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第二部 第一章 ニーベルンゲンへの旅路
39話 水の山脈②
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飛び出したのはほとんど無意識だった。
ネフィリムが何かを叫んで手を伸ばす。だが、シグルズの場所からは距離があり今一歩でその手を取ることができなかった。
シグルズが舌打ちする。もう一歩踏み込む。
直後、ネフィリムの後ろからぐっと手が伸びた。
ヴィテゲがネフィリムの羊毛のコートを掴み、そのまま脇に抱え込む。
「シグルズ様、こちらは大丈夫です! 前を見て進んでください。あなたまで落ちてしまいます!」
ホッとしたと同時に、ヴィテゲの声に自分の状況を気付かされた。
ネフィリムに向かって踏み込んだ自分の足は、半分宙に浮いている状態だった。
突風が徐々に止む。
シグルズは足の位置を入れ替え、ベヌウの後を追った。
山脈の岩が長年の水流によって削れ、天然の空洞を作り出していた。他の登山者もここで暖を取ったようで、焚火後のかすかな灰が残っている。
先に到着していたベヌウは、水に濡れた地面の上に乾燥した石を並べ、その上に背負っていた筒状の道具入れから薪を取り出し火を起こしていた。
ベヌウはササッとネフィリムに近づく。
「お怪我は?」
「大丈夫だ。突風に吹かれて体が浮いたときはさすがに肝が冷えたが」
ネフィリムが後ろに控えるヴィテゲに礼を言うと、にこやかな笑みで「気にしないでください」と返す。
「ただ、突風のときに狭い足場で余計な力が入った可能性があります。ベヌウ殿、ネフィル様の足を見て差し上げてください」
「分かりました」
ネフィリムは火の傍に腰を下ろした。ベヌウが脚をチェックしている。
シグルズとヴィテゲも暖を取ろうと火の近くに座る。もともと平地で暮らすシグルズたちにとって、これだけ傾斜のある山を登るのは一苦労だ。それなりに疲れていた。
「ヴィテゲ、助かった」
「何のことです」
「ネフィルのことを助けてくれたろう。俺では無理だった」
ヴィテゲはネフィリムに向けた表情とは異質の厳しい顔をしていた。
「私が助けたのは、あなたです」
そういって緑の目を当主に向ける。
「確かに私はネフィル様を助けました。でもそれは、私がネフィル様を助けなかったらあなたが飛び出すに違いないと思ったからです」
「あー……まあ、そうかもしれん」
というか実際に飛び出そうとしていた。シグルズの返事にヴィテゲはため息で応じる。
「足首を捻挫しています」
ベヌウがそう言うのが聞こえて、シグルズたちは会話を中断した。
「少し痛いが特段問題はない。歩ける」
「馬鹿なことをおっしゃいますな。そんな状態で山道を歩いたら足が使い物にならなくなります」
ネフィリムの意見を一蹴したベヌウは、今度は筒状の道具入れから塗り薬を取り出した。「失礼」と一言言うと、ネフィリムの足首に慣れた手つきで薬を塗布していく。
「カドモスに伝わる塗り薬です。これを塗っておけば傷でも腫れでも2~3日で治ります」
「そんな万能薬があるのか」
帝国でそんな薬を買うとなれば金貨数十枚はくだらないだろう。
「この薬の材料も作り方もカドモスにしか存在しません。あの国は良くも悪くも、自然の力を生かす方法に長けているだけなのです。自然の力で人を殺し、自然の力で人を長生きさせる」
「ベヌウ、ありがとう。――それにしても本当に不思議な国だな、お前のいたカドモスは」
ネフィリムは苦笑する。シグルズも全く同感だった。
◇
1時間ほどすると、風が止み天候が回復した。4人は再び歩き出す。
「ネフィル、足を怪我しているのなら俺の背に乗っていくか」
「え……」
いくら薬が効果的だと言っても捻挫はすぐ治るものでもない。
以前、ネフィリムをおぶったことがあったシグルズは気負うことなく声をかけた。
ネフィリムは口をぎゅっと結んで目を泳がせている。これは照れの表情だな、とシグルズが分析していると、後ろからベヌウが会話に割り込んできた。
「それならば私の背をお貸しします」
「ベヌウ」
「山道に慣れていないシグルズ様にもしものことがあったら大変です。それに私は体が大きいのでネフィリム様のお体であれば羽毛の如き軽さとしか感じません」
ネフィリムは「羽毛…」と複雑そうな表情で笑う。シグルズのほうをチラ、と見たが「確かにこれ以上シグルズに迷惑はかけられないな」とこぼす。
