ミルクティー依存症

高槻

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 櫂が連絡なしに自分に会いに来るのは何かあったとき、だと裕也が言ったときには半信半疑だった櫂だけれど、どうやら本当のことだったらしい。
 夜突然自分のアパートを出て裕也のマンションを目指して乗った電車の中で、ふと冷静になって自分がこんなことをしている理由を分析してみた結果がそれだった。
 都心に向かう各駅停車の車内は、櫂が各停しか停まらない最寄り駅から乗ったときにはがら空きだった。電車が数分間隔で停まる度に少しずつ乗客が増えていったものの、特急の停まる大きな駅でそのほとんどが一気に降りていく。櫂もその中の一人だった。
 裕也の部屋の合鍵は持っていない。事前に連絡をしたわけではないから、裕也が不在だというのは想定の範囲内。腕組みをしてドアに凭れて帰りを待っていると、隣の部屋の住人が帰ってきて、なんだか不審そうな目で櫂をじろじろと見ていった。慌てて会釈して誤魔化したものの、最悪だと思っていた気分は更に悪くなる。
 遅い。裕也の帰りがあまりにも。連絡をしていないとはいえ一体何時間待たせるつもりだ、と携帯を開いて時間を確認するともう九時を過ぎていた。そのままアドレス帳から裕也の携帯の番号を呼び出す。
 いつもより長いコールのあと、ようやく裕也が電話に出た。

『もしもし』
「今どこ?」
『今? 新宿だけど。知り合いと飲んでて。……あれ、もしかして、僕のマンションで待ってたり、する?』
「する。部屋の前でずっと。隣の人に変な目で見られた」
『ごめん、すぐ帰るから!』

 新宿からここまでだと電車で三十分はかかる。ため息をついて携帯を閉じ、それを持ったまま腕組みし直した。
 少しして携帯がメールを受信した。笹本からで、今日の授業で出された課題を間違ってメモしたかもしれないから確認したいという。一瞬気付かなかったことにして無視しようかとも思ったけれど、『今家にいなくて確認できないから、もし急いでるなら誰か他の人に聞いてくれる?』と返信する。その後すぐに新しいメールが届き、笹本が後でいいから教えてほしいと返信してきたのかと思ったら、今度は裕也からだった。短く、『ごめん、今電車に乗ったところ』とだけ書かれている。

「……メールなんかいいから早く来てよ」

 呟きをそのままメールにして送ると、それ以上の返信は来なかった。しばらくしてエレベーターが六階に止まり、ようやく中から裕也が現れた。駅から徒歩五分の道のりを走って来たんだろう、まだ少し息が乱れている。それを見て少しだけ溜飲が下がった。

「ごめんね。会社帰りに偶然会った知り合いに飲みに行こうって誘われて。もっと早く連絡くれればよかったのに」
「裕也が飲みに行ってるなんて思わなかった」
「でも、こんなところで待ってたら寒かったでしょ? 早く中に入って。何か暖かいものを――」
「いらない」

 暖かいもの、と言われてすぐ頭に浮んだのはミルクティーで、櫂は反射的に断っていた。
 それに戸惑った様子の裕也をそのままに、2DKの居間として使っているほうの部屋にある、密かに気に入っている白いソファに倒れ込むように座る。すぐ隣に裕也も浅く腰掛けた。

「どうしたの?」
「どうもしない」

 見え透いた嘘だった。言葉通りに信じる人なんて誰もいないだろう。
 きっかけは、今日の放課後に顔を出した部室での吉川の一言だった。
 その時はやけに部室の女子率が高くて、櫂は来る日を間違えたかと思っていたところだった。けれどそんな櫂のことなどおかまいなしに、缶のミルクティーを飲んでいた吉川はなんだかうっとりとした表情で言った。

『笠原先輩のミルクティー、また飲みたいなー』

 不意をつかれ、突然頭を思い切り殴られたような気がした。
 裕也の淹れるミルクティーを吉川も飲んだことがある、らしい。

『あー、ゆーや先輩のミルクティー、おいしいからねえ。なつかしいな』

 今度は四年生の大城だ。
 詳しく聞いてみると、どうやら裕也は在学中、映研の部室の入っているサークル棟の給湯室を使ってよく部員にミルクティーを淹れてくれていたという話だった。裕也の更に先輩にミルクティーに煩い先輩がいて部室に紅茶やティーポットを持ち込み、その先輩の卒業後、淹れ方を習っていた裕也がミルクティーを淹れる役目を引き継いだらしい。
 裕也からその面倒な仕事を引き継ぐ物好きはいなかったらしく、裕也の卒業後にサークルに入ってきた櫂は今までそんなことは全く知らなかった。

『笠原先輩って、たまに飲み会に来てくれる、いつも櫂くんと一緒にいる先輩ですよね?』
『そうそう』
『それって、ミルクティーがおいしいっていうより、淹れてる先輩が格好いいから飲みたいんじゃないですかー?』
『まあ、それもあるけどね。でも実際にミルクティーのほうもおいしいよ』
『そういえば不思議に思ってたんだけど、高瀬くん、サークルだと飲み会くらいしか会う機会ないのに、よく笠原先輩とあんなに仲よくなったよねー』
『そんなことないですよ。時々メールするくらいで』
『櫂くん先輩のアドレス知ってるんだ? いいなー。今度紹介してよ!』
『ごめん、そこまで仲がいいわけじゃないんだ。他の先輩に頼んだほうが確実だと思うよ』

