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第一部 第四章 お互いを知るまで
22話 フラッシュバック①
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叶うならば心地よい寝床でずっと惰眠を貪りたいというネフィリムの純粋な願いを打ち砕いたのは食欲の存在だった。
半覚醒の耳にも、自身の腹の音が聞こえてくる。睡眠欲にも食欲にも優劣はない、生存のための本能。
ボーっとした頭で部屋を見回す。
カーテンの隙間からは防ぎきれないほどの陽光が差し込んでいる。厚いカーテンをしてもなお昨夜とはくらべものにならないほど明るくなった室内は、今日の天気の良さを伝えていた。
「……!」
瞳にその明るさを受けて、ネフィリムの頭はようやく動き始めた。
ベッドを降りてザっとカーテンを開ければ、輝かしい太陽が空の高いところに鎮座している。
「今は何時だ…!?」
太陽の位置からすれば完全に昼過ぎだろう。
一体自分はどれだけ寝ていたのか。
オタオタしても仕方がないので、昨晩ミモザに言われた通りにテーブルに置いてある銀のベルを鳴らした。音は大きくよく響く。
確かにこれなら廊下にいる人間にもちゃんと伝わる……。
「おう、ようやく起きたか」
てっきりミモザが来ると思っていたのに、ドアからひょいと顔を出したのは館の主でもあるシグルズ本人だった。
「わあ!」
びっくりして一歩後ずさるネフィリム。
「何を驚いているんだ? それにしても熟睡できたようでよかったよ。体調はどうだ」
部屋に入ってきたシグルズはわずかな刺繍がほどこされている白いワイシャツとスラックスというラフな出で立ちだった。表情も幾分柔らかい。
「ああ、こんなにぐっすり寝たのは久しぶりだ。信じられないくらい体が軽い。その……若干寝すぎたかもしれない、が……」
語尾は恥ずかしさのあまり小さくなってしまった。
寝坊など子どものすることだ。
顔に熱が集中する。
それを見ていたシグルズが腰に手をあててニヤニヤした。
「ネフィルは真面目というかなんというか……。あれだけの行程を乗り越えてきたんだ。体が睡眠を欲するのも当然だろう。丸一日寝てても構わないぞ」
「そ、そんなことは」
「まあいいさ。体調が良いなら今から……」
グウ―。
盛大に腹が鳴った。
ネフィリムの全身が真っ赤に茹で上がる。
シグルズは声を上げて笑った。
二階にある寝室から階段を降り、中央居館に移動する。
東側に位置する食堂もまた大きく窓を取っており、明るく開放的な雰囲気だった。
6人掛けのテーブルが10程度、等間隔で並んでいる。
レース生地の白のテーブルカバー、ヴェルスング家の家紋の入ったランチョンマットの上に並ぶ食事たち。
小麦を使った白パンが食べやすいサイズに切られ、横にはバターとベリージャムが添えられている。
野菜を煮込んだスープからは湯気が立ち上り、さらにネフィリムの食欲を誘った。小皿に乗っているリンゴは今収穫してきたと言わんばかりのみずみずしさ。
そして、ネフィリムの目の前にあるのは粥だった。
オレンジに色付けされた粥は見たことがない。真ん中には薄い色合いの肉が盛られている。
「大麦とオート麦を混ぜて煮込んであります。消化も良いので食べやすいかと」
後ろから声をかけてきたのはミモザだった。彼女はハッとした後で慌てて「おはようございます、ネフィリム様」と付け加えた。
「オレンジはサフランの色です。風味を付け足すと一層食べやすいんですよ。豚肉には少し塩味がついていますので、煮込んだ麦と食べてみてください」
説明を一通り聞き終えたネフィリムは、スプーンを手に取りそっと粥を口に運んだ。
「おいしい……」
それは無意識に出た一言だった。
ここ数日まともな食事が取れなかった体に染みわたるような優しい味。
サフランの風味が強すぎず、また豚肉の塩味が食欲をそそる。麦もしっかり煮込んであるので消化器官が容易に受け入れてくれる。
「ああ、よかった! 帝国のお食事が口に合うかどうか不安だったので、とても嬉しいです。あとで料理長にもお伝えしておきます」
両手を合わせて喜ぶミモザ。彼女は笑うと目元に笑い皺ができる。それを見た人間を明るい気分にさせるのは彼女の天性の才能だろう。
粥に舌鼓を打っていると、シグルズが食堂に入ってきた。食事をしているネフィリムを見てホッとした表情になる。
「食欲はあるようだな。よかった」
「その、こんなに美味しい食事を頂いて感謝している」
「気にするな。君はまず自分の心身を整えることを第一に考えてくれ」
緊急の事態だったとはいえ、敵国に囚われて戸惑う君を強行軍につき合わせてここまで連れてきた。どれほど謝罪しようとも足りることはない。
難しい顔をしながら話すシグルズに、ネフィリムは強い口調で反論した。
「何を言う! あなたは私をあの城から救い出し、道中も守ってくれたじゃないか。ファフニルに囚われたままでいたら、それこそ……」
そこで唐突に思い出す。
これまで逃げることで精一杯だったネフィリムが頭の隅に追いやっていたさまざまなこと。
自分を守るために死んでいった近衛兵。
ニーベルンゲンからの逃避行。
兄と別れ、一人で帝国領をさまよったこと。
ファフニルに囚われ、そして―――。
