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5章、マイノリティと生命の砂時計
54、今、この場に集う我々には共通点がありますね。人の中で生きているという点です。
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中央の国、王都ルーングラッドの街並みも人のひしめく気配も懐かしく、クレイに時間が戻ったような気分にさせた。
かつては『他国からのお客様がいらっしゃるのだ』と思ってみていた迎賓館に自分と『オスカー』が招かれて滞在するという現実は、なんだか胸の奥をむずむずさせた。
滞在中に用意された寝室は別々で、けれど部屋と部屋の間を扉で続かせるコネクティングルームとなっていた。
到着して数日、ニュクスフォスはその扉をくぐることなく、クレイの夜にはラクーンみたいに自分を洗う騎士だかお父さまだかは不在となって、眠る時にも子供のころに戻ったみたいに呪術師のレネンが侍るのだった。
54、今、この場に集う我々には共通点がありますね。人の中で生きているという点です。
貴き色とされる白を強く意識された外装と内装は精緻な装飾を凝らされていて、広々とした優雅な空間の足元はゆったり、艶めく絨毯が柔らかだ。
光をたっぷりキラキラ注ぐ大きな窓に金糸編みのドレープカーテンが繊細な白レースを魅せて揺れていて、飾られた花々は無機質になりそうな印象の綺麗な内装に優しい自然な雰囲気を足してくれている。
パーティ会場に用意された北西勢の席には中央貴族が挨拶に来た。
クレイがいるので、紅薔薇勢も多く集まってくる。
吹き抜けの階下にダンスフロアを臨む席は、高所が苦手なものであれば少し怖いかもしれない見晴らしの良さ。
着飾った上品で高雅な貴族たちを見下ろしているとどんな者でも思い上がり、傲慢な気を誘われてしまうのではないかと思う空気がある。
「殿下、殿下。クレイ殿下……」
貴族たちの中、クレイの手を取りそう呼ぶメルギン伯は以前より痩せていて、杖をつく足取りも一歩一歩の間隔が狭くゆっくりだ。
喋りもひとこと発語してから時折ふつりと途切れて、一拍あけて続くが出る。
――爺は、歳を取ったな。
クレイは豊穣の秋が過ぎて寂寥たる冬の近付く気配を感じながら、愛情を胸にその手をさする。
「ああ、爺。爺。……爺が元気そうで、僕は安心した……爺と話せて、僕は嬉しい」
この手が、いつもクレイを王子様扱いしてくれた。
この手は、クレイを世界で一番大切な存在なのだと伝えてくれた。
この手は、とても弱々しくて、ひんやりしていて……いつまでも同じ時間が続かないのだと教えてくれるみたいなのだ。
(僕が成長するように、爺は衰えてしまうのだ……)
胸のうちにはアクセルの言葉まで蘇るではないか。
『もう数年も経てば』――何年も、この先時間が過ぎて行って、誰かが生まれて育って、誰かが衰えて死んでいく。
何かをしても、しなくても、全員等しく歳を取り、いつか死ぬ。
(僕が知っている人は、みんな死ぬ。死なない人はひとりもいない。死ぬ速さは個人差があるだろうけど、確実に全員いつか死ぬんだ。生きているっていうのは、まだ死んでいないっていう状態なんだ)
そんな風に現実が肌で感じられて、なんだか涙が出てしまいそうなのだった。
そんな感傷をかんじたのかは知らないが、騎士兜で顔を隠した『騎士王』が果実の色を煌めかせる杯をそっと差し出し、背をさすってくれる。
メルギン伯はそれを視て目を細め、自身の若いころのやんちゃな武勇伝などをしみじみ語るのだった。
「この爺も、実は若い頃にルフォーク伯の父君に懸想したことがあり申した。ええ、ええ、片思いでございましたよ」
後ろにいたルフォーク伯が驚いた顔をして、その告白をきいている。
メルギン伯はその気配に柔らかに微笑みながら、自分という存在をたしかめるように声を連ねた。
「この十数年、ファーリズでは市井に同性同士の恋愛を扱った本が流行り、実際に堂々と付き合う同性も増えておりますが、爺の時代はそれは一般的ではありませんでした」
その語りに、誰も口を挟むことはなかった。
そこには静かで、優しくて、少し切ない空気が充ちていた。
