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二章、未熟な聖杯と終末の予言
37、「オレと逃げないか?」
しおりを挟む呼気が穏やかで、とくんとくんと心臓の拍動が感じられる。呼吸に合わせて、幅のある肩が上下している。
――ノウファムが寝てる。眠っている……。
モイセスに不眠症の話を聞いていたから、僕はホッとした。ちゃんと睡眠を取れている――よかった。
「おーい、いつまで寝てるんだよぉ、二人して引っ付いてさ。オレが拗ねちまうぞ」
「ロザニイル、お兄様は疲れていらっしゃるんだよ……」
静かに、と目配せすると、ロザニイルは肩をすくめて黙ってくれた。
骨格ががっしりしている、と僕は思った。
もし今から同じくらい背が伸びても、僕はひょろりと縦に伸びるだけで、こんな風に逞しくはなれないだろう――、
寝乱れた夜着の首から胸元に覗く褐色の肌は無防備で、胸板が厚くて、男の色気みたいなものを感じさせるのが羨ましい。
「あ……」
首から下げた革紐のネックレスの先にあの指輪がぶら下がっているのに気づいて、僕の眼はそこから離せなくなった。
「どした、エーテル」
ロザニイルがベットに手をついて覗き込んでくる。
見せてはいけない、
奪われてはいけない……、
これは、僕のものにするんだ。
僕は何故かそんな気に駆られて、指輪に手を伸ばした。
「……」
指先がその硬質な輝きに触れそうになった時、がしりと手首が掴まれた。ギクっとして動きを止めると、ノウファムが目を開けて僕を見ていた。
「エ……、エーテル?」
とても驚いた様子の眼に、決まり悪さと後ろめたさがむくむくと湧いてくる。
「何びっくりしてんだノウファム、お前が抱っこしてたんだぞ」
ロザニイルが茶々を入れて掴まれた手を離させてくれる。ロザニイルには気付かれていないんだ、と僕は深呼吸をした。
ロザニイルは分からなかったんだ。
……今、僕が指輪を奪おうとしたのが、わからなかったんだ。
「寝込みを襲われた生娘みたいな顔するなよノウファム~」
「寝惚けてたんだ、すまん」
友人同士の温度感でやり取りする二人の声がぽんぽんと続いて、僕は謝る機会を逃してしまった。
――朝の挨拶を交わして、また1日が始まる。
「まだ時間があるから、ちょっと歩こうぜ」
「そういうことを言って出発の時間に遅れたりしそう」
「いいじゃんか。お前、一期一会って知ってる? 別の日に来ても、今日のカンタータの風景は二度と観れないんだぜ」
出立前にロザニイルと街道を散歩してみると、小鳥がぴいぴい囀りながら街路樹の梢枝に群れている。
朝が来たのに空は曇っていて、あたりは薄暗い。
足元は明るい色のタイルが整然と敷き詰められて人の歩きやすい道を作っていて、歩きやすい。
すれ違う都市民はみんな元は色白な肌の人種のようだけど、日に焼けて色黒な人が多かった。
「この地方では肌を焼くのがお洒落なのさ。色黒だとイケてるんだ。魔術師が日焼け魔術で小銭稼ぎしたりするんだぜ」
「じゃあ、僕たちはイケてないって思われてるんだね」
「違いない!」
ロザニイルはケタケタ笑って、屋台でクレープを買ってくれた。ラバナーヌにチョコレートクリームとヴァニラが香る真っ白生クリームがかけられていて、甘々だ。
生地はすごく薄くて、ぺらぺらしてる。柔らかいけど、端っこはちょっとカリカリした食感。
隣のお店に民族調の装飾品が並んでいるのをみて、僕はネイフェンを思い出しながらお土産を選んだ。
足元に落ちていた木の葉を巻き上げる風に誘われて顔をあげれば、雲の隙間から細く光が差し込んでいる。
なんだか神秘的で、絵画になりそうな空模様だ。
太陽の光がとても貴重なものに思える。
「……そろそろ戻らない?」
時間が気になりだして呟いた時、ロザニイルは僕の袖をくいっと掴んだ。
顔を見れば、緑色の瞳はなんだか重苦しい雰囲気で僕を見ていた。
薄い唇がひらいて、白い歯と赤い舌が目を引く――声が紡がれる。
「オレと逃げないか?」
――ロザニイルは、そう言った。
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