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2章、汝、善良であれ
18、人はマントで溺れることができる生き物である
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舞台上は眩い光で照らされて、かわりに観席は薄暗くなって、没入感を高められていく。
雪のようにまっしろな肌、凍てる白銀の髪はしゃらりと流れて、清楚なドレスを纏ったラーシャ姫がうたっている。
ラーシャ譲りといわれる紫の瞳を若干緊張させながら、クレイは見慣れた劇をはらはらと眺めた。
いつ妙な筋書きに転じるか、と――けれど、劇は『いつも通り』展開するようだった。
可憐で、はかなげで、純真――メルギン伯好みの、いちばんポピュラーでスタンダードな『ラーシャ姫』だ。
18、人はマントで溺れることができる生き物である
(僕が『ほんとうに』劇中の母によく似たお姫様だったら、どんな人生になったのだろう)
架空の偶像を愛する者たちは、もっと喜んだだろうか。
(僕ってやつは、本当にむかしから嘘ばかり。ついにはこんな格好までしてしまいましたよ、お母さま)
けれど、母とて、ほんとうは劇みたいなお姫様ではなかったのだろう?
皆に好まれる振る舞いがうまいだけだったのだろう?
一点の曇りもない純真無垢で高貴で利発なお姫様なんて、劇の中くらいじゃないと、そういないんじゃないだろうか――そんな風に言い訳をして、日の光溢れる輝かしい世界を影から見つめる自分は、なんだかさもしい生き物に思えてならなかった。
クレイがぼんやりとしていると、何かアピールするように目の前の料理の皿が並べ替えられる。
(食べろと言いたいのだな、僕には伝わっているよ)
しかし、元々ものを食べるのがあまり好きではないほうなのだ。しかも、今はちょっと劇が終わるまで心配で落ち着かない気分でもある……、
視線を落とすと、果実入りの白い冷菓がスプーンですくわれて、口元に運ばれた。
隣で機嫌よくラーシャ姫を楽しんでいるニュクスフォスだ。
無言の瞳は薄暗闇のなかでも綺麗で、感情をゆたかに伝えてくる。
普段からとはいえ、あまり食べないのを案じているのだろう。
「……」
クレイが薄く唇をひらけば、スプーンの先が隙間に差し込まれるみたいにされる。
舌先でぺろりと舐めれば、爽やかな甘さが感じられて、すこしだけ奥にスプーンが進んでくる。
一応、押し付けすぎないように気を使っていると感じる控えめな動きなのだが、中身がとろりとしたフロヨーなだけに押し込まれた拍子に唇についたり、口の端から零れそうなのがとても気になる。
しかし、舐めようにもスプーンが邪魔なのだ……。
(これ、逆に食べにくいのでは……なんか、困る……)
思わず手を伸ばしてスプーンを掴めば、青年の手が離れて、『食べるのだろうか』と見守られるような気配が感じられる。
スプーンを自分で動かしてもう一口食べてみせれば、ハンカチで口元が拭われた。
謎の達成感みたいなものを湛えたニュクスフォスの微笑みが薄暗い中でもはっきりとわかる。
(この者は、世話好きである……)
クレイが視線を舞台に戻せば、大きな手で髪が撫で撫でされる。
そして、長く伸びた髪をひと房、手に取って『これはなんで長いのだろう』といった眼差しで見つめてから、おそるおそる元に戻してまた撫でるのだ。
舞台のラーシャ姫が儚く可憐にうたっている。
『夜になにを恐れたらよいでしょう?』
『鐵の矛を? 人の悪意を? この孤独を? それとも、この心が消えてなくなる無を恐れたらよい?』
(ほら、名シーンじゃないか……舞台が良いかんじだよ)
台本はまともなようで、劇が進めば進むほどクレイの緊張もほどけていく。
『この星々の輝く宝石箱のような天の、なんと美しいことか。けれど、手をどれだけ伸ばそうと全く届かない冷たさがあるのです。ならば、それを恐れましょうか』
お母さまの声にスプーンを置けば、隣で布が擦れるような音が忍びやかに空気をふるわせて、ふわりと何かがクレイの身を包む。
(おや、これは……これは……)
マントだ。
『騎士王』がいつもの鎧姿に靡かせている紫色のゆったりしたマントに、とてもよく似ている気がする。
(えっ、ほんもの? これ、『騎士王』のマント?)