「『普通』の考え方の中に生きている若い頃の爺は、自分が普通から外れてしまったと感じた時、自分がたいそう気持ち悪くて恥ずかしくて、異常で、苦しくて仕方がなかったものです。押し殺して隠し、普通のふりをして、ある時、短剣を手に自殺をはかったこともございました……けれど、そんな爺に気付いてくださったのが幼きラーシャ様でした」
(お母さま……)
クレイの手が少し震える。
『騎士王』の手が殊更ゆっくりと背を撫でて、気持ちを落ち着かせてくれるようだった。
その気配は、正体を隠した彼が中央にクレイを連れ立ち、保護者のようなオーラで中央人たちを牽制してくれていたときを思い出させる。
――僕を守ってくれるのだ。
そう感じるから、安心できるのだ。
――この特別な騎士は僕の味方なのだ。
それが嬉しくて、世界中に自慢したくなるのだ。
「ラーシャ様は『普通ではないと感じた者は、どうやったらその人らしいありのままの生き方で心地よい生活を手に入れられるのだろうか』とお考えになられました。『逆の立場に立った時に、自分とは違う考え方の人をどうすれば受け入れるものだろうか?』と、一緒になって考えてくださいました。劇中のセリフでもありますね……『この星々の輝く宝石箱のような天の、なんと美しいことか。けれど、手をどれだけ伸ばそうと全く届かない冷たさがあるのです。ならば、それを恐れましょうか。ねえ、人と天、どちらになさる?』……天上の星々は美しいだけでしたが、ラーシャ様は爺の手を取り、一緒に頭を悩ませてくださいました」
語る背景に、ダンスフロアが視えている。
遠く離れたそこで、ひときわ華やかにドレスを翻して、クレイの異母妹ユージェニーが踊っている。
いつからかはわからないが、クレイはダンスフロアで踊る自分というイメージを全く持つことがない自分に気付いていた。
線があちらとこちらにくっきりと引いてあって、輝かしい光で溢れるそこを誰からも認められる男女が踊っていて、自分は影に隠れるようにそれを観る係なのだと思うのだ。
日陰者――そんな感傷に浸るのが、気持ちよいのだ。
(だって、あっちに行けない。僕にふさわしくないのだもの)
でも、行けなくて悔しいだけだと、哀しいだけだと、僕はみじめだ。
ううん、気持ちよい。
悔しい、哀しい、みじめ――それは気持ちよいのではないか。
そう思えば、慰められるではないか。
だから、気持ちよいと思うのだ。
「今、この場に集う我々には共通点がありますね。人の中で生きているという点です――どんなに違っていても、そこは同じで、人の中で生きようという部分は共通しているのです。だから他者を気にして苦しむし、他者の中に居場所を探してもがく時がある。それを『わかる』と言ってくれる手が見えて、爺は……苦しくても窮屈でも人のうちにいたいと感じたものです。それで、社会と自分に折り合いをつけるために一生懸命になれました。そんな一生懸命になれた自分を愛することができて、認める気持ちが自分の中にできました。そして、生きている自分を肯定できたのです」
クレイはそっと頷いた。
じっと見つめるメルギン伯の目は、深い色をしていて、優しかった。
「社会の価値観とは変わるもの、変えていけるもの――きっとまた十数年、さらに百年二百年と時が経てば、この爺の苦しみに共感を覚える若者がいない世の中になっているのかもしれませぬな。ラーシャ様の御子である殿下が世の価値観を変えるのだと思い付かれて、爺がその手伝いをできる……それは、なんて幸せなことでございましょう。わが生涯を後世まで誇れるというものです」
メルギン伯がそう誇らし気に締めくくれば、周囲にいた紅薔薇勢が一緒になって笑顔を浮かべて頷いた。
その人の輪の醸し出す空気は美しい何かを感じさせるものだった。
彼らはたまたま生きている時間が重なった集団だ。
そんな彼らの顔を見ていると、限られた人生の時間を生きる皆は、死ぬまでの時間をただ食べて寝て終わるのではなく、何か『義務ではないこと』を自分の意思でしたい気持ちが胸にあるのだと思わせた。
それができると自分の生涯を誇る気持ちを持てるのかもしれない、という可能性みたいなものを感じて、クレイは神聖な気持ちで爺に微笑んだのだった。
(ああ、爺。僕は今現在がそのままずっと続いてほしい。僕は、大切なひとに死んでほしくない。それが無理だとわかっていて、だけど理屈じゃないんだ)
それを思うと、世の道理がわからぬ幼子のように我儘に泣いてしまいそう。
けれど、僕は泣くまい。笑うのだ――だって、爺は誇らし気に笑っているのだもの!
