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第十四話 無明の剣 大村右近

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 藤枝宿を出てから、いや、日影兵衛が調子を取り戻すまで養生している間から、日影兵衛とりんの間に妙な空気が流れているのを残りの三人は感じていた。ふたりともお互い会話を避けている節がある。
 藤枝宿を出てからふたりはいつものように、日影兵衛が前をりんがその後についていっているのには変わりがない。
 そういえば、一緒にお風呂に入った時から既に妙だった気が、とたけが思い浮かべる。
 今は藤枝宿を出て、島田宿から大井川を渡って金谷宿に向かう所である。
 因みに大井川には橋も船も無く、川越人足かわごえにんそくに肩車をしてもらって渡るか蓮台れんだいという梯子はしごの様な物に乗せてもらって渡るか、歩いて渡れる場所まで遠回りするしか向こう岸に行く方法しかない。
 雨など降って増水すると川止めといって渡ることが出来なくなる。そのため運が悪いと川止めが二、三日続くこともあり、旅に慣れた人の間では「川を越してから宿を取れ、川の手前で宿を取るな」というのが常識であった。
 幸い彼ら五人は天候に恵まれて大井川を渡り終えた所である。勿論もちろんりんとたけは蓮台に乗り、男三人は遠回りではあるが歩いて渡った。次の金谷宿で泊まるつもりである。
 ゆっくりではあるが、順調な旅であった。
 その雰囲気を除いては。
 何故か日影兵衛が「もう先を急ぐのは辞めた。京までのんびりと行こう」と言い出したのである。何か思うところがあったのか、珍妙な顔をして。
 日影兵衛は歩きながら振り向きもせずに、突然りんに問いかけた。
 「そういえば今更の様な気がするが、おりんの姉の名前を聞いていなかったな」
 「たつと言います」そう言ったりんは日影兵衛の足元を見ながらついていく。
 「あ、あの私もひとつ聞いてもいいですか」
 「なんだ」
 「……おさちさんて誰ですか」
 「幼馴染だったがもう死んだ」
 「す、すみません、あの、私……」
 「気にすることはないぞ。昔の話だ。それより何でおさちを知っている」
 りんは後ろを向いて、三人から離れているのを確認すると「それは、その、あの……あの夜、日影様は私をおさちさんと間違えて、その」と小さな声で言った。今までふたりっきりでで話す機会がなかったのだ。
 りんの言葉を聞いて、いきなり日影兵衛は振り向いた。
 「俺がまだ寝ていた時に何か言ったか。いや、それより何で俺の上におりんがいたのだ」
 りんは思わず顔を上げると、日影兵衛と目が合いぼっと耳まで赤くなった。
 「まさか俺が何かしたのか……いや聞くまい。聞かないぞ」日影兵衛は何かを思い出したのか、そう言うとりんから視線を離し前を向いてしまった。
 「なんてこった」という日影兵衛の独り言が聞こえた。
 完全に思い出してしまった様である。何かしたのかはなんとなく覚えていたらしいが、夢だったなどと言い訳のように考えていたのだ。
 また無言で歩くふたり。
 しかし日影兵衛はまたいきなり振り向いてりんを見た。
 「話がそれて、聞きたい事がまだあるのを忘れてた。話しにくいから横に来い」
 「は、はい」とりんは歩調を早めて日影兵衛の横に行く。だが、まともに日影兵衛の顔を見ることができないようだ。
 「おりん、お前は最初姉と共に京へ行く予定と言っていたな。何故残る事になったのだ」
 「あの、両親に強く止められたのもありますが、出発がもう幾日も無いと言うときにいきなり姉がついてくるなと言い出したので……家族全員に反対されたらもう行くとは言えなくて。最初は一緒に行こうと言ってくれたのに」
 「突然か」日影兵衛は少し考え込んだ。
 「姉を連れていくと言った連中はどれほど里に留まっていた」
 「ええと、十日ほどだったかと」
 「なんのゆかりも無い者たちであったか」
 「はい。ただ、里に来てから一番偉い人がずっと姉と一緒にいました」
 「見ていた感じ、ふたりはどのような様子であった」
 「えっと、出発する頃にはかなり親しげに」
 (そうか……もしやどこの誰でも良かったのか、引っかかりすれば。たまたま姉の方が釣れたという。ふたりも必要無かった、と。それに京やその周辺の女ではなく全く無縁な女ならなお良い、か。しかも里親の娘なら正式な手形を簡単に作ることができる)と日影兵衛は考え込んだ。
 「あの、それがどうしましたか」突然黙り込んた日影兵衛にりんが訊ねる。何故いきなり姉のことを聞き始めたのかも気になっていた。
 「いや、何でもない」そう言って、日影兵衛はまた考え込んだ。
 ようやく日影兵衛の顔を見ることができるようになったりんが、そんな彼を見て首を傾げる。
