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第四部 番外編

全力甘々チョコレート

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バレンタイン小話。時系列的には第四部第三章あたり。
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 ゲオルグの元から逃げてきたシグルズを宿で看病していたネフィリムに、ベヌウが予想外の提案をしてきた。

「買い物に出かけませんか」
「えっ!」

 買い物。それはとても嬉しい。
 ネフィリムはまだバナヘイムの市場を見ていない。好奇心がむくむくと湧き上がる。
 それに……体調の芳しくないシグルズに元気の出るものを作ってあげたい気持ちもある。

 だが、宿から出ることは兄のトールに禁止されている。

 今はバナヘイム国内のニーベルンゲンに対する悪感情が高まっており、戦乙女ヴァルキリーであるネフィリムや宰相のトールの外出はできるだけ避けた方がいいとの結論になった。

「もちろん、人気の多い中央市場まではお連れできませんが、今日は宿の近隣区にグルヴェイグから行商が来ているのだそうです。短時間だけなら問題ないでしょう」

 褐色の大男は口に人差し指をあてて笑った。
 こう見えてベヌウは人一倍優しく感受性の強い男だ。きっとネフィリムの精神状態も考慮して提案してくれたのだろう。

 苦しそうなシグルズをずっと見ているのはしんどいし、自分の行いによってもたらされたバナヘイムの緊迫した様子も肌に刺さる心地がしてつらかった。

 たとえ短時間でも、外出という気晴らしはネフィリムを明るい気分にさせる。

「ありがとうベヌウ! さっそく準備しよう」





 黒髪と黒目を隠すために顔のほとんどをローブで覆ったネフィリムは、ベヌウに連れられて行商の台車が3台ほど集まっている広場に来た。

 それぞれの台車には牛・羊・野ウサギなどの新鮮な肉、すでに内臓部分の処理が終えられている巨大なマスなどの魚、そのほかコーヒーや紅茶といった飲料や調味料が並んでいた。

「何か欲しいものがあったら指を差して教えてくださいね」

 ベヌウはグルヴェイグ語でネフィリムに話しかけた。
 ニーベルンゲンの言葉を使うわけにはいかず、かといってベヌウは帝国語もバナヘイム語もそれほど堪能ではない。宰相の付き添いでよく出かけるグルヴェイグ語を使うのがもっとも無難というわけだ。

 ネフィリムは頷いた。


 ネフィリムが目を付けていたのは「カカオ」と書かれた袋。中には赤茶色の砕かれた身が大量に入っていた。

「これ……チョコレートドリンクの材料か?」

 ベヌウが覗き込む。

「カカオニブですね。これを潰してシュガーやシロップ、シナモンなどとともに湯に溶かせばチョコレートという医薬品になります」
「それだ!」

 ネフィリムはぴょんと跳ねた。

「これが欲しい! シグルズに飲ませてやりたいのだ」と要望する。ベヌウは慈愛に満ちた眼差しを向け、大量の肉や魚とともにカカオニブを購入した。






 厨房を借りたネフィリムは、巨体の温かい眼差しのもとで調理を開始した。

 砕かれた赤茶色の実は、棒ですりつぶすとべっとりとしたペーストになった。

「この茶色い実をカカオと言いまして、カカオの中に油が入っているのですりつぶすたびに中の油が溶け出し、液体に近い形状になるのでございます。いやはや面白いですな」
「ベヌウはカカオに詳しいのだな」
「ふふ……“さすらいのはがね料理人”、ベヌウ・バーにとってはこれくらい朝飯前ですよ」
「さすらいの鋼料理人ってなに?」

 ネフィリムの疑問に対してベヌウは「ふっふ」と笑っただけで答えなかった。
 まあいいやと思いつつ、ネフィリムはカカオのペーストが入った丸い容器にきび砂糖、バニラ、シナモンを加える。最後に湯を入れ、力いっぱい撹拌した。

「うおおおおおおおおおおお」



 ◆



 階下から鍋が転げ落ちて悲鳴が上がるのを、シグルズは寝台に横たわりながら聞いていた。
 ネフィリムの声もあったので、厨房を借りて何か作っているに違いない。おそらくシグルズのための料理だろう。


 その優しさが嬉しい半面、少しだけ怯えていることを黒髪の彼に悟られてはならない。


 ネフィリムは王族であり、これまで自分で料理などをしたことはない。

 以前、グルヴェイグ国内を旅しているときに、途中で出会った釣り人からやたらめったら平たくて尻尾が毒針のように細長い変な顔の魚をもらったことがある。

 ネフィリムは喜んで「今日の夜ごはんにしよう!」などと言って宿泊先の宿で加熱調理してもらったのだが、とてもヌメヌメしていて臭いも強烈だったため、俺もミモザも席を立たざるを得なかった。

(後にその魚が「エイ」という名前であることを知った)




 悲惨な味を思い出して掛け布の中で少しだけ震えていると、シグルズの寝室をノックする音が聞こえた。

「シグルズ! 私だ、お前に味わってほしいものがある」

 諾の返事をすれば扉は元気に開けられた。ニコニコ顔のネフィリムがトレーを持って入ってきた。
 起き上がった瞬間、ふわりと香るカカオの香り。


「これは……チョコレートか?」

 聞けば、ネフィリムは少し照れた様子で「そうだ」と返事をする。

 忘れもしない。
 ネフィリムへの気持ちを初めて自覚し、それを言葉にした日。


『人を好きになったのは多分初めてだ。だから初恋なんだ。俺にとっては』

 港近くで腰を下ろしたときにネフィリムが飲んでいたのがホットチョコレートだった。


「チョコレートは心身の状態を改善させる医薬品と言われている。今日、短時間だけ外に出て、グルヴェイグの行商から材料を買い付けたのだ。飲んでみてほしい」

 シグルズがカップになみなみと注がれている黒い液体を覗き込んでいると、ネフィリムの後ろからベヌウが顔を出し、何度も頷いているのを見つけた。



 おそらく「大丈夫です。安心して飲めます」みたいな意味だろう。
 シグルズはその気配りに心から感謝した。




「じゃあ、いただくよ」

 トレーからカップを取り、口をつける。


 熱かった。


「あつっ……」
「だ、大丈夫か!? すまない、冷まし足りなかったか……」

 出来立てだった。液体はかなりの温度を保っている。
 ただ、少し舌をつけただけでもそれが十分に美味しくできていることは分かった。

「……いや、美味しいよ。ネフィル」
「本当か?」
「ああ、本当さ。とても美味しい。ありがとうネフィル」

 シグルズがそう言うと、ネフィリムははにかんだ笑顔を見せる。
 それが彼の心からの笑顔だと分かればシグルズも嬉しくなった。

「だが、今ので舌に火傷を負ったようだ。……ネフィリム、一人では飲めないから手伝ってくれないか」
「火傷!? それならばまず手当を」

 シグルズはネフィリムの腕を掴んで引き寄せる。

「口の中の火傷なんてそのうち治る。……けれど痛むとチョコレートが飲みづらいからな、そうだな……口移しなら飲めそうだ」
「そうか、口移し…………くちうつし!?」

 目を見開き、顔が真っ赤に染まる。こういう誘いを何度繰り返しても、ネフィリムはいつも初心な反応を返してくる。

 シグルズにはそれがかわいくてたまらない。


「そうだ。俺は弱っているからな。……もちろん、やってくれるよな?」


 意地悪く上目遣いで見上げれば、視線を左右に動かしながらも小さな声で「……分かった」と返すネフィリムがいた。

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