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一章

向かうのはそっち?

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「私…卑怯なんです。だから…課長が謝る必要なんて…」

 そこまで言うのが限界だった。それ以上言うと、きっと泣いてしまう。でも、この場で泣く事だけはしたくなかった花耶は、唇を噛んでその生理現象をやり過ごそうとした。
 と、唇に柔らかいものの感触を感じて花耶はびっくりして視線を前に向けると、そこには自分を覗き込むようにして見つめる奥野がいた。唇に触れているのは…奥野の指らしかった。

「噛むと傷つくから」

 そう言って指の腹で唇を撫でられて、花耶は硬直してしまった。前も似たようなことがあったと思い出すと、顔の真ん中に急速に熱が集まってくるのを感じた。てっきり呆れるか、気分を害するだろうと思っていた花耶は、奥野の行動が予測範囲外で戸惑った。もっとも、奥野は花耶にとってはいつだって予測不可能なのだが…

「あ、あの…」
「ん?」

 唇に指が残っている状態で話すのは何だか酷く恥ずかしくてやめて欲しいのですが…と思うのだが、奥野が気にする風もなかった。というか、なぜか機嫌がよくなっている気がする…

「あの…呆れたり…しないんですか?」
「呆れる?なんで?」
「何でって…だって…私…」

 奥野には仕事に影響が出ると困るから我慢していたと言っていたのに、実際はそうでなかったし、それなりに楽しんでいたんだと言ったのだから、ここは呆れるか、なんだこいつは…と思うところではないのだろうか?なのに、この奥野の態度はどういう事だろう…

「ああ、それこそ呆れるなんてあり得ないぞ。花耶にとって俺との時間は苦痛しかなかったのかと思っていたが…そうじゃなかった時間もあったのなら、俺としては嬉しいんだが…」
「え?」
「何だ、違うのか?」
「い、いえ…そういう訳じゃ…ない、です、けど…」
「だろう?だったらまだチャンスはあるって事だろう?」
「はぁ?」

 今度こそ花耶は盛大に声を上げた。今までの会話の流れでどこをどうしたらそうなるのか…ここは互いに謝罪して終わるシーンではないだろうか…何でこの人は一々花耶とは逆の一方向に向かっていくのだろう…

「最初に全力で口説くって言ったし、俺は諦めるなんてまだ言ってないぞ。勿論、花耶が許してくれるのが前提だが。だが、簡単に諦められるなら、社内の部下になんか手を出さないから」
「いえ…でも…」
「それに、病室でも俺から離れないように必死だっただろう?あれはそれだけ信用されているのだと思ったのだが…」

 違うのか?と無駄に綺麗な顔に確信めいたものを滲ませて言われてしまい、花耶は言葉を失った。病室での自分の恥ずかしすぎる失態を思い出して、一気に羞恥心が高まる。もし一人だったら、転げまわって悶えたかもしれないし、いっそあの時の自分は消して欲しいと叫んだかもしれない…いや、むしろ今すぐ消えたい…消させて欲しい…

「それに、この部屋に隠れていたのは、ここが花耶にとって一番安全だと思ったからだろう?」

 重ねてそう言われてしまった花耶の精神は、既に瀕死だった。寝室は悪い思い出しかない筈なのに、そこを一番安全だと思っていたと奥野は思っているのだ。それはつまり…いやいや、それ以上考えたらだめだと思って花耶は思考を止めようとした。

「こ、この部屋を選んだのは…ベッドの寝心地がいいのと、被れるシーツがあったからで…」
「このベッドが気に入ったのか?」
「え、その、気に入ったのは寝心地ですから!」
「でも、ベッドの上にはいなかったじゃないか?」

 そう言われてしまい花耶はぐうの音も出ず、奥野はそれはそれは嬉しそうに花耶を見ていた。なんだろう、この確信犯的な物言いは…絶対に何かを誤解、いや自分のいい様に解釈している気がして、でもそれを聞くのもまずい気がして花耶は口をつぐんだ。おかしい…なんでこんな方向に向かっているのか…花耶が釈然としないものを感じていると、奥野が心配しなくてもこのベッドは花耶専用だから、と言ったため、花耶はとうとう気力ゲージが枯渇した気がした。