クレイは目を瞬かせて、内側に包まれた手でそろそろと生地に触れた。厚みもあり、傷もあり、裏になにか呪式が刻まれているような手触りもあって、なんだかとてもそれっぽい。
なにせ、隣にいて『これ』で身を包んでくれたのは本物の『騎士王』なわけだし――、
(わあ、わあ。僕、『騎士王』のマントにくるまってる! なにか術が施されているぞ。なんだろう。これを真似して呪術師のローブを改良したり、僕の『歩兵』にマントをあげたらどうだろう!)
好奇心が胸のうちにふわふわと咲いて、探求心がとまらない。
ちらりと視たニュクスフォスは串焼きを頬張り、舞台に視線を注いでいる――
音を立てないように気を付けて、クレイはそろそろとマントの中に頭を潜り込ませた。
上からすっぽりとかぶって全身を潜り込ませてみれば、まるで外部からシャットアウトされた秘密の空間といった感じ。
まるで、ここだけ別空間、異世界のよう! これはもしかして、夢の中なのかもしれない。
真っ暗で、完全にプライベートな感じで、あたたかくて、もそもそと指でさぐる裏生地は触り心地がよくて、良いにおいがするのだ。
(これは、『騎士王』のにおい! わあ、わあ。僕は、これが好き……!)
ふわふわと微笑んで、こそこそと探る。
束の間の冒険は外の世界を忘れさせてくれて、とても楽しかった。
(わあ、ここは少し擦り切れてるね。装着したときにはどのへんなのだろう。装着したときの上側はどのあたりで、下側はどのあたりかなぁ? あと、ちょっと熱くて息苦しくなってきたかもしれない。まるで、生き埋めになったみたい! まるで、溺れかけているみたい! すごいぞ、僕はきっと世界でただひとり、『騎士王』のマントに埋まって溺れるという体験をしているわけだ……『騎士王』の香りに包まれて……!)
「……レイ様、クレイ様……」
――僕はもしかしたら『騎士王』のマントで死ねるかもしれぬ。
すごい、誰もが驚く死因になるぞ!
全身がぽかぽかする。
頭が朦朧として――とても、気持ちがいい……っ! この死に方は、なんて面白くて平和で幸せなのだろう!
しばらく秘密の空間で溺れる感覚を楽しんでいると、外側からずるりとマントが剥がされて、クレイは剥がれた勢いに引っ張られるようにして、ころんと仰向けに転がった。
「――クレイ!」
焦ったような必死なニュクスフォスの声が、現実を伝える。
夢からさめたような心地で呼吸を繰り返せば、新鮮な外気が周囲に感じられて、空気がとても美味しく感じられた。
仰向けに転がったクレイが上を視ると、見慣れた青年が両手でマントを持ち上げて、『たった今、信じられないものをみた』といった顔でいる……。
「い、……っ、今、……!?」
そんな事態が有り得るのか、とおののくようなニュクスフォスの唇が音をつむいで、つづく言葉に詰まっている。
もしかしたらうつらうつらと夢でも見ているのかと思ったが、この様子だと夢ではなかったらしい――クレイはゆったりと瞬きをして、深呼吸した。
「ありがとう、ニュクス。僕は今、世にも珍しい死因にて歴史に名を残すところであった……すなわち、『マントによる溺死』と」
「お、俺のマントで、息を詰まらせて……」
「うん、うん。僕は布に埋もれるのがすこし得意なものだから」
「そ、そんな特技……」
暗闇にもわかる蒼褪めた顔で、ニュクスフォスがマントを広げたり振ったりして「これでどうやって溺れたんだ、わ、わからん……!!」と呟いている。
ちらりと向けられた視線が「この生き物はかような布切れで包んだだけで死ぬほど軟弱なのか」といった感情を浮かべていた。
(驚いたかニュクス。だが、それだけで驚いていては甘いのだよ。僕は中で……ちょっと気持ちよくなっていた……)
――また黒歴史が増えてしまった。
「ごめんね」
無の境地で淡々と謝れば、マントを置いて抱き起してくれるニュクスフォスからは、本気で心配する気配がありありと伝わってくる。
「いえ、いえ。俺の想定が甘かったようで。なんかごそごそしてるとは思ったのですが、溺れているとは思わずにお助けするのが遅くなりました。申し訳ない」
「普通、溺れているとは思わぬだろうから、気にしなくてもよい」
ちらりとマントに視線を向ける。
「ちなみに僕は、あれを気に入った」
