178 / 266
第四部 第三章 民意が悲劇を生むまで
89話 レーラズの木陰で束の間の②
しおりを挟むネフィリムもトールも黙っていた。
トールは怒りと悲しみがない交ぜになったような表情で拳を震わせている。
ネフィリムは静かな足取りでシグルズに近寄ると、黒い痣を優しく撫でた。
「ネフィル……?」
「好きだ、シグルズ」
「知っているよ、ネフィル。俺もだ」
それに答えを返すでもなく、シグルズの愛しい主はただ、ゆっくりと黒い皮膚の上で手を滑らせていた。
シグルズはネフィリムの手を取り、甲にキスをする。
「それに、俺はヴェルスング家に戻ってやらなければいけないことがあるんだ。だから……、すまないがトールの期待には答えられない」
◇
その日の夜は、空いている別の寝室を借り切って4人でのささやかなディナーとなった。
「宿の者に交渉したら、少しの間厨房も借りることができたんだ!」
ネフィリムが跳ねながら報告する。それを見計らったように、両手に料理を抱えてベヌウが入ってきた。
「不肖ベヌウ、シグルズ様の回復を促進するよう精力の付くメニューをご用意しました。ご堪能いただければ幸いです」
運ばれてきたのは、黄色くトロリとした粥状の煮物、子羊の丸焼き、野菜を煮込んだ赤いスープだった。
「黄色い粥はポレンタです。乾燥トウモロコシと小麦を粥状に煮込んで、バターとチーズを加えました。鶏を煮込んだ汁を宿の方からお裾分けしていただいたので、味に深みが出ているはずです」
これなら食欲のないシグルズでも食べることができる。しかもこれはベヌウの料理だ。一口食べた瞬間、旨味が口の中に広がった。
「ベヌウの料理は本当に美味いな!」
シグルズが上機嫌で伝えると、ベヌウは「あっ…ありがとうございます」と巨体をもじもじと揺らす。
ネフィリムは「うまいうまい」と言いながら全ての料理を同時並行的に味わっている。トールは無言で食べていたが口の中に消えていくスピードは3人の中でもっとも早い。
どうやらこの兄弟は2人揃ってそれなりに大食漢らしかった。
シグルズは子羊の肉にも手を伸ばす。
さすがに肉を食べるのは厳しいかもしれないと思っていたが、巨漢が「スープにつけて食べてみてください」と勧める。
以前食べた子羊よりも肉自体が柔らかく、またスープと食べることでシグルズでも難なく食することができた。
「いやあ! やっぱり食事が美味いと幸せだな」
ネフィリムがニコニコと笑いかけてくる。かわいい。シグルズもつられて笑顔になる。
「シグルズもたくさん食べてくれたし私は嬉しいぞ。ベヌウ、感謝する」
「ネフィリム様……」
ベヌウが感極まって滝のような涙を流した。この巨漢は涙もろくてすぐに泣く。
巨漢は泣きながらデザートの存在を告げた。
「サニーベリータルトをご用意してあります」
「えっ!? 本当か」
サニーベリーはリンゴに似た酸味が強い果実だ。帝国周辺でよく採れるため、帝国人にとっては子どもの頃から馴染みのある味である。
かつてテルラムント辺境伯に捕えられたネフィリムと逃亡した際、道中でシグルズが食べさせたのだ。それ以来、ネフィリムはサニーベリーを気に入っている。
それにしても、まさかバナヘイムまで来てサニーベリーを食べるとはな。
シグルズは温かい気持ちになった。
ネフィリムは喜び、トールは何も言わないものの口の端を上げて満足そうだ。
大切な人たち。
大切な国。
トールは警戒していたが、ゲオルグはおそらくここには来ないだろう。
なぜかと聞かれてもはっきりとは答えられないが、バナヘイムに入国する前に彼と交わした会話を思い出す。
『君たちを見殺しにするようなことはしないさ』
いずれ帝国には連れ戻されるかもしれない。だが、あの皇帝が本当に悪い人間だとはシグルズは思っていない。
バルト護民長官やコロンナとの会話で、彼の複雑な内面も少しだけ分かった。
どうか、
この人たちが
俺の大切な人たちが
少しでも長く幸せであるように
そして、この人たちと少しでも長くいられるように
今、バナヘイムに死者の国からの変異体が近づいている。
まるで自分の体の状態を知覚するようにはっきりと、シグルズはその気配を察知していた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
108
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる