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1章、その一線がわからない

11、キャンディタフト、ふわふわしてるね

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 こころに傷がひとつもないにんげんって、いるのだろうか。
 苦しみを感じたことのないひとは、いるだろうか。
 なにかを誰かが正しいといって、また別の誰かが別の正しさを主張する。
 両方が仲よく正しくあればよいのに――

 
   11、キャンディタフト、ふわふわしてるね


 窓の外で夜の帝都がちいさな日常をみせている。
 
 クレイが夜景に思い出すのは、過去友人であるエリックと飛んだこの世界の誰もが想像もしないだろう都市風景。
 そこには四角く長細い箱みたいな建物が並んでいて、窓がびっしりと表面を覆って、ひとつひとつに誰かの人生があった。
 
 この部屋には、そこにあった空気がない。

(僕はその都市の子ではないと黒竜アスライトも妖精ティミオスも否定をしたけれど、僕の記憶には死ぬときの感覚がこびりついていて、お母さんの悲痛な声と顔が思い出せるのだ)

 けれど、けれど、お母さんに呼ばれた名前だけは全然、これっぽっちも思い出せないのだけど――。

 空気が震える気配がして、『白頭ニュクスフォス』が背後で膝をつくのが感じられた。
 片手を腰にまわして、片手で花を差し出して。端然とした風情で――視なくてもなんとなくそんな姿が思い浮かぶ自分が不思議だった。

 
 ああ、異母妹の声が蘇るのだ。脳裏に。

 『お兄様は、私と距離を取りつつ男の子でも攻略するといいです。ほっといても寄ってくる奴とか、落としやすいと思いますよ』

 『ほら、あのこっちを見てる白頭。ご覧になって――あれを攻略するのよ、お兄さま』
 
 『ゲームみたいなものですよ。お好きでしょう、ゲーム』

 『単なるゲームと割り切って遊んではいけないのですからね。相手は生身の人間だということは忘れてはいけませんよ』
  ――ああ、自分はどう返したのだったか。

 『僕は友人を喜ばせたり仲良くなるのが楽しい……喜んでもらえると嬉しくなるんだ』
 
 振り返って近付けば、『白頭』は夜だからだろうか、声量を控えめに、顔を伏せがちにして、ふわふわした様子で、口上をあげる――母方のお国の言葉アイザール語で。
 
「殿下は、夜更かしをお楽しみ中でしたかな? 俺は以前より思っていたものですが、昼夜問わずひたすら眠られる時と寝ないで活動なさる時の差が激しくていらっしゃる――やはり王国の月俺の殿下には夜がよく似合うとは思うのですが、『寝る子は育つ』と申しまして、生活リズムは規則正しく、たんとお休みになられたほうがすこやかなご成育につながるかと思うわけです。……ああ! もしや、俺を待っていらした!? さては、そうですね!? それはそれは申し訳ないッ、本日はちと仲間内ではしゃいでしまいましてな……」
 
 首をかしげて近く寄り、クレイは酒香に目を瞬かせた。
 
ふわふわしているフエウ・イニ……」

 アイザール語をつぶやけば、ふわふわと返される。

「フェーウィニ」
 発音を正されている――気が付いて、真似をする。

「……ふわふわしているフェーウィニ
よく出来ましたワフテヒウム」 

 珍しい生き物を鑑賞するように目の前にしゃがんでみせれば、『白頭』は整った顔立ちは伏せがちなまま、静寂の中でじっとしている。
 まるで、言いなりになってくれる大きな獣のよう。

 けれど、『ワフテヒウム』は『褒めてあげる』というちょっと上から目線な物言いで、実際のところこの『白頭』はクレイより立場は上なのだ。

「楽にせよ」
 少しアクセルの真似を意識して母国ファーリズ語で言えば、姿勢は変えずにそのままで流暢りゅうちょうな『母国ファーリズ語』が空気を震わせる。
 
「こちらの淡い紫の花は、太陽に恋焦がれ追いかけて咲く健気な花キャンディタフトにて、甘やかで可憐な薫りがいたします。内と外の花弁の不揃いさ、アンバランスなさまは周囲の関心を惹くものの、花自身は太陽に夢中でみずからに焦がれる男には気が付かぬ――花言葉は『甘い誘惑』に『心を惹きつける』と、まさにラーフルトンやフィニックスに夢中な貴方様に相応しい――」

