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第7章 Side 珠喜
第14話 許されぬ恋
しおりを挟む仕事を一生懸命やるようになったのはもちろんお客さんの為。だけど、それだけじゃない。当時、店長の宮沢悠誠さんに片想いをしていて彼に褒められることが嬉しかったのだ。
39歳の彼は笑顔が素敵で気配りができる人だった。入社した時、仕事を教えてくれたのは厳しい女性社員だった。叱られ、落ち込む度に店長は「夏目はよく頑張ってると思う。何かあったらいつでも俺に言えよ」と、優しく声を掛けてくれた。彼に対する信頼感は次第に恋心に変わっていった。
副店長の谷崎攻治さんは33歳。明るくて皆に愛されるムードメーカーだった。当時、10年付き合った同い年の彼女と結婚したばかり。
店長と副店長は仲が良く、中華街に二人でよく飲みに行っていた。アタシは店長との接点を作る為、飲みに行く店や好きなお酒の種類を積極的に攻治さんに尋ねた。ある日、偶然を装って二人の飲み会に居合わせることに成功し、それ以来仕事終わりに三人で飲みに行くようになった。
「谷崎さん!お酒弱いんだから、あまり飲んじゃダメですよ!」
「大丈夫だって~!オレは君とお酒が飲めることが嬉しいんだよ!」
「攻治、お前ちょっと飲みすぎだぞ。奥さんが心配する。しっかりしろよ」
「大丈夫ですって~!」
誠実な店長と違い、攻治さんは軽いところがあった。ある日、店長は仕事から上がったばかりのアタシを呼び止めて声をひそめながら言った。
「攻治は昔、新人の女の子と浮気して、当時付き合っていた今の奥さんとトラブルになったことがある」
「えっ?!」
「だから、あいつには十分気をつけるんだぞ」
「わ、分かりました」
数日後、お昼のラッシュに間に合わせるため休憩室で早めに一人ランチをしていると、攻治さんが生姜焼き弁当を持って隣の席にやってきた。
「珠喜ちゃんってさ、店長のこと好きなんでしょ?」
思わずご飯を吹き出しそうになった。
「何でそう思うんですか?」
「見てたら分かるよ。珠喜ちゃん、分かりやす過ぎ!」
攻治さんは楽しそうに人差し指をアタシの方へ向けた。
「良かったら協力してあげるよ」
「……えっ?」
「店長とは付き合い長いから好みとか知ってるし、色々サポートできると思うよ」
協力してくれるのはありがたい。店長のことをよく知っている人なら尚更だ。でも、アタシは迷っていた。「あいつには十分、気をつけるんだぞ」心配してそう忠告してくれた店長を無視することになる。
「……」
「無理強いはしないよ。必ず成功するとは限らないし」
攻治さんは生姜焼きをご飯と一緒に頬張った。別に彼に告白されている訳じゃない。彼はただ協力を申し出ているだけ。それに彼はもう結婚したのだ。今更、他の女とどうこうなんてことは考えていないだろう。
「じゃあ、協力してもらえます?」
すると、攻治さんは嬉しそうに笑いながら言った。
「よし!オレに任せろ!」
それから攻治さんは、仕事終わりに近くの夜景スポットに出かけてアタシと店長を二人だけにしてくれたり、店長が運転する車の助手席に座らせてくれたりと色々な作戦を実行してくれた。その度に好意を持っていることをアピールし、攻治さんがいない時に色仕掛けをしたこともあった。でも、距離は全く縮まらなかった。
いつものように三人で飲んでいる時、電話に出るため店長が席を外した。すると、攻治さんは声をひそめて言った。
「実はさ、店長とデキてるって噂のある人がいるんだよ」
「えっ……」
「桂製粉って会社分かる?仕入れ先の」
「小麦粉のメーカーですよね?」
「そうそう。そこの営業の江戸川さんとデキてるんじゃないかって言われてるんだよ」
「ええっ?!あの美魔女と?!」
江戸川さんとは桂製粉で営業をしている江戸川詩織さんという女性のことだ。43歳にしてスタイル抜群、華やかな顔立ちをしており、店で知らない人はいない有名人だ。仕入れ先の営業なんて普通なら店の人間とは殆ど関わりがない。でも、江戸川さんは違う。会社が店の近くで客としてよく訪れるのだ。店員からは影で「美魔女」と呼ばれている。
「でもそんな素振り一切ないですよね?」
「まあね。二人とも隙がないからな」
「じゃあ、一体なんでそんな噂が……?」
「休日に離れた所で食事してる二人を見たって人がいるんだよ。でも、本人に何回聞いても違うって言うんだけどね」
「えっ直接聞いたんですか?!」
「うん。だってスゲー気になるじゃん」
「さすが谷崎さん!」
と、その時。店長が戻ってきた。
「どうした?なんかあったのか?」
「な、何でもないですよ!」
「店長、珠喜ちゃんが寂しそうにしてましたよ!」
「ちょっ谷崎さん!」
「ああ、悪いな。ちょっと込み入った話をしてて……」
店長は目を逸らした。江戸川さんとの電話だったのかもしれない。攻治さんは鋭い眼差しで店長のことを見つめた後、明るい口調で言った。
「さっもう一杯いきましょう!すいませーん!」
厨房から店員さんが顔を覗かせた。
「おい、もう日付変わるぞ。夏目、俺で良ければ送っていくぞ」
いつもなら満面の笑顔で「よろしくお願いします!」と言っているはず。でも、そんな気分にはなれなかった。話を聞いた時はそんなにショックを受けなかった。でも、改めて店長を前にすると複雑な気持ちになる。
「いえ、大丈夫です!アタシもまだまだ飲みますから!」
それから数か月経っても店長との距離を一向に縮められなかった。ある夜、都内に出掛けて帰ろうとすると、通りがかった路地裏で思わぬ場面に遭遇してしまった。見慣れた男女が電柱の陰で抱き合っていたのだ。
(店長と江戸川さん?!)