――ダンスフロアで、異母妹が踊っている。
妹は、孤児院の出身だ。
本当の妹が亡くなった後、アクセルがよく似た子を拾ってきて、「ユージェニーは死んでいない。お前はユージェニーだ」となりすましをさせたのだ。
神々の世界――異世界人の記憶を持つ異母妹ユージェニーは破天荒で、強烈な個性を持っていて、天才と言われる頭の良さと呪術の才能があった。
そして、同性愛が好きでその恋愛模様を本にして、世の中の価値観を変えてしまった。
血統なんて、なにも意味がない。
その生きざまを視ていると、なんだかそんな気が湧いてくる――それは、不思議な感覚だった。
思えば、全くの未知であればなんとなく自分たちと違うとなって受け入れられないものも、本で『こういうものだ』と知っていればより身近に感じられるのかもしれなかった。
クレイだってそうだ。
10歳にもならないうちから、妹から「殿方同士がこんな風に愛を語り合うのがとても素敵」みたいに言葉で、文字で、絵で、その価値観を伝えられてきたのだ。
これはとても素敵なことなのだと繰り返されて、それが生活の中にずっとあって、当たり前になっていった。
もしも逆に、「殿方同士が愛を語り合うなんてとんでもない!」と言われ続け、そんな本が世の中に溢れていたらどうだろう。
そんな世の中でも愛し合う男性同士は必ず生まれるだろうが、公には言いにくくなるに違いなかったし、爺のように「自分は普通ではないので、隠さないと」となる者も多いに違いなかった。
それは良い意味でも悪い意味でもそうで、要するにラーシャ姫や『騎士王』のイメージ戦略と大差ない――コルトリッセン家が王家の忠臣として子供を躾けるのと変わらない。
アーサー王がクレイをエリック第二王子の従者にして、裏切らないように手懐けさせたのと変わらない。
刷り込みだ。
価値観を「これは普通です」と叩き込んで、染めてしまうのだ。
(当たり前って、怖いんだ。おひさまが僕たちのまわりをまわっているよと言われて育ったらそれが当たり前になる。僕たちがおひさまのまわりをまわっているよと言われて育ったらそれが当たり前になる)
ゆっくりと啜った杯の中身は甘い果実の味がする。
(僕たちは、思い悩む人を助けることもできるし、何かの罪に対する意識を薄く変じさせて罪をそそのかしたり、それが罪ではないって世論を作ることだってできてしまうかもしれないのだ。それって、それって――とっても怖いことなんだな。よくよく考えてしないといけないことなんだな)
――美しく舞う妹を遠く見て、クレイはそう思うのだった。
「伯は……」
ふと、寄り添う気配が穏やかに佳声を響かせる。
――『騎士王』だ。
騎士兜の内側から青年の声が発せられると、周囲の緊張が高まった。中には、殺気めいた不穏な気をのぼらせる者もいる。
以前、この成り上がりの青年は紅薔薇勢の輪の中から彼らのクレイを抱き上げ、「『お前らのラーシャ』はもう俺が頂いたのだ、爺どもは黙ってろ」とのたまって文字通り掻っ攫っていったのだ。
「伯は、クレイ殿下にとって大切なお方。もしよければ後日、フェアグリンの黄金の果実を届けさせましょう。妖精界に成る特別な果実にて、滋養があるのはもちろん、不老長寿の効能までうたわれる貴重なものでございますぞ」
いつぞやと違い、友好的で紳士的な申し出に、紅薔薇勢は毒気を抜かれたように目を瞬かせた。
「かような貴重な果実を頂けるとは、有難く光栄なことでございます。きいているだけで寿命も延びるというもの、ほっほ……」
メルギン伯が有難いと微笑んで二人が握手を交わす――それは小さな奇跡の象徴のようで、視ていた者はこの時『騎士王』が紅薔薇勢の同志であることを理解するのだった。
「我らには、もうひとつ共通点がありますね。主がいる――等しく仰ぐ、大切な方がいるのです」
それを語れるのが嬉しいのだと誰もが感じ取れる声がそう言って、傍らの『主』の隣に膝をつく。
