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第十七話 船上の剣 宮坂小吾郎
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赤坂宿の事は考えない様にしているのか、忘れることにしたのか、五人はそれまでの様に街道を行く。
まあそれは前田主水の能天気のおかげでもあるし、時が解決してくれることもある。
赤坂宿を出て、藤川宿、岡崎宿、池鯉鮒宿、鳴海宿と順調に進むとおかしな雰囲気も無くなり赤坂宿前の五人に戻ったようであった。見た目だけは。
次の目的地は宮宿。熱田宿と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
「それにしても京にだいぶ近づいてきたのに黒錦党と思われる輩は現れませんね」と永山宗之介が日影兵衛に言った。
「俺達の先に露払いがいるからな」
「何ですかそれは」
「そのうち会うこともあるだろう」と日影兵衛は説明するのが面倒なのか、お茶を濁した。
露払い、すなわち大村右近の事である。
日影兵衛達はかなりのんびりと進んでいるので、大村右近は彼らの前方にいることは間違いない。
「京に近づいてきた。そのうち奴らも現れて来るだろう。気を引き締めていかんとな」そう言って後ろを向くとすっかり観光気分の前田主水とりん、たけの姿が目に入った。
「まあ、このまま何事も起こらずに京に着けたらいいですね」と同じく後ろを向いた永山宗之介が言った。
実際のところ、前田主水以外の四人は京についてからの方が大問題であったのだが。
「さて、次の熱田宿なんだが、おりん、船に乗るぞ」
「舟」そう言うりんは舟が好きになっていた様である。
「なんか勘違いしているみたいだな。今度は海だ。七里の渡しという。小舟じゃ無いぞ。今切の渡しの舟より大きい」
「大きい……」りんは頭をひねって想像している。
「大きいは言い過ぎではないですか」と現実的な永山宗之介。
「だが、帆を張ったりするぞ」
「ほ……」
「……おりん、とりあえず実物を見ろ。話はそれからだ」聞かれても説明出来ない日影兵衛は投げっぱなした。
「おりん、とりあえず落ち着け」
日影兵衛は熱田宿に入るなり駆け出そうとしたりんの襟首を掴む。
「だからひとりでうろつくなと言っているであろう」
「ず、ずびばぜん」 引っ張られて着物に首を閉められたりんが喉元を抑えながら謝った。
五人が港の方へ向かうと、多くの船が停泊しているのが目に入った。
「ほんとに大きい」と感心するりん。しかしそれらの船は大きいというには乱暴過ぎた。今切りの渡しの小舟よりは大きいという程度である。
何艘かの船に帆を張った物があった。
「あの船についている布っきれみたいのが船の帆だ。風を利用して海を進む」と日影兵衛は指を指して教える。
「ほー……」とりんは声を出す。
「何だそれは。駄洒落か」
前田主水と永山宗之介、たけはふたりのやり取りを見て笑っている。
またふらふらと船によって行くりん。
「おりん、そっちじゃない。それは荷船だ。渡しは向こうだ」と日影兵衛はりんの手を取る。
「全くお前は童女か」そう言ってりんを引きずりながら渡し船の方へ向かった。
丁度良く客が乗り込み始めた渡し船を見つけた。商人が多いようで、荷物がそれなりに積まれていた。中には荷船で運びたくない物もあるのだろう。
日影兵衛はりんに、永山宗之介はたけに手を貸し船に乗り込む。
何故か前田主水は腰を引きながらそろそろと乗ってきた。
「何なのだ、お前は」
「海になど出たことが無い。深いではないか」
「……もしかして泳げぬのか」