「別に俺は迷惑だと感じたことはないぞ」
「いや、自国に来るのに帝国人のシグルズに護衛をしてもらっているだけでも感謝すべきなのだ。こんな怪我で更なる負担をかけるわけにはいかない」
ネフィリムのそれはシグルズへの説明というよりは自身に言い聞かせているようにも思えた。「よろしく頼む」と声をかけ、ネフィリムはベヌウの背に乗った。
「さあ、参りましょう。また少し険しい道が続きます」
ネフィリムとベヌウの後に続こうとしたシグルズは、ヴィテゲがこちらを見ているのに気づいた。
「ん? どうしたヴィテゲ」
「シグルズ様」
ヴィテゲは先ほどからずっと険しい表情をしている。
「シグルズ様がネフィル様を守ろうとするお気持ちは分かります。しかし、今回ばかりは勝手が違う。ここはニーベルンゲンの地。帝国とは異なり、どのような危険があなたを襲うか分からない」
シグルズは目を細めた。何も言わず、ヴィテゲの言葉を待つ。
「あなたは自分が守ろうと決めたもののために自分の命を軽んじる傾向がある。先ほどもそうでした。あなたが足を踏み外せば、ネフィル様よりもあなたのほうが命を落とす可能性があった」
慣れていない山道でネフィル様を庇いながら歩くことも、同じ結果をもたらすことになるのではありませんか、とヴィテゲは続けた。
「騎士の名折れだな。まるで役立たずじゃないか」
「騎士には騎士の領分があります。あなたが不用意に自身を危険に晒す必要はない」
ヴィテゲの口調は普段よりも強く、若干の苛立ちを感じさせた。
「どうかその悪い癖を自覚なさいませ。私は、あなたを守るためにここにいるのです」
シグルズがネフィリムの騎士であるように、ヴィテゲはシグルズの騎士だ。
正確に言えば、ヴェルスング男爵家当主を守るヴェルスング家の騎士。
以前からシグルズには当主の自覚が足りないと指摘されることがあった。ヴィテゲにも何度も説教された。
だが今回の彼はそれよりも一層感情的になっている気がする。
『あなたは自分が守ろうと決めたもののために自分の命を軽んじる傾向がある』
ヴィテゲの先の発言が、シグルズの奥深くに潜む何かをぞわりと撫でる。
「――……すまない。次からは気を付ける」
形式的な謝罪の言葉が口をつく。ヴィテゲは静かに頷いて、ベヌウの後を追った。
ネフィリムが何かを叫んで手を伸ばす。だが、シグルズの場所からは距離があり今一歩でその手を取ることができなかった。
シグルズが舌打ちする。もう一歩踏み込む。
直後、ネフィリムの後ろからぐっと手が伸びた。
ヴィテゲがネフィリムの羊毛のコートを掴み、そのまま脇に抱え込む。
「シグルズ様、こちらは大丈夫です! 前を見て進んでください。あなたまで落ちてしまいます!」
ホッとしたと同時に、ヴィテゲの声に自分の状況を気付かされた。
ネフィリムに向かって踏み込んだ自分の足は、半分宙に浮いている状態だった。
突風が徐々に止む。
シグルズは足の位置を入れ替え、ベヌウの後を追った。
山脈の岩が長年の水流によって削れ、天然の空洞を作り出していた。他の登山者もここで暖を取ったようで、焚火後のかすかな灰が残っている。
先に到着していたベヌウは、水に濡れた地面の上に乾燥した石を並べ、その上に背負っていた筒状の道具入れから薪を取り出し火を起こしていた。
ベヌウはササッとネフィリムに近づく。
「お怪我は?」
「大丈夫だ。突風に吹かれて体が浮いたときはさすがに肝が冷えたが」
ネフィリムが後ろに控えるヴィテゲに礼を言うと、にこやかな笑みで「気にしないでください」と返す。
「ただ、突風のときに狭い足場で余計な力が入った可能性があります。ベヌウ殿、ネフィル様の足を見て差し上げてください」
「分かりました」
ネフィリムは火の傍に腰を下ろした。ベヌウが脚をチェックしている。
シグルズとヴィテゲも暖を取ろうと火の近くに座る。もともと平地で暮らすシグルズたちにとって、これだけ傾斜のある山を登るのは一苦労だ。それなりに疲れていた。
「ヴィテゲ、助かった」
「何のことです」
「ネフィルのことを助けてくれたろう。俺では無理だった」
ヴィテゲはネフィリムに向けた表情とは異質の厳しい顔をしていた。
「私が助けたのは、あなたです」
そういって緑の目を当主に向ける。
「確かに私はネフィル様を助けました。でもそれは、私がネフィル様を助けなかったらあなたが飛び出すに違いないと思ったからです」
