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幕間
ベルナルドの憂鬱 前編
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「我がメルツァー家は、ボルトレット一世陛下に付き従って、このアジメールにやってきたのだ。そこいらの突然湧いて出た貴族とは家格が違うのだ!」
メルツァー本家の当主が捲し立てるのを聞きながら、ベルナルドはやたら不味い葡萄酒をちびちびと飲んでいた。
淡水魚の煮込み料理と串焼き肉、季節外れで甘味の薄い白甜瓜とパンが並んでいる。
月に一度、メルツァーの本家に親族が集まり、宴席となる。
ベルナルドが子供の頃はそれなりに羽振りが良かったので、ご馳走が出て、ここへ来るベルナルドの唯一の楽しみだったが、今は落ちぶれていて味気ない料理が並ぶ。
耳に胼胝が出来るほど聞いたなあとぼんやり思う。
決まってこのあとは、何故メルツァー家を蔑ろにするのかという愚痴に行きつく。
蔑ろも何もこの国に来た当初はそれなりに武勲を立て領地を賜ったが、その後はこれといった勲功を上げることなく徐々に領地を減らしていって今は貴族としての体裁を整えるのも四苦八苦する状態だ。
ベルナルドの家も同様で、現当主である父親が病に倒れ、その薬代もままならずベルナルドの俸給をあてにしている。
今まで持参金の為にこつこつと貯めてきたベルナルドの金も兄が結婚するためにごっそり持っていかれた。
はあと溜息をつく。
「王家は歴史あるメルツァー家ではなく、なぜ突然湧いて出たガーランド家などを重用するのか! ローク陛下はあのナイジェルとかいう優男に誑かされているに違いない」
ピクリと肩を震わせて、顔を上げる。見ると当主の言葉に同調して皆頷いていた。
自分がいる前で何を言っているのだ、こいつらは。
「なあ、お前もそう思うだろベルナルド!」
バチンと思い切り背中を叩かれた。
叩いたのは隣に座っていた本家の長男でだいぶ酔いが回ったのか赤い顔で同意を求めてくる。
酒臭い息に内心顔を顰めそうになるが表面上は習い性になったヘラヘラ笑いを浮かべる。
この男には子供の頃からベルナルドはいじめられた。
いや、いじめなどという可愛いものではなかった。
井戸に突き落とされたり、腐った魚を無理矢理口の中に入れられたり、どう猛な犬を嗾けられて危うく死にかけたこともあった。
流石に犬を嗾けられたときは、殴りつけた。
この手の人間は自分が傷つくことには弱いのか、一発殴り返しただけだったが、鼻に当たり鼻血を流しながら泣き喚き、親である本家の当主に言いつけたのだ。
烈火のごとく怒り狂った本家の当主は使用人たち数人にベルナルドを袋叩きにさせた。
流石に当時十歳のベルナルドに気が咎めたのか、手加減されたので大怪我は追わずに済んだが。
その後、ベルナルドの父親を呼び出し、散々に文句付けた。
ベルナルドの言い分は完全に無視され、父親は平謝りし、ベルナルドは三日ほど食事を抜かれた。
ベルナルドの母親は妻ではなく、元は使用人で正妻の妊娠中に手を付けてベルナルドが生まれた。
身分が低いベルナルドの母親はいつも父親と正妻の顔色を伺うばかりでベルナルドを庇ってくれたことはなかった。
「……俺は近衛大隊の中央部隊所属なんですが」
ヘラヘラと笑いながら、心の中にどす黒い感情が渦巻いていた。
「おお、扱き使われているんだってなベルナルド! 小隊長に出世したとか嘯いていたが、俸給が平の兵士並みとはお前どれだけ嘗められてるんだ!」
下品な笑い声を上げて、なあと隣に座って黙々と食事をしていたベルナルドの兄に同意を求める。
「本当ですよ。どうしようも無い甲斐性なしで仕方がないから家に置いてやっているんですよ」
卑屈に媚びを売る兄にベルナルドは鼻白む。
ベルナルドの俸給は実は中隊長格の額を支給されている。
地位は小隊長であるが、ナイジェルの副官でもあるのでその分多いのだ。
中央部隊に所属する時、何の気はなしにナイジェルにポロリと家族に俸給を取り上げられている事を愚痴ったことがあった。別にナイジェルに何とかしてもらおうなどと思ってなかった。
どこか搾取される人生に慣れてしまったところがベルナルドにはあった。
それを聞いたナイジェルは眉を顰め、考え込んでいた。
数日後、養父のハイルの所に連れて行かれた。
会所の公証人であるハイルに事情を話して、何とかしてくれるよう頭を下げてくれた。
ハイルは快諾して、平の兵士分の俸給のみ通常通り支給し、それ以外の俸給は別口で会所の中で預かるようにしてくれた。
ベルナルドは茫然とナイジェルを見た。
ナイジェルは苦笑して、
「俺の副官が他所の家に食事を集っていたら外聞が悪いからな」
相変わらず口は悪いが温かい声だった。
ベルナルドは赤くなって俯いた。
顔を上げたら、涙が零れそうだった。
涙を流すなんて、子供の時以来だった。
「しかし、どうやってローク陛下に取り入ったのやら。あの顔と体を使ったに違いない!」
そう言ってまた下卑た笑い声を上げる。
ベルナルドは俯く。
本心を笑顔で誤魔化すことに慣れた自分だが、この暴言には我慢がならない。笑顔の仮面にひびが入ってきそうだ。
「そろそろお暇します、明日は早いので」
「大変だな、下っ端は!」
楽しげに笑う男をわからないように冷ややかに見る。子供の頃の力関係が永遠に続くと信じているのだろう。
屋敷を出て、金がないのか手入れの悪い庭を通り過ぎると兄が追ってきた。
「ベルナルド、その悪かったよ。だけど仕方ないだろう? あいつには逆らえないんだ」
上目遣いで今度はベルナルドに媚びてくる兄に向かって無言で手を出す。
びくりと恐れた様に震えると懐から、何枚かの紙を出す。
一通り目を通すと自分の懐に仕舞い込む。
「あ、あのなベルナルド」
「兄さんに迷惑はかけないから、安心してくれ」
へらりと笑うと踵を返し、日干し煉瓦の壁にひびの入った門から出て行こうとする。
「その、あのな。もう少し何とかならないだろうか?」
また金の無心かと舌打ちしそうになる。
「俺の俸給はほとんど渡しているだろう」
「いや、そうなんだが。父さんもなかなか良くならなくて、薬代が嵩んでな」
ああ、そういえばこのところ美人揃いだという酒場に兄が入り浸っていたなと思いだす。
「ちょっと頼んでみるよ。でも、そうするとこればっかりの情報じゃあ足りないかな?」
そう言って懐を叩く。ベルナルドの兄は近衛大隊右翼の所属兵士で、平だが会計係の中隊長の部下だった。右翼部隊の不正に関する情報を横流しするように頼んでいたのだ。
「そ、それ以上か?」
「兄さんが嫌なら別に」
「わ、分かった」
「頼んだよ」
そう言って、足早に門から出て行く。
こんなところにほんの少しも居たくはなかった。
「これは、ベルナルド様ようこそお出で下さいました」
にこやかにベルナルドに応対してくれたのはバハディルの家令だった。
「主殿が喜んで迎えてくれるかはわからないけどな」
「いえいえ、口ではなんと申しても主は喜んでおりますよ」
そう言って奥の部屋に案内してくれる。訪いを家令が入れるが今日はすんなりと通される。
いつもなら、舌打ちと「追い返せ!」か「また集りに来たか!」という決まり文句が飛んでくるのだが。
中に入ると珍しい面子が揃っている。
バハディルの他に、ブレンドンとジハンギル、王都に戻っていたスィムナールがいた。
バハディルはじろりと睨み付け、ブレンドンたち手を上げて軽く挨拶を送ってくる。
「また、手土産も持たずに食事を集りに来たか」
「”手土産”なら有りますよ」
懐を叩く仕草をすると片眉を上げて、何かを察したのかバハディルは座るように促した。
「ふむ、ならいい」
「随分珍しい面子が揃っていますね」
そう言うとやや深刻そうな雰囲気になる。
「何かありましたか?」
「エルギンで少々深刻な事態になりそうだ。長老格のカーディル大隊長が亡くなった」
そう話し始めたのはブレンドンだった。
「風邪を拗らせてのことらしい。お年だったから仕方のないことだが、ナイジェル部隊長に好意的な大隊長が1人いなくなるな」
「エルギン辺境伯とは長年の友人でも有った。側近でもあり、辺境防備隊の取りまとめ役でもあった。今まで抑えられていたナイジェル部隊長に対する反発が高まるだろうな」
バハディルが難しい顔で溜息をつく。
「一人いなくなるだけでしょう」
バハディルたちは顔を見合わせる。
「スライがな、辞めるそうだ」
「スライ?」
突然、聞き覚えのない名前を出されてベルナルドはは困惑する。
「ベルナルド、お前は面識が有る筈だ。遺跡調査の時ナイジェル部隊長に従っていた年長の兵士がいただろう?」
