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第四話 陽一の秘密

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次の週の火曜日。私はある店の前にいた。彼が予約してくれた居酒屋だった。いつもの店と同じ町にあるけれど、外観を見る限り、とてもお洒落で落ち着いた店のようだった。

「お待たせ」

彼がいつもの仕事終わりのスタイルで現れた。私がオススメした眼鏡をきちんと掛けてくれている。とても嬉しかった。

「やっぱりその眼鏡、とても似合ってる。私の見立ては正しかったわ」

「そうそう、嫁にも褒められたんだよ。凄く似合うって」

その言葉に微かに胸の痛みを感じた。あまり考えないようにして、私は答えた。

「そう。奥さんにまで喜んでもらえて何よりだわ」

すると、彼は私のことをまじまじと見つめ、目を細めると言った。

「……うん、やっぱり志麻ちゃんは眼鏡がない方がキレイだよ」

「ちょ……」

思いがけない言葉に私が慌てていると、彼は更に続けた。

「それに今日のスタイルも……色気があって素敵だよ」

そう言うと彼は少し頬を赤らめた。今日は彼と初めて会った時と同じく少し色気のあるスタイルにしたのだ。ワンピースはまた違うものだけど、肌が露わになっていることには変わりない。

「そ、そろそろ店を案内してくれる?」

「あ、ああ。そうだね。行こうか」

彼は思い出したようにそう言うと、店の扉を開けたのだった。

その店は個室だった。壁が薄いので隣の声は聞こえるが、そんなに大きな声を出さなければ話の内容までは分からない。彼はよほどデリケートな話をしようとしているに違いない、そう思った。彼はとりあえず、自分の分のビール、そして私の梅酒とつまみをいくつか注文した。その中には私の好きな枝豆もあった。

飲み物とつまみが運ばれてくるまで他愛もない話をしていたが、乾杯が済むと彼は急に大人しくなってしまった。自分から「話したいことがある」と言ったのに、なかなか言い出せないらしい。

「……陽一くん、話って?」

「ああ、ごめんね。なかなか言い出せなくて……」

彼はそう言うと、意を決したように口を開いた。

「志麻ちゃんはもしかしたら何か気づいてるかもしれないけど……その……嫁とのことなんだ」

「うん、もしかしたらそうかなとは思ってたわ」

「そっか。実はさ、俺、子供がいないって話しただろ?あれ、嫁が理由なんだ」

「奥さんが?」

すると、彼は声を潜めると静かに言った。

「嫁はセックスが嫌いなんだよ」

「えっ……?じゃあ、今まで一度も奥さんとしたことないの?」

「いや、付き合ってた頃と新婚の頃はしてたよ。でも、無理してたらしいんだ」

「無理って……演技してたってこと?」

「ああ、そうだ。信じられないだろ?」

「……何で分かったの?」

「ある日、突然泣かれたんだよ。寝る前にベッドに入った時にその気になって抱き締めたらさ。いきなり嫌だって拒否されて。びっくりするやらショックやらで俺一気に萎えちゃってさ。なだめながら理由を聞いたら『よく分からないけど嫌悪を感じる』とかなんとか……」

「もしかして、過去に性的な嫌がらせを受けたことがあるとか?」

すると、彼は少し考えた後にこう言った。

「……そういうことは何も言ってなかったけど……志麻ちゃんの言う通り、もしかしたら俺に言いたくない何かが過去にあったのかもしれない。とにかくもうしたくないって。じゃあ、俺のこと嫌いなのか?って聞いたらそんなことないって言うんだ。俺のことは愛してると。でも、セックスはしたくないんだって。俺、もう訳わかんなくて」

