えるとパンは作れないらしい」
「うーん、なるほど……魔法って難しいんですね。ならいっそのこと、材料はあるんだから普通にパンを焼けばいいんじゃないですか?」
首を傾げながらディーンさんを見ると、驚いたような表情を浮かべている。
「パンを焼く? 焼くというのは、火魔法を使うということか?」
「え?」
「うん?」
「……」
「……」
しばらく無言で見つめ合ってしまった。
「パンを焼く」
「はい」
何か大きくすれ違っている。言葉は通じているのに、うまく意図が伝わらない。それはディーンさんも感じているのか、顎に手を当てながら考えこんでいた。
「リツは……魔法を使わずに料理をすると言ったな」
確認するように問いかけられ、こくりとうなずく。
「魔法のない世界でしたので。ここでは魔法を使って料理をするのが普通なんですか?」
「そうだ。調理魔法という魔法で作る、らしい」
「らしい? ディーンさんは調理魔法を使えないということですか?」
「いや、調理魔法は簡単な生活魔法の範囲だから私でも使えるが、立場上使ったことはないな。私は公爵家の者なんだが、基本的に貴族は製パン魔法を使える人を雇い、使用人が調理魔法で食事を準備している。製菓魔法など特殊な魔法を扱える人を雇う家もあるが」
貴族の生活は漫画のイメージでしかないけど調理とは無縁なんだろう。
「そう、だったんですね……。じゃあ貴族以外の方は、どうしているのでしょうか」
「平民や下級貴族の一部は製パン魔法を使える者からパンを買い、ほかの者は自分たちで調理魔法を使っている」
パン屋さんは存在するのか。それよりも貴族だけではなく平民も魔法で料理するということは、まさか。
「魔法を使わずに料理をする人はいない、ということですか」
「そうだ」
「食材を切ったり、焼いたり、煮たり、茹でたりしないってことですか?」
どうしても信じられず、ディーンさんに細かく尋ねる。
「すまない、切ったり焼いたりはわかるが、煮たり茹でたりとはどういうことを指すんだ?」
「……今、ここが異世界なんだって一番実感しました」
一瞬、目眩がした。とんでもない世界に来てしまった……
世界の常識が違いすぎる。魔法がある世界だと聞いたときより衝撃は大きいかもしれない。魔法は漫画や映画で見たことがあるからなんとなく想像はできる。でも、料理をしない世界は無理だ。そんな世界に来てしまったわけだけど、まったくイメージがわかない。これからここでどうやって生活していけばいいんだろう。
目を閉じたまま頭を抱えていると、ディーンさんがそばに寄ってきてくれた。
「リツ、無理に食べなくていい。気分が悪いなら、もう休むか?」
「いえ、大丈夫です。最後までいただいただきます」
魔法で作るとはいえ、これを用意してくれた人がいることに変わりはない。それに食べ物を粗末にするのは気が引けた。ちゃんと現実を受け止めようと、しょっぱいパンを食べながら決意する。
元の世界に戻る方法や仕事のこと、妹たちのこと。考えないといけないことはたくさんある。
今ごろ妹たちはどうしているだろう。家に僕がいないことにもう気づいたかな。
ふたりの好きなものをたくさん並べて、久しぶりに食卓を囲もうと思っていた。離れている間のことを聞いたり、卒業後のことを話そうと楽しみにしていたのに。
ふたりに会うためになんとしてでも帰らないと。
でも、異世界から無事に帰るにはどうすればいいのかなんてわからない。
いや、だからこそ、まずこの世界で生き延びなければ。生きるためには食事が不可欠。長年、自分好みの味付けで食事を作ってきたから、この世界の食事にいつまでも耐えられないだろう。
当面の目標は食事改善だ。
向かいで同じものを食べていたディーンさんに見守られながら、ふやけるほどパンをシチューに浸し、素材の味を活かしたサラダを箸休めに食べ、なんとか完食する。
食事を終えると、風呂を勧められた。ちょうどさっぱりしたかったので、ありがたい提案だったが、こっちの世界にはマフィンの入った紙袋しか持ってきていなかったから着替えがない。それをディーンさんに相談すると。
「着替えは用意してあるから大丈夫だ。その格好もリツによく似合っているが、こちらでは少々目立つからな」