「紅薔薇とは、騎士のよう。そう、ひとりの神聖不可侵なお姫さまに対する騎士の集まり――ミンネだ。これこそ騎士のミンネといえるわけだ」
ほんの小さな呟きは、独り言なのだろう。
クレイはニュクスフォスの呟きをかろうじて聞き取り、ちょっとだけ眉を寄せた。
――こいつ、僕を『神聖不可侵なお姫さま』と定めて、気持ちよくなっている……。
「皆様は俺がご主君を穢すのではとさぞご心配でありましょうが、ここに『騎士王』は改めて誓いましょう」
しかも、調子に乗って何か誓おうとするではないか。
クレイはムッと声を出して、それを邪魔した。
「穢すって、なあに。僕には理解しかねる発言である」
ぎょっとした気配が周囲に溢れる。
「それは、ええと」
肉体的にあれをこうしたら穢す、そんなことを言いたいが言ってよいものかという気配が『騎士王』からのぼると、クレイは馬鹿らしくなってしまった。
「いや、僕は何を仰りたいかは理解しているのですよ、『騎士王』陛下。僕はその価値観が理解しかねると申しているだけで」
声は、ひどく冷めてきこえた。
内心ではぐつぐつと煮えた想いが沸騰するようだったが。
「旧い時代ならともかく、呪術も医学も発展して性交渉での病のリスクも予防できて治癒も可能で、これから『子作りのための縁談と政略結婚は美徳ではない』という価値観を広めようというのに、貴方たちは『肉体がつながると穢れる』と囀るの。好まぬ者に無理に行為をされれば心に傷を負うこともあろうが、公に伴侶となるのが認められている好む者と致すことで何が汚れるというの――肉体? 魂? 名誉? 処女崇拝の気でもあるのか。そもそも僕は女でもなく、処女膜もなければ婚姻前に交渉して孕む恐れもないが――婚姻後に孕もうとしても孕めぬが」
「は、孕……そのようなご発言、公に大声で。殿下、殿下、なりませぬ、なりませぬぞ……!」
『騎士王』がおろおろとして動揺しているのが、なんだかおもしろかった。
紅薔薇勢の中には信じられないと言った顔をしたり、口から泡を吹いて倒れる者までいた。
「まあ、お兄様」
そこに涼やかで可憐な声が届く。
異母妹のユージェニーだ。
ダンスを終えて兄に会いに来たらしい。
居並ぶ者は助けを求めるように其方を見て――、
「そのおっしゃりようだと、お兄様は『致す側』ではなく『致される側』なのですね、やっとはっきりわかりましたわ」
とんでもない再会の挨拶を平然と言い放つ姿に、皆一様に絶句した。
そして言われた『お兄様』――クレイ本人はというと、衝撃を受けたような顔で真っ赤になって固まっていた。
クレイはこの時、異母妹の言葉に初めて自分が挿入される側――男女で言えば『女の側』だと思っているのだと、自覚したのであった。
「い、いや、違うよユージェニー。……兄さんは彼が『穢す』というから、その言葉から処女を連想したんだ。それだけの話に過ぎないよ……兄さん、そんなつもりで言ったわけではなかった……」
取り繕うように言う言葉が動揺に揺れていて、羞恥が湧きあがって止まらない。
――今果たして自分はどんな顔をしているのか。
両手で顔を覆い隠して逃げ出したくなる。
けれど、ユージェニーを追うようにしてエリック第二王子が姿を現して「クレイは何をしているんだ?」ととても懐かしい温度で言うものだから、そんな風に逃げることもできなくなってしまうのだった。
かつては『他国からのお客様がいらっしゃるのだ』と思ってみていた迎賓館に自分と『オスカー』が招かれて滞在するという現実は、なんだか胸の奥をむずむずさせた。
滞在中に用意された寝室は別々で、けれど部屋と部屋の間を扉で続かせるコネクティングルームとなっていた。
到着して数日、ニュクスフォスはその扉をくぐることなく、クレイの夜にはラクーンみたいに自分を洗う騎士だかお父さまだかは不在となって、眠る時にも子供のころに戻ったみたいに呪術師のレネンが侍るのだった。
