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第五部 第一章 死者の国に迎えられるまで
100話 廃棄された観測所①
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ここから第五部「エインヘリヤル編」に入ります。
第五部は短めに終わると思います、よろしくお願いします!
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水分を多く含むぬるい空気に曝されている。
うまく言葉にできないが、日光が差し風が吹く快適な外の空気とは異なり、不自然な臭いや濡れた肌触り、はっきりと音にはならない不協和音の粒を含んでいるような“空気”だった。
自分の体や記憶、存在のかたちを思い起こす。
俺は、誰だったろうか。
「意識が戻ったようだね」
聞いたことのない声が近い場所から聞こえる。
女性ではない。が、年齢特有の高い声。
幼い子どもの声。
瞼が開く。
眩しくはなかった。
光源はわずか。暗い部屋だった。
肌にまとわりつく不快な空気を口に吸い込んだ。肺の中までが濡れるようだ。
「まだあまり動かないほうがいい。めまいを起こす」
抑揚のない少年の声が自分に情報を与える。
俺の体は動かせる状態にないのか。
「ここ、は」
わずかに顔を向けて問いかければ、少年がこちらに近づいてくるのが分かった。不快な空気が動き、彼の纏うローブの衣擦れの音が追いかけてくる。
部屋の中は暗く、遠くのものは見渡せない。近くにあるものはぼんやりと深緑色に照らされていて、濃い陰影を作っている。
その凹凸を目が必死にとらえようとする。子どもの顔が見えた。
おそらく、10歳くらいの男の子。
目も髪も白くて大仰なローブを着ている。何かの刻印が刻まれた帽子を被っていた。
「堕ちた森だ」
―――何?
その言葉が混濁した意識を覚醒させた。
「はじめまして。シグルズ・フォン・ヴェルスング。ぼくはヘルゲと言う」
―――ヘルゲ?
エインヘリヤルの国主、大神官ヘルゲだというのか。
この子どもが?
シグルズはゆっくりと体を起こした。警戒するシグルズとは対照的に、ヘルゲは表情を変えずにその様子を見守っていた。
「あなたのことはシグルズと呼べばいいのかな。それとも……ジークフリード、と?」
頭の中がぞわりとする。不快な問いかけだった。
「―――俺、はシグルズだ……」
「そう」
ヘルゲはさほど興味がなさそうに呟き、再びシグルズから離れていく。
そのヘルゲの背後を追う生き物がいる。
小さな変異体だった。
赤黒く、動くたびにぶよぶよと音がする。全身に複数の目玉と人の手足がくっついており、ドラゴンの翼と足のようなものが口からはみ出していた。
「……それ、は……変異体か?」
シグルズは自分の横たわっていた台の近くをまさぐる。騎士の命とも言える剣―――ノートゥングの剣が置いてあることを確認すると、それを手に取った。
そこでシグルズは気付いた。
なくなったはずの腕が、ある。
欠損もなく、怪我をする以前の状態の腕。
それに、変異が進むごとに黒く広がっていったあの痣も消えている。
「ステファン」
「何?」
自分の腕のことに気を取られていたせいで、ヘルゲの発言を聞き逃した。
「この変異体はステファンという。大昔に飼っていたぼくの犬だ。相手に害がないと判断すればおとなしい子だから大丈夫」
「……犬」
見た目のグロテスクさとは裏腹に「ぶよぶよ」とヘルゲの回りを飛び回っている。
複数の目玉をぎょろりとシグルズに向けたかと思うとヘルゲの後ろに隠れてしまった。どうやら怖がっているらしい。
「君の腕、少し前に修復されたよ」
「修復……。お前がやったのか」
「言っただろう? ここは堕ちた森の中。動脈のエネルギーが揺蕩っている場所だ。君は変異体だから、動脈のエネルギーが満ちているところにいれば自然と修復される」
通常、人間が腕を落とされたら出血多量で死ぬ。
それが、完全に修復されたというのか?
ただここにいただけで?
改めて自分自身が化け物なのだと知らされた心地がする。
とはいえ感傷に浸っている暇はない。
「ここが堕ちた森だというのは本当なのか。堕ちた森では生命は生きられないと聞いたが……それに、俺たちはエインヘリヤルに向かっていたはず……」
ネフィリム。
そうだ、自分のことなどどうでもいい。
ネフィリムは無事なのか。
「ネフィリムはどこだ!? もしやネフィリムも堕ちた森に……!?」
「いっぺんに質問されても答えられない」
ヘルゲはため息を吐くと、薄暗い部屋の壁をまさぐった。
カチリ、と音がする。辺りが明るくなった。
自然光ではない、違和感のある白い光が天井から一帯を照らす。
第五部は短めに終わると思います、よろしくお願いします!