できれば返して欲しい……そう言って切望する眼差しを向ければ、ニュクスフォスは耳を疑うようだった。
「失礼、どうも俺の耳が不調なようで。もう一度母国語でお願いできますかな」
「僕は最初から母国語で喋っていたよ。『僕は、あれを気に入ったので、返して欲しい』……」
「ウェアュクト!」
マントがサッと遠ざけられる。
「それは、スラングですね陛下。僕、意味も知ってる」
(ああ、僕の秘密の空間……)
あんな体験、他のマントを使っても、二度とできない。『騎士王』のマントは世界にただひとつなのだもの――
耳には割れるような拍手と喝采がきこえてくる。
劇が幕をおろしたのだ。
(ああ、せっかくの観劇の楽しさを台無しにしてしまったかもしれない)
切なく瞳を揺らすクレイの額に手を当て、腕をとって脈をはかり、するすると人差し指で何かを紡ぐ仕草をみせたニュクスフォスが帰城を宣言した。
「すこし発熱の徴候もおありですし、帰ってお医者さまに診てもらいましょう」
――それは発熱というか『あったまってる』症状じゃないだろうか。
クレイはホカホカとしながら、個室の後片付けに加わるテオドールを視た。
(例の奴隷は、やっぱりだめだった?)
視線で問えば、申し訳なさそうな顔が結果を物語るようだった。
(さもありなん。歩兵が持っていくための建前がないもの。正直に「ほしいから譲れ」と言ったほうがよかった)
ニュクスフォスに運ばれて馬車に押し込まれる瞬間に、クレイは思い出した。
「あ……僕は、あっちにあったお店でお買い物をしたいのです」
おっとりとスローペースに紡がれる言葉を辛抱つよく聞いて、ニュクスフォスが眉を跳ね上げる。
ご機嫌が悪い――察しつつ、クレイは粘った。
「僕は、寄り道をすこしだけ、おねだりしたい」
「欲しいものがあるなら買いに行かせましょう。何が欲しいのか仰い」
ご機嫌が悪い――メイドのマナがここにいれば「これはダメですね」と言うこと間違いなしだ。
(うーん……)
クレイは迷った。
(どうなのだろう。僕、『君のたいせつな思い出のイベントと同じようなイベントをしたいの』って言っていいんだろうか)
――自分だったらどうだろう。
それを思うと、よくわからなくなるのだ。
もちろん、自分と目の前の青年は別の人間で、こころの在り様もまったく、ぜんぜん、違っていて、同じ感覚で考えてはいけないのだろうけど。
「……やっぱり、いいや」
諦めて笑うと、懐かしい感じがした。
クレイは諦めが早い生き物なのだ。
「ん……? い、いいんですかな? ……なんぞ、欲しいのがあるんでしょう?」
視線を逸らして大人しく黙り込むと、その様子に傍らの気配がひどく狼狽えて、機嫌を取り結ぶよう。
「お父さまと買いにいきましょうか? クレイ? すぐそこなのでしょう? 参りましょうか? お店はどこにあるんです……」
馬車の戸をあけて外に連れ出してくれる気配に、クレイは目を瞬かせた。
(なんか、お考えが変わったらしい)
よくわからないが、買いにいけるなら買っちゃったらいいんじゃないだろうか。
――人生は一度きり、好機を逃してはいけない――
クレイは目をかがやかせ、お店の方角を指さした。
「あっちです、あっち。僕、自分で歩いて行けます、お父さま!」
関係性が若干迷子になりつつも、『お父さま』の手を引いて祭りを歩く感覚はとても楽しくて、嬉しくて、クレイはすっかり舞い上がってしまうのだった。
雪のようにまっしろな肌、凍てる白銀の髪はしゃらりと流れて、清楚なドレスを纏ったラーシャ姫がうたっている。
ラーシャ譲りといわれる紫の瞳を若干緊張させながら、クレイは見慣れた劇をはらはらと眺めた。
いつ妙な筋書きに転じるか、と――けれど、劇は『いつも通り』展開するようだった。
可憐で、はかなげで、純真――メルギン伯好みの、いちばんポピュラーでスタンダードな『ラーシャ姫』だ。
18、人はマントで溺れることができる生き物である
(僕が『ほんとうに』劇中の母によく似たお姫様だったら、どんな人生になったのだろう)
架空の偶像を愛する者たちは、もっと喜んだだろうか。
(僕ってやつは、本当にむかしから嘘ばかり。ついにはこんな格好までしてしまいましたよ、お母さま)
けれど、母とて、ほんとうは劇みたいなお姫様ではなかったのだろう?