54、今、この場に集う我々には共通点がありますね。人の中で生きているという点です。
貴き色とされる白を強く意識された外装と内装は精緻な装飾を凝らされていて、広々とした優雅な空間の足元はゆったり、艶めく絨毯が柔らかだ。
光をたっぷりキラキラ注ぐ大きな窓に金糸編みのドレープカーテンが繊細な白レースを魅せて揺れていて、飾られた花々は無機質になりそうな印象の綺麗な内装に優しい自然な雰囲気を足してくれている。
パーティ会場に用意された北西勢の席には中央貴族が挨拶に来た。
クレイがいるので、紅薔薇勢も多く集まってくる。
吹き抜けの階下にダンスフロアを臨む席は、高所が苦手なものであれば少し怖いかもしれない見晴らしの良さ。
着飾った上品で高雅な貴族たちを見下ろしているとどんな者でも思い上がり、傲慢な気を誘われてしまうのではないかと思う空気がある。
「殿下、殿下。クレイ殿下……」
貴族たちの中、クレイの手を取りそう呼ぶメルギン伯は以前より痩せていて、杖をつく足取りも一歩一歩の間隔が狭くゆっくりだ。
喋りもひとこと発語してから時折ふつりと途切れて、一拍あけて続くが出る。
――爺は、歳を取ったな。
クレイは豊穣の秋が過ぎて寂寥たる冬の近付く気配を感じながら、愛情を胸にその手をさする。
「ああ、爺。爺。……爺が元気そうで、僕は安心した……爺と話せて、僕は嬉しい」
この手が、いつもクレイを王子様扱いしてくれた。
この手は、クレイを世界で一番大切な存在なのだと伝えてくれた。
この手は、とても弱々しくて、ひんやりしていて……いつまでも同じ時間が続かないのだと教えてくれるみたいなのだ。
(僕が成長するように、爺は衰えてしまうのだ……)
胸のうちにはアクセルの言葉まで蘇るではないか。
『もう数年も経てば』――何年も、この先時間が過ぎて行って、誰かが生まれて育って、誰かが衰えて死んでいく。
何かをしても、しなくても、全員等しく歳を取り、いつか死ぬ。
(僕が知っている人は、みんな死ぬ。死なない人はひとりもいない。死ぬ速さは個人差があるだろうけど、確実に全員いつか死ぬんだ。生きているっていうのは、まだ死んでいないっていう状態なんだ)
そんな風に現実が肌で感じられて、なんだか涙が出てしまいそうなのだった。
そんな感傷をかんじたのかは知らないが、騎士兜で顔を隠した『騎士王』が果実の色を煌めかせる杯をそっと差し出し、背をさすってくれる。
メルギン伯はそれを視て目を細め、自身の若いころのやんちゃな武勇伝などをしみじみ語るのだった。
「この爺も、実は若い頃にルフォーク伯の父君に懸想したことがあり申した。ええ、ええ、片思いでございましたよ」
後ろにいたルフォーク伯が驚いた顔をして、その告白をきいている。
メルギン伯はその気配に柔らかに微笑みながら、自分という存在をたしかめるように声を連ねた。
「この十数年、ファーリズでは市井に同性同士の恋愛を扱った本が流行り、実際に堂々と付き合う同性も増えておりますが、爺の時代はそれは一般的ではありませんでした」
その語りに、誰も口を挟むことはなかった。
そこには静かで、優しくて、少し切ない空気が充ちていた。
「『普通』の考え方の中に生きている若い頃の爺は、自分が普通から外れてしまったと感じた時、自分がたいそう気持ち悪くて恥ずかしくて、異常で、苦しくて仕方がなかったものです。押し殺して隠し、普通のふりをして、ある時、短剣を手に自殺をはかったこともございました……けれど、そんな爺に気付いてくださったのが幼きラーシャ様でした」
(お母さま……)
クレイの手が少し震える。
『騎士王』の手が殊更ゆっくりと背を撫でて、気持ちを落ち着かせてくれるようだった。
その気配は、正体を隠した彼が中央にクレイを連れ立ち、保護者のようなオーラで中央人たちを牽制してくれていたときを思い出させる。