「そういえば、いましたね」
「あいつはナイジェル部隊長が従卒の時の直属の上官だった。それからずっと傍らにいて付き従っていた。おそらく部隊長が近衛大隊に移ることに最も不満を抱いていたのはスライだろう。自分を近衛大隊に連れて行かなかったことにもな」
「……カールーン叔父御に時々不満を漏らしていたらしい。叔父御も宥めていたようだが納得できなかったのだろう」
「それだけならまだ良かったんだが、カーディル大隊長が、死ぬ間際にもし遺跡調査の失態がなければ、今頃エルギン辺境伯にナイジェル部隊長がなっていただろうと言ったらしい」
「まあそうかもしれませんが、何故?」
「どうも、バスター閣下はカーディル大隊長に次ぎにナイジェル部隊長が勲功を上げたら、辺境伯に推挙するように根回しを頼んだらしい。カーディル大隊長も部隊長に好意的な大隊長数人に話を通していたそうだから、確実に実現していただろうな」
「ナイジェル部隊長の武功を考えると昇進が遅すぎるんだ。閣下の甥と若すぎるということが枷になっていた。閣下の甥でさえなければ、閣下は疾うに辺境伯に自分自身で推挙していただろう」
「カーディル大隊長が亡くなって、今エルギン辺境防備隊は内部分裂のような状態だ。その原因となったナイジェル部隊長の近衛大隊部隊長への就任は遺跡調査の失態が原因。それに係わったスライに非難が集中したそうだ」
「……それは辞めたくなりますね」
「バスター閣下もファーティマ様が生まれて、王都に戻りたいのだろう、辺境伯の地位を返上する時期を探っているようだしな」
「可愛らしいですものね、ファーティマ様は」
ベルナルドの言葉に皆苦笑して頷く。
ファーティマとはナイジェルとアナイリンの子供でついこの間生まれたばかりだ。
金褐色の髪と翡翠色の宝石のような瞳を持つとても可愛らしい女の子だった。
生まれたばかりの赤ん坊など皆猿みたいなものなのだと思っていたベルナルドだったが、ファーティマは違った。
陶器のような乳白色の肌もふっくらとした淡紅色の唇も何の瑕疵も無い、まさに「満月のように欠けることのない」美しい顔立ちだった。
「ナイジェル部隊長の子供の頃にそっくりだとアイーシャ奥様が言ってましたよ。成長したら、国の一つや二つ傾ける様な美女になるかもしれませんね」
「……止めろ、冗談にならん」
真顔でバハディルが言うのを笑い飛ばす者はいない。
「邪魔をするぞ、バハディル」
そう言って入ってきたのは大叔父のグラムだった。孫のドミトリーを伴っている。
「ふむ、なんぞ悪巧みの集まりかのう?」
「人聞きが悪いですな、何の御用で」
「何、またあの絵を見せてもらおうと思っただけよ。この頃は出かけるのも一苦労でな。次いでじゃよ」
「どこかにおでかけでしたか」
「ああ、ファーティマ様に目通りがかなっての。お可愛らしい姫君よのう、眼福じゃったよ」
にこにこと笑うグラムの横で、ドミトリーも微笑んでいる。
「それはようございましたな」
バハディルも穏やかな表情だった。
このラスロ家は不思議な一族だとベルナルドは思う。
ベルナルドのメルツァーよりもはるかに古い家柄を誇るのに王家に対して一定の距離を置いている。
文官の要職につく者も幾人も出しているにもかかわらず、王家に対して冷淡だ。
そう、まるで……。
「ところで、ベルナルド。いつになったら”手土産”を渡すのだ」
催促するようにバハディルが手を差し出す。
「いや、食事をしてから渡そうと」
「四の五の言わずに出す物を出せ」
「はいはい」
渋々懐から紙の束を取り出すとバハディルに差し出した。
計ったようにヴェーラたちが食事を運んでくる。
料理上手のシャノンの作だろうポロウや山鳥の串焼き、茄子に香草とひき肉の餡をのせた物や蜂蜜をたっぷりかけた小さな揚げ菓子と玉葱入りのパンが並ぶ。
渡された紙を真剣な表情で見るバハディルをスィムナールは興味深そうに、ブレンドンは人の悪い笑みを浮かべ、ジハンギルは無表情で見ていた。
それを見ていたベルナルドは嫌なことを思い出し、はあと溜息をついた。
「どうした、ベルナルド」
串焼き肉を頬張りながら、スィムナールが聞き咎める。
「いや、別に」
「なんだよ、気になるじゃないか」
「自分の親族に嫌気がさしましたので」
「ふうん?」