「そ、そんな事は無い。無いのだぞ」
そう言いながら、前田主水はりんとたけの前に落ち着いた。かれらの後ろにも多くの旅人が乗っている。
客がいっぱいになったのか、合図と共に船が動き始めた。しばらくすると帆が張られる。いい風が吹いてきたのだろう。前田主水の前に座っていた日影兵衛と永山宗之介は風にあたりながらのんびりと辺りの風景を眺めている。
「歩かなくていいのは楽ですが、なんだか落ち着きませんね」と永山宗之介は日影兵衛に話しかけた。
「全くだ」と答えた日影兵衛は、振り返って前田主水を見る。
「前田の。まだ出たばかりだぞ。七里もあるのだ、少しは落ち着け」面倒くさいのがもうひとり増えたと言うように声をかける。
二里程進むと、今度はたけが声を上げた。
「おりんちゃん、おりんちゃんの様子が」と少し慌てた様に呼びかけてくる。
「……もしや」と言いつつ、日影兵衛は前田主水を避けてりんの元に向かった。りんは真っ青な顔をして口を手で抑えている。
「船酔いか。そんな気はしていたが」そう言うと、他の客に頼み込んでりんを船べりまで連れて行く。
「船の中で吐くなよ。おたけ、済まんが面倒を見てやってくれ」そう言いながらたけに場所を譲る。りんは船の外に頭を出して、たけに背中をさすってもらう。
「やれやれだ」そう呟きながら日影兵衛はもとの場所に戻った。そしてまた目を外に向ける。暫く船が進んでいくと、日影兵衛が立ち上がり「……おい船頭、あの船は何だ」と指差した。二艘の船がこちらへと向かってくる。
「あんな航路はないはずですが」と船頭が答えた。
その言葉を聞いて、永山宗之介も立ち上がった。ふたりは揺れる船の上だというのに苦もなく立っている。前田主水も立ち上がろうとしたが、尻もちをついてしまった。
二艘の船は迷い無く近づいてくる。
片方の船の舳先に腕を組んで立っている男が見えた。そして船の中には物騒な男達が乗り込んでいる。全員口元を黄色い布で覆っていた。
「船頭、こんな所に海賊が出るのか。それにこの船は荷船ではないぞ」
そう言う日影兵衛の言葉を聞いて幾人かの商人が叫んだ。「な、なんでこちらに載せたのがばれたのだ」
この船の中に相当値の張る貴重品を持ち込んでいたらしい。二艘の船は相手の顔がわかるほどに近づいてきた。
他に乗り合わせた侍も立ち上がったが、足元がおぼつかない。
「永山殿、結局俺達ふたりだけのようだ」
「仕方ありませんね。私は船首の方に行きます」
彼らはふた手に別れる。
そして日影兵衛は仁王立ちしている男に声をかけた。
「その口を隠した黄色い布、黒錦党の仲間か」
「何だお前、面白い奴だな。これから襲われるというのに質問か。こちらが乗り込むまで聞きたいことを答えてやろう。我らは黒錦党ではない。いや黒錦党であったが頭が謀ばかりで手ぬるいから奴らと別れた。黄錦党とでも呼べ」
「その黄錦党とやらは何人いる」
「そんな事を答える賊がいるか。お前は馬鹿か」
「ついでに聞く。お前の名は」
「これから死ぬのに名が知りたいのか。いいだろう。俺は宮坂小吾郎。海の頭だ」
その言葉と共に二艘の船から鉤縄が投げられ、船に横付けしようとし始めた。宮坂小吾郎と名乗った男は後ろに下がる。
「宮坂小吾郎か。大村右近の役に立つかな」日影兵衛はそう呟くと抜刀した。船が横付けになる前に幾人かの敵が乗り込んで来たのだ。
「ひ、日影殿、ここではあの技は使えんぞ。それなのに敵が多すぎる。いちいち相手にしていたら……」日影兵衛の後ろから前田主水の情けない声がした。
「あの技……『一の型、神足』のことか。まあここでは使えんが」
少しの動揺も見られない日影兵衛の声が聞こえた。
「い、一の型って」