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水分を多く含むぬるい空気に曝されている。
うまく言葉にできないが、日光が差し風が吹く快適な外の空気とは異なり、不自然な臭いや濡れた肌触り、はっきりと音にはならない不協和音の粒を含んでいるような“空気”だった。
自分の体や記憶、存在のかたちを思い起こす。
俺は、誰だったろうか。
「意識が戻ったようだね」
聞いたことのない声が近い場所から聞こえる。
女性ではない。が、年齢特有の高い声。
幼い子どもの声。
瞼が開く。
眩しくはなかった。
光源はわずか。暗い部屋だった。
肌にまとわりつく不快な空気を口に吸い込んだ。肺の中までが濡れるようだ。
「まだあまり動かないほうがいい。めまいを起こす」
抑揚のない少年の声が自分に情報を与える。
俺の体は動かせる状態にないのか。
「ここ、は」
わずかに顔を向けて問いかければ、少年がこちらに近づいてくるのが分かった。不快な空気が動き、彼の纏うローブの衣擦れの音が追いかけてくる。
部屋の中は暗く、遠くのものは見渡せない。近くにあるものはぼんやりと深緑色に照らされていて、濃い陰影を作っている。
その凹凸を目が必死にとらえようとする。子どもの顔が見えた。
おそらく、10歳くらいの男の子。
目も髪も白くて大仰なローブを着ている。何かの刻印が刻まれた帽子を被っていた。
「堕ちた森だ」
―――何?
その言葉が混濁した意識を覚醒させた。
「はじめまして。シグルズ・フォン・ヴェルスング。ぼくはヘルゲと言う」
―――ヘルゲ?
エインヘリヤルの国主、大神官ヘルゲだというのか。
この子どもが?
シグルズはゆっくりと体を起こした。警戒するシグルズとは対照的に、ヘルゲは表情を変えずにその様子を見守っていた。
「あなたのことはシグルズと呼べばいいのかな。それとも……ジークフリード、と?」
頭の中がぞわりとする。不快な問いかけだった。
「―――俺、はシグルズだ……」
「そう」
ヘルゲはさほど興味がなさそうに呟き、再びシグルズから離れていく。
そのヘルゲの背後を追う生き物がいる。
小さな変異体だった。
赤黒く、動くたびにぶよぶよと音がする。全身に複数の目玉と人の手足がくっついており、ドラゴンの翼と足のようなものが口からはみ出していた。
「……それ、は……変異体か?」
シグルズは自分の横たわっていた台の近くをまさぐる。騎士の命とも言える剣―――ノートゥングの剣が置いてあることを確認すると、それを手に取った。
そこでシグルズは気付いた。
なくなったはずの腕が、ある。
欠損もなく、怪我をする以前の状態の腕。
それに、変異が進むごとに黒く広がっていったあの痣も消えている。
「ステファン」
「何?」
自分の腕のことに気を取られていたせいで、ヘルゲの発言を聞き逃した。
「この変異体はステファンという。大昔に飼っていたぼくの犬だ。相手に害がないと判断すればおとなしい子だから大丈夫」
「……犬」
見た目のグロテスクさとは裏腹に「ぶよぶよ」とヘルゲの回りを飛び回っている。
複数の目玉をぎょろりとシグルズに向けたかと思うとヘルゲの後ろに隠れてしまった。どうやら怖がっているらしい。
「君の腕、少し前に修復されたよ」
「修復……。お前がやったのか」
「言っただろう? ここは堕ちた森の中。動脈のエネルギーが揺蕩っている場所だ。君は変異体だから、動脈のエネルギーが満ちているところにいれば自然と修復される」
通常、人間が腕を落とされたら出血多量で死ぬ。
それが、完全に修復されたというのか?
ただここにいただけで?
改めて自分自身が化け物なのだと知らされた心地がする。
とはいえ感傷に浸っている暇はない。
「ここが堕ちた森だというのは本当なのか。堕ちた森では生命は生きられないと聞いたが……それに、俺たちはエインヘリヤルに向かっていたはず……」
ネフィリム。
そうだ、自分のことなどどうでもいい。
ネフィリムは無事なのか。
「ネフィリムはどこだ!? もしやネフィリムも堕ちた森に……!?」
「いっぺんに質問されても答えられない」
ヘルゲはため息を吐くと、薄暗い部屋の壁をまさぐった。
カチリ、と音がする。辺りが明るくなった。
自然光ではない、違和感のある白い光が天井から一帯を照らす。
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