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4章、差別と極夜の偶像崇拝
48、死にたいなんて言うな/僕はお家のために子供をつくる道具としての生から解放されるのだ
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クレイが居室で目覚めた時、寝台の傍にはいつものようにニュクスフォスの気配があって、さりさりと慎ましい音を奏でて黄金の果実の皮をナイフで剥いているところだった。
――体はすっかり楽になっている。
自分の調子を確かめるようにクレイが身を起こせば、ニュクスフォスの紅色の瞳が小さな奇跡を見つけたみたいに嬉しそうに瞬いて、当たり前の温度感で手を伸ばしてくる。
「熱は治まったようですね」
安心する体温であたたかに優しく頭を撫でられれば、胸の奥がぽかぽかとして、日常の気配が素朴な幸せを感じさせてくれるのだった。
48、死にたいなんて言うな/僕はお家のために子供をつくる道具としての生から解放されるのだ
黄金の果実を勧められて口に入れれば、しゃりっとした歯応えがして目が覚めるような甘くて爽やかな味がする。
ずっと眠っていた体に果実のフレッシュな水気がスーッと浸透していくようで、心地よい。
不思議な果実はフェアグリンに頼んで獲ってきてもらっているらしく、どこに生えているのかもわからない貴重なものだ。
それを自分のために用意してもらって、手ずから皮を剥いてもらったのだ。
ゆえに、クレイにはそれが単なる栄養とか味以上の付加価値をもつように感じられて、大切に頂かねばならぬと思えてならない。
(しかし、それを考えるなら普段の食事とてそうではない? 僕はよく食べるのが億劫だとか気が進まないとか我儘を申していたけれど、普段の料理も食材と調理の手間がかかったありがたいものなのだ……今度から態度を改めないといけないな)
甘味をかみしめながら、クレイは神妙にそう思うのだった。
「クレイ様、先に湯浴みをなさいますか? その後で消化に良い食事を用意させて」
世話をするのが嬉しくてたまらない、といった声でニュクスフォスが提案するので、日常を濃く感じ取りながらクレイは頷いた。
浴場に行けば、当たり前のように抱えられて洗われる。
(ニュクスはラクーンみたいだな……綺麗好きだし)
せっせと洗う行為に没頭する青年を視ていると、ふと違和感をおぼえてクレイは指をさした。
「ニュクス、ここに切り傷があるよ……こっちにも」
白い泡がぽふりと髪に乗せられる。
首元に赤く走った浅い傷をじーっと視ていると、冗談めかしたニュクスフォスの声が「いやいや、それがうっかり果物を切っているときに手を滑らせて」などと主張する。
「それは、ある意味器用だね……」
どう手を滑らせればそうなるというのか――「それで、本当は?」若干拗ねた口調で言うのは、自分の知らないところで何かが起きたのだろうと肌で感じ取り、かつそれを教えてもらえないのかという不満から。
拗ねた気配を察したのか、ニュクスフォスは機嫌を取り結ぶようにしながら教えてくれる――都市にランゲ一族がやってきて暴れていたという話を。
「奴らめ、せっかく殿下がご温情ある処分をなされたというのに、けしからんけしからん。それで『めっ』ってしたわけです」
嘆かわしいとばかりに眉を寄せる青年の体をチラチラと検分すれば、あちらこちらに小さな傷がたくさんあるではないか。
「今回は身代金をたっぷり請求いたしましょう! 前回の倍はいただきませんと」
「身代金で許すんだね」
「やはり殿下の夜に殺伐とした処罰は似合わぬと思い……」
ニコニコと語る声が「被害が大きければ悩ましいところでしたが」と告げる。
「二度目ですし、金額を吊り上げても文句は言われますまい。なんと言っても、あちらから『フェーデ』と言い出したのですからな! いただいた身代金を復興資金に足せばよろしいかと!」