「部隊長の悪口を言われました。顔と体を使ってローク陛下に取り入ったんだろうと」
言われましたと言おうとして舌が凍り付く。
部屋の空気が固まったからだ。
「誰だ」
端的にジハンギルが問う。有無を言わせぬ雰囲気だ。
「……メルツァーの本家の長男です」
「ほほう、なるほどなるほど」
そう愉快そうに相槌を打ったのはグラムだった。
目には歩くのもままならない老人とは思えぬほど鋭い光が宿っていた。
横にいたドミトリーはいつもの斜に構えた笑顔が消えていた。
「大叔父上」
「何かな? バハディル」
「程々に頼みますよ」
「お主らの邪魔はせんよ」
そう言って妙にしっかりした足取りで帰っていった。
メルツァー本家の当主が捲し立てるのを聞きながら、ベルナルドはやたら不味い葡萄酒をちびちびと飲んでいた。
淡水魚の煮込み料理と串焼き肉、季節外れで甘味の薄い白甜瓜とパンが並んでいる。
月に一度、メルツァーの本家に親族が集まり、宴席となる。
ベルナルドが子供の頃はそれなりに羽振りが良かったので、ご馳走が出て、ここへ来るベルナルドの唯一の楽しみだったが、今は落ちぶれていて味気ない料理が並ぶ。
耳に胼胝が出来るほど聞いたなあとぼんやり思う。
決まってこのあとは、何故メルツァー家を蔑ろにするのかという愚痴に行きつく。
蔑ろも何もこの国に来た当初はそれなりに武勲を立て領地を賜ったが、その後はこれといった勲功を上げることなく徐々に領地を減らしていって今は貴族としての体裁を整えるのも四苦八苦する状態だ。
ベルナルドの家も同様で、現当主である父親が病に倒れ、その薬代もままならずベルナルドの俸給をあてにしている。
今まで持参金の為にこつこつと貯めてきたベルナルドの金も兄が結婚するためにごっそり持っていかれた。
はあと溜息をつく。
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ピクリと肩を震わせて、顔を上げる。見ると当主の言葉に同調して皆頷いていた。
自分がいる前で何を言っているのだ、こいつらは。
「なあ、お前もそう思うだろベルナルド!」
バチンと思い切り背中を叩かれた。
叩いたのは隣に座っていた本家の長男でだいぶ酔いが回ったのか赤い顔で同意を求めてくる。
酒臭い息に内心顔を顰めそうになるが表面上は習い性になったヘラヘラ笑いを浮かべる。
この男には子供の頃からベルナルドはいじめられた。
いや、いじめなどという可愛いものではなかった。
井戸に突き落とされたり、腐った魚を無理矢理口の中に入れられたり、どう猛な犬を嗾けられて危うく死にかけたこともあった。
流石に犬を嗾けられたときは、殴りつけた。
この手の人間は自分が傷つくことには弱いのか、一発殴り返しただけだったが、鼻に当たり鼻血を流しながら泣き喚き、親である本家の当主に言いつけたのだ。
烈火のごとく怒り狂った本家の当主は使用人たち数人にベルナルドを袋叩きにさせた。
流石に当時十歳のベルナルドに気が咎めたのか、手加減されたので大怪我は追わずに済んだが。
その後、ベルナルドの父親を呼び出し、散々に文句付けた。
ベルナルドの言い分は完全に無視され、父親は平謝りし、ベルナルドは三日ほど食事を抜かれた。
ベルナルドの母親は妻ではなく、元は使用人で正妻の妊娠中に手を付けてベルナルドが生まれた。
身分が低いベルナルドの母親はいつも父親と正妻の顔色を伺うばかりでベルナルドを庇ってくれたことはなかった。
「……俺は近衛大隊の中央部隊所属なんですが」
ヘラヘラと笑いながら、心の中にどす黒い感情が渦巻いていた。
「おお、扱き使われているんだってなベルナルド! 小隊長に出世したとか嘯いていたが、俸給が平の兵士並みとはお前どれだけ嘗められてるんだ!」
下品な笑い声を上げて、なあと隣に座って黙々と食事をしていたベルナルドの兄に同意を求める。
「本当ですよ。どうしようも無い甲斐性なしで仕方がないから家に置いてやっているんですよ」
卑屈に媚びを売る兄にベルナルドは鼻白む。
ベルナルドの俸給は実は中隊長格の額を支給されている。
地位は小隊長であるが、ナイジェルの副官でもあるのでその分多いのだ。
中央部隊に所属する時、何の気はなしにナイジェルにポロリと家族に俸給を取り上げられている事を愚痴ったことがあった。別にナイジェルに何とかしてもらおうなどと思ってなかった。