「調子に乗り過ぎた…悪かった…」

 そう言って奥野は、花耶の枕元で謝りながら甲斐甲斐しく世話をしていた。もとより安静を医師から厳命されていた花耶だったが、あの後熱が上がっている事がわかり、奥野が慌てたのは言うまでもない。花耶がどうしてもと奥野との話し合いを強行したのはよかったが、思いがけない展開に花耶の精神が付いて行けず、結果元々底だった体力まで切れてしまったのだ。
 顔が赤いのは恥ずかしがっているからだと二人とも思っていたのだが、実際には熱が上がっていたのだ。話が一段落したところでホッとしたせいか、花耶は急に身体のだるさを感じて眉をひそめたが、それを奥野が見逃す筈もなく、熱を測ったら思った以上に上がっていたのだった。

 奥野は大きな身体を小さくして謝っていたが、その態度からは嬉しさがにじみ出ているようにも見えて、花耶は複雑な気分になった。ただ、花耶自身も呆れられてこの関係はここで終わりだと思っていただけに、どこかホッとしている自分がいるのを感じていた。好きなのかどうかと聞かれるとよくわからないが、自分の中で奥野の存在感と言うか好感度が、今日一日で急速に上がった気がする。とはいえ、今は身体を直す事が第一で、今後の事はまた体調が戻ってからだった。

 気がかりだった伊東からの電話について、奥野は松永にも電話で相談し、今後の対策を話し合っていた。花耶は麻友の事が気になり、巻き込まれないかと気になっている事を奥野に告げると、それなら暫くは実家に帰って貰うか友達の家に泊らせてもらうなどして、一人にならないように頼んでみようと言い、松永を介して話を伝えてもらった。
 花耶は自分が話をしたいと言ったが、まだ安静中だし、花耶がここにいる事は万が一の事を考えて麻友にも話していない事や、会社には入院中と説明している事をあげて、今は松永さんに任せた方がいいと告げた。松永の話を受けた麻友は、駅二つ離れた兄のアパートに暫く滞在する事になり、花耶は少しだけ安堵した。

 奥野はその後、証拠集めのためにと花耶のスマホに幾つかアプリを入れてもいいかと言ってきた。留守電も件数を超えると古いものが自動的に消えてしまうため、出来ればもっと件数が多く保存できるような類のものがいいし、パソコンなどに保存できた方がいいと言う。その手の事に疎い花耶は、奥野に任せる事にした。
 また、奥野は世話になった警察署に電話をし、伊東が花耶に繰り返し電話で脅迫まがいの事を言ってきていると相談した。花耶があの件で体調を崩し入院する予定だったが、伊東が押しかけてくる不安もあり無理に退院した事なども説明し、今後の対応を話し合った。花耶も電話で事情を説明したところ、続くようなら一度内容を聞かせて欲しい、場合によっては警察から警告を出す事も出来ると言ってくれたため、花耶は少しだけホッとした。
 あそこまで色々振り切れてしまっている伊東に一人で対処するのは難しく感じた。奥野と警察という力も能力もある味方がいると言うのは、それだけでも心強かった。



 その日の夜も、伊東からの電話があったため花耶は凍り付いたが、奥野がいたためにその恐怖は思った以上に少なかった。奥野は、留守電に好きなだけ録音させておけばいい、明日この録音データをUSBメモリに移して警察署に相談に行ってくると花耶に伝えた。さすがに明日は伊東も出勤のためか遅くまでは続かず、日付が変わる頃には収まっていた。

 翌日、花耶のスマホから録音データをUBSに移した奥野は、ぎりぎりまで花耶にかまい倒してから出勤していった。お互いに誤解というかわだかまりが解けたのもあり、空気が以前に戻っているように感じて花耶は戸惑った。
 あの後花耶は、奥野の事を好きかどうかわからない、尊敬しているし好感度は高いが、これが恋愛的なものなのかがわからないと告げたのだが、奥野は嫌われていないのであれば今はそれで十分だと言った。これからは花耶の気持ちも聞くし、嫌がる事はしないから、前向きに考えてくれないだろうか、と。既にすっかり絡め取られている気がしてならなかったが、不思議と嫌な気はしなくて、前向きに考える事を約束したのだ。
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