「被害は軽かったんだね? よかった」
髪が丁寧に梳かれるのが心地よい。お湯がかけられるたびに自分が清潔な生き物に生まれ変わっていくような感じがする。
(僕はみんなが大変だった間、ぬくぬくと寝ていたのだな……)
以前なら気にもしなかっただろうが、エインヘリアでの日々を経た現在のクレイには自分の『よかった』という言葉が軽くて薄っぺらい言葉に思えてならなかった。
微妙な顔になるクレイの耳には、安心させるように語るニュクスフォスの声がつづく。
「いや~、奇跡的に死者は出なくてですね、ほんとうによかったよかった! これもやはり殿下の夜のご加護というものですな! なっ!」
「僕は寝てるだけで何もできなかった……」
湯船に浸かりながらチラチラとニュクスフォスの傷を見ていれば、なんとも痛々しく思えて仕方ない。
(ランゲ一族……僕の騎士に傷を付けたこと、覚えておくぞ)
クレイはむすりとした。
「おお殿下、ご体調の優れぬ方がお休みになるのはなにより大切なこと、復調なさったのはとても喜ばしいことではありませんか」
そんなクレイに少しあたふたとして、ぱしゃりと湯をはねて褐色の腕が伸びる。
抱き抱えるようにされれば、湯船の中で密着する肌が意識されて、すこしだけ心臓の音が気になってしまう。
「僕は共同体の一員として貢献したかったのだ……」
クレイがぽつり溢す。
紅薔薇勢などを相手に「台本みたいな善いセリフ」を言うわけでもなく、こんな言葉を本心で語るなんて自分らしくないと思いながら。
――まるで平民のお子様みたいなことを言うではないか、僕ときたら。
不思議そうに顔を覗き込むニュクスフォスが『貢献?』と眉を寄せている。
「貴方が拾った『歩兵』や部族の者らが立派に都市を守っておりましたよ。彼らを褒めてあげるのが貴方様のお仕事ではありませんか。彼らのご主人様は貴方様なのですから、なんなら『お前らの手柄は僕の手柄、都市が守られたのは僕のおかげである』とふんぞり返って偉そうになさればよろしい」
うん、うん、と頷きながら、クレイは軽く目を逸らした。
自分の変化というものが、なんとなく恥ずかしく思えたのだ。
「最近気付いたのだけれど、手足を動かして協働するのが僕は結構好きなのだ。僕が生きていることが有益に思える――生きていても良いのだと思えるのだもの」
クレイがもじもじと語れば、「またそんなことを」と呟くニュクスフォスの声が小さな子供に言い含めるようだった。
「クレイ様、『有益に思える』とは何ですッ、まるで普段はそう思っておられぬような仰りよう! この地上の誰が貴方に『生きていてはダメなのだ』などと思わせてしまうのです? このニュクスが『めっ』して参りましょう。御身が生きておられるだけで、そこにはご自分が考えていらっしゃるよりもたくさんの意味があり、価値があり、周囲の歓びにつながるというものなのですぞ――」
「ああ、ニュクス。そういう話はしなくてもわかる……」
――ちょっと重たい話になってしまったではないか――そして、ニュクスフォスが恐ろしく真剣な顔をしているではないか。
クレイはおろおろとしながらも、まとまりのない考えの共有を続けた。
「けれど、他人がどうとかではなくて、結局僕が生きるという事象が良いものかどうかを感じるのは僕なのだ。わかる? 生きるより死んだ方が良いと思う気持ちというのは、理屈ではなく――」
やんわりと唇に指が押しつけられて、言葉が止められる。
「……」
じっと見つめる紅色の眼差しが切々とした想いをたたえていて、その熱に当てられたように頬を染めて、クレイは黙り込んだ。
「俺が」
暴君めいて上から支配するような声が、有無を言わせぬ強い意思を響かせる。
「俺が許しません。申し上げましょう、俺の許可なく死にたがってはなりませぬ、と」
それは絶対なのだと断言する声が、なんだかとても必死な感じなのが胸をきゅうきゅうと締め付けるようなのだ。
クレイはそっと俯いてはにかむようにした。
「それ、それは、僕がニュクスのものだからかな」