皆に好まれる振る舞いがうまいだけだったのだろう?
一点の曇りもない純真無垢で高貴で利発なお姫様なんて、劇の中くらいじゃないと、そういないんじゃないだろうか――そんな風に言い訳をして、日の光溢れる輝かしい世界を影から見つめる自分は、なんだかさもしい生き物に思えてならなかった。
クレイがぼんやりとしていると、何かアピールするように目の前の料理の皿が並べ替えられる。
(食べろと言いたいのだな、僕には伝わっているよ)
しかし、元々ものを食べるのがあまり好きではないほうなのだ。しかも、今はちょっと劇が終わるまで心配で落ち着かない気分でもある……、
視線を落とすと、果実入りの白い冷菓がスプーンですくわれて、口元に運ばれた。
隣で機嫌よくラーシャ姫を楽しんでいるニュクスフォスだ。
無言の瞳は薄暗闇のなかでも綺麗で、感情をゆたかに伝えてくる。
普段からとはいえ、あまり食べないのを案じているのだろう。
「……」
クレイが薄く唇をひらけば、スプーンの先が隙間に差し込まれるみたいにされる。
舌先でぺろりと舐めれば、爽やかな甘さが感じられて、すこしだけ奥にスプーンが進んでくる。
一応、押し付けすぎないように気を使っていると感じる控えめな動きなのだが、中身がとろりとしたフロヨーなだけに押し込まれた拍子に唇についたり、口の端から零れそうなのがとても気になる。
しかし、舐めようにもスプーンが邪魔なのだ……。
(これ、逆に食べにくいのでは……なんか、困る……)
思わず手を伸ばしてスプーンを掴めば、青年の手が離れて、『食べるのだろうか』と見守られるような気配が感じられる。
スプーンを自分で動かしてもう一口食べてみせれば、ハンカチで口元が拭われた。
謎の達成感みたいなものを湛えたニュクスフォスの微笑みが薄暗い中でもはっきりとわかる。
(この者は、世話好きである……)
クレイが視線を舞台に戻せば、大きな手で髪が撫で撫でされる。
そして、長く伸びた髪をひと房、手に取って『これはなんで長いのだろう』といった眼差しで見つめてから、おそるおそる元に戻してまた撫でるのだ。
舞台のラーシャ姫が儚く可憐にうたっている。
『夜になにを恐れたらよいでしょう?』
『鐵の矛を? 人の悪意を? この孤独を? それとも、この心が消えてなくなる無を恐れたらよい?』
(ほら、名シーンじゃないか……舞台が良いかんじだよ)
台本はまともなようで、劇が進めば進むほどクレイの緊張もほどけていく。
『この星々の輝く宝石箱のような天の、なんと美しいことか。けれど、手をどれだけ伸ばそうと全く届かない冷たさがあるのです。ならば、それを恐れましょうか』
お母さまの声にスプーンを置けば、隣で布が擦れるような音が忍びやかに空気をふるわせて、ふわりと何かがクレイの身を包む。
(おや、これは……これは……)
マントだ。
『騎士王』がいつもの鎧姿に靡かせている紫色のゆったりしたマントに、とてもよく似ている気がする。
(えっ、ほんもの? これ、『騎士王』のマント?)