「じゃあ、それ以来してないのね?」

私がそう尋ねると、彼は遠慮がちに頷きながら言った。

「……ああ」

「子供は望んでいるの?」

「結婚当初は望んでたよ。でも、嫁がそんな状態だから諦めたんだ。嫁も子供はいらないって言うし」

「……そう。でも、私、気持ちが分かる気がする」

私の言葉に彼は目を丸くして言った。

「えっ?誰の?嫁の?」

「違うわ。あなたのよ」

「……どういうことだよ?」

そこまで言っておきながら私は一瞬、夫との関係を彼に打ち明けるか迷った。でも、彼の悩みに寄り添う為には言うしかない。私は意を決して口を開いた。

「実はね、私も陽一くんと全く同じ。夫とはレス状態なの。もうしばらくしてないわ」

彼は先程よりも更に目を丸くした。

「ええっ……本当に?」

「うん。夫には『女とか妻とかいうより、家族と言った方がしっくり来る』って言われたけど、それって私のことを『女』として見られなくなったってことでしょう?」

すると、彼は酷く遠慮がちにこう言った。

「……まあ、そうとも捉えられるか。理由は何だ?旦那さんもセックスが嫌い?そんな訳ないよな?」

「そうね。夫の場合は単純に不倫よ。順番は分からないけど」

「順番?」

「私を女として見られなくなったから他の女に走ったのか、他の女を好きになったから私を女として見られなくなったのか、ってこと」

「ああ、なるほど……」

妙な納得をしている彼に、私は思い切って尋ねた。

「ねえ、陽一くん、同じ夫の立場としてあなたはどう思う?」

「ええっ、俺?」

彼は驚いてしばらくの間、考え込んでしまった。やがて、とても言いにくそうにゆっくりと口を開いた。

「ごめん……それはさすがに俺の口からは……どう言ってもきっと志麻ちゃんを傷つける」

「そうよね……ごめんなさい」

気まずい沈黙。私は急いで口を開いた。

「陽一くんは?奥さんとこれからどうしたいと思ってるの?」

彼はビールを一口飲むと言った。

「もちろん、離婚する気はない。嫁のことを愛してるし、セックスだけが全てじゃないって分かってるから。嫁が嫌がることを無理強いしたくないし。でもさ、やっぱり満たされないんだよな。好きな女を抱けないなんて……切ないよ。すぐ隣にいるのに」

そう言って伏せた彼の目は酷く揺れていた。その切ない表情に胸が痛くなった。夫と最後にした時、すぐ隣にいるのに何故か遠く感じたことをふと思い出した。きっと彼も同じなのだ。

「そうよね……よく分かるわ」

「志麻ちゃんは?旦那さんの不倫を問い詰めるつもりなのか?」

私は枝豆を口に放り込むと言った。

「……いいえ。私はこのままでも別にいいと思ってる。夫は完全に他の女の所へ行った訳じゃないの。きちんと家に帰ってくるし、休日は一緒に出掛けたりもする。ただ、セックスがない。それだけなの」

そして、梅酒を飲むと続けて言った。

「奥さんはあなたのことを気遣ってくれないの?あなたが苦しんでること、気づいてるはずでしょう?」

「もちろんだよ。それについて実は嫁から言われてることがある」

「……どういうことを?」

私が尋ねると彼はビールを飲み干し、真剣な顔で言った。

「他の女としてもいいって」

全くの予想外の言葉に驚き、思わず口元を手で覆ってしまった。

「えっ……嘘でしょ……?」

「信じられないだろ?俺も耳を疑ったよ、最初は。でも、私はあなたを満足させてあげられないから、って。でも、別れたくないから、あなたの好きなようにして欲しいって」

私は少し考えてから言った。

「夫婦同意の不倫……ってこと?」

「うーん……端から見たらどうしてもそう見えるよな」

「陽一くんの気持ちはどうなの?」

「もちろん、嫁以外の人と関係を持つなんて、と思うよ。でも本音を言えば、解決策はそれしかないのかも……とも思う」

信じられない言葉に私は思わず声を上げた。

「ちょっと……本気なの?」

「いや、もちろん、愛が伴わないセックスなんて俺は嫌だよ。だから……」

すると、彼は私の顔をじっと見つめた。

「……どうしたの?」

「嫁以外に好きになった人と関係を持ちたいと思ってる。だから、俺はこの話を志麻ちゃんに打ち明けた」

私には分かった。彼が何を言おうとしているのか。あえて返事をせずに梅酒を一口飲み、中身が空になった皿を眺めた。不意に視線を感じて顔を上げるとこちらをじっと見つめる彼と目が合った。しかし、特に驚く素振りはない。私達はそのまま何も言わずに見つめ合った。眼鏡の奥の彼の瞳が微かに熱を帯びている、そんな気がした。しばらくして、彼は露になった私の胸元に少し目をやると、ようやくハッとした顔をして目を逸らした。

「今、どこ見てたの?」

私はわざと気づかないふりをして尋ねた。すると、彼はまたハッとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。

「……志麻ちゃんのこの辺り、って言ったら怒る?」

自分の胸元を指差しながら悪戯っぽい笑みを浮かべる。その表情に私の胸が高鳴った。

彼は私を求めている。今すぐ。

直感的にそう思った。とても嬉しかった。そして、彼なら私の寂しさを理解し、それを埋めてくれるかもしれない、そう思った。

「ふふっ全然。むしろ、私に興味を持ってくれて凄く嬉しいわ。もちろんそっちの意味で」

彼は驚いたようで少し目を丸くした。そして、テーブルの上に置いていた私の手を咄嗟に握ると、真剣な顔でこう言った。

「俺は志麻ちゃんのことが好きだ。初めて会った時から。だから……」

「陽一くん……」

そして、私に体を寄せると、耳元で静かに低い声でこうささやいた。

「俺は今、君が欲しくて堪らないんだ……」

いつもは陽気で明るい彼の「男の面」を垣間見た気がして、不意に胸が高鳴った。それは先程よりもずっとずっと大きい。体の奥がうずいて、次第に熱を帯びて来た。どうしようもなく胸が苦しくて、衝動的に彼の胸に飛び込んでしまいそうだった。

それは夫と最後にした時のあの「どうしようもない恋しさ」によく似ていた。その時、私は奥底にあった自分の気持ちに気づいてしまった。私も彼のことを……。だからこそ、こんな肌が露になったワンピースなんか着て来たのだ。私も無意識の内に彼を求めていたのだ。しかし、私はそれをあえて口には出さなかった。彼の顔を見つめ、私は何も言わずに深く頷いたのだった。



第五話へ続く。
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