願いの叶え方

皆中透

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シグナル、トランス、レシーブ

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「父さん、母さんはどこかお出かけですか? 明日出さなければならない書類があるのですが」

 母の姿が見えなくなってから3日は経っている。そのことで騒ぐわけでもなく、探しに行かせるわけでもなく、狼狽えもしない。子供である俺たちに、その事について話そうともしない。父のその反応は、いつも通りではあった。そして俺たち兄弟もその事に慣れていた。だから、普段なら母を探すこともしない。ただこの時は、どうしても母にサインをしてもらわないといけない書類があったのだ。
 修学旅行に行くために提出しなければならない書類があって、それを頼んでいた母が帰って来なくなってしまった。気がつくと旅行そのものがもう明日に迫っていた。だから、もう一人の親である父に仕方無く話しかけた。そうでなければ、あの人の口から出る言葉など聞きたくもないのが本音だった。

「提出する書類なら、不備が無いようにしないといけない。池内に頼みなさい。私の筆跡できちんと書いてくれるはずだ」

 そういうと、父は上着を着て外出しようとした。もう夜中だ。兄たちは既に眠っているが、俺は明日の事が気がかりで眠る事ができなかった。小学校最後の思い出、修学旅行が楽しみで仕方がなかった。鍵崎と一緒に、自由時間にお土産を探す約束をしているんだ。果貫も誘ってみようと思っている。中学からは離れてしまうから、一緒に出かけられるのはこれが最後かもしれないから、どうしても親のサインを確実にもらっておきたかった。

「あの、母さんは……」

 俺のその問いに答える様子も見せず、父は無言で家を出た。その後ろからスッと池内さんが俺のところに来た。俺に向かって穏やかに微笑むと、胸ポケットから封筒を取り出した。そして、それを俺にそっと手渡ししながら教えてくれた。

「修学旅行の許可証にサインしておきましたから。これを持って、旅行を存分に楽しんでいらっしゃってください」

 そして、今度はゾッとする表情でニヤリと笑うと、踵を返して父の後を追っていった。まるでその綺麗なお尻に、尻尾でも生えているかのように嬉しそうな後ろ姿で、主人の元へと馳せ参じる。運転手のいる送迎車に乗り、後部座席に座る父の隣に、当たり前のように収まる。その姿は、発車する前には見えなくなっていた。

「また車の中で恥ずかしいことしてるんだ……」

 池内さんと父がそういう関係なのは、随分前から知っていた。彼はとびきり優秀なセンチネルだ。父から出されたミッションで、失敗をした事がない。それこそ、他の男に抱かれて来いなんて言われても、喜んで飛び出していくような忠犬だ。それは素晴らしい部下というのだろう。少なくとも、父は彼のことをそう呼んでいた。
 でも、その存在のせいで母の立場がなくなってしまったことは間違いない。そういう意味では、俺にとっては敵だ。ただ、母も母でそれくらいで打ちのめされるようなタイプでは無かった。母にもそういう相手がいたらしい。俺たち兄弟は、いつも親とは離れて生活していたから、そのことで辛いと思ったことは無いけれど、歪んだ家族なんだろうなというのは、なんとなくわかっていた。

 そんな風に冷めた小学生だった俺のところに、母が亡くなったという連絡が来たのは、卒業直前の3月だった。4月からは私立の中学校の寮に入ることが決まっていて、荷物の整理をしていた。俺は大してものに執着しないタイプなので、必要のなさそうなものは次々と処分していって、もうこの家に戻る必要は無いと言える準備を着々と進めていた。
 そうやって忙しく過ごしていたところへ、池内さんがやってきたのだ。心底気持ちの悪い笑顔を貼り付けて。

「咲人様、お母上はお亡くなりになったそうですね。ゾーンアウトして気が狂ったところを、悪い男たちに拾われたようで……暴行された上に監禁されていたようで、そこで野垂れ死にしたそうですよ」

 心底楽しそうに、クククッと笑を我慢できないと言わんばかりに報告をしてきた。その時、俺は初めて他人に対して死ぬほど嫌な匂いを感じた。憎悪と享楽に満ちた匂い。おそらく、この男が母を死に追いやったのだろうと信じて疑えないほどに、きつい匂いだった。
 気がつくと、俺は池内さんに飛びかかっていた。そして、襟を締めて殺そうとしていた。たまたま廊下を歩いていた父が制止しなければ、俺は今頃前科者になっていたはずだ。