 「ええと、何で今頃そのような事を」
 「今までは自分の事……刀の事しか頭に無かったからな」そういう日影兵衛の背負子の中の刀はだいぶ減っていた。「岡部宿を出てから、おりんの事が気になり始めた」
 意味深な発言をしてしまう日影兵衛。よく考えて言葉を選ぶべきだと、残りの三人が聞いていたら突っ込んだに違いない。
 その言葉を聞いて、りんはまた目をそらしてうつ向いてしまう。という言葉がりんの頭の中でぐるぐるし始めた。特に藤枝宿であんな目にあった後である。
 そして岡部宿といえば、日影兵衛が黒錦党と激闘した宿場であり、怪我をおおった場所でもあった。
 (それならば、何故今更おりんを狙う)日影兵衛はうつ向いていたおりんに目をやった。箱根湯本、そして薩埵峠を思い返す。
 
 金谷宿に着くと、人がごった返して大変なにぎわいになっていた。日影兵衛達と同じく江戸から大井川を渡ってきた旅人達の様である。
 そんな中、りんとたけ、永山宗之介と前田主水は空いている旅籠がないかと探し回っていた。
 日影兵衛はまだ考え込んでいるのか、旅籠を探すでも無く歩いていた。
 そんな彼にひとりの男が近づいてきた。そして日影兵衛の前に立つ。背格好は日影兵衛と同じぐらいだが、はるかに色男である。
 この男、相当な使い手だと日影兵衛は見た。何事もなく日影兵衛の間合いに踏みこんでくる。しかし殺気というものは感じられない。
 「突然申し訳ない。貴方は江戸の方から来られたようですが、ひとつ訪ねたい事があるのです」と、むこうから話しかけてきた。
 「確かに江戸から来たが」その男は日影兵衛も殺気を放っていないので寄ってきた様にも思える。
 「大井川の向こうで『橘遊侠たちばなゆうきょう』という剣術使いの噂は聞いたことがありませんか」
 その男が思いもよらぬ事を口にした。
 「……いや、知らぬ」日影兵衛は、この男も黒錦党の仲間かと思いつつ答えた。あの一件は知らない様である。だがここで騒ぎを起こす訳にはいかない。
 「そうですか。時間を取らせて申し訳ない」男はそう言うと軽く頭を下げ、日影兵衛から離れていった。
 (橘遊侠のだと。黒錦党なら噂などという言葉をするわけがないと思うのだが)そう思いつつ、その男の背中に目を走らせた。
 そこへ前田主水とりんが近づいてきた。
 「日影様、宿が取れました」というりんの言葉に「そうか」と一言答えると、ふたりの後に付いていった。
 
 部屋にはいると、永山宗之介とたけが既にくつろいでいた。りんと前田主水も旅装を解き、楽な格好で座り込む。
 「日影殿、どうしましたか」と永山宗之介が声をかける。彼は「いや」と言って旅装をとき始め、煙管を取り出すといつものように窓際に座り、火をつけようとした。
 しかしそこで手を止めた。
 窓の外にあるものを見つけたのである。
 十数人の浪人の集団が何かを探すように現れたのだ。
 そしてまた、別の集団が後から同じ方向へ行くのを目にする。
 日影兵衛は煙管をしまい、立ち上がると「買い物をするのを忘れていた。少し出てくる」といい、永山宗之介と前田主水に目を走らせた。
 「あの、お使いなら私が行ってきます」そう言うりんに「大したものじゃない、気にするな」と言いつつ大小を持って部屋から出ようとする。
 永山宗之介と前田主水主水は胸騒ぎがした。岡部宿と同じような日影兵衛の行動である。
 「日影殿」と前田主水が声をかける。
 「いや、大したことじゃない」と彼はそう言って旅籠を出ていった。
 日影兵衛は不審な男達の行く方へ歩み始める。
 そして後から現れた集団が脇道に入っていくのを見ると、日影兵衛もその脇道にはいる。
 怪しげな集団は草をかき分け走り出した。日影兵衛はできるだけ音をたてないように、それに続く。
 日影兵衛の目線の先には、道を訪ねてきた男と十数人の男達が対峙していた。後から来た連中もそれに加わる。
 男達が刀を抜き放つのを見ると、日影兵衛はいきなり「黒錦党か」と声をかけた。
 取り囲んでいた集団の方が日影兵衛の方を向いた。
 「どうやら取り囲んでいる方が黒錦党で、あんたは追われる身か」と男達を無視して日影兵衛は言葉を続けた。
 「何だ貴様、この男の仲間か」
 「そうでなくとも、見られたからには殺す」
 先に来た集団があの男の方に向き、残りが日影兵衛の方に迫ってくる。
 向こうの男は「わざわざ首を突っ込まなくても」と言った。「あんたが黒錦党で無いならば、伝えたいことがある。俺は嘘をついた」と二十人以上の集団を無視してふたりは言葉をかわす。
 完全になめられたと思った集団がその男と、日影兵衛に向かって刀を振り上げつつ走り込んで来た。日影兵衛の方に迫ってきたのは五人ほどである。
 日影兵衛は「ふむ」と言って刀を抜き放つと、一合も刀を交えることなく五人を切り捨てた。無影剣を使うまでもない。そして襲われた男に加勢しようと目を向けたところ、を見た。