「その通り!」
わかっているではないか、というニュクスフォスの笑顔が熱っぽくほころんで、蕩けるような甘やかさとあたたかさを秘めた眼差しがまっすぐにクレイを見つめている。
濡れた熱い手が肩を上下にさすってから首をなぞり、頬をほわりと包みこむ。
悪戯を仕掛けるように唇が寄せられて、小鳥が啄むようにキスをされれば、『おまじない』が思い出されてクレイの口をついて出た。
「『僕はニュクスが大好き』」
「――それでよろしい!!」
満足げにニコニコと笑む顔がいかにも清らかで、クレイは首を傾げた。
「……でも、僕が頭の中で何を考えるかまでは、誰にもどうにもできない僕の自由だよ」
湯に浸ってふやふやとした指先を見つめていると、ひょいっと体が持ち上げられて湯船の外に連れ出される。
「ですから俺の殿下、俺はその自由を許さぬと申しているのですぞ」
大きなタオルで水分を拭われてナイトローブを着せられれば、まるでお人形さんになったような気分だった。
「どうやって? 僕に術をかけたりするの?」
「ああ、それもよいかもしれませんね!」
陽気な笑顔で開き直ったように返すニュクスフォスを見て、クレイは半眼になった。
「いいよ、今度かけてごらん。僕は毒には耐性はあるが、術には無防備だぞ」
「なんと。それはいけませんな。今度お守りをつくって贈りましょう」
「あと、僕は別に死にたがってるわけではなくて、ちょっと『これはこうだよね』と考えをこねてみただけなのだよ……」
言い訳するような自分の声が迷子のようで、少しみっともない。
実際、クレイは過去に何度か『自分は死んだ方が良いのでは』と考えたり、その考えを話したり、サクリファイスと評して自己犠牲の作戦を実行したりしたことがあるのだ。
ニュクスフォスがオスカーという名前の少年だった時にも、塔の上から落とせと命じたことがある。
――死にたがりと言われれば確かに、と返すしかないのが自分なのだ。
「僕は申したではないか、僕が生きていることが有益に思えて、生きていても良いのだと思えたのだと。だから、その……今死にたがってはいない」
そおっと様子を窺うと、安心した様子の気配が感じられた。
「なら、結構です……、しかし、『貢献しないと生きていてはいけない』という考えはよくありませんぞ」
「うん、うん」
これは終わらせた方が良い話だ、と思ったクレイはニュクスフォスの手から逃れて棚に寄り、そこにあった青い陶器の傷薬を取った。
「ニュクス、傷薬を塗ってあげるよ」
――僕はされるだけのお人形さんではないぞ。
ポタポタと水滴をしたたらせながら言えば、ふわふわのタオルで頭が包まれる。
「その前に御髪を……」
「先にお薬だよ」
髪を拭われながらクレイが傷薬の軟膏をすくった指先をニュクスフォスの傷へと順番に塗っていく。
「ちいさな傷も舐めてはいけないのだよ、病のもとなのだ……」
時折くすぐったそうに目を細めて眉を寄せるニュクスフォスの表情が妖艶だ。クレイは色香に当てられたように頬を染めて、それを隠すように顔を俯かせた。
「それに、お前は綺麗なのだから、傷を作るのがもったいないよ……」
「傷は勲章と申しますぞ」
無邪気な声が楽しげで、クレイは安堵した。
「ちなみに俺は綺麗という言葉は貴方に贈りたいと思うのですが」
優しい声がうっとりとした風情で連ねられる。
「月の満ち欠けするに似て、湖畔が月明かりと涼風に多彩な表情を見せるがごとく、ミルヒを落として混ぜかけの紅茶の色めいて、その複雑で繊細なお心の有り様や、げに美しいものなり……」
片手が持ち上げられて手の甲に恭しく口付けをする青年の顔は、いかにも『俺は騎士なんですよ!』と誇るよう。
クレイはくすくすと笑って、その白頭を撫でてやった。
「まるで物語に出てくるお姫様と騎士のよう……」
「ええ、ええ!」
――それがやりたいのだというように、嬉しそうな笑みが咲いている。
(高いミンネ、だったか……)
クレイはちょっともじもじとした。
