RGB：僕と浮世離れの戯画絵筆 ～緑色のアウトサイダー・アート～

第一章 緑色のアウトサイダー・アート

02. ウキヨヱシ

　勢いで飛び出してみたものの、行く当てもない僕は家の裏手にある納屋に潜んでいた。そこは林に覆われ、ほとんど日の当たらない場所に在るためか、なかは驚くほどひんやりとしていて、湿った土の独特な香りで満たされている。

　僕は壁に向かうと持っていたか細い木炭で、死んだ飼い猫・クロの絵を描いた。
　いけないことだとは十分にわかってた。だけど、この時ばかりは良い子でいられなかったんだ。クロを失った悲しみと、この気持ちを分かち合えない無情な大人たちへの失望感と反抗心が勝まさっていた。

　春先の若芽のように繊細な毛並み、そのしなやかな体に顔をうずめると優しく香る陽だまりの匂い。幸せそうに目を細めながら鳴らす喉の音。
　いなくなっても尚、僕の身体中に沁みついたままのクロとの思い出が、僕の記憶から蕩とろけて消え失せてしまわないうちに、もう二度と触れることが叶わない彼の姿を、描き残しておきたかった。

　クロはすぐに僕を置いてどこかへ行ってしまう自由奔放な猫だった。ただ不思議なことに、僕の心が弱っている時は、どこからともなく首の鈴を鳴らしながら脛すねにすり寄っては、その黒い肢体が僕の影法師に見えるほど、ぴったり寄り添っていてくれた。
　猫だから、どうせ言葉は通じないと伝えることを諦めていたけど（君は僕にとって最高の相棒だったんだ）。
いまとなっては、それを言葉にしなかったことが、心底悔やまれる。

「僕の絵が本物になったらいいのに」

　もう一度、君に会えたなら今度こそ、ちゃんと感謝を伝えたい。いや、絵ですべてが蘇るなら君とお別れすることも、こうして僕を非行に走らせるほどの想いもしなくて済むのに。

　絵が仕上がるにつれ、祖母の言葉を思い出していた。
　いまもこの世界のどこかで秘密裏に、“描いた絵を具現化させる”神通力の宿った絵筆で悪鬼と戦い、世界を守り続けている影の英雄がいる話を。
　誰もが“鬼”を知っている。それなのに、誰もその鬼の被害に遭わないのは、すべて彼ら“ウキヨヱシ”のお陰なのだそうだ。

　自ら思い描いた絵で鬼退治だなんて、めちゃくちゃカッコいい。なんたって、僕も大好きな絵描きが実際に誰かの役に立てている。想像しただけで心が躍った。
　僕の絵が人を笑顔にする未来を夢見て、たくさん練習してきたんだ。だから……。

『絵は念おもいの結晶。故にさだめて魂宿る』

　絵に魂が本当に宿るなら、いますぐここからクロが飛び出してきたとしても、不思議じゃない。期待を胸に、一刻ばかり壁の猫を眺めていた。
まばたきを我慢して、祈るような気持ちで。



　どんなに眺め続けたところで動き出すのは、その目からあふれる涙だけだった。
ボタボタと地面へこぼれ落ちる音が増えるたび、年々身体の成長と共に心の奥底で強まっていた（お婆ちゃんの話は、ひょっとして迷信なのでは……？）という疑問がついに確信に変わった。

僕が泣くとクロはいつだって寄り添ってくれたから、いまなんの反応もないのは、そ・う・い・う・こ・と・じゃないか。
　まばたきが我慢できなくなったほんの一瞬だけ、瞳孔が細く動いたような……。
そんな気もしたけど、きっと涙のせいで歪んで見えただけなのだろう。
――僕はちっとも理解していなかった。

　大きなため息をつくと同時に納屋の戸が開き、西に沈む茜色あかねいろが僕の大粒の涙をひかめかせる。その突き刺さるような朱に目が眩み、なにもできないでいるうちに、身体が宙を浮いた。

「緑光ろくみつ、見っけ！」
「お父、さん……？」

　やっと目を開くと、鼻の先に満面の笑みを浮かべる父の顔があった。
　落書きに夢中になりすぎて、もし見つかったときどうするか、まったく考えていなかった。

「こんな暗い場所にいると、目が悪くなっちゃうぞー。あと性格も暗くなる！」

　てっきり叱られると思わず身構えたものの、笑顔で突拍子もないことを言い出す父に、僕はすっかり拍子抜けする。
「本当に性格まで変わるのっ！？」と出掛かった言葉をぐっと飲み込む。
いやいやいまはそんな気分じゃない……。
危うく父のペースに乗せられるところだった。
　父は、僕の変わりない姿に優しく目を細めると、ゆっくりと口を開いた。

「なにをしていたんだい、ロク？」

　父の改まった声色に我に返った僕は、壁の絵が見つからないよう咄嗟に、その縁なし眼鏡で守られた両眼を塞ぐ。

「わっなにも見えないぞ！」
「内緒だもん」
「そうか！　内緒か！」

　そう言ったきり、父はそれ以上の抵抗も詮索もしないので、逆に僕が耐えられなくなる。

「聞かないの？」
「言いたくないならいいさ」

　父がふと口元に浮かべた柔らかい表情を見て、ごく自然と父に合わせて同じ言葉を口にする。

「『嘘は、絶対につかない』」

　父は年齢の割に、茶目っ気のある人物で、父親だからといって偉ぶったり、頭ごなしに叱りつけてくることもなかった。ただ、僕が嘘をつくことだけは絶対駄目だと口癖になっていたし、いま思えば父自身、僕に嘘をつかせない立ち振る舞いを心がけていた。

「それでいいんだ」

　父のクロに対する気持ちを知りたかった僕は、普段より一層明るく振る舞うその様子にかえって冷たさを覚え、再び涙があふれてしまう。

「お父さんは……。クロがいなくなって……悲しくないの？」

“死んだ”と、口にするのは無意識に避けていた。
まだ心が認めたくなかったんだと思う。
　僕の言葉に、父は一拍ほど呼吸を忘れてしまっていたようだった。

「お母さんも、お婆ちゃんも……ちっとも、泣いてないんだ」

　昼間の家族を思い出せば思い出すほど涙があふれてきて、息をするのも苦しくて、言葉を発することが難しかった。それでも僕は声を絞り出す。
父に訊かなくちゃならない。

「ねえお父さん。大人になったら、悲しい気持ちは……なくなっちゃうの……？」

“大人になること”が涙を忘れてしまうことならば、僕は大人になんかなりたくない。