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第三章 ろくでなしのロク

20. 絵描ける人マジ尊い

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――緑色の人間。

 その言葉がまるで鋭利なもりのように、マリアナ海溝より深い思考の底に沈んでいた緑光の心を容赦なく突き刺し、現実へと引き揚げる。

「あっ、きゅっ急にごめん。ついうっかり……、出しゃばっちゃって」

 苦し紛れに笑顔を作って見せてみたが、どう取り繕ってもすでに遅いことが、クラス中の冷たい視線から理解できた。

(……あぁ。なんでこう僕は好きなことになると周りが見えなくなっちゃうんだろう!)

 全身に冷や汗を感じながら、暗く疼く胸を抑えるかのように前かがみになる。
そんな緑光の様子を見て、男子生徒たちはいよいよ調子付く。

緑光ろくみつおまえ、マジ絵に描いたようなオタクだよな!」

 男子グループのリーダー格・桃山ももやまが、緑光が守るように抱えていたタブレット端末を強引に掴み取る。

 緑光の手から、色彩感覚抜群の美しいイラストに込められた平和、二度と完結しない作りかけの物語が奪われていく。

(こうじゃなかった。少なくとも、御空藍みそらあいが生きていた時代は……)

 御空藍の作品の前では、世界はひとつだった。

 漫画家として彼女が物語を紡げば、たちまち人々はいさかいを忘れ、没頭した。
 その時ばかりは、いじめっ子もいじめられっ子も関係なく共に涙し、夢を語り合う。老若男女ろうにゃくなんにょ、国籍問わず誰もかもが立場を忘れて、共通の“好き”を分かち合う。

 そして、“青ウサギの浮夜絵師”として、星空にを描けば、彷徨う夜も安らかな眠りにつく。――

 御空藍は、安寧の世を維持するかなめだった。


 そんな世界も、彼女の死をもって終焉しゅうえんを迎える。

 本屋に足しげく通う楽しみも、雑誌の発売日を心待ちにするもどかしさも、鼻腔びくうを蕩かす印刷の匂いと共にページをめくる喜びも……。

 彼女の死と入れ替わるようにして、発生した感染症のパンデミックと、それを契機として急速に進展したデジタル化社会に呑まれ、すべては忘却の彼方かなたへ消え去った。

 例え、御空藍がいなくなったとしても、彼女が作品に込めた想いをみんな理解している。遺した願いを読み取れている。彼女の意志は受け継がれている。

 そう信じていた。なのに……。


「返してよ!」と両手を伸ばしながら叫んでみたが、緑光より背の高い桃山は、伸びる緑光の手よりさらに高く端末を掲げ、周囲へ晒すように進路希望調査票の画面を出す。        

 その画面を見たクラスメイトたちは全員、案の定といった様子で笑った。

「なーんも書けてねーじゃん。まあ、書けたところでって感じもするけどなあ?」

「そうそう。お前がどんなに成績優秀だろうが、知識蓄えようが関係ない。希望なんてなにひとつ叶うわけない。だって緑光こいつは」

 桃山が、せせら笑いながら言いかけた時だった。

 ひとりの女子生徒が彼らの中へ割って入ると、緑光がいくら手を伸ばしても取り返せなかった端末をあっさり奪い取ったのだ。女子生徒の一撃を受けたであろう桃山は鳩尾みぞおちを押さえたまま、その場にうずくまっている。

「中三にもなってこんなことしてたら、内申に響くっつーの」

 うずくまる桃山を冷ややかな視線で一瞥すると、今度は動揺する緑光の目の前へ、そっと端末を差し出した。生まれたての小鹿を労わるような眼差しで。

「織部くん、高速詠唱おつ~。相変わらず、知識王ナレキン感ヤバくない? 日常会話で『源平盛衰記』とか『前太平記』とか、フツー出ないよウケる~」

 オタク特有の早口を“高速詠唱”と表現する彼女は、「あたし『平家物語』だって、祇園精舎ぎおんしょうじゃがどーの諸行無常しょぎょうむじょうがこーのくらいしか覚えてないんだけど。割とガチで」と、清純派ヒロインとは程遠い言葉使いだが、裏表のない満面の笑みでまっすぐ、牛乳瓶の底を見つめている。

 まるで後光が差しているように見える。そんな眩しいギャルの姿に、思春期真っ盛りの緑光は目が泳ぎまくってしまう。

「それにあたし、動絵アニメとか全然わかんないからさ!」

 ちなみに、すっかりデジタル化した現代はテレビアニメだけでなく、イラスト全般を総称して動絵アニメと呼ばれるほど、絵が動くことが当たり前になっている。
漫画のコマも雑誌の口絵だって、すべてアニメーションする世の中だ。

 いまとなっては高級品となった“紙”に絵を描く行為も、歴史を学ぶ名目で、中学三年間の美術の授業のうち一、二回あるかどうか。

 現行で生み出される静止画はもはや、公共の壁に描かれる違法なグラフィティくらいである。そのせいか、“動かない絵=落書きグラフィティ”というイメージが強くなり、世間的には快く思われていない。

 それにしても、自分の好きなジャンルを「全然わかんない」とスッパリ言い放たれると、胸を袈裟斬けさぎりにされた気分になる。
 ただ、こればかりは仕方のないこと。趣味嗜好は人それぞれだと、緑光は力なく笑いながら視線を落とす。

 しかし。

「でもさ。絵って見ただけですぐ伝わるし、言葉とか通じなくても、世界中を笑顔にできるじゃん?」

 頭での理解よりも先に、心に熱いものが込み上げた緑光は、その熱量に弾かれるように顔を上げた。

 そんな期待と不安で入り混じった輝きを放つ瞳を、ギャルはこぼれんばかりの笑顔で受け止める。

「だから、絵描ける人マジ尊い、推せるわー!」
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