シャツにデニムパンツではさすがにこの王宮に馴染まないかと、ディーンさんと自身の服装を見比べる。
「助かりますけど……ディーンさんのはちょっと大きいかもしれません」
ちょっとどころではないだろう。絶対にディーンさんのサイズは大きい。まず身長が違うし、同じものを食べてるのに『お兄ちゃん細すぎ! うらやましい!』と妹に嘆かれるほど貧弱な僕では身幅も合わない。
「大丈夫だ。リツの身体に合うものがある。侍従のものになるが、今日のところはそれを着てほしい」
「十分です。ありがとうございます」
「では、浴室に案内しよう。着替えはその間に準備させる」
案内されたのは、ドアで隔てられたすぐ隣の部屋だった。
仮眠室らしい。自宅で使っていた八畳の自分の部屋よりずっと広い空間に、ダブルサイズのベッドとソファセット、クローゼット。さらに、たくさんの本が納められた棚が置かれている。仮眠室というには生活感に溢れた部屋だ。
「ここってもしかして」
「あぁ。私の部屋のようなものだ。家は別にあるが、ほとんどここで寝起きしている」
それは仕事が忙しくて家に帰ることができないってことかな。だから顔色も悪いし、クマもひどいのかもしれない。
「お仕事、大変なんですね」
隣に立つディーンさんの顔を見上げると、返事の代わりに苦笑が返ってきた。図星ってことか。
今は自分のことに精一杯で人の心配をする余裕はないはずなのに、ディーンさんのことはとても気になる。彼が優しく気遣ってくれるから、僕も少しでも返したい。何かディーンさんの役に立てることがあるかな?
仮眠室の奥にバスルームへ続く扉があった。隣接する扉はトイレらしい。魔石を利用しているそうで、水を流すのに魔法は必要ないようだと安心していたら。
「……」
広めの浴室内には、バスタブと石鹸類しかなかった。蛇口とシャワーヘッドがどこにも設置されていない。
「ディーンさん、あの、お湯ってどこから……?」
首を傾げると、ディーンさんはハッと気づいたように目を見開き、ばつが悪そうに咳払いをした。
「魔法だな」
「やっぱり……」
この世界に魔法は必須。トイレだけでも回避できてよかったと思うしかない。
「今後のことは考えるが、今は私も一緒に入ろう。一度発動すれば一定時間お湯を出し続けることはその場にいなくても可能だ。だが、自分の真上でなければ魔法がかけられないんだ」
それなら魔法を使った瞬間、シャワーでずぶ濡れになるのか。シャワーは基本的にひとりで浴びるから、問題はないんだと思うけど。この世界の魔法は製パン魔法以外も融通が利かないらしい。
「一緒に入ってかまわないだろうか?」
「もちろんです。僕は慣れてますし、大丈夫で――」
「なんだと⁉」
言い終わる前に、ディーンさんに肩を掴まれ大声で遮られる。
「ええ? な、なんですか?」
怒ってる? いや、ディーンさんは困っているようにも見える。眉間にぐっと力を入れた強い視線に射抜かれ戸惑うが、肩を掴まれているので身動きできない。何か変なことを言っただろうか。
「慣れているとはどういう意味だ? 人と、男と風呂へ入り慣れているということか⁉」
「男? そうですね、弟とも入ってましたし、よく近所の銭湯とか温泉行ったりしてました……」
もしかしてこの世界ってそういうのないのかな? 文化の違いがここにもあったのか。ひとりで入るのが当たり前なら驚いても不思議じゃない。
そう考えていると、ディーンさんは戸惑った顔で肩を解放する。
「銭湯や温泉というのは、公衆浴場のことか? 他国にはあると聞くが、この国にはないな。ここでは……いや、いい。つまり公衆浴場で慣れているということか」
「そうですよ?」
「わかった。……大丈夫だ」
何が大丈夫なのかさっぱりわからないけど、ディーンさんの中では一応解決したらしい。気になるけど、大丈夫だと言うばかりでそれ以上何も教えてくれない。
話題を逸らすように、浴室に入るよう急かされてしまう。ディーンさんは素早く衣服を脱ぐと、足早に先に浴室へ入っていった。そんなに追及されたくない話だったのか。
無理やり聞き出すつもりもないので大人しく服を脱ぎ、腰にタオルを巻いた格好で浴室に入る。ディーンさんが魔法でミストを出してくれたらしく、部屋はじんわりと温かい。霧に包まれたようで視界は悪いが、貧弱な身体を晒すのは恥ずかしいので助かる。