カチャン、と音がした。
ネフィリムの手からスプーンが床に落ちた。
「………、……?」
言葉が出なくなる。
徐々に息ができなくなって苦しくなり始めた。
半覚醒の耳にも、自身の腹の音が聞こえてくる。睡眠欲にも食欲にも優劣はない、生存のための本能。
ボーっとした頭で部屋を見回す。
カーテンの隙間からは防ぎきれないほどの陽光が差し込んでいる。厚いカーテンをしてもなお昨夜とはくらべものにならないほど明るくなった室内は、今日の天気の良さを伝えていた。
「……!」
瞳にその明るさを受けて、ネフィリムの頭はようやく動き始めた。
ベッドを降りてザっとカーテンを開ければ、輝かしい太陽が空の高いところに鎮座している。
「今は何時だ…!?」
太陽の位置からすれば完全に昼過ぎだろう。
一体自分はどれだけ寝ていたのか。
オタオタしても仕方がないので、昨晩ミモザに言われた通りにテーブルに置いてある銀のベルを鳴らした。音は大きくよく響く。
確かにこれなら廊下にいる人間にもちゃんと伝わる……。
「おう、ようやく起きたか」
てっきりミモザが来ると思っていたのに、ドアからひょいと顔を出したのは館の主でもあるシグルズ本人だった。
「わあ!」
びっくりして一歩後ずさるネフィリム。
「何を驚いているんだ? それにしても熟睡できたようでよかったよ。体調はどうだ」
部屋に入ってきたシグルズはわずかな刺繍がほどこされている白いワイシャツとスラックスというラフな出で立ちだった。表情も幾分柔らかい。
「ああ、こんなにぐっすり寝たのは久しぶりだ。信じられないくらい体が軽い。その……若干寝すぎたかもしれない、が……」
語尾は恥ずかしさのあまり小さくなってしまった。
寝坊など子どものすることだ。
顔に熱が集中する。
それを見ていたシグルズが腰に手をあててニヤニヤした。
「ネフィルは真面目というかなんというか……。あれだけの行程を乗り越えてきたんだ。体が睡眠を欲するのも当然だろう。丸一日寝てても構わないぞ」
「そ、そんなことは」
「まあいいさ。体調が良いなら今から……」
グウ―。
盛大に腹が鳴った。
ネフィリムの全身が真っ赤に茹で上がる。
シグルズは声を上げて笑った。
二階にある寝室から階段を降り、中央居館に移動する。
東側に位置する食堂もまた大きく窓を取っており、明るく開放的な雰囲気だった。
6人掛けのテーブルが10程度、等間隔で並んでいる。
レース生地の白のテーブルカバー、ヴェルスング家の家紋の入ったランチョンマットの上に並ぶ食事たち。
小麦を使った白パンが食べやすいサイズに切られ、横にはバターとベリージャムが添えられている。
野菜を煮込んだスープからは湯気が立ち上り、さらにネフィリムの食欲を誘った。小皿に乗っているリンゴは今収穫してきたと言わんばかりのみずみずしさ。
そして、ネフィリムの目の前にあるのは粥だった。
オレンジに色付けされた粥は見たことがない。真ん中には薄い色合いの肉が盛られている。
「大麦とオート麦を混ぜて煮込んであります。消化も良いので食べやすいかと」
後ろから声をかけてきたのはミモザだった。彼女はハッとした後で慌てて「おはようございます、ネフィリム様」と付け加えた。
「オレンジはサフランの色です。風味を付け足すと一層食べやすいんですよ。豚肉には少し塩味がついていますので、煮込んだ麦と食べてみてください」
説明を一通り聞き終えたネフィリムは、スプーンを手に取りそっと粥を口に運んだ。
「おいしい……」
それは無意識に出た一言だった。
ここ数日まともな食事が取れなかった体に染みわたるような優しい味。
サフランの風味が強すぎず、また豚肉の塩味が食欲をそそる。麦もしっかり煮込んであるので消化器官が容易に受け入れてくれる。
「ああ、よかった! 帝国のお食事が口に合うかどうか不安だったので、とても嬉しいです。あとで料理長にもお伝えしておきます」
両手を合わせて喜ぶミモザ。彼女は笑うと目元に笑い皺ができる。それを見た人間を明るい気分にさせるのは彼女の天性の才能だろう。
粥に舌鼓を打っていると、シグルズが食堂に入ってきた。食事をしているネフィリムを見てホッとした表情になる。
「食欲はあるようだな。よかった」
「その、こんなに美味しい食事を頂いて感謝している」
「気にするな。君はまず自分の心身を整えることを第一に考えてくれ」
緊急の事態だったとはいえ、敵国に囚われて戸惑う君を強行軍につき合わせてここまで連れてきた。どれほど謝罪しようとも足りることはない。
難しい顔をしながら話すシグルズに、ネフィリムは強い口調で反論した。
「何を言う! あなたは私をあの城から救い出し、道中も守ってくれたじゃないか。ファフニルに囚われたままでいたら、それこそ……」
そこで唐突に思い出す。
これまで逃げることで精一杯だったネフィリムが頭の隅に追いやっていたさまざまなこと。
自分を守るために死んでいった近衛兵。
ニーベルンゲンからの逃避行。
兄と別れ、一人で帝国領をさまよったこと。
ファフニルに囚われ、そして―――。
カチャン、と音がした。
ネフィリムの手からスプーンが床に落ちた。
「………、……?」
言葉が出なくなる。
徐々に息ができなくなって苦しくなり始めた。
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