それには答えずに、日影兵衛は一歩踏み出した。三人の敵が同時に襲い掛かってきたのだ。
それと同時に日影兵衛の上半身がぶれるように一瞬消えた。
何が起きたのか、三人の上半身がが海に落ち下半身がその場に崩れ落ちる。
「前田主水、死ぬ気でおりんとおたけ、その後ろの連中を守れ」そう言った日影兵衛は次の敵に目をやっている。
「名前で呼んだ……ただの肉塊になっても護り通す」前田主水はよろけながらも立ち上がった。
「しかし、今の技は」
「無影剣、二の型。残月」
その声とともにまたも日影兵衛の上半身が一瞬消え、敵が四人まとめてきり飛ばされた。
「ひとりの胴を切り飛ばすのでさえ難しいのに、一度に四人だと」前田主水は目を剥いた。
しかし、自分で編み出した技にいちいち名前をつける日影兵衛もお茶目である。格好いいと思った時期もあったのだろう。
永山宗之介は危なげも無く敵の刀をいなしつつ斬りつけると海に落としていく。
「船頭達に死なれても困ります」とさらっと言いのけた。
「それにこちらへ来てもらうのも困ります」
永山宗之介は次々と敵の刀をいなしながら斬りつけ海に落としていく。よくよく見ればどの敵も手や足、腹を切り裂かれ、死んではいないものの陸まで泳いで逃げることは無理だった。
「日影殿の様に必殺ではないが、効率よく倒すのもいいでしょう」と誰にとも無く言うと、自ら敵の船に飛び乗った。宮坂小吾郎の乗っていない方の船である。
「日影殿はあちらに用があるみたいですね。私はこちらにします」
などと言いつつ次々と敵を斬りつける。敵は海賊で船上の戦いに慣れているはずなのに、永山宗之介の歩みを止められない。
日影兵衛と永山宗之介の間合いから奇跡的に逃れた敵のふたりは人は他に乗り込んでいた侍達を斬り殺し、前田主水の方へ向かってきた。あのでかいのを倒して日影兵衛の背後を突こうと言う魂胆である。
「しまった、前田殿」という永山宗之介の声が聞こえた。
しかし前田主水はりんとたけ、その他の客を守る様に「むおおお」とばかりに気合をいれ、その敵ふたりに倒れ込むように刀を凪いだ。敵もろとも海に落ちる前田主水。
「ま、前田様」というりんとたけの叫び声が上がった。
水飛沫がふたつ上がる。
「主水、上出来だ」その敵ふたりを目で追っていた日影兵衛はそう言うと、宮坂小吾郎の乗る船に飛び移った。
「いやいや、弟子にしてもらう前に溺れ死んでる場合ではない」
そう言いながら、前田主水は船の縁から顔を出した。
彼は脇差しを船に叩き込み、海に落ちるのを防いでいたのである。日影兵衛とて前田主水を見捨てるほど無情ではない。前田主水の巨体が海に落ちなかったのを音で確認したのだ。もし身体のでかい前田主水が落ちていたら激しい水柱とともにこの船は大きく揺れていたに違いない。
前田主水は何とか登りきると、よろよろしながらもりんとたけの前にどっしりと立った。
「日影殿と永山殿が打ちもらすとは思えんが、護れと言われたからには護りきる」
前田主水も漢である。
日影兵衛の前には敵がひとりしかいなくなっていた。
残る敵は宮坂小吾郎のみである。
「まあ、塩風に晒された刀はいらんな」と言いながら自分の刀を捨て、そばに落ちていた海賊の刀を拾う。
捨てた刀はぴきんと折れた。
日影兵衛は何事も無かったかのように宮坂小吾郎に近づいて行く。
「何なのだ、お前らは」かろうじて声を出す宮坂小吾郎。
「橘遊侠の足元にも及ばぬな」と日影兵衛は言い捨てた。
「橘遊侠を知っているのか」
「橘遊侠は俺が倒した。それを知って満足したか」
日影兵衛の言葉に宮坂小吾郎は震え上がった。
「聞きたいことは山ほどあるが、海の上だ。面倒くさい。魚の餌にでもなれ」
日影兵衛の刀が一閃すると、宮坂小吾郎は海に落ちていった。