慌てて近くの自販機の陰に隠れて様子を伺う。二人は濃厚なキスを交わした後、隣のラブホへ入っていった。
(あの噂、本当だったんだ……)
不思議とあまりショックを受けなかった。一向に縮まらない距離に半ば諦めというか彼に対しての気持ちが冷めてしまっていたからだ。それよりも「見てはいけないものを見てしまった」感覚の方が強かった。
(まぁ、これも人生経験かな)
それ以来、二人と飲みに行くことはなくなった。店長は特に気にも留めていないようだった。ホッとしたけど、少し寂しい気持ちにもなった。母が亡くなったのはちょうどその頃だった。仕事に身が入らなくて、心にポッカリ大きな穴が開いたみたいだった。
そんなアタシを見兼ねたのか、攻治さんが飲みに誘ってきた。母から父親のことを聞いた後だったので断った。でも何度も誘ってくる。
「この間言いましたよね?!アタシは既婚者とサシで飲むつもりありません!」
「そんなこと分かってるよ!」
「じゃあ、何でそんなにしつこいんですか?!」
「君が寂しそうだからだよ。元気ない珠喜ちゃんなんてらしくないよ」
「谷崎さん……」
思わず心が動いてしまい、アタシは彼の誘いに乗って飲みに行ってしまった。
「今日はありがとうございました。ちょっと元気出たかもです」
「それなら良かったよ」
「じゃあ、また明日」
帰ろうとしたその時だった。攻治さんはアタシの手を掴むと勢いよく引っ張り、後ろから抱き締めて言った。
「好きなんだ。珠喜ちゃんのこと……」
「な、何言ってるんですか?冗談やめてください!」
「冗談じゃない。オレは本気だ」
咄嗟に振り返ると、攻治さんと目が合った。あまりにも強くて熱い眼差し。いつもヘラヘラしていて冗談ばかり言う彼からは想像も出来なくてアタシは柄にもなく動揺してしまった。
「た、谷崎さんには、奥さんがいるでしょ?!」
「オレは嫁のことも珠喜ちゃんのこともどっちも好きなんだ!」
「ハ、ハァ?何言って……」
攻治さんはアタシの唇を自分の唇で塞いだ。麻痺したみたいに体が動かなかった。「嫁もお前も好きだ」なんて、今思えば最低の発言だって分かる。でも、その時のアタシにはその言葉の良し悪しを判断することが出来なかった。攻治さんは唇を離し、熱い眼差しでもう一度アタシの目を見つめた後、耳元で囁いた。
「ずっと好きだったんだ。君が店長に片想いをしている時から」
「えっ……」
「もちろん最初は相談相手のつもりだったけど、気づいてしまったんだ。君への気持ちにね」
アタシはそのまま攻治さんと関係を持ってしまった。彼は今まで付き合った人にはいないタイプで、良くも悪くも人の心を掴む事に長けていた。だから、父に裏切られた母のことを考えながらも、アタシは攻治さんに身も心も許してしまったのだ。
今思えば攻治さんと付き合うことで母を亡くした寂しさを紛らわそうとしていたのかもしれない。でも、攻治さんのことをクズだと思いながらも、その自分勝手な愛に流されて、いつの間にか彼を愛してしまった自分もまたクズなのだ。
けど、彼に本気で愛されたかった。奥さんなんて捨てて自分だけを見て欲しかった。あの時「妊娠したらどうすんの?」という問いに対して「奥さんと別れて一緒になる」ぐらい言って欲しかった。でも実際に返ってきたのは「珠喜のことも嫁のことも愛している」告白してきた時と全く同じ。彼と付き合って約1年。何の進歩もない。自分にとって都合の良い言葉にアタシは一気に冷めてしまったのだ。
―――――
元の世界のこと……いや、攻治さんとのことを思い出して何とも言えない気持ちになった。
「なんかむしゃくしゃする!気晴らしに外に出ようかな」
でも、賢弥さんは「一人で外に出るな」と言っていた。一瞬、迷った。でも、家の中にいても気分は晴れない。
身支度を整えて街に繰り出した。横浜駅に向かって見覚えのある道を通ると、元の世界に存在する建物もあれば、知らない建物もあった。
ふと思い立って山下公園まで足を伸ばした。大桟橋には大型客船が停泊していて、その向こうにはランドマークタワーと観覧車。反対側にはマリンタワー。元の世界と何ら変わらない景色。だけど、勤めている店はどこにもなかった。
(アタシがこの世界に存在しない人間だから?でも、同じ人間が存在しないなら観光名所だって存在しないはず。何で?作った人達がこの世界に飛ばされた後、元の世界と同じ物を作ったってこと?)