「高いミンネは、嫁ぐ予定のある姫君と騎士や、夫君のいる夫人と騎士が道ならぬ恋をして惹かれ合いながらも『私たちは触れ合ってはいけない』と耐え忍ぶ愛なのだったかな」
――正直、好みではあるが。
クレイは頷いた。
(結ばれぬ定め……我慢する想い人たち……いとおかし)
「まあ、まあそんな感じでしょうかな……あとは、貴き方が試練をお与えになり、騎士が期待に応えることで愛を示すというものもございますぞっ」
ニュクスフォスがきらきらとした目で語っている。
「道ならぬ恋に耐え忍ぶのは女性が好みそうなお話で、試練を与えられて応えるのは男性が好みそうなお話に思える……つまり、吟遊詩人がパトロンを喜ばせるために創作……」
クレイが考察を語れば、「そういう現実を話したいわけではない」といった残念そうな気配が立ち込める。
「……するものもあるけれど、過去に実際発覚したり、見てみぬふりをされた実例も多いね」
取り成すように言えば、ウンウンと頷く気配が素直だ。
(エンターテインメントだ。浪漫だ。そうだね、ニュクス。考察ではなくて、「これいいよね」って話したいんだね。僕は理解するぞ、その気持ちを)
好む話ではしゃぐ少年のような声が微笑ましい。
クレイはほんわかとした。
――けれど、けれど。
クレイはちょっとだけ意地悪に問いかけた。
「それで、僕は誰に嫁ぐ予定があるの? 僕の夫君は誰かなぁ……」
「えっ」
いかにも「わかんないなぁ……」って顔で上目遣いに見上げれば、そこにはちょっとびっくりしたような、ショックを受けたような顔がある。
「伝記物語の騎士の中には、さらわれたお姫様を助けて結ばれたものもあったよね。彼はその後、お姫様を娶って王様になったのだったか。王様にはお世継ぎができて王家の歴史は続いたけれど、お世継ぎはどこから生まれたのだろう」
おっとりと首を傾ければ、雨垂れめいて声が返る様子が頼りない。
「そりゃあ、王様とお妃様が……」
「うん、うん」
――もっとも、僕はお姫様と違ってお世継ぎは作れないけどね。
クレイは少しだけ胸が痛むのを感じつつ、「お腹がすいたね」と話を切り替えて食事に誘うのだった。
婚姻した者同士が肉体的に繋がるのは子供をつくるためだ。
と、いうよりも、貴族や王族の男子も女子も、生まれながらにお家のため子供をつくる道具みたいなものだ。
家の存続、血統の継承のためにその存在はある。
それを当然と思い、義務を果たすよう教育される。
(けれど、僕はその道具としての生き方から解放されようとしているのだ)
ふとそんな考えが湧くと、まるで背中に羽が生えたようだった。
(……君が僕を自由にしてくれるというのだ。将来、もし婚約破棄されずに本当に結婚できたなら、その時僕は『コルトリッセン家の子供をつくるために育てられた道具』ではなくなるのだ)
伝統あるコルトリッセン家の歴史を思えば、それは凄まじい背徳感を覚えさせる義務の放棄であったが、不思議なことに一方でクレイは素晴らしく胸がスッとする心地がするのだった。
(王位継承の対抗王族を忠臣の血で封じてきたコルトリッセン――義務に病んだ汚らわしい血統を、どろどろした歴史を僕が終わらせてやるんだ。これは封じられてきた敗者王族たちの復讐といえよう)
「配下が数日で参りますから、引き継ぎをして城に帰りましょう」
食事の後、メルシムに世話を言いつけて部屋を出ていくニュクスフォスの足音がひたひたと響く。
向かう先には、捕縛されたランゲ一族がいる。
「やあやあ諸君! ご機嫌いかがかな、単に縛られていても暇だろうし、明日は都市の復興を手伝ってもらおうかな! お手伝いできる人~、はーいっ?」
ふざけた調子で問いかけるニュクスフォスに、敵意と殺意の視線が集中する。
「……殺せ!」
手勢と共に縄で縛られたイヴァンが屈辱で唇を震わせながら苦々しく叫んだ。
短く吐き捨てるような声は、つい先ほど何度目かになる主君の死にたがりの気に接したばかりのニュクスフォスの心にストレートに刺さり、反発の気勢を誘った。
