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1章、悪役は覆水を盆に返したい。

21、憂炎が責任を感じるようなことがあってはいけないよ。

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 炎だ。
 炎が霧の視界に咲いて、死の気配が濃厚な世界を生で染め替えるように熱を吐いている。
 
 器用にも木々を避け、死霊と霧だけを喰らい呑み込む焔は憂炎ユーエンが放ったものと思われた。
 
 死霊の気配がすこしずつ遠のいていく――潮が引くように、不穏の気が穏やかな夜の空気に変わっていく。

「さっきのは私がかせたことになるのだろうか。私がかせたことになるのだろうか? 私の手……」
 
 戸惑いに声をかすれさせ 憂炎ユーエンが真剣な顔で呟くのがきこえる。
 軽く上気した頬が色めいていて、瞳にちらつくのはえた肉食獣の欲だ。
 
 大きな手が想いを持て余すように音繰オンソウの頬を撫でて、軽くひらいた唇から真珠めいた白い牙と誘惑の果実に似た赤い舌が濡れた色を覗かせる。
 精悍な顔がそっと近づき、首筋で匂いを確かめるように呼吸する。

 肌をくすぐる甘ったるい熱に、音繰オンソウはぞくぞくと背筋を震わせた。
 思わず腰を浮かせてしまいそうになり、必死にこらえて言葉を探す。
 
(な、なにかやばい)
 みなとの言葉が思い出される。

憂炎ユーエンとその場で濡れ場を展開するんですけど……】

(あっ? あーー!?)
 音繰オンソウは恐ろしい現実に流されかけている元弟子を見た。

(このままでは、この元弟子と大変なことになってしまうっ!?)
 音繰オンソウの心に危機感が一気に高まる。

 憂炎ユーエンは、自分の元弟子だ。
 自分より才気あふれて、周囲に絶賛されて、自分はそれに嫉妬していびったのだ。
 
 そんな自分と憂炎ユーエンがいかがわしい関係になってよいはずが、ない。
 
 近くには、憂炎ユーエンの運命の相手、雪霧シュエウーだっているのだ。
 憂炎ユーエンは、雪霧シュエウーと幸せになるはずなのだ……。
 
 音繰オンソウは二十余年前、何度もそうしたように冷たく嘲笑あざわらうような表情をつくった。
 ――以前はつくらずとも自然にそんな表情をしていたものだが。
 
 こごえる冬空めいた青眼せいがんえ冴えとして、毒々しい色に濡れた唇が酷薄こくはくに笑む。
 
「……憂炎ユーエン

 わざと煽るように、赤い舌を出して自分の唇をちろりと舐めてみせる。
 間近にそれを見る元弟子の喉が、こくりと唾を飲み下すのがわかった。
 元師匠は、いっそう妖しく蔑むような眼で笑みを咲かせた。

「私に欲をそそられて、勃たせているのかな? 私を抱きたいのかい?」

 蠱惑的こわくてきに、艶やかに、勝ち誇るように。
 そんな音繰オンソウ凄艶せいえんな笑みと声に、憂炎ユーエンは獣の毛をぶわりと逆立てた。
 自分を見つめる元弟子の瞳に強い理性と反抗心があらわれている――音繰オンソウは手応えに尾を揺らし、いっそうみだらに首をかたむけ、邪悪の気をのぼらせた。

小朋友坊や、可愛いね。誘惑に勝てないのだね。ふふっ……まるで、色を覚えたての獣のようではないか……

 音繰オンソウが刃のような眼でせせら笑うと、憂炎ユーエンはカッと顔に血の気をのぼらせ、無言で元師匠から身を離した。

「…… 音繰オンソウッ!!」
 名を呼ぶ声には、憎悪に似た感情が渦巻いている。
 音繰オンソウはそれを不思議なほど愛しく感じて、安堵の吐息をほわりと零した。

(ああ、それでいい。私の弟子――憂炎ユーエン

 憂炎ユーエンは、正派として邪派を憎むのだ。
 音繰オンソウという魔人は、悪役として憂炎ユーエンに討たれるのだ。

(いやだ。そんな未来。私は『ざまぁ』されたくないよ)
 それを嫌がる自分と。
(いいじゃないか。それが運命なんだ。憂炎ユーエンが幸せになるなら、いいじゃないか)
 そんな妙なことを思う自分がいる。
 
憂炎ユーエンは、雪霧シュエウーと幸せになるんだ。私などをうっかり抱いて、責任を感じるようなことがあってはいけない……)

 以前の自分であれば、そんな考えが浮かぶなんてありえなかった。
 それが今はどうだ。
 音繰オンソウは自嘲するように睫毛を伏せた。

(これが、私? なんだ、この私は。自分が得体の知れない生き物になってしまったようだ……こんな、こんな――
 
 ――おかしいではないか。

「私には、貴方がわからない」
 少年のような声色で、血を吐くように絞り出した憂炎ユーエンの声が激情を夜風に乗せる。

(私にも、自分がわからないんだ)
 音繰オンソウは妙にすっきりした気分で、吹っ切れたみたいに微笑んだ。


 風は勢いよく天翔けて、冷たい空気の流れと一体となって消えていった。
 木々の葉天蓋の隙間に覗く夜天には、ただ温度を伴わず美しく輝く無数の小さな星粒が散らばっている。

 地上の元師弟は、そんな星々に見守られながら数秒間静かに睨み合った。

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