「酔っている……」
「すこしだけ」

 花束を頂いて机に置けば、こころがさわさわした。
 この花のやり取りとて、自分が「花を贈るように」と言いつけたのが始まりだった。

『君は』ニュクス、いま、花を説明がてら僕を責めた?」

「いえいえ、そんなことはございませんとも! 何かに夢中な御心おこころようや美しく、たかる悪い虫に対して無防備なその危うさや実に庇護欲を誘う愛らしさ、男子たるものはそんな高嶺のお花を振り向かせるため一心に追いかけるのが大好き! 騎士はそんな不埒者から花をお守り致すことに対して、実にやりがいを感じるのです、と。そして太陽を見上げて咲く可憐で甘やかなアプローチといったら、たいそう太陽を蕩けさせてならぬ……ああ、そうそう。このチケットはラーシャ姫の歌劇のチケットなのですが、今度お忍びで観劇などいかがかと」

「よ、よ、酔っている……ふわふわしているフェーウィニ
「すこしだけ」
「すまない――今のは、何を言っているのかちょっとわからなかった。僕が思うに、陛下はおやすみになられた方がいいと思うの」
「俺も、眠いかもしれぬと思っておりまして」
「うん、うん」
 
 眉を寄せて腕を引っ張れば、素直に従ってくれるよう。
 そういえば、今宵は古妖精フェアグリンがおらぬのだ。
 
貴方陛下の妖精はどうしたの」

 ――僕に襲われても、知らないよ。
 ――僕が『覇者の指輪』が欲しいと言うのを恐れているくせに。

「どこかで遊んでおりますぞ!」
奔放ほんぽうだね」 
  
 寝台に誘えば、ふわふわと座ってくれるのだ。
 そして、そわそわとおねだりをするではないか。

「なにか忘れていませんかな? 俺はそんな気がしてならぬ。なにかほら、あるでしょう、ありませんかな、……ありますよね?」
 
 ――なんて可愛らしいのだろう。この『白頭』さん王さま――、
 
 ……僕は、初めて会う前から『この者の好みを知っていた』。異母妹が教えてくれたのだ。

 例えば、甘いものが苦手だとか。
 例えば、紫色が好きだとか。
 もっと言うなら、言うなら……『お淑やかで、雅やかで、上品で、か弱い風情で、……』そんないたいけでか弱いお姫さまっぽい女性を好むのだ、と。
 
(そして僕は、お姫さまでもないのに、異母妹にけしかけられるまま、倒錯的な振る舞いをしただろうか? すこしは、したかもしれない。だって、喜んでいた。僕はそれが嬉しかった気がする……)

 でも、どうだろう。
 わざと意識して『そうした』時も確かにあったけれど、普通に自然に友人として接していた、……そんな気もするのだ。

(ああ、フィニックス。僕はもうわからない――僕が誰かに優しくしたり、喜ばせるとき、それは真心からの自然な行いなのかしら。それとも、『そうすると相手が好意をもつから』という計算なのかしら。僕、もうわかんないんだ) 
 
 クレイはふわりと微笑んだ。
「僕の名前を呼んでくれたら、思い出すかも」
「クレイ」
 当たり前のように名前を呼ばれて、それが聞き取れて「自分の名前だ」と思える自分に安堵する。

「ありがとう、僕の可愛い王様キング。お誕生日おめでとう、僕の失った友達だった人ニュクスフォス。そして、おやすみなさい、僕の犠牲者ナイト

 言葉が返るのを塞ぐようにキスを落とせば、ニュクスフォスは神聖な洗礼でも受けるみたいに大人しくしている。


 ――『オスカーは』良いお兄さまなんだって、僕は知っているよ。自分で気にしてるような『悪い大人』ではなく、本来は本物のピュアなお姫さま相手に物語に出てくる騎士様、王子様みたいな恋愛をしたのではあるまいか。

(それを僕が惑わした)
 そんな思いがあるのだ。

 クレイは自分の心に歪みを自覚している。

 以前のクレイは、実父アクセルに『お前のせいで疑われている』と責められ、黒竜を呼ぶたびに沈黙が返される自分がつらくて、苦しかった。

 母ラーシャの代わりにクレイを神輿に担ぐ紅薔薇勢相手におままごとをするように子供ぶって、王様らしく振る舞って、暴走を止めたりけしかけたりして――そんな歪で面倒な立場が嫌で、心地よかった。