クレイは目を瞬かせて、内側に包まれた手でそろそろと生地に触れた。厚みもあり、傷もあり、裏になにか呪式が刻まれているような手触りもあって、なんだかとてもそれっぽい。
なにせ、隣にいて『これ』で身を包んでくれたのは本物の『騎士王』なわけだし――、
(わあ、わあ。僕、『騎士王』のマントにくるまってる! なにか術が施されているぞ。なんだろう。これを真似して呪術師のローブを改良したり、僕の『歩兵』にマントをあげたらどうだろう!)
好奇心が胸のうちにふわふわと咲いて、探求心がとまらない。
ちらりと視たニュクスフォスは串焼きを頬張り、舞台に視線を注いでいる――
音を立てないように気を付けて、クレイはそろそろとマントの中に頭を潜り込ませた。
上からすっぽりとかぶって全身を潜り込ませてみれば、まるで外部からシャットアウトされた秘密の空間といった感じ。
まるで、ここだけ別空間、異世界のよう! これはもしかして、夢の中なのかもしれない。
真っ暗で、完全にプライベートな感じで、あたたかくて、もそもそと指でさぐる裏生地は触り心地がよくて、良いにおいがするのだ。
(これは、『騎士王』のにおい! わあ、わあ。僕は、これが好き……!)
ふわふわと微笑んで、こそこそと探る。
束の間の冒険は外の世界を忘れさせてくれて、とても楽しかった。
(わあ、ここは少し擦り切れてるね。装着したときにはどのへんなのだろう。装着したときの上側はどのあたりで、下側はどのあたりかなぁ? あと、ちょっと熱くて息苦しくなってきたかもしれない。まるで、生き埋めになったみたい! まるで、溺れかけているみたい! すごいぞ、僕はきっと世界でただひとり、『騎士王』のマントに埋まって溺れるという体験をしているわけだ……『騎士王』の香りに包まれて……!)
「……レイ様、クレイ様……」
――僕はもしかしたら『騎士王』のマントで死ねるかもしれぬ。
すごい、誰もが驚く死因になるぞ!
全身がぽかぽかする。
頭が朦朧として――とても、気持ちがいい……っ! この死に方は、なんて面白くて平和で幸せなのだろう!
しばらく秘密の空間で溺れる感覚を楽しんでいると、外側からずるりとマントが剥がされて、クレイは剥がれた勢いに引っ張られるようにして、ころんと仰向けに転がった。
「――クレイ!」
焦ったような必死なニュクスフォスの声が、現実を伝える。
夢からさめたような心地で呼吸を繰り返せば、新鮮な外気が周囲に感じられて、空気がとても美味しく感じられた。
仰向けに転がったクレイが上を視ると、見慣れた青年が両手でマントを持ち上げて、『たった今、信じられないものをみた』といった顔でいる……。
「い、……っ、今、……!?」
そんな事態が有り得るのか、とおののくようなニュクスフォスの唇が音をつむいで、つづく言葉に詰まっている。
もしかしたらうつらうつらと夢でも見ているのかと思ったが、この様子だと夢ではなかったらしい――クレイはゆったりと瞬きをして、深呼吸した。
「ありがとう、ニュクス。僕は今、世にも珍しい死因にて歴史に名を残すところであった……すなわち、『マントによる溺死』と」
「お、俺のマントで、息を詰まらせて……」
「うん、うん。僕は布に埋もれるのがすこし得意なものだから」
「そ、そんな特技……」
暗闇にもわかる蒼褪めた顔で、ニュクスフォスがマントを広げたり振ったりして「これでどうやって溺れたんだ、わ、わからん……!!」と呟いている。
ちらりと向けられた視線が「この生き物はかような布切れで包んだだけで死ぬほど軟弱なのか」といった感情を浮かべていた。
(驚いたかニュクス。だが、それだけで驚いていては甘いのだよ。僕は中で……ちょっと気持ちよくなっていた……)
――また黒歴史が増えてしまった。
「ごめんね」
無の境地で淡々と謝れば、マントを置いて抱き起してくれるニュクスフォスからは、本気で心配する気配がありありと伝わってくる。