――僕を守ってくれるのだ。
そう感じるから、安心できるのだ。
――この特別な騎士は僕の味方なのだ。
それが嬉しくて、世界中に自慢したくなるのだ。
「ラーシャ様は『普通ではないと感じた者は、どうやったらその人らしいありのままの生き方で心地よい生活を手に入れられるのだろうか』とお考えになられました。『逆の立場に立った時に、自分とは違う考え方の人をどうすれば受け入れるものだろうか?』と、一緒になって考えてくださいました。劇中のセリフでもありますね……『この星々の輝く宝石箱のような天の、なんと美しいことか。けれど、手をどれだけ伸ばそうと全く届かない冷たさがあるのです。ならば、それを恐れましょうか。ねえ、人と天、どちらになさる?』……天上の星々は美しいだけでしたが、ラーシャ様は爺の手を取り、一緒に頭を悩ませてくださいました」
語る背景に、ダンスフロアが視えている。
遠く離れたそこで、ひときわ華やかにドレスを翻して、クレイの異母妹ユージェニーが踊っている。
いつからかはわからないが、クレイはダンスフロアで踊る自分というイメージを全く持つことがない自分に気付いていた。
線があちらとこちらにくっきりと引いてあって、輝かしい光で溢れるそこを誰からも認められる男女が踊っていて、自分は影に隠れるようにそれを観る係なのだと思うのだ。
日陰者――そんな感傷に浸るのが、気持ちよいのだ。
(だって、あっちに行けない。僕にふさわしくないのだもの)
でも、行けなくて悔しいだけだと、哀しいだけだと、僕はみじめだ。
ううん、気持ちよい。
悔しい、哀しい、みじめ――それは気持ちよいのではないか。
そう思えば、慰められるではないか。
だから、気持ちよいと思うのだ。
「今、この場に集う我々には共通点がありますね。人の中で生きているという点です――どんなに違っていても、そこは同じで、人の中で生きようという部分は共通しているのです。だから他者を気にして苦しむし、他者の中に居場所を探してもがく時がある。それを『わかる』と言ってくれる手が見えて、爺は……苦しくても窮屈でも人のうちにいたいと感じたものです。それで、社会と自分に折り合いをつけるために一生懸命になれました。そんな一生懸命になれた自分を愛することができて、認める気持ちが自分の中にできました。そして、生きている自分を肯定できたのです」
クレイはそっと頷いた。
じっと見つめるメルギン伯の目は、深い色をしていて、優しかった。
「社会の価値観とは変わるもの、変えていけるもの――きっとまた十数年、さらに百年二百年と時が経てば、この爺の苦しみに共感を覚える若者がいない世の中になっているのかもしれませぬな。ラーシャ様の御子である殿下が世の価値観を変えるのだと思い付かれて、爺がその手伝いをできる……それは、なんて幸せなことでございましょう。わが生涯を後世まで誇れるというものです」
メルギン伯がそう誇らし気に締めくくれば、周囲にいた紅薔薇勢が一緒になって笑顔を浮かべて頷いた。
その人の輪の醸し出す空気は美しい何かを感じさせるものだった。
彼らはたまたま生きている時間が重なった集団だ。
そんな彼らの顔を見ていると、限られた人生の時間を生きる皆は、死ぬまでの時間をただ食べて寝て終わるのではなく、何か『義務ではないこと』を自分の意思でしたい気持ちが胸にあるのだと思わせた。
それができると自分の生涯を誇る気持ちを持てるのかもしれない、という可能性みたいなものを感じて、クレイは神聖な気持ちで爺に微笑んだのだった。
(ああ、爺。僕は今現在がそのままずっと続いてほしい。僕は、大切なひとに死んでほしくない。それが無理だとわかっていて、だけど理屈じゃないんだ)
それを思うと、世の道理がわからぬ幼子のように我儘に泣いてしまいそう。
けれど、僕は泣くまい。笑うのだ――だって、爺は誇らし気に笑っているのだもの!