どこか搾取される人生に慣れてしまったところがベルナルドにはあった。
それを聞いたナイジェルは眉を顰め、考え込んでいた。
数日後、養父のハイルの所に連れて行かれた。
会所の公証人であるハイルに事情を話して、何とかしてくれるよう頭を下げてくれた。
ハイルは快諾して、平の兵士分の俸給のみ通常通り支給し、それ以外の俸給は別口で会所の中で預かるようにしてくれた。
ベルナルドは茫然とナイジェルを見た。
ナイジェルは苦笑して、
「俺の副官が他所の家に食事を集っていたら外聞が悪いからな」
相変わらず口は悪いが温かい声だった。
ベルナルドは赤くなって俯いた。
顔を上げたら、涙が零れそうだった。
涙を流すなんて、子供の時以来だった。
「しかし、どうやってローク陛下に取り入ったのやら。あの顔と体を使ったに違いない!」
そう言ってまた下卑た笑い声を上げる。
ベルナルドは俯く。
本心を笑顔で誤魔化すことに慣れた自分だが、この暴言には我慢がならない。笑顔の仮面にひびが入ってきそうだ。
「そろそろお暇します、明日は早いので」
「大変だな、下っ端は!」
楽しげに笑う男をわからないように冷ややかに見る。子供の頃の力関係が永遠に続くと信じているのだろう。
屋敷を出て、金がないのか手入れの悪い庭を通り過ぎると兄が追ってきた。
「ベルナルド、その悪かったよ。だけど仕方ないだろう? あいつには逆らえないんだ」
上目遣いで今度はベルナルドに媚びてくる兄に向かって無言で手を出す。
びくりと恐れた様に震えると懐から、何枚かの紙を出す。
一通り目を通すと自分の懐に仕舞い込む。
「あ、あのなベルナルド」
「兄さんに迷惑はかけないから、安心してくれ」
へらりと笑うと踵を返し、日干し煉瓦の壁にひびの入った門から出て行こうとする。
「その、あのな。もう少し何とかならないだろうか?」
また金の無心かと舌打ちしそうになる。
「俺の俸給はほとんど渡しているだろう」
「いや、そうなんだが。父さんもなかなか良くならなくて、薬代が嵩んでな」
ああ、そういえばこのところ美人揃いだという酒場に兄が入り浸っていたなと思いだす。
「ちょっと頼んでみるよ。でも、そうするとこればっかりの情報じゃあ足りないかな?」
そう言って懐を叩く。ベルナルドの兄は近衛大隊右翼の所属兵士で、平だが会計係の中隊長の部下だった。右翼部隊の不正に関する情報を横流しするように頼んでいたのだ。
「そ、それ以上か?」
「兄さんが嫌なら別に」
「わ、分かった」
「頼んだよ」
そう言って、足早に門から出て行く。
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「主殿が喜んで迎えてくれるかはわからないけどな」
「いえいえ、口ではなんと申しても主は喜んでおりますよ」
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いつもなら、舌打ちと「追い返せ!」か「また集りに来たか!」という決まり文句が飛んでくるのだが。
中に入ると珍しい面子が揃っている。
バハディルの他に、ブレンドンとジハンギル、王都に戻っていたスィムナールがいた。
バハディルはじろりと睨み付け、ブレンドンたち手を上げて軽く挨拶を送ってくる。
「また、手土産も持たずに食事を集りに来たか」
「”手土産”なら有りますよ」
懐を叩く仕草をすると片眉を上げて、何かを察したのかバハディルは座るように促した。
「ふむ、ならいい」
「随分珍しい面子が揃っていますね」
そう言うとやや深刻そうな雰囲気になる。
「何かありましたか?」
「エルギンで少々深刻な事態になりそうだ。長老格のカーディル大隊長が亡くなった」
そう話し始めたのはブレンドンだった。
「風邪を拗らせてのことらしい。お年だったから仕方のないことだが、ナイジェル部隊長に好意的な大隊長が1人いなくなるな」
「エルギン辺境伯とは長年の友人でも有った。側近でもあり、辺境防備隊の取りまとめ役でもあった。今まで抑えられていたナイジェル部隊長に対する反発が高まるだろうな」
バハディルが難しい顔で溜息をつく。
「一人いなくなるだけでしょう」
バハディルたちは顔を見合わせる。
「スライがな、辞めるそうだ」
「スライ?」