「寒くはないか?」
「大丈夫です」
「シャワーを出す。熱かったらすぐに言いなさい」
うなずきながら天井を見上げると、シャワーヘッドも何もない空間からお湯が噴き出てきた。これはちょっと楽しいかもしれない。
目を閉じて不思議な湯を堪能していると、笑いを堪えたような声で話しかけられた。
「気持ちよさそうなところ悪いが、石鹸の使い方はわかるか?」
「はい。あ、よかったら頭を洗いましょうか? 僕、結構うまいんですよ」
食事もベッドもシャワーも何もかもしてもらうばかりだったので、お礼ができればとディーンさんに提案する。
「それは、そのさっき話していた公衆浴場で、誰かにしていたということか?」
「そうですね、銭湯とかでも弟の頭よく洗ってました」
毎晩、弟を風呂に入れていたので、人の頭を洗うのには慣れている。
「シャワーのお礼にどうですか?」
「では、頼む」
バスルーム用の椅子に腰掛けてもらい、僕はうしろに回った。近づいてわかったけど、やっぱりディーンさんは鍛えてるみたいで、無駄なく筋肉がついた理想的な身体をしている。うらやましい……
体格差にちょっと拗ねた気持ちになりながら石鹼を手に取り、モコモコに泡立てる。濡れたディーンさんの銀髪にそれをのせ、地肌を指の腹で優しくマッサージしながら洗っていく。すると、彼から唸るような声が漏れた。
「痛かったですか?」
「いや、逆だ。こんなに気持ちいいとは思わなかった……」
ほうっと息をつくディーンさんの肩から力が抜けていく。
「気に入ってもらえました?」
「とても。毎晩頼みたいぐらいだ」
「いいですよ~。喜んでもらえたなら何よりです」
ちっぽけなことだけれど、お世話になりっぱなしのディーンさんに恩返しできて少しだけ安心した。魔法が使えなくても、役に立てることがある。それがわかっただけでディーンさんと一緒に入ってよかった。
入念に頭を洗ったあと、魔法を使って出してもらったお湯で泡を洗い流す。
「このまま身体も洗いましょうか?」
そう問いかけると、ディーンさんの肩がピクリと跳ね喉が鳴った。振り返ってこちらを見つめる彼の銀糸から雫が流れ落ちる。吸いこまれそうな蒼い流し目が艶やかで、ぞくりと背が震えた。
さっきまでのリラックスした表情から一変し、妖艶な雰囲気に圧倒され逃げ腰になる。何かまずいことを言っただろうか?
「それはこの手で私の全身に触れる、ということか?」
ディーンさんはそう言いながら、僕の手を取る。
「……っ!」
ボディタオルかそれに代わるものを使うつもりだったと言いたいのに、ディーンさんに見つめられてうまく口が動かない。いくら男同士でも、素手で裸体を洗うなんて恥ずかしすぎる。
取られた手を引かれ顔がぐっと近づいた。濡れた耳に熱い吐息がかかる。
「リツ、私の理性を試しているのか? 悪い子だな。それとも、お仕置きをされたいのか?」
意地悪な言葉とは裏腹に蕩けるような甘い低音を吹きこまれ、耳たぶを甘噛みされた。やわやわと食まれ、ちゅっと音を立てて吸い上げられると、無意識に腰が震える。
「ひゃぁ……んんっ」
高い声が出てしまい咄嗟に手で口を覆う。
「かわいい声だな。ずっと聞いていたい。……いや、名残惜しいが、今夜はこれくらいにしておこう」
敏感になった耳をディーンさんがなでる。
僕は耐えきれずその場にへたりこんだ。心臓が痛いくらいに強く脈打ち、全身が火照ったように熱くなっている。
――今、何が起こったんだ?
「しばらくは湯が出続けるから、落ち着いたら出ておいで」
混乱したまま座っていると、シャワーが降り注いできた。
「は、はい……」
なんとか返事したものの、その体勢から動けないまま噛まれた耳を押さえ続けた。どうしてこんなことをしたのだろうと思うけど、いくら考えてもディーンさんの意図はまったくわからない。
……ちょっとからかわれただけだ。忘れよう。
深呼吸を繰り返し、気持ちを整える。身体の火照りが冷めるころには、降り注いでいたシャワーはいつの間にか止まっていた。
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