そこに「やはり私は未熟です」と永山宗之介の声がした。「なんだ永山殿、全部倒しているではないか」
「いやいや、これを見てください。また着替えを買わねばなりません」
永山宗之介は切り裂かれた着物を日影兵衛に広げて見せた。
そしてふたりは元の船に飛び移る。
「船頭、あの船二隻はどうする」と何事も無かったように日影兵衛。
誰もがお礼を言いたかったが、鬼神の様な日影兵衛と永山宗之介を見て声が出なかった。
「こんな所に沈める訳にも行かないですし。船頭さん、曳航できますか。港まで持って帰りましょう」
「そうだ、船頭。渡り終えたら海賊が出たと報告しろよ。俺は面倒くさい事に時間は裂きたくないのだ」
そう言う永山宗之介と日影兵衛に船頭は頭をがくがくして頷いた。
刀を持っていたばかりに斬り殺された侍達の他に犠牲者は出なかったのである。
「全くえらい目にあった」
何とか対岸についた船から日影兵衛は降りつつ言った。
「もう着替えを買うのは嫌ですよ」
少し情けない顔をした永山宗之介。
「ひ、日影殿、ちょ、ちょっと」と先程の気合はどうしたのか、またそろそろと船を降りてくる前田主水。
「主水、先程ので見込みがあるかと思ったが見当違いだったようだ」
「ひ、酷い」
その後に顔を真っ青にしながらも頑張ったりんと彼女を支えたおたけが降りてきた。
「う、海の船はもう勘弁してください」と弱々しい声を出すりん。
「いやあね。何度か乗れば慣れるわよ」とたけは何でもないかの様に言う。
りんは恨めしそうにたけを睨んだが、そのままふらふらとしゃがみこんでしまった。
「これは駄目だな。桑名宿で何日か休みを取ろう。船酔いの上に、海賊に襲われたのだからな」
まるで何も起きなかったというような顔をしながら、日影兵衛はりんに優しげな目を向けて言ったのだった。
まあそれは前田主水の能天気のおかげでもあるし、時が解決してくれることもある。
赤坂宿を出て、藤川宿、岡崎宿、池鯉鮒宿、鳴海宿と順調に進むとおかしな雰囲気も無くなり赤坂宿前の五人に戻ったようであった。見た目だけは。
次の目的地は宮宿。熱田宿と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
「それにしても京にだいぶ近づいてきたのに黒錦党と思われる輩は現れませんね」と永山宗之介が日影兵衛に言った。
「俺達の先に露払いがいるからな」
「何ですかそれは」
「そのうち会うこともあるだろう」と日影兵衛は説明するのが面倒なのか、お茶を濁した。
露払い、すなわち大村右近の事である。
日影兵衛達はかなりのんびりと進んでいるので、大村右近は彼らの前方にいることは間違いない。
「京に近づいてきた。そのうち奴らも現れて来るだろう。気を引き締めていかんとな」そう言って後ろを向くとすっかり観光気分の前田主水とりん、たけの姿が目に入った。
「まあ、このまま何事も起こらずに京に着けたらいいですね」と同じく後ろを向いた永山宗之介が言った。
実際のところ、前田主水以外の四人は京についてからの方が大問題であったのだが。
「さて、次の熱田宿なんだが、おりん、船に乗るぞ」
「舟」そう言うりんは舟が好きになっていた様である。
「なんか勘違いしているみたいだな。今度は海だ。七里の渡しという。小舟じゃ無いぞ。今切の渡しの舟より大きい」
「大きい……」りんは頭をひねって想像している。
「大きいは言い過ぎではないですか」と現実的な永山宗之介。
「だが、帆を張ったりするぞ」
「ほ……」
「……おりん、とりあえず実物を見ろ。話はそれからだ」聞かれても説明出来ない日影兵衛は投げっぱなした。
「おりん、とりあえず落ち着け」