 初めて裕也のミルクティー飲んだときに櫂がべた褒めして以来、この家に来ると必ず裕也はミルクティーを淹れてくれた。裕也だって最初は誰かに淹れ方を教えてもらったはずだし、それが大学のサークルの先輩だというのはあり得ない話じゃない。
 それでも、裕也のミルクティーは自分だけのものだと思っていたのに。こんなふうに部室で話題にされるのは面白くなかった。

「どうもしないって、どうもしないようには見えないんだけどな」
「別に――」

 どうもしないものはどうもしない、と言いかけたのを途中で止めて、上目遣いに隣の裕也を見上げた。
 裕也には今まで散々我侭を言って振り回してきている。今更遠慮する必要なんてないんじゃないか。
 ――そのとき、なぜそんなことを考えたのか。

「不安になった」
「不安?」
「裕也が、本当に俺のこと好きなのか」

 裕也の顔から表情が消えた。明らかに動揺している。彼がそんな反応をしたのを嬉しいと思う自分はどうかしていると、自然に自嘲の笑みが浮ぶ。

「不安って、突然どうして」
「好きじゃないんだ?」
「好きだよ。好きじゃなきゃ、こんな――」
「じゃあ、どうしていつまで経っても裕也は俺のこと抱かないの」

 今までに男を誘ったことなんてあるはずもなかった。それでも、裕也の誘い方なら知っている気がした。
 未だに自分は同性愛者ではないと思っているし、裕也のことを恋愛対象として見ているという確信もない。それでも身体を繋げたかった。そうすることで裕也を縛り付けられるのなら。どこにも行けなくなるように、自分一人しか見られなくなるように。
 告白してきたのが裕也の方だったから、今まで彼が自分から離れていくことなんて考えたこともなかった。けれど、もし本当に櫂のことを好きだというのなら、こうして頻繁に彼の部屋に来ているというのに六ヶ月間も何もしてこなかったのはなぜだろう。
 本当は、もう自分のことなんて好きではないんじゃないか。告白したのが自分の方だから櫂に申し訳なくて振ることができずにいるだけで、フェードアウトするタイミングをうかがっているところなのかもしれない。
 恋愛対象として好きではないと思いながら、裕也が離れていくことを考えると怖くて耐えられない。身体が氷のように冷たくなっていく。

「……どうしたの? 最近おかしいよ?」

 最近、というのは少し前にキスしてほしいと強請ったことをさしているんだろうか。困ったような顔をして裕也がソファから立ち上がった。

「ミルクティー、淹れてこようか」
「いらない」
「ちょっと落ち着いてほしいんだ。だから、ね」

 引きとめようとして裕也の上着の裾を掴んだ櫂の手をゆっくりと外して裕也が部屋から出て行き、その後キッチンから紅茶を準備する物音が続いた。両足をソファにのせて膝を抱え込むようにして丸くなりながらその音に聞き耳をたてる。
 寒かった。部屋の温度は寒さを感じるほど低くはないはずなのに、身体が震えている。

「……どうぞ」

 いつもより時間がかかったように感じたのは気のせいだろうか。部屋に戻ってきた裕也はマグカップを一つだけ持っていて、それを櫂に差し出す。両手で受け取った櫂は寒さから逃れたくてマグカップを口に運んだ。
 一口飲んでみて、いつもと味が違う、と思った。いつもより甘くて、ミルクの量が多いのか濃厚な気がする。

「チャイにしたんだ。牛乳で煮出して作るんだよ」

 櫂の隣に座りながら裕也が続ける。

「もともとは、輸出できない質の悪い茶葉からおいしさを最大限引き出すための飲み方でね。……だから、逆にそれなりのクオリティの茶葉はチャイに向かないって言われてるんだけど」

 もう一口、とマグカップに口をつけた。身体全体を暖かくて柔らかい何かに包み込まれるような錯覚。自然と身体に入っていた無駄な力が抜けていく。

「僕はね」

 やや時間を置いてから、裕也がゆっくりとした口調で話し始めた。意図的にやっているんだろうか、いつもより耳に心地のいい、穏やかな声音で。

「前にも言ったけど、男しか恋愛対象にならないんだ。だからかな、よくこんなことを考えるんだよ。別に他人と同じでないことを気にする必要はないって。突き詰めれば、どうせ人それぞれ自分に合ったものなんて違うんだから」

 俯いていた顔を上げて裕也の方に目をやると、顔には苦笑が浮んでいる。話の着地点はなんとなく予想がついた。

「櫂。さっき、どうして僕が櫂のことを抱かないのかって訊いてきたけど。櫂はストレートだったよね? 僕に抱かれるってことが具体的にどういうことか解ってそんなこと言ってる?」
「それは……」

 ストレートでも、男同士でどう身体を繋げるかという知識くらいはある。今までどちらがどちらをという話を一切したことのない裕也に『どうして自分を抱かないのか』と言ったのは櫂のほうで、抱かれる側になることを屈辱に思っているわけでもない。
 けれど、具体的に自分が裕也と何をするのかと想像したことは一度もなかった。セックスの経験がないわけじゃなく、それがどういうものなのか解っているはずなのに。想像したくなかったのかもしれない。
 ごくごく軽く叩くようにして裕也が櫂の頭に手をのせ、いつものやり方で頭を撫でてきた。

「別にね、僕にとってセックスなんてそんなに重要じゃないんだよ。だから、櫂が心配する必要なんてない。そんなことしなくても櫂は僕の一番大切な人なんだから。僕らにはこういう関係がちょうどいいんだよ」
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