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一章

頼りになるのは…

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「何してるの?」
「ひっ!」
「え?」

 この場をどう切り抜けようかと必死に頭を動かしていた花耶の耳に届いたのは、聞き慣れた女性の声だった。急に声をかけられた二人は飛び上がりそうなほどに驚き、さすがに花耶も急な登場に声も出せず、声の主を見つめるしか出来なかった。

 軽そうな響きの中に微かな圧を込めていたのは長山だった。長山が現れたのは、会議室の奥にある準備室からで、表情は穏やかに見えたが目には冷えたものが含まれていた。声をかけられた篠田と土井は長山の穏やかな中に含まれた何かを感じたのか、直ぐには動けなかったらしく、しどろもどろになりながらないかを言おうとしている。

「篠田さんと土井さん、頼んだ書類、どうなってるの?」
「え?あ、あれは…」
「そ、その…」
「今日の終業時間までにって言ってあったわよね?もう十分しかないけど?こんなところで油売ってるからには、もう出来てるんでしょうね?」
「そ、それは……」
「あの…」

 どうやらまだ二人は頼まれている仕事が出来上がっていないらしく、でもそう答える事も出来ずにいる様だった。頼まれた仕事も終わらないのに、このような事にだけは熱心な二人に花耶は呆れた。

「昨日から頼んであるのに…まだ出来てないってどういう事?」
「す、すみません…」
「嘘を触れ回ってる暇があるなら、やる事やって頂戴」
「嘘だなんて…」
「そんな…私たちは…」
「そう?三原さんと伊東君と付き合ってるって噂広めたの、あなた達じゃない?」
「う、噂じゃないです!それは本当に‥」
「そうです。私、伊東さんからそう聞いて…」
「なっ…!」

 責任を押し付けられた形になった伊東は、とっさに抗議の声をあげそうになったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。どうやら全くの濡れ衣というわけではなさそうに見えた。

「伊東君も。相手が嫌がってたらセクハラよ」
「そんな…嫌だなぁ、長山さん、三原さんは嫌がってなんかいませんよ」
「そうかしら?」
「そうです。実際に僕たち、付き合い始めたばかりですから」

 そう言って、長山に向かって余裕の表情で微笑んだ。さすがに営業だけあってか、切り替えが早くて取り繕うのが早いが、言われた内容に花耶はぞっとした。自信たっぷりに好青年を装う伊東に、長山までもが騙されて彼の言い分を信じそうに見えたからだ。

「そう?私にはそうは聞こえなかったけど?悪いけど、会話全部聞かせてもらったわよ?」
「それは…」

 尚も言い訳を重ねようとする伊東に、それとも…嘘をつく子には躾が必要かしら?と暗に花耶を躾けると言っていた事を匂わすと、さすがに伊東も狼狽えた。そこまで聞かれていたとは思っていなかったらしい。

「さて。この事、上に報告しなきゃいけないのかしら?ねぇ、篠田さん?土井さん?伊東君?」

 暗に懲罰の対象にもなりうると仄めかされると、さすがに三人とも何も言えなかったらしい。すみません、と項垂れ、それ以上は何も言えなかった。長山は三人に、今度同じ事をしたら上に報告してしかるべき処置をとる、二度と花耶に絡まないようにと告げた。さっさと仕事しなさい!ときつめに言うと、三人は弾けるように会議室を出て行った。
 


「三原さん、大丈夫?」

 三人が出て行った部屋は、急に静かに感じたが、先ほどの不快感や緊迫感は失せて、柔らかいものに変わった気がした。全くもう…とため息をついた長山に、花耶はやっと解放された事を感じて、身体に血が回り始めるような感覚を覚えた。気が付けば左手で右手をきつく握っていて、その手が微かに震えているのを今になって感じた。

「堀江さんから聞いていたからもしやと思ったけど…居合わせてよかったわ」

 長山は会議室で使う機器の備品のチェックのため、会議が終わってからそのまま準備室に入っていたらしい。そのため会議に参加していなかった花耶はもちろん、会議に参加した後、一旦事務所に戻った伊東も気が付かなかったのだ。用件はすぐに終わり出ようとしたが、花耶が一人のところで伊東が入ってきて、この前の噂の事もあったため、気になってそのまま聞き耳を立てていたのだといった。