「――死にたいなんて、言うな!!」
反射の速度で放たれた怒号にイヴァンもその配下も息を呑み、一瞬で人が変わったような真剣な青年の顔をまじまじと見つめたのだった。
――体はすっかり楽になっている。
自分の調子を確かめるようにクレイが身を起こせば、ニュクスフォスの紅色の瞳が小さな奇跡を見つけたみたいに嬉しそうに瞬いて、当たり前の温度感で手を伸ばしてくる。
「熱は治まったようですね」
安心する体温であたたかに優しく頭を撫でられれば、胸の奥がぽかぽかとして、日常の気配が素朴な幸せを感じさせてくれるのだった。
48、死にたいなんて言うな/僕はお家のために子供をつくる道具としての生から解放されるのだ
黄金の果実を勧められて口に入れれば、しゃりっとした歯応えがして目が覚めるような甘くて爽やかな味がする。
ずっと眠っていた体に果実のフレッシュな水気がスーッと浸透していくようで、心地よい。
不思議な果実はフェアグリンに頼んで獲ってきてもらっているらしく、どこに生えているのかもわからない貴重なものだ。
それを自分のために用意してもらって、手ずから皮を剥いてもらったのだ。
ゆえに、クレイにはそれが単なる栄養とか味以上の付加価値をもつように感じられて、大切に頂かねばならぬと思えてならない。
(しかし、それを考えるなら普段の食事とてそうではない? 僕はよく食べるのが億劫だとか気が進まないとか我儘を申していたけれど、普段の料理も食材と調理の手間がかかったありがたいものなのだ……今度から態度を改めないといけないな)
甘味をかみしめながら、クレイは神妙にそう思うのだった。
「クレイ様、先に湯浴みをなさいますか? その後で消化に良い食事を用意させて」
世話をするのが嬉しくてたまらない、といった声でニュクスフォスが提案するので、日常を濃く感じ取りながらクレイは頷いた。
浴場に行けば、当たり前のように抱えられて洗われる。
(ニュクスはラクーンみたいだな……綺麗好きだし)
せっせと洗う行為に没頭する青年を視ていると、ふと違和感をおぼえてクレイは指をさした。
「ニュクス、ここに切り傷があるよ……こっちにも」
白い泡がぽふりと髪に乗せられる。
首元に赤く走った浅い傷をじーっと視ていると、冗談めかしたニュクスフォスの声が「いやいや、それがうっかり果物を切っているときに手を滑らせて」などと主張する。
「それは、ある意味器用だね……」
どう手を滑らせればそうなるというのか――「それで、本当は?」若干拗ねた口調で言うのは、自分の知らないところで何かが起きたのだろうと肌で感じ取り、かつそれを教えてもらえないのかという不満から。
拗ねた気配を察したのか、ニュクスフォスは機嫌を取り結ぶようにしながら教えてくれる――都市にランゲ一族がやってきて暴れていたという話を。
「奴らめ、せっかく殿下がご温情ある処分をなされたというのに、けしからんけしからん。それで『めっ』ってしたわけです」
嘆かわしいとばかりに眉を寄せる青年の体をチラチラと検分すれば、あちらこちらに小さな傷がたくさんあるではないか。
「今回は身代金をたっぷり請求いたしましょう! 前回の倍はいただきませんと」
「身代金で許すんだね」
「やはり殿下の夜に殺伐とした処罰は似合わぬと思い……」
ニコニコと語る声が「被害が大きければ悩ましいところでしたが」と告げる。
「二度目ですし、金額を吊り上げても文句は言われますまい。なんと言っても、あちらから『フェーデ』と言い出したのですからな! いただいた身代金を復興資金に足せばよろしいかと!」
「被害は軽かったんだね? よかった」
髪が丁寧に梳かれるのが心地よい。お湯がかけられるたびに自分が清潔な生き物に生まれ変わっていくような感じがする。
(僕はみんなが大変だった間、ぬくぬくと寝ていたのだな……)
以前なら気にもしなかっただろうが、エインヘリアでの日々を経た現在のクレイには自分の『よかった』という言葉が軽くて薄っぺらい言葉に思えてならなかった。
