見ないで、噛んで。

皆中透

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◇◆◇

——神様。嘘をついた俺が間違っていました。だから、お願いです。俺に、彼の願いを叶えてあげる強さをください……。

「まさかこんな日が来ようとはなあ……」

 俺は小さく呟きながら、ピルケースの中の錠剤を口に入れた。それを小さなグラスに入れた水と共に飲み下す。ゴクリと音がして、胃のなかへと冷たい刺激が走る。

「っはあ、よし。大丈夫、うまくやれる」

 俺はそう言って、胸に手を当てた。自分の手のひらで、胸骨付近を温める。じわじわとそこから広がる温度が、不安を徐々に消してくれる。薬を飲んで、手のひらで癒す。これが最近のルーティーンになってきた。

「あいつが望むなら。あの目が笑うなら、やるんだ」

月曜日の深夜、待ち望んだ相手がやってくる。そうすれば、そこには地獄が待っている。俺はその地獄を超えたい。いや、超えなければならないんだ。


◇◆◇


「こんばんは」

 初めてオールソーツで会った日に、連絡先を交換した。蓮は毎週火曜日が休みだと言う。俺は最近研究所の所長になったこともあって忙しくしているのだが、できる限り月曜は定時に上がって、火曜日を休みにするようにした。
 セフレとはいえ、他に恋人を作る予定も無く、蓮と会うために時間を空けるのを当然だと思っていて、時間が出来れば会いたいと俺が言うと、蓮もそれを快諾してくれた。

 今日は、初めて俺の家に蓮が泊まりに来ることになっていた。心臓が飛び出しそうだとはこのことかと思うほど、緊張してその時が来るのを待っていた。
 何度も何度も掃除をして、飲み物やつまみになりそうな物を確認した。さすがに遅くなるので晩飯はお互いに食べてからになるから、ここに来てからはゆっくり飲もうということにしてある。

 そうやって少年のように焦りながら待っていた相手が、今目の前に立っている。玄関先で光を湛えた月のような、少し悲しげな笑みを浮かべた蓮の顔を見て、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。

——やばい……このままがっつきそうだ……。

「意外と早かったんだな。どうぞ、入って」

 冷静なフリをしてリビングへと案内し、テーブルの横に荷物を置くように伝える。キッチンからビールと、近所の焼き鳥屋で調達したあれこれをトレイに載せて戻って来た。

 なぜかまだ立ったままの蓮の横に並んだ時に、ふわりと蓮の香りがした。その香りが、オールソーツでキスをした時の記憶を引っ張り出してきてしまい、うっかり襲いかかりそうになってしまう。
 今日の蓮は、それくらい妖艶な顔をしていた。

「どうした? 座れよ」

 冷静を装いながらそう促すと、蓮は目に涙を浮かべながら俺にしがみついてきた。

「あの、お願いがあるんですけど……」

 俺の腰の回した腕にギュッと力を入れて、下から俺を見上げてはまた俯く。何かをいいたいようだけれど、それを言っていいものかどうか躊躇っているようだ。しばらくそのままなので、俺は頭を撫でながら待つことにした。
 
 蓮の背丈は、俺の肩より少し上くらいまでしか無い。ちょうど胸の辺りに顔を埋めていて、だんだんそのあたりが濡れて来たのがわかった。少しずつしゃくり上げているのがわかる。

「……泣いてるのか?」

 トレイをテーブルに置き、蓮の顔を覗き込んだ。さっきまで笑ってたのに、もうぐしゃぐしゃになるまで泣いている。ボロボロと溢れてくる涙を指で掬っていると、その首にうっすらと赤い跡がついているのが目に入った。

「もしかして、また何かされたのか? これ……首輪の跡だろう?」

 その赤い跡に指でそっと触れた。蓮は僅かに身を捩り、ピクリと反応する。

「かわいそうに。こんなになるまで甚振らなくても……」

 両方の首にあるその線を、指先を滑らせて触れていく。痛みを少しでも減らして、少しでもいい記憶に変えてあげたくなった。するすると指先が跡をなぞると、その度に蓮はピクリと反応した。

「んっ……いつも……叩かれたり、噛まれたり、蹴られたりします。あっ……手や足に枷をつけられたり、首輪されたり。引きずられることもあります。顔だけは傷が残らないようにしてくれてるんですけれど……身体中傷だらけです。あっ、あっ! た、多分SMのつもりなんだと思います。僕は全然Mでは無いんで……んんんっ! た、ただの苦痛なんですけれど。だから……あの……」

 ズキン、と胸が痛んだ。わかっていたことだけれど、蓮をいいように扱っている男がいて、跡が新しいということは、つい最近そうされたばかりだということだ。
 胸の小さな尖を指で引っ掻くと「んぅっ!」と言いながら頽れそうになった。そのまま蓮を黙って抱き抱えて、寝室へと連れて行く。大切に扱