賢弥さんが教えてくれたパラレルワールドの定義や掟をもう一度思い返す。この世界に詳しい井伏さんですら分からないことが多いという。まだまだ謎が多いような気がした。
とにかくここでアタシに残された時間はあとわずか。残るか戻るか、そろそろ決めなきゃいけない。
元の世界に戻って、攻治さんにきちんと話をして改めて別れを告げ、過去の自分と決別をするか。でも、この世界にまた戻って来られるかどうかは分からない。賢弥さんには二度と会えなくなるかもしれない。
それとも、元の世界を捨てて賢弥さんと一緒にこの世界で生きるか。でも、元の世界(主に攻治さん)に対するこのモヤモヤした気持ちを一生抱えて生きることになる。何より賢弥さんがアタシのことをどう思っているのか全く分からない。
(もし元の世界を捨てて一緒に生きたいって言ったら、賢弥さんはどう思うんだろう……)
相談相手はいつも母だった。心を許せる同姓の友達が殆どいないアタシにとって母は親友でもあり、人生の先輩でもあった。
(お母さんがいてくれたら……)
ふと空を見上げる。海と空の境界線にあるベイブリッジが、まるで春の穏やかな青空に繋がる橋のよう。
(あの橋を渡ったらお母さんに会えるかな……なんて)
キレイで頼りになる、そんな母の優しい笑顔がふと蘇って無性に切なくなった。死ぬ間際、母は父親の秘密を明かしてくれた。
「言わないんじゃなかったの?」
「確かに墓場まで持っていくつもりだった。でも、私は年を取ったしあんたは成長した。もう時効よ。何より人生経験がどういうものなのか身を持って教えなきゃと思ったのよ」
そう前置きをした後に全てを話し終えて涙ぐみながら言った。
「私は最低な母親だったと思う。本当に苦労かけたって今では思うの。本当にごめんなさいね……」
アタシは母のすっかり細くなった手を握り締めて必死に言った。
「そんなことないよ!確かにお母さんは男癖めちゃくちゃ悪いけどさ、アタシを見捨てたり虐待したりしなかったじゃん。むしろ……こんなになるまで無理して働いてたんだと思うと……申し訳なくて……っ」
「やだ、珠喜ったら何泣いてんのよ」
「だって……本当にごめん、お母さん」
頬を伝う大粒の涙を母は優しく拭いながら言った。
「謝らないで……あんたは私の宝物。ありがとうね」
「お母さん……アタシの方こそ、ありがとう」
「死んでもあんたのこと、ずっと見守ってるから……あんたが心から大切に思える人と出会えて、幸せになることを私はずっと祈ってるわ」
母はそう言って優しく微笑んだのだった。もしも、アタシが不倫をしていると知ったら母は何て言うだろう?母は色んな男と付き合っていたけど、分かっていて不倫をしたことはあったのだろうか?
(いや、きっとないよね。だってお父さんのことあんなに怒ってたんだから……)
経験を積み重ねることによって、内面が磨かれ、人の心も動かせるようになる。外見だけ美しく飾ってもダメ。何より相手に対する深い愛情が必要。
母にそう教わったはずだった。でも、それができるようになった、と胸を張って言える自信は今のアタシには全くない。人として最低なことをしているだけだ。こんな状態では母に顔向けが出来ない。やっぱりアタシは攻治さんと決着をつけきゃならない。そんな気がした。それが元の世界に対するアタシの「ケジメ」なのだ。
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