 その男は全く動かずに最初の十人ほどを切り捨てたのだ。しかし日影兵衛にはその男の動きがはっきりと見えた。
 足の運びは違うが、日影兵衛の無影剣と同じ剣技だ。日影兵衛は特に驚いた様子も見せずに「おい、ちょっと待て。全員殺すな。ひとりは残せ」と男に声をかけると、姿が消えた。
 そして更に五人ばかりがいきなり血を吹き倒れると、片腕を片腕を切り飛ばされた敵のひとりの襟首えりくびを掴んた日影兵衛が姿を現す。
 男の方を見ると、ひとりの脚に刀を突き刺した姿が見えた。残る敵は既に倒されていた。
 「私も皆殺しにするつもりはありませんでしたよ」となんの問題もなかったように男が声をかけてきた。
 「しかしまさか同じ技を持つものがいたのには驚きました」と刀を突き刺した男の脚を切り飛ばしながら言う。
 「それは俺の台詞せりふだ」と日影兵衛が応じる。「俺は日影兵衛という。お前の名は。聞いてもいいか」男はそれに答えて「……大村右近」と名乗る。そして二人は生き残した敵に向かって問いかけた。
 「黒錦党は何故おりんを狙う」
 「橘遊侠はどこにいる」
 その問いかけにふたりの敵は見逃してくれとばかりに答えた。
 「おりんとかいう女の事は何も知らねえ。本当だ、見逃してくれ」
 「橘遊侠とは岡部宿で合流するつもりだった。ついでにお前を殺せと命じられた」
 日影兵衛と大村右近は同時に「嘘は言ってないだろうな」と、言葉を発した。がくがくと頷くふたり。
 ふたりは揃って「ならばもう用はない」と言うと、捕まえた敵の首をねた。
 そして向かい合う日影兵衛と大村右近。
 「伝えたいこととは何ですか」と大村右近。十数人を切り捨てた後なのに平然として日影兵衛に問う。
 「橘遊侠は俺が斬り殺した。やつの配下もな。岡部宿に向かっても骨折り損だ」そう言った日影兵衛の刀がぴきんと折れる。
 「大村の。良い刀を持っているな。羨ましい」
 「京で手に入れました。だが使いすぎると貴方の刀と同様に折れるでしょう。厄介な技です」
 「一応聞いてもいいか。俺はこの技に無影剣と名づけた」
 「私は無明剣と名付けました」
 「お互い馬鹿みたいだな」
 日影兵衛がそう言うと、ふたりは笑いながら揃ってその場を後にした。
 「所で何故橘遊侠を探していたのだ。敵討ちか」
 「……まあそんなところです。貴方は何故黒錦党を」
 「。大元を潰さねば安心できない。だから京へ向かう」日影兵衛の目的はいつの間にか変わっていた。京の噂の鍛冶屋に刀を打ってもらうはずだったのだが。
 「そうですか。橘遊侠の事を教えて貰って余計な時間をかけずにすみました。まあ、できれば橘遊侠にのですが。私も京へ帰るとしますか」
 そんな会話をしながらふたりは大通りへ戻った。
 「目的地が同じならまた会うこともあるでしょう」
 「そうだな。あんたが黒錦党でなくて良かったよ」
 日影兵衛と大村右近はそう言うとそれぞれ別の方向へ歩み始めた。何故手を組もうと言わなかったのか。ふたりはそれぞれの目的を遂げる為に別れて行った。
 
 日影兵衛が部屋に戻ると永山宗之介が「ちょっとした買い物の割には時間がかかりましたね」と言って日影兵衛の刀を見る。日影兵衛は折れた刀を捨てずに鞘におさめていた。
 前田主水は日影兵衛をくまなく見ると、ほっとしたように姿勢を変える。
 「前田殿、おたけ殿、湯屋にでも行きますか」と永山宗之介はふたりに声をかけた。
 「え、え」と言うたけ。
 前田主水も「まあまあまあまあ」と言って立ち上がる。
 そして三人は湯屋に向かった。たけだけがいつもと違うと頭をひねりながら。
 彼らが出ていくと「永山殿も全く余計なことをする」と日影兵衛はそう言って、りんのそばに座った。
 「おりん。話がある」
 「え、何でしょう」
 「お前はここから里へ帰れ。お前の姉は俺が探して里に連れていく」
 「な、なんでいきなりそんな」
 「どうもこうもない。あるじの言うことが聞けんのか。どこぞの商人達に混ぜてもらって帰れ」
 「そんな、なんで……」
 しばらくふたりの間に沈黙が訪れる。
 りんは勇気を出して言った。
 「私が足手まといだからですか。私がいなければもっと先まで早く行けるから」
 「そうではない」
 「私、ずっと日影様についていきたいです。下働きでも使い走りでも、あの、何でもいいので……」
 「俺は侍ではなく人斬りだぞ。己のためなら相手を殺す。その上斬り殺した相手から刀を奪う外道だ。それでもそう言うか」
 「はい」
 りんは日影兵衛の目をしっかりと見つめて、はっきりと答えた。
 日影兵衛は諦めた様に立ち上がると、窓辺に座り煙管きせるを取り出した。
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