 祖父に貰った城でエリックの白竜を釣り、偽の王様と定めた自分を犠牲にするエンディングを描いたこともあって、その時クレイはうっとりとした。
 自己犠牲がとても美しく思えて、ならなかった。

 これから自分は死ぬぞと感じた瞬間は、解放されるようで、綺麗なエンディングが確定したみたいで、怖くて、すこし悲しくて、ショックで、最高だった。
 
 ――傷を負った歪な心を持て余す者は、自分を傷つけたり、周りを傷つけたりする傾向があるらしい。

 なら僕はアクセルに傷を受けて、異母妹に唆されて、目の前の男を遊び半分に壊してしまったのだろうか。

(オスカーは王族と騎士ごっこをしたいのだと思ったから、僕はオスカーをエリックにあげたんだ。――僕が王族じゃないと思ったから。僕たち、いっしょに臣下として、仲良く立派な王様エリックに仕えようっておもったんだ)
 

 クレイは『僕はこの騎士、いらないので』と言ったのだ。
 そうしたら、オスカーは国を出て行ってしまった。
 
 『騎士王』という正体不明の英雄になった彼にクレイは勝手に夢をみて、『お父さま』と呼んでしまった。
 それにより、元々面倒見がよくて、子どもに優しい『ヒーローオスカー』は心のどこかに『お父さま』というかせを付けられたのではないか。

(僕が知識を持った上でひとりで盛り上がっていた)
 そして、誘惑して、ポイっと捨てて、傷つけた。
 その上で自分を守ってくれた彼に『僕を守ってくれる人』という枷をつけた。

(僕は、オスカーという存在を歪めてしまった。名前を捨てることになった原因かもしれない。『騎士王』になった後も、悪影響を与えているかもしれない)
 
 そう思う気持ちがどこかにあるから、きっと呼んでも良いのだと思いつつも、その名前を呼びにくいのだ『オスカー』と呼びにくいのだ
 
「お……、」
 そろそろと音を舌にのせかけて、沈黙を呼ぶ。

(オスカー、オスカー。君は知っている? 僕が毒々しい生き物で、タチの悪い悲劇趣味で、紅薔薇勢をけしかけて遊んで、以前は異母妹と、今は実父とお前を攻略しようと相談しているのだと――知らないね? お前は、まるで自分が不埒で罪深いみたいに言うけれど、僕とて――僕の方がよほど、お前に対して罪深い! そうではない?)

 夜の暗闇を和らげる篝火かがりびめいた赤い瞳が、優しい温度をたたえている。

「……お?」
 すこし期待するみたいな色をちらちらさせて、待っている。

 いいんだ。
 いいと言っている。
 そんな気配なのだ。
 
「お、……」
 うんうん、と嬉しそうに頷いている。

「……」 
 もうなんか、『早く』って感じで待たれている。

「……『坊やオミニュ』!」
 ぽろりと思いついたアイザール語の単語が出て、目の前のふわふわした気配が戸惑いに染め替えられていく。
 自分自身もびっくりの迷チョイスだ――

(僕は……僕というやつは……)

「な、……? なんと?」
 さすがにリアクションに困っているらしき相手へと、クレイは紅薔薇勢相手にきたえた表情筋を動員しておっとりとした微笑みを浮かべた。

僕がラウ 子守唄をフェヌフェ うたってチャント あげるヒウム
 ――僕は音痴だぞ。覚悟するがよい……、

 有無をいわせず息を吸い、ちいさくゆっくりと歌い出す。
 有名な歌を、歌詞は適当に変えて、真心をこめて。
 
 ♪らーしゃひめは はらぐろで
 ♪ぷろぱがんだが だいとくい……
 ♪らーしゃひめは あざとくて
 ♪泣き真似が だいとくい……

「ちょっ、そ、そのお歌は俺の偶像アイドルを傷つけている……あと、音の外し方が絶妙である種の才能を感じてしまいますな――凡人には真似できぬ。これが天才か……」
 ショックを受けた顔がそう言って、酔いがめたように寝転がった。
 
「これが僕の真心がこもったお誕生日プレゼントです、陛下?」
「ありがとうございます、殿下……しかし、俺の偶像アイドルはこれくらいでは崩れませんよ」
「メンタルがつよい」

 隣にもそもそと収まれば、抱き枕の気持ちになる。

 クレイはこの体温を望んで手に入れたのだ。
 中央系の貴族の中には、『騎士王』が政略の意図で王甥を籠絡したとか、困っているところにつけ込んで手懐けたとか言う声もあるようだが。