「あー……まあ、そうかもしれん」
というか実際に飛び出そうとしていた。シグルズの返事にヴィテゲはため息で応じる。
「足首を捻挫しています」
ベヌウがそう言うのが聞こえて、シグルズたちは会話を中断した。
「少し痛いが特段問題はない。歩ける」
「馬鹿なことをおっしゃいますな。そんな状態で山道を歩いたら足が使い物にならなくなります」
ネフィリムの意見を一蹴したベヌウは、今度は筒状の道具入れから塗り薬を取り出した。「失礼」と一言言うと、ネフィリムの足首に慣れた手つきで薬を塗布していく。
「カドモスに伝わる塗り薬です。これを塗っておけば傷でも腫れでも2~3日で治ります」
「そんな万能薬があるのか」
帝国でそんな薬を買うとなれば金貨数十枚はくだらないだろう。
「この薬の材料も作り方もカドモスにしか存在しません。あの国は良くも悪くも、自然の力を生かす方法に長けているだけなのです。自然の力で人を殺し、自然の力で人を長生きさせる」
「ベヌウ、ありがとう。――それにしても本当に不思議な国だな、お前のいたカドモスは」
ネフィリムは苦笑する。シグルズも全く同感だった。
◇
1時間ほどすると、風が止み天候が回復した。4人は再び歩き出す。
「ネフィル、足を怪我しているのなら俺の背に乗っていくか」
「え……」
いくら薬が効果的だと言っても捻挫はすぐ治るものでもない。
以前、ネフィリムをおぶったことがあったシグルズは気負うことなく声をかけた。
ネフィリムは口をぎゅっと結んで目を泳がせている。これは照れの表情だな、とシグルズが分析していると、後ろからベヌウが会話に割り込んできた。
「それならば私の背をお貸しします」
「ベヌウ」
「山道に慣れていないシグルズ様にもしものことがあったら大変です。それに私は体が大きいのでネフィリム様のお体であれば羽毛の如き軽さとしか感じません」
ネフィリムは「羽毛…」と複雑そうな表情で笑う。シグルズのほうをチラ、と見たが「確かにこれ以上シグルズに迷惑はかけられないな」とこぼす。
「別に俺は迷惑だと感じたことはないぞ」
「いや、自国に来るのに帝国人のシグルズに護衛をしてもらっているだけでも感謝すべきなのだ。こんな怪我で更なる負担をかけるわけにはいかない」
ネフィリムのそれはシグルズへの説明というよりは自身に言い聞かせているようにも思えた。「よろしく頼む」と声をかけ、ネフィリムはベヌウの背に乗った。
「さあ、参りましょう。また少し険しい道が続きます」
ネフィリムとベヌウの後に続こうとしたシグルズは、ヴィテゲがこちらを見ているのに気づいた。
「ん? どうしたヴィテゲ」
「シグルズ様」
ヴィテゲは先ほどからずっと険しい表情をしている。
「シグルズ様がネフィル様を守ろうとするお気持ちは分かります。しかし、今回ばかりは勝手が違う。ここはニーベルンゲンの地。帝国とは異なり、どのような危険があなたを襲うか分からない」
シグルズは目を細めた。何も言わず、ヴィテゲの言葉を待つ。
「あなたは自分が守ろうと決めたもののために自分の命を軽んじる傾向がある。先ほどもそうでした。あなたが足を踏み外せば、ネフィル様よりもあなたのほうが命を落とす可能性があった」
慣れていない山道でネフィル様を庇いながら歩くことも、同じ結果をもたらすことになるのではありませんか、とヴィテゲは続けた。
「騎士の名折れだな。まるで役立たずじゃないか」
「騎士には騎士の領分があります。あなたが不用意に自身を危険に晒す必要はない」
ヴィテゲの口調は普段よりも強く、若干の苛立ちを感じさせた。
「どうかその悪い癖を自覚なさいませ。私は、あなたを守るためにここにいるのです」
シグルズがネフィリムの騎士であるように、ヴィテゲはシグルズの騎士だ。
正確に言えば、ヴェルスング男爵家当主を守るヴェルスング家の騎士。
以前からシグルズには当主の自覚が足りないと指摘されることがあった。ヴィテゲにも何度も説教された。
だが今回の彼はそれよりも一層感情的になっている気がする。
『あなたは自分が守ろうと決めたもののために自分の命を軽んじる傾向がある』
ヴィテゲの先の発言が、シグルズの奥深くに潜む何かをぞわりと撫でる。
「――……すまない。次からは気を付ける」
形式的な謝罪の言葉が口をつく。ヴィテゲは静かに頷いて、ベヌウの後を追った。
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