日影兵衛は熱田宿に入るなり駆け出そうとしたりんの襟首を掴む。
「だからひとりでうろつくなと言っているであろう」
「ず、ずびばぜん」 引っ張られて着物に首を閉められたりんが喉元を抑えながら謝った。
五人が港の方へ向かうと、多くの船が停泊しているのが目に入った。
「ほんとに大きい」と感心するりん。しかしそれらの船は大きいというには乱暴過ぎた。今切りの渡しの小舟よりは大きいという程度である。
何艘かの船に帆を張った物があった。
「あの船についている布っきれみたいのが船の帆だ。風を利用して海を進む」と日影兵衛は指を指して教える。
「ほー……」とりんは声を出す。
「何だそれは。駄洒落か」
前田主水と永山宗之介、たけはふたりのやり取りを見て笑っている。
またふらふらと船によって行くりん。
「おりん、そっちじゃない。それは荷船だ。渡しは向こうだ」と日影兵衛はりんの手を取る。
「全くお前は童女か」そう言ってりんを引きずりながら渡し船の方へ向かった。
丁度良く客が乗り込み始めた渡し船を見つけた。商人が多いようで、荷物がそれなりに積まれていた。中には荷船で運びたくない物もあるのだろう。
日影兵衛はりんに、永山宗之介はたけに手を貸し船に乗り込む。
何故か前田主水は腰を引きながらそろそろと乗ってきた。
「何なのだ、お前は」
「海になど出たことが無い。深いではないか」
「……もしかして泳げぬのか」
「そ、そんな事は無い。無いのだぞ」
そう言いながら、前田主水はりんとたけの前に落ち着いた。かれらの後ろにも多くの旅人が乗っている。
客がいっぱいになったのか、合図と共に船が動き始めた。しばらくすると帆が張られる。いい風が吹いてきたのだろう。前田主水の前に座っていた日影兵衛と永山宗之介は風にあたりながらのんびりと辺りの風景を眺めている。
「歩かなくていいのは楽ですが、なんだか落ち着きませんね」と永山宗之介は日影兵衛に話しかけた。
「全くだ」と答えた日影兵衛は、振り返って前田主水を見る。
「前田の。まだ出たばかりだぞ。七里もあるのだ、少しは落ち着け」面倒くさいのがもうひとり増えたと言うように声をかける。
二里程進むと、今度はたけが声を上げた。
「おりんちゃん、おりんちゃんの様子が」と少し慌てた様に呼びかけてくる。
「……もしや」と言いつつ、日影兵衛は前田主水を避けてりんの元に向かった。りんは真っ青な顔をして口を手で抑えている。
「船酔いか。そんな気はしていたが」そう言うと、他の客に頼み込んでりんを船べりまで連れて行く。
「船の中で吐くなよ。おたけ、済まんが面倒を見てやってくれ」そう言いながらたけに場所を譲る。りんは船の外に頭を出して、たけに背中をさすってもらう。
「やれやれだ」そう呟きながら日影兵衛はもとの場所に戻った。そしてまた目を外に向ける。暫く船が進んでいくと、日影兵衛が立ち上がり「……おい船頭、あの船は何だ」と指差した。二艘の船がこちらへと向かってくる。
「あんな航路はないはずですが」と船頭が答えた。
その言葉を聞いて、永山宗之介も立ち上がった。ふたりは揺れる船の上だというのに苦もなく立っている。前田主水も立ち上がろうとしたが、尻もちをついてしまった。
二艘の船は迷い無く近づいてくる。
片方の船の舳先に腕を組んで立っている男が見えた。そして船の中には物騒な男達が乗り込んでいる。全員口元を黄色い布で覆っていた。
「船頭、こんな所に海賊が出るのか。それにこの船は荷船ではないぞ」
そう言う日影兵衛の言葉を聞いて幾人かの商人が叫んだ。「な、なんでこちらに載せたのがばれたのだ」
この船の中に相当値の張る貴重品を持ち込んでいたらしい。二艘の船は相手の顔がわかるほどに近づいてきた。