――ダンスフロアで、異母妹が踊っている。
妹は、孤児院の出身だ。
本当の妹が亡くなった後、アクセルがよく似た子を拾ってきて、「ユージェニーは死んでいない。お前はユージェニーだ」となりすましをさせたのだ。
神々の世界――異世界人の記憶を持つ異母妹ユージェニーは破天荒で、強烈な個性を持っていて、天才と言われる頭の良さと呪術の才能があった。
そして、同性愛が好きでその恋愛模様を本にして、世の中の価値観を変えてしまった。
血統なんて、なにも意味がない。
その生きざまを視ていると、なんだかそんな気が湧いてくる――それは、不思議な感覚だった。
思えば、全くの未知であればなんとなく自分たちと違うとなって受け入れられないものも、本で『こういうものだ』と知っていればより身近に感じられるのかもしれなかった。
クレイだってそうだ。
10歳にもならないうちから、妹から「殿方同士がこんな風に愛を語り合うのがとても素敵」みたいに言葉で、文字で、絵で、その価値観を伝えられてきたのだ。
これはとても素敵なことなのだと繰り返されて、それが生活の中にずっとあって、当たり前になっていった。
もしも逆に、「殿方同士が愛を語り合うなんてとんでもない!」と言われ続け、そんな本が世の中に溢れていたらどうだろう。
そんな世の中でも愛し合う男性同士は必ず生まれるだろうが、公には言いにくくなるに違いなかったし、爺のように「自分は普通ではないので、隠さないと」となる者も多いに違いなかった。
それは良い意味でも悪い意味でもそうで、要するにラーシャ姫や『騎士王』のイメージ戦略と大差ない――コルトリッセン家が王家の忠臣として子供を躾けるのと変わらない。
アーサー王がクレイをエリック第二王子の従者にして、裏切らないように手懐けさせたのと変わらない。
刷り込みだ。
価値観を「これは普通です」と叩き込んで、染めてしまうのだ。
(当たり前って、怖いんだ。おひさまが僕たちのまわりをまわっているよと言われて育ったらそれが当たり前になる。僕たちがおひさまのまわりをまわっているよと言われて育ったらそれが当たり前になる)
ゆっくりと啜った杯の中身は甘い果実の味がする。
(僕たちは、思い悩む人を助けることもできるし、何かの罪に対する意識を薄く変じさせて罪をそそのかしたり、それが罪ではないって世論を作ることだってできてしまうかもしれないのだ。それって、それって――とっても怖いことなんだな。よくよく考えてしないといけないことなんだな)
――美しく舞う妹を遠く見て、クレイはそう思うのだった。
「伯は……」
ふと、寄り添う気配が穏やかに佳声を響かせる。
――『騎士王』だ。
騎士兜の内側から青年の声が発せられると、周囲の緊張が高まった。中には、殺気めいた不穏な気をのぼらせる者もいる。
以前、この成り上がりの青年は紅薔薇勢の輪の中から彼らのクレイを抱き上げ、「『お前らのラーシャ』はもう俺が頂いたのだ、爺どもは黙ってろ」とのたまって文字通り掻っ攫っていったのだ。
「伯は、クレイ殿下にとって大切なお方。もしよければ後日、フェアグリンの黄金の果実を届けさせましょう。妖精界に成る特別な果実にて、滋養があるのはもちろん、不老長寿の効能までうたわれる貴重なものでございますぞ」
いつぞやと違い、友好的で紳士的な申し出に、紅薔薇勢は毒気を抜かれたように目を瞬かせた。
「かような貴重な果実を頂けるとは、有難く光栄なことでございます。きいているだけで寿命も延びるというもの、ほっほ……」
メルギン伯が有難いと微笑んで二人が握手を交わす――それは小さな奇跡の象徴のようで、視ていた者はこの時『騎士王』が紅薔薇勢の同志であることを理解するのだった。