微妙な顔になるクレイの耳には、安心させるように語るニュクスフォスの声がつづく。
「いや~、奇跡的に死者は出なくてですね、ほんとうによかったよかった! これもやはり殿下の夜のご加護というものですな! なっ!」
「僕は寝てるだけで何もできなかった……」
湯船に浸かりながらチラチラとニュクスフォスの傷を見ていれば、なんとも痛々しく思えて仕方ない。
(ランゲ一族……僕の騎士に傷を付けたこと、覚えておくぞ)
クレイはむすりとした。
「おお殿下、ご体調の優れぬ方がお休みになるのはなにより大切なこと、復調なさったのはとても喜ばしいことではありませんか」
そんなクレイに少しあたふたとして、ぱしゃりと湯をはねて褐色の腕が伸びる。
抱き抱えるようにされれば、湯船の中で密着する肌が意識されて、すこしだけ心臓の音が気になってしまう。
「僕は共同体の一員として貢献したかったのだ……」
クレイがぽつり溢す。
紅薔薇勢などを相手に「台本みたいな善いセリフ」を言うわけでもなく、こんな言葉を本心で語るなんて自分らしくないと思いながら。
――まるで平民のお子様みたいなことを言うではないか、僕ときたら。
不思議そうに顔を覗き込むニュクスフォスが『貢献?』と眉を寄せている。
「貴方が拾った『歩兵』や部族の者らが立派に都市を守っておりましたよ。彼らを褒めてあげるのが貴方様のお仕事ではありませんか。彼らのご主人様は貴方様なのですから、なんなら『お前らの手柄は僕の手柄、都市が守られたのは僕のおかげである』とふんぞり返って偉そうになさればよろしい」
うん、うん、と頷きながら、クレイは軽く目を逸らした。
自分の変化というものが、なんとなく恥ずかしく思えたのだ。
「最近気付いたのだけれど、手足を動かして協働するのが僕は結構好きなのだ。僕が生きていることが有益に思える――生きていても良いのだと思えるのだもの」
クレイがもじもじと語れば、「またそんなことを」と呟くニュクスフォスの声が小さな子供に言い含めるようだった。
「クレイ様、『有益に思える』とは何ですッ、まるで普段はそう思っておられぬような仰りよう! この地上の誰が貴方に『生きていてはダメなのだ』などと思わせてしまうのです? このニュクスが『めっ』して参りましょう。御身が生きておられるだけで、そこにはご自分が考えていらっしゃるよりもたくさんの意味があり、価値があり、周囲の歓びにつながるというものなのですぞ――」
「ああ、ニュクス。そういう話はしなくてもわかる……」
――ちょっと重たい話になってしまったではないか――そして、ニュクスフォスが恐ろしく真剣な顔をしているではないか。
クレイはおろおろとしながらも、まとまりのない考えの共有を続けた。
「けれど、他人がどうとかではなくて、結局僕が生きるという事象が良いものかどうかを感じるのは僕なのだ。わかる? 生きるより死んだ方が良いと思う気持ちというのは、理屈ではなく――」
やんわりと唇に指が押しつけられて、言葉が止められる。
「……」
じっと見つめる紅色の眼差しが切々とした想いをたたえていて、その熱に当てられたように頬を染めて、クレイは黙り込んだ。
「俺が」
暴君めいて上から支配するような声が、有無を言わせぬ強い意思を響かせる。
「俺が許しません。申し上げましょう、俺の許可なく死にたがってはなりませぬ、と」
それは絶対なのだと断言する声が、なんだかとても必死な感じなのが胸をきゅうきゅうと締め付けるようなのだ。
クレイはそっと俯いてはにかむようにした。
「それ、それは、僕がニュクスのものだからかな」
「その通り!」
わかっているではないか、というニュクスフォスの笑顔が熱っぽくほころんで、蕩けるような甘やかさとあたたかさを秘めた眼差しがまっすぐにクレイを見つめている。
濡れた熱い手が肩を上下にさすってから首をなぞり、頬をほわりと包みこむ。