「何をしているんだ!」

 そう言って、池内を助け起こす父を見ていると反吐が出そうだった。母のことは、センチネルとしてのミッションに失敗したから見捨てた。それなのに、母を死に追いやった男は、そうやって優しく助け起こすのか? そう考えると、後数日そこにいることも出来なかった。

「どうしてあなたは人を……センチネルを使い潰すことしか出来ないんですか! 能力の範囲で働かせてあげればいいでしょう! 家族だったら、それすらしなくてもいいはずです! あなたにとって、家族とはなんなのですか!」

 そう雄叫びを上げた俺に向かって、父ははっきりと言い切った。それ以来、俺は家に帰っていない。

「池内は俺に喜びを与えてくれる。だが、あれにはそれが出来なかった。俺を喜ばせる事ができない人間は、俺の周りには必要ない。それがたとえ家族であってもな。お前も、俺を喜ばせる気がないのなら、出ていけばいい。三人目の男など、不要だ」

 だから俺は警察になった。いつか必ずあの男たちを捕まえてやるために。

「センチネルだったならその力を利用してでも、必ず追い詰めてやるからな」

*******

「永心? 大丈夫か?」

 捜査会議の後、疲れ切ってしまった俺は、どうやら眠り込んでしまっていたらしい。会議中に出てきた父の名が頭にこびりついていて、あんな夢を見たようだった。思い出したくもない、昔の出来事を。そして、俺が眠っていた間、ずっと野本先輩が抱きしめてくれていたようだった。キスをしてもらったところまでは覚えている。その後寝落ちしてしまっていたらしい。いつの間にかVDSに向かう車に乗せられていた。助手席のシートを倒して、ブランケットがかけられていて、少しでも異変があったらすぐ反応出来るようにしていてくれたんだなというのがわかった。じわじわと、心が温まる。

「大丈夫です。すみません、運んでいただいたんですよね……ありがとうございます」

 そう言って先輩の横顔を眺めていると、ちらっと目だけでこちらを確認した先輩が、一気に顔を赤らめるのがわかった。見つめただけでそんなに照れなくても……。捜査妨害が発覚したあの日、リカバリールームに泊まったあの日にしたことに比べたら……思い出すだけで、中心が疼きそうになって慌てた。

「まさかお前が執着していた現場のご遺体が大垣さんだったとはなあ……」
「気になっていたのって、そこなんですかね。大垣さん、捜査協力の件数がすごく多かったみたいですし」

 田崎によると、大垣さんがVDSに登録したのは、開所当時からだという事だった。それからずっと、殺人事件の調査や行方不明者の捜索に協力し、何度も感謝状を贈られていた。その分、警察にもVDSにも顔と名前が知れ渡っていて、永心があの事件に拘っていたのは、ご遺体が大垣さんだと気がついていたからではないかと言われていた。
 他の捜査官が大垣さんだと気が付けなかった理由は、顔がまるで違ったのと、身分証明書の類が見つからなかったからだった。大垣さんは、毎日かなり長い時間をかけて化粧をしていたらしい。直前まで会っていたのが翼さんだったというのもあり、普段着ですっぴんだったことで、ミュートの警察官には同一人物だと気がつくことが不可能だったようだ。
 それでも、遺体が大垣晶だとわかってしまえば照合できるデータは山のようにあった。だから、行方不明者の捜索依頼をかけていた兄の晴翔の届けを受理してすぐに捜査していれば、大垣さんだと分かるのはもっと早い時期だったはずだ。

「でも俺は、ご遺体じゃなくて、現場に違和感を感じたんです。一つは、不穏な空気。もう一つは、水です」
「空気? 水?? どっちも普通にあるだろう、特に山の中だったし」

 これは、言葉ではっきり説明できるものではないからな……と俺は思っていた。現場にあった雪解け水。それに違和感を感じた。水はどうしても時間が経つと無くなっていく。それを現場に留めておく事はできない。でも、やたらに水の減りが遅い場所があった。それが大垣さんのご遺体があった場所付近だった。
 それと、あの現場に張り付いていた空気だ。真野翼さんはガイドだと聞いている。でも、あの場に張り付いていたのは、センチネルの匂いだった。それも、かなりハイクラスのセンチネルだ。間違ってもガイドがあの場にいたとは思えなかった。