突然、聞き覚えのない名前を出されてベルナルドはは困惑する。
「ベルナルド、お前は面識が有る筈だ。遺跡調査の時ナイジェル部隊長に従っていた年長の兵士がいただろう?」
「そういえば、いましたね」
「あいつはナイジェル部隊長が従卒の時の直属の上官だった。それからずっと傍らにいて付き従っていた。おそらく部隊長が近衛大隊に移ることに最も不満を抱いていたのはスライだろう。自分を近衛大隊に連れて行かなかったことにもな」
「……カールーン叔父御に時々不満を漏らしていたらしい。叔父御も宥めていたようだが納得できなかったのだろう」
「それだけならまだ良かったんだが、カーディル大隊長が、死ぬ間際にもし遺跡調査の失態がなければ、今頃エルギン辺境伯にナイジェル部隊長がなっていただろうと言ったらしい」
「まあそうかもしれませんが、何故?」
「どうも、バスター閣下はカーディル大隊長に次ぎにナイジェル部隊長が勲功を上げたら、辺境伯に推挙するように根回しを頼んだらしい。カーディル大隊長も部隊長に好意的な大隊長数人に話を通していたそうだから、確実に実現していただろうな」
「ナイジェル部隊長の武功を考えると昇進が遅すぎるんだ。閣下の甥と若すぎるということが枷になっていた。閣下の甥でさえなければ、閣下は疾うに辺境伯に自分自身で推挙していただろう」
「カーディル大隊長が亡くなって、今エルギン辺境防備隊は内部分裂のような状態だ。その原因となったナイジェル部隊長の近衛大隊部隊長への就任は遺跡調査の失態が原因。それに係わったスライに非難が集中したそうだ」
「……それは辞めたくなりますね」
「バスター閣下もファーティマ様が生まれて、王都に戻りたいのだろう、辺境伯の地位を返上する時期を探っているようだしな」
「可愛らしいですものね、ファーティマ様は」
ベルナルドの言葉に皆苦笑して頷く。
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「どこかにおでかけでしたか」
「ああ、ファーティマ様に目通りがかなっての。お可愛らしい姫君よのう、眼福じゃったよ」
にこにこと笑うグラムの横で、ドミトリーも微笑んでいる。
「それはようございましたな」
バハディルも穏やかな表情だった。
このラスロ家は不思議な一族だとベルナルドは思う。
ベルナルドのメルツァーよりもはるかに古い家柄を誇るのに王家に対して一定の距離を置いている。
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そう、まるで……。
「ところで、ベルナルド。いつになったら”手土産”を渡すのだ」
催促するようにバハディルが手を差し出す。
「いや、食事をしてから渡そうと」
「四の五の言わずに出す物を出せ」
「はいはい」
渋々懐から紙の束を取り出すとバハディルに差し出した。
計ったようにヴェーラたちが食事を運んでくる。
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渡された紙を真剣な表情で見るバハディルをスィムナールは興味深そうに、ブレンドンは人の悪い笑みを浮かべ、ジハンギルは無表情で見ていた。
それを見ていたベルナルドは嫌なことを思い出し、はあと溜息をついた。
「どうした、ベルナルド」
串焼き肉を頬張りながら、スィムナールが聞き咎める。
「いや、別に」
「なんだよ、気になるじゃないか」
「自分の親族に嫌気がさしましたので」
「ふうん?」
「部隊長の悪口を言われました。顔と体を使ってローク陛下に取り入ったんだろうと」
言われましたと言おうとして舌が凍り付く。
部屋の空気が固まったからだ。
「誰だ」
端的にジハンギルが問う。有無を言わせぬ雰囲気だ。
「……メルツァーの本家の長男です」
「ほほう、なるほどなるほど」
そう愉快そうに相槌を打ったのはグラムだった。
目には歩くのもままならない老人とは思えぬほど鋭い光が宿っていた。
横にいたドミトリーはいつもの斜に構えた笑顔が消えていた。
「大叔父上」
「何かな? バハディル」
「程々に頼みますよ」
「お主らの邪魔はせんよ」
そう言って妙にしっかりした足取りで帰っていった。
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