悪戯を仕掛けるように唇が寄せられて、小鳥が啄むようにキスをされれば、『おまじない』が思い出されてクレイの口をついて出た。
「『僕はニュクスが大好き』」
「――それでよろしい!!」
満足げにニコニコと笑む顔がいかにも清らかで、クレイは首を傾げた。
「……でも、僕が頭の中で何を考えるかまでは、誰にもどうにもできない僕の自由だよ」
湯に浸ってふやふやとした指先を見つめていると、ひょいっと体が持ち上げられて湯船の外に連れ出される。
「ですから俺の殿下、俺はその自由を許さぬと申しているのですぞ」
大きなタオルで水分を拭われてナイトローブを着せられれば、まるでお人形さんになったような気分だった。
「どうやって? 僕に術をかけたりするの?」
「ああ、それもよいかもしれませんね!」
陽気な笑顔で開き直ったように返すニュクスフォスを見て、クレイは半眼になった。
「いいよ、今度かけてごらん。僕は毒には耐性はあるが、術には無防備だぞ」
「なんと。それはいけませんな。今度お守りをつくって贈りましょう」
「あと、僕は別に死にたがってるわけではなくて、ちょっと『これはこうだよね』と考えをこねてみただけなのだよ……」
言い訳するような自分の声が迷子のようで、少しみっともない。
実際、クレイは過去に何度か『自分は死んだ方が良いのでは』と考えたり、その考えを話したり、サクリファイスと評して自己犠牲の作戦を実行したりしたことがあるのだ。
ニュクスフォスがオスカーという名前の少年だった時にも、塔の上から落とせと命じたことがある。
――死にたがりと言われれば確かに、と返すしかないのが自分なのだ。
「僕は申したではないか、僕が生きていることが有益に思えて、生きていても良いのだと思えたのだと。だから、その……今死にたがってはいない」
そおっと様子を窺うと、安心した様子の気配が感じられた。
「なら、結構です……、しかし、『貢献しないと生きていてはいけない』という考えはよくありませんぞ」
「うん、うん」
これは終わらせた方が良い話だ、と思ったクレイはニュクスフォスの手から逃れて棚に寄り、そこにあった青い陶器の傷薬を取った。
「ニュクス、傷薬を塗ってあげるよ」
――僕はされるだけのお人形さんではないぞ。
ポタポタと水滴をしたたらせながら言えば、ふわふわのタオルで頭が包まれる。
「その前に御髪を……」
「先にお薬だよ」
髪を拭われながらクレイが傷薬の軟膏をすくった指先をニュクスフォスの傷へと順番に塗っていく。
「ちいさな傷も舐めてはいけないのだよ、病のもとなのだ……」
時折くすぐったそうに目を細めて眉を寄せるニュクスフォスの表情が妖艶だ。クレイは色香に当てられたように頬を染めて、それを隠すように顔を俯かせた。
「それに、お前は綺麗なのだから、傷を作るのがもったいないよ……」
「傷は勲章と申しますぞ」
無邪気な声が楽しげで、クレイは安堵した。
「ちなみに俺は綺麗という言葉は貴方に贈りたいと思うのですが」
優しい声がうっとりとした風情で連ねられる。
「月の満ち欠けするに似て、湖畔が月明かりと涼風に多彩な表情を見せるがごとく、ミルヒを落として混ぜかけの紅茶の色めいて、その複雑で繊細なお心の有り様や、げに美しいものなり……」
片手が持ち上げられて手の甲に恭しく口付けをする青年の顔は、いかにも『俺は騎士なんですよ!』と誇るよう。
クレイはくすくすと笑って、その白頭を撫でてやった。
「まるで物語に出てくるお姫様と騎士のよう……」
「ええ、ええ!」
――それがやりたいのだというように、嬉しそうな笑みが咲いている。
(高いミンネ、だったか……)
クレイはちょっともじもじとした。
「高いミンネは、嫁ぐ予定のある姫君と騎士や、夫君のいる夫人と騎士が道ならぬ恋をして惹かれ合いながらも『私たちは触れ合ってはいけない』と耐え忍ぶ愛なのだったかな」
――正直、好みではあるが。
クレイは頷いた。
(結ばれぬ定め……我慢する想い人たち……いとおかし)