(おもえば、普通の関係ってどんなのだろう。異常な関係ってどこからだろう。褒められる関わり方って、どんなのだろう。それがどう転じれば、眉をひそめられる関わり方になるのだろう)

 困っているところを助けたら良いひとになって、助けたあとで『好きだよ』と言ったら、『困っているところにつけ込んで手懐けた』と言われて悪いひとにされてしまうのか。
 
(褒められるような『好きだよ』と、いけませんといわれるような『好きだよ』は、どう違うのだろう)

 睫毛まつげを伏せて視界を閉ざしてゆるく微笑めば、夜の世界にひとの社会が遠くて近く、切っても切れない感覚で自分の中に根差しているのだ。

 きっとそれは自分の中に定規みたいなのがあって、結局は自分自身のこころが「それはいけない」と思うのだ。
 だから、相手が許してくれても、他の誰がそれでよいと言ってくれても、自分自身が『よい』と思わない限りは『よい』にはならないのだ。

 コルトリッセンの『決して王家を裏切らぬ忠臣であれ』という躾のように、そういった規範や道徳をり込むのが教育というものに違いない。

 国家や社会のため――全体のために。

 より望ましいお前であれ、他者の価値観にそぐうお前であれ、好まれるようであれ、褒められるようであれ。
 立派とはこんな状態で、美しいとはこんな有様で、優しいとはこのようで、ひととしての及第点はこのへんであるから、その線を下回ることなかれ。
 そんな風にして、たくさんの中の一部になる。

(だったら、だったら、僕はぜんぶを真っ白にして本当に清らかな記憶喪失にでもなって、誰も人間のいない心安らかな無人島ででも暮らせば、このこころは平和になるのだろうか?)

 フィニックス、フィニックス。
 僕はもう、わからない――けれど、僕をさらって逃げてくれるフィニックスも、もういない。
 
「俺と劇をみてくださいますね……」
 そっと問われる。
 面白いほどに親しい温度で、不思議なこの距離感で。
「妖精をいっしょに連れて行くなら、よい」

 そっと告げた言葉はきっと、妖精が好きだからだと思われることだろう。

(けれど、すまないね。僕は秘密にしているけれど、黒竜は空の国に行ったきりずっと帰ってきていないのだ――危ないことがあっても、僕はお前を守れないのだよ)

「――怪我をしないように」
 理由はそれなのだ、とそっと付け足せば、笑うような気配が返される。
「俺の殿下は臆病でいらっしゃる」

 髪をやわやわと撫でる手付きが保護者めいていて、恍惚とした風情で謡うではないか。 
 
「おお、殿下ユア・ハイネス――この『騎士王』の魔剣アルフィリオンには、いかな矛も敵いません。貴方様には最強のナイトがいるのです――まったく、何も恐れる必要などございませんとも」

(酔っている相手が襲ってくる本はあんなにあったのに、僕の現実はこれだよ)
 
 ――けれど、こんな夜ならば、それも悪くないと思ってしまうのだった。

「僕の『騎士王』は、頼もしいね」
 手をそろそろと伸ばして白髪を撫でれば、ニコニコと嬉しそうに微笑む顔が無邪気な少年めいていて、嬉しくなるのだ。

(そうだ。僕は……)
 本当は母と血が繋がっていないのではないかと思っていた頃、身元が不確かな浮浪者や奴隷や罪人を拾って、「よしよし」と撫でてやるのが好きだった。

 そうすると、気持ち良いのだ。
 自分が優しい生き物になったみたいで、彼らの上位者として優しくしてやっているという感覚があって、素敵な自分に酔いしれることができるのだ。 
 身元が不確かな自分、黒竜の加護があると偽る自分を「よしよし」と撫でているようで、慰められるのだ。

 僕が優しくしたのだから、世の中は僕に優しくして。
 僕が許したのだから、世の中は僕を許して。

(僕は、そんな生き物だったのかもしれない)
 
 他人とかかわると、自分では視えていなかった、気づかなかった自分を見つけたような気持ちになるときがある。

 それは少し楽しくて、面白くて、たまに哀しくて、恥ずかしくて、いたたまれなくなる残念な黒歴史だったりして――けれど、歩いてきた道を振り返ると、そこにのこる思い出という足跡は自分の現在を形成するいしずえになっていて、愛しさも感じるのだ。
 
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