「真野翼さんに犯行が不可能だと言い切るために、必要な条件はなんだと思いますか?」

 先輩は元捜査一課の刑事だった。それこそ毎日殺人事件の犯人を探して駆け回っていた人だ。今回の事件の逮捕の仕方の杜撰さに最も驚いている人は、先輩だろうと思っている。だからこそ、その先輩の意見を聞いておきたかった。

「まあ、間違いなく必要なのはアリバイだろ? 犯行時刻にどこにいたかってことがわかってれば大丈夫だろう。ただ、死因も犯行時刻もわかってない。このまま警察に任せていたら、ずっとわからないかもしれないな」

 VDSの入っているホテルが見えてきた。次の信号で地下駐車場に入れるはずだ。俺たちは鍵崎と果貫がプライベートで使っている客用駐車場を使わせてもらうことになっている。建物の中に入れば、すぐに着くはずだ。

「……兄が大垣さんとお付き合いをしていたらしいので、死因の特定は早めてもらえるかもしれません。休みなく追求してくれるでしょうから。それが分かれば、犯行時刻も特定できますよね。とりあえず冤罪を防ぐことだけでもしないと」
「そうだな。ただ、気をつけろよ」
「え?」
「お前、わかってるだろ? 何が捜査を妨害しているのか」

 そう、わかっている。捜査を妨害しているのは、父だ。どうしてなのかまではわかっていないけれど、あの人にとっての「自分を楽しませてくれる人間」がおそらく犯人なのだろう。だから、必死で犯人を隠そうとしている。警察上層部の人間の秘密を掴んでいるのか、奴隷にしているのか、方法はわからないけれど、とにかく、上は父の言いなりになっているようだった。

「しばらくここに泊めてもらえ。そうでないと心配だ」

 先輩は熱の籠った視線を、俺に向けていた。父を相手にして、身の安全を保証してくれる場所など無い。万が一それが存在するとしたら、ここだけ。鍵崎と果貫が住む、このホテルだけだ。だから、ここで交渉と会議が行われている。でも、ここに泊まるという事は、負けを意味するようでもあった。俺は先輩にどうしても「はい」と言えなかった。
 返事が出来ずにいると、先輩が俺の腕をぐいっと引いた。そしてそのまま抱き竦めると、深いキスで俺を満たした。

「んっ……」

 先輩の大きくて温かい手が、俺の後頭部を支えた。そして、角度を変えてもう一度深いキスをくれると、そっと唇を離してまたぎゅっと抱きしめられた。その体から立ち昇る匂いは、官能的なものではなくて、強い使命感と愛情に満ちていた。揺るぎない覚悟の籠った、深い愛の香りだった。

「この件が片付くまで、俺がずっと一緒にいてやるから」

 そう言って、また唇を合わせてくれた。
 合わさったところからじわじわと、何かが伝わってくるようだった。体の中の恐怖や不安が、腕や体から抜き取られていって、愛情や安心感や温もりが、唇から注ぎ込まれてくるみたいだった。俺の体は、それを受け取ることで喜んでいる。そのループが、信じられないくらいに幸せだった。

「せんぱ……そんなの、いやです」

 俺の思いがけない反応に、先輩は少し傷ついたような顔をしていた。でも俺は、先輩の予想とは違うことを言おうとしている。さっき注ぎ込まれてきた温かいものを信じて、少し強気に出ることにしたんだ。

「すまん、嫌だったなら忘れて……」
「違うんです」

 覚悟を決めて、言うことにした。

「もう離れないでください。ずっと」
「え? ずっと?」
「そうです。ずっとです。この件が片付くまでじゃなくて、ずっとです」

 これまでの人生で、俺を愛してくれた人は鍵崎と果貫と野本先輩だけだった。あの二人がくれたのは、疑似だけれど家族愛だ。でも、先輩がくれたのは、そんなんじゃない。そして、俺も同じものを返したい。
 生まれて初めての満ち足りた思いを、一生手放したくなくなったから。

「先輩、ペアになって、死ぬまでそばに居て下さい」
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