「まあ、まあそんな感じでしょうかな……あとは、貴き方が試練をお与えになり、騎士が期待に応えることで愛を示すというものもございますぞっ」
ニュクスフォスがきらきらとした目で語っている。
「道ならぬ恋に耐え忍ぶのは女性が好みそうなお話で、試練を与えられて応えるのは男性が好みそうなお話に思える……つまり、吟遊詩人がパトロンを喜ばせるために創作……」
クレイが考察を語れば、「そういう現実を話したいわけではない」といった残念そうな気配が立ち込める。
「……するものもあるけれど、過去に実際発覚したり、見てみぬふりをされた実例も多いね」
取り成すように言えば、ウンウンと頷く気配が素直だ。
(エンターテインメントだ。浪漫だ。そうだね、ニュクス。考察ではなくて、「これいいよね」って話したいんだね。僕は理解するぞ、その気持ちを)
好む話ではしゃぐ少年のような声が微笑ましい。
クレイはほんわかとした。
――けれど、けれど。
クレイはちょっとだけ意地悪に問いかけた。
「それで、僕は誰に嫁ぐ予定があるの? 僕の夫君は誰かなぁ……」
「えっ」
いかにも「わかんないなぁ……」って顔で上目遣いに見上げれば、そこにはちょっとびっくりしたような、ショックを受けたような顔がある。
「伝記物語の騎士の中には、さらわれたお姫様を助けて結ばれたものもあったよね。彼はその後、お姫様を娶って王様になったのだったか。王様にはお世継ぎができて王家の歴史は続いたけれど、お世継ぎはどこから生まれたのだろう」
おっとりと首を傾ければ、雨垂れめいて声が返る様子が頼りない。
「そりゃあ、王様とお妃様が……」
「うん、うん」
――もっとも、僕はお姫様と違ってお世継ぎは作れないけどね。
クレイは少しだけ胸が痛むのを感じつつ、「お腹がすいたね」と話を切り替えて食事に誘うのだった。
婚姻した者同士が肉体的に繋がるのは子供をつくるためだ。
と、いうよりも、貴族や王族の男子も女子も、生まれながらにお家のため子供をつくる道具みたいなものだ。
家の存続、血統の継承のためにその存在はある。
それを当然と思い、義務を果たすよう教育される。
(けれど、僕はその道具としての生き方から解放されようとしているのだ)
ふとそんな考えが湧くと、まるで背中に羽が生えたようだった。
(……君が僕を自由にしてくれるというのだ。将来、もし婚約破棄されずに本当に結婚できたなら、その時僕は『コルトリッセン家の子供をつくるために育てられた道具』ではなくなるのだ)
伝統あるコルトリッセン家の歴史を思えば、それは凄まじい背徳感を覚えさせる義務の放棄であったが、不思議なことに一方でクレイは素晴らしく胸がスッとする心地がするのだった。
(王位継承の対抗王族を忠臣の血で封じてきたコルトリッセン――義務に病んだ汚らわしい血統を、どろどろした歴史を僕が終わらせてやるんだ。これは封じられてきた敗者王族たちの復讐といえよう)
「配下が数日で参りますから、引き継ぎをして城に帰りましょう」
食事の後、メルシムに世話を言いつけて部屋を出ていくニュクスフォスの足音がひたひたと響く。
向かう先には、捕縛されたランゲ一族がいる。
「やあやあ諸君! ご機嫌いかがかな、単に縛られていても暇だろうし、明日は都市の復興を手伝ってもらおうかな! お手伝いできる人~、はーいっ?」
ふざけた調子で問いかけるニュクスフォスに、敵意と殺意の視線が集中する。
「……殺せ!」
手勢と共に縄で縛られたイヴァンが屈辱で唇を震わせながら苦々しく叫んだ。
短く吐き捨てるような声は、つい先ほど何度目かになる主君の死にたがりの気に接したばかりのニュクスフォスの心にストレートに刺さり、反発の気勢を誘った。
「――死にたいなんて、言うな!!」
反射の速度で放たれた怒号にイヴァンもその配下も息を呑み、一瞬で人が変わったような真剣な青年の顔をまじまじと見つめたのだった。
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