他に乗り合わせた侍も立ち上がったが、足元がおぼつかない。
「永山殿、結局俺達ふたりだけのようだ」
「仕方ありませんね。私は船首の方に行きます」
彼らはふた手に別れる。
そして日影兵衛は仁王立ちしている男に声をかけた。
「その口を隠した黄色い布、黒錦党の仲間か」
「何だお前、面白い奴だな。これから襲われるというのに質問か。こちらが乗り込むまで聞きたいことを答えてやろう。我らは黒錦党ではない。いや黒錦党であったが頭が謀ばかりで手ぬるいから奴らと別れた。黄錦党とでも呼べ」
「その黄錦党とやらは何人いる」
「そんな事を答える賊がいるか。お前は馬鹿か」
「ついでに聞く。お前の名は」
「これから死ぬのに名が知りたいのか。いいだろう。俺は宮坂小吾郎。海の頭だ」
その言葉と共に二艘の船から鉤縄が投げられ、船に横付けしようとし始めた。宮坂小吾郎と名乗った男は後ろに下がる。
「宮坂小吾郎か。大村右近の役に立つかな」日影兵衛はそう呟くと抜刀した。船が横付けになる前に幾人かの敵が乗り込んで来たのだ。
「ひ、日影殿、ここではあの技は使えんぞ。それなのに敵が多すぎる。いちいち相手にしていたら……」日影兵衛の後ろから前田主水の情けない声がした。
「あの技……『一の型、神足』のことか。まあここでは使えんが」
少しの動揺も見られない日影兵衛の声が聞こえた。
「い、一の型って」
それには答えずに、日影兵衛は一歩踏み出した。三人の敵が同時に襲い掛かってきたのだ。
それと同時に日影兵衛の上半身がぶれるように一瞬消えた。
何が起きたのか、三人の上半身がが海に落ち下半身がその場に崩れ落ちる。
「前田主水、死ぬ気でおりんとおたけ、その後ろの連中を守れ」そう言った日影兵衛は次の敵に目をやっている。
「名前で呼んだ……ただの肉塊になっても護り通す」前田主水はよろけながらも立ち上がった。
「しかし、今の技は」
「無影剣、二の型。残月」
その声とともにまたも日影兵衛の上半身が一瞬消え、敵が四人まとめてきり飛ばされた。
「ひとりの胴を切り飛ばすのでさえ難しいのに、一度に四人だと」前田主水は目を剥いた。
しかし、自分で編み出した技にいちいち名前をつける日影兵衛もお茶目である。格好いいと思った時期もあったのだろう。
永山宗之介は危なげも無く敵の刀をいなしつつ斬りつけると海に落としていく。
「船頭達に死なれても困ります」とさらっと言いのけた。
「それにこちらへ来てもらうのも困ります」
永山宗之介は次々と敵の刀をいなしながら斬りつけ海に落としていく。よくよく見ればどの敵も手や足、腹を切り裂かれ、死んではいないものの陸まで泳いで逃げることは無理だった。
「日影殿の様に必殺ではないが、効率よく倒すのもいいでしょう」と誰にとも無く言うと、自ら敵の船に飛び乗った。宮坂小吾郎の乗っていない方の船である。
「日影殿はあちらに用があるみたいですね。私はこちらにします」
などと言いつつ次々と敵を斬りつける。敵は海賊で船上の戦いに慣れているはずなのに、永山宗之介の歩みを止められない。
日影兵衛と永山宗之介の間合いから奇跡的に逃れた敵のふたりは人は他に乗り込んでいた侍達を斬り殺し、前田主水の方へ向かってきた。あのでかいのを倒して日影兵衛の背後を突こうと言う魂胆である。
「しまった、前田殿」という永山宗之介の声が聞こえた。
しかし前田主水はりんとたけ、その他の客を守る様に「むおおお」とばかりに気合をいれ、その敵ふたりに倒れ込むように刀を凪いだ。敵もろとも海に落ちる前田主水。
「ま、前田様」というりんとたけの叫び声が上がった。
水飛沫がふたつ上がる。