「いえ、いえ。俺の想定が甘かったようで。なんかごそごそしてるとは思ったのですが、溺れているとは思わずにお助けするのが遅くなりました。申し訳ない」
「普通、溺れているとは思わぬだろうから、気にしなくてもよい」
ちらりとマントに視線を向ける。
「ちなみに僕は、あれを気に入った」
できれば返して欲しい……そう言って切望する眼差しを向ければ、ニュクスフォスは耳を疑うようだった。
「失礼、どうも俺の耳が不調なようで。もう一度母国語でお願いできますかな」
「僕は最初から母国語で喋っていたよ。『僕は、あれを気に入ったので、返して欲しい』……」
「ウェアュクト!」
マントがサッと遠ざけられる。
「それは、スラングですね陛下。僕、意味も知ってる」
(ああ、僕の秘密の空間……)
あんな体験、他のマントを使っても、二度とできない。『騎士王』のマントは世界にただひとつなのだもの――
耳には割れるような拍手と喝采がきこえてくる。
劇が幕をおろしたのだ。
(ああ、せっかくの観劇の楽しさを台無しにしてしまったかもしれない)
切なく瞳を揺らすクレイの額に手を当て、腕をとって脈をはかり、するすると人差し指で何かを紡ぐ仕草をみせたニュクスフォスが帰城を宣言した。
「すこし発熱の徴候もおありですし、帰ってお医者さまに診てもらいましょう」
――それは発熱というか『あったまってる』症状じゃないだろうか。
クレイはホカホカとしながら、個室の後片付けに加わるテオドールを視た。
(例の奴隷は、やっぱりだめだった?)
視線で問えば、申し訳なさそうな顔が結果を物語るようだった。
(さもありなん。歩兵が持っていくための建前がないもの。正直に「ほしいから譲れ」と言ったほうがよかった)
ニュクスフォスに運ばれて馬車に押し込まれる瞬間に、クレイは思い出した。
「あ……僕は、あっちにあったお店でお買い物をしたいのです」
おっとりとスローペースに紡がれる言葉を辛抱つよく聞いて、ニュクスフォスが眉を跳ね上げる。
ご機嫌が悪い――察しつつ、クレイは粘った。
「僕は、寄り道をすこしだけ、おねだりしたい」
「欲しいものがあるなら買いに行かせましょう。何が欲しいのか仰い」
ご機嫌が悪い――メイドのマナがここにいれば「これはダメですね」と言うこと間違いなしだ。
(うーん……)
クレイは迷った。
(どうなのだろう。僕、『君のたいせつな思い出のイベントと同じようなイベントをしたいの』って言っていいんだろうか)
――自分だったらどうだろう。
それを思うと、よくわからなくなるのだ。
もちろん、自分と目の前の青年は別の人間で、こころの在り様もまったく、ぜんぜん、違っていて、同じ感覚で考えてはいけないのだろうけど。
「……やっぱり、いいや」
諦めて笑うと、懐かしい感じがした。
クレイは諦めが早い生き物なのだ。
「ん……? い、いいんですかな? ……なんぞ、欲しいのがあるんでしょう?」
視線を逸らして大人しく黙り込むと、その様子に傍らの気配がひどく狼狽えて、機嫌を取り結ぶよう。
「お父さまと買いにいきましょうか? クレイ? すぐそこなのでしょう? 参りましょうか? お店はどこにあるんです……」
馬車の戸をあけて外に連れ出してくれる気配に、クレイは目を瞬かせた。
(なんか、お考えが変わったらしい)
よくわからないが、買いにいけるなら買っちゃったらいいんじゃないだろうか。
――人生は一度きり、好機を逃してはいけない――
クレイは目をかがやかせ、お店の方角を指さした。
「あっちです、あっち。僕、自分で歩いて行けます、お父さま!」
関係性が若干迷子になりつつも、『お父さま』の手を引いて祭りを歩く感覚はとても楽しくて、嬉しくて、クレイはすっかり舞い上がってしまうのだった。
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