「あ、ありがとう…ございます…」
「謝らなくてもいいわよ。悪いのはあの三人だし。しかし、困った子達よね」

 ベテランの長山にかかると、花耶より年上の篠田達ですら子ども扱いだった事が妙におかしくて、ふと笑みが漏れた。確かにやっている事は子供と一緒だった。余計な知恵が回る分、子供よりも性質は悪いが。

「念のため、課長と堀江さんには報告しておくわね」

 そう言われて花耶は慌てて長山を見上げた。長山と仲がいい堀江はまだしも、奥野にまでというのは思いがけなかった。

「課長にまでは…」
「そう?でも、社員間のトラブルを把握しておくのも仕事だからね。何かあった時、責任問われるのは課長だし。それとも、本当は伊東君の事好きなの?」
「あり得ません、そんなの…」
「でしょ?思い込み激しそうだし、危ないわよ、ああいうタイプは。どっちに向いても面倒起こしそうで」
「どっち?」
「まだ自惚れ続けるか、逆に振られたと逆恨みするか?プライド高そうだし、思う通りにならないのが許せないタイプかもね」
「そんな…」
「だから余計に話しておかなきゃいけないのよ。三原さんも気を付けてね。まだ諦めたとは限らないから」

 そう言われてしまえば、花耶にはそれ以上何も言えなかった。確かに今回はこれで済んだが、また悪意のある噂が広がったり伊東が迫ってきた場合は、今以上に大きな問題になるだろう。長山の伊東の考察は的を得ているように感じたし、そうであればまだ諦めていない可能性は否定出来そうもない。変質者に付きまとわれていた経験から、責任ある者に伝えておくことの重要性は花耶も理解はしていた。
 ただ、長山の言う責任ある者は奥野で、その奥野がこの事を知ったらどう思うかと考えると、嫌な感じしかしなかった。どうせならこの事も含めてきちんと話をしたかったが、今はまだその時じゃない事ももどかしかった。



 その翌日の夜、花耶がもういつでも眠れる体制にあった頃、着信があった。事前メッセージのない着信に花耶は驚き、もしやと思ってスマホを手にすると、表示画面に出ていた発信相手は麻友で、花耶はホッとして通話ボタンを押した。
 麻友の要件は昨日の伊東や篠田達の事でまだ話していなかった花耶は驚いたが、同時に麻友は情報通だった事を思い出し、こうして連絡をくれた事に目の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
麻友は詳細な事までは知らなかったようだが、伊東が花耶に強引に迫り、それを篠田や土井が煽っていたと聞いたが、実際どうだったのかと花耶に尋ねた。おおよそ事実に近い内容が麻友の耳に届いている事に花耶は安堵するとともに、その話を話したのが長山で、多分花耶のためと伊東へのけん制を含めての内容になっている事に感謝した。

「じゃ、噂はほぼ本当って事?」
「うん。三人が結託したとかってところはわからないけど、でも、お互い知らなかったわけじゃない気がする…」
「そっか。変に脚色されてなくてよかった」
「きっと長山さんが色々気を使ってくれたんだと思う」
「そうだね、まぁ、その場にいたんだし、嘘を流してもしょうがないからね。こういう時は本当の事が一番強いんだし」
「会話全部聞かれてたのは驚いたけど…凄く助かった」

 後から思い返せば、長山は半ば出歯亀感覚であえて出てこなかったのかもしれないとは思ったが、そのお陰で花耶が伊東に迫っているという噂は逆だったと分かったし、結果オーライだった。堀江だけでなく長山も噂を否定した事、長山は昔総務にいたため堀江とはまた別の人脈があった事もあり、話が広がるのが想定以上に早まったようだった。

「まぁ、あの三人にはいい薬だし、けん制にはなるかな~」

 麻友はあの三人を一刀両断したが、花耶も同じ思いだったため、こんな時ではあったがなんだか嬉しかった。こうしてわざわざ電話をくれるのも、花耶の荷物を一緒に持ってくれるような気がするのだ。

「それで…奥野さんは何か言ってるの?」

 そう言われた花耶は、眉をひそめた。せっかく麻友のお陰で上向きになった気分が、下がっていくのを感じたからだ。

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