「我らには、もうひとつ共通点がありますね。主がいる――等しく仰ぐ、大切な方がいるのです」
それを語れるのが嬉しいのだと誰もが感じ取れる声がそう言って、傍らの『主』の隣に膝をつく。
「紅薔薇とは、騎士のよう。そう、ひとりの神聖不可侵なお姫さまに対する騎士の集まり――ミンネだ。これこそ騎士のミンネといえるわけだ」
ほんの小さな呟きは、独り言なのだろう。
クレイはニュクスフォスの呟きをかろうじて聞き取り、ちょっとだけ眉を寄せた。
――こいつ、僕を『神聖不可侵なお姫さま』と定めて、気持ちよくなっている……。
「皆様は俺がご主君を穢すのではとさぞご心配でありましょうが、ここに『騎士王』は改めて誓いましょう」
しかも、調子に乗って何か誓おうとするではないか。
クレイはムッと声を出して、それを邪魔した。
「穢すって、なあに。僕には理解しかねる発言である」
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「それは、ええと」
肉体的にあれをこうしたら穢す、そんなことを言いたいが言ってよいものかという気配が『騎士王』からのぼると、クレイは馬鹿らしくなってしまった。
「いや、僕は何を仰りたいかは理解しているのですよ、『騎士王』陛下。僕はその価値観が理解しかねると申しているだけで」
声は、ひどく冷めてきこえた。
内心ではぐつぐつと煮えた想いが沸騰するようだったが。
「旧い時代ならともかく、呪術も医学も発展して性交渉での病のリスクも予防できて治癒も可能で、これから『子作りのための縁談と政略結婚は美徳ではない』という価値観を広めようというのに、貴方たちは『肉体がつながると穢れる』と囀るの。好まぬ者に無理に行為をされれば心に傷を負うこともあろうが、公に伴侶となるのが認められている好む者と致すことで何が汚れるというの――肉体? 魂? 名誉? 処女崇拝の気でもあるのか。そもそも僕は女でもなく、処女膜もなければ婚姻前に交渉して孕む恐れもないが――婚姻後に孕もうとしても孕めぬが」
「は、孕……そのようなご発言、公に大声で。殿下、殿下、なりませぬ、なりませぬぞ……!」
『騎士王』がおろおろとして動揺しているのが、なんだかおもしろかった。
紅薔薇勢の中には信じられないと言った顔をしたり、口から泡を吹いて倒れる者までいた。
「まあ、お兄様」
そこに涼やかで可憐な声が届く。
異母妹のユージェニーだ。
ダンスを終えて兄に会いに来たらしい。
居並ぶ者は助けを求めるように其方を見て――、
「そのおっしゃりようだと、お兄様は『致す側』ではなく『致される側』なのですね、やっとはっきりわかりましたわ」
とんでもない再会の挨拶を平然と言い放つ姿に、皆一様に絶句した。
そして言われた『お兄様』――クレイ本人はというと、衝撃を受けたような顔で真っ赤になって固まっていた。
クレイはこの時、異母妹の言葉に初めて自分が挿入される側――男女で言えば『女の側』だと思っているのだと、自覚したのであった。
「い、いや、違うよユージェニー。……兄さんは彼が『穢す』というから、その言葉から処女を連想したんだ。それだけの話に過ぎないよ……兄さん、そんなつもりで言ったわけではなかった……」
取り繕うように言う言葉が動揺に揺れていて、羞恥が湧きあがって止まらない。
――今果たして自分はどんな顔をしているのか。
両手で顔を覆い隠して逃げ出したくなる。
けれど、ユージェニーを追うようにしてエリック第二王子が姿を現して「クレイは何をしているんだ?」ととても懐かしい温度で言うものだから、そんな風に逃げることもできなくなってしまうのだった。
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