「主水、上出来だ」その敵ふたりを目で追っていた日影兵衛はそう言うと、宮坂小吾郎の乗る船に飛び移った。
「いやいや、弟子にしてもらう前に溺れ死んでる場合ではない」
そう言いながら、前田主水は船の縁から顔を出した。
彼は脇差しを船に叩き込み、海に落ちるのを防いでいたのである。日影兵衛とて前田主水を見捨てるほど無情ではない。前田主水の巨体が海に落ちなかったのを音で確認したのだ。もし身体のでかい前田主水が落ちていたら激しい水柱とともにこの船は大きく揺れていたに違いない。
前田主水は何とか登りきると、よろよろしながらもりんとたけの前にどっしりと立った。
「日影殿と永山殿が打ちもらすとは思えんが、護れと言われたからには護りきる」
前田主水も漢である。
日影兵衛の前には敵がひとりしかいなくなっていた。
残る敵は宮坂小吾郎のみである。
「まあ、塩風に晒された刀はいらんな」と言いながら自分の刀を捨て、そばに落ちていた海賊の刀を拾う。
捨てた刀はぴきんと折れた。
日影兵衛は何事も無かったかのように宮坂小吾郎に近づいて行く。
「何なのだ、お前らは」かろうじて声を出す宮坂小吾郎。
「橘遊侠の足元にも及ばぬな」と日影兵衛は言い捨てた。
「橘遊侠を知っているのか」
「橘遊侠は俺が倒した。それを知って満足したか」
日影兵衛の言葉に宮坂小吾郎は震え上がった。
「聞きたいことは山ほどあるが、海の上だ。面倒くさい。魚の餌にでもなれ」
日影兵衛の刀が一閃すると、宮坂小吾郎は海に落ちていった。
そこに「やはり私は未熟です」と永山宗之介の声がした。「なんだ永山殿、全部倒しているではないか」
「いやいや、これを見てください。また着替えを買わねばなりません」
永山宗之介は切り裂かれた着物を日影兵衛に広げて見せた。
そしてふたりは元の船に飛び移る。
「船頭、あの船二隻はどうする」と何事も無かったように日影兵衛。
誰もがお礼を言いたかったが、鬼神の様な日影兵衛と永山宗之介を見て声が出なかった。
「こんな所に沈める訳にも行かないですし。船頭さん、曳航できますか。港まで持って帰りましょう」
「そうだ、船頭。渡り終えたら海賊が出たと報告しろよ。俺は面倒くさい事に時間は裂きたくないのだ」
そう言う永山宗之介と日影兵衛に船頭は頭をがくがくして頷いた。
刀を持っていたばかりに斬り殺された侍達の他に犠牲者は出なかったのである。
「全くえらい目にあった」
何とか対岸についた船から日影兵衛は降りつつ言った。
「もう着替えを買うのは嫌ですよ」
少し情けない顔をした永山宗之介。
「ひ、日影殿、ちょ、ちょっと」と先程の気合はどうしたのか、またそろそろと船を降りてくる前田主水。
「主水、先程ので見込みがあるかと思ったが見当違いだったようだ」
「ひ、酷い」
その後に顔を真っ青にしながらも頑張ったりんと彼女を支えたおたけが降りてきた。
「う、海の船はもう勘弁してください」と弱々しい声を出すりん。
「いやあね。何度か乗れば慣れるわよ」とたけは何でもないかの様に言う。
りんは恨めしそうにたけを睨んだが、そのままふらふらとしゃがみこんでしまった。
「これは駄目だな。桑名宿で何日か休みを取ろう。船酔いの上に、海賊に襲われたのだからな」
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サクラ近衛将監
歴史・時代
父の仇を追う姉弟と従者、しかしながらその行く手には暗雲が広がる。藩の闇が仇討ちを様々に妨害するが、仇討の成否や如何に?娘をヒロインとして思わぬ人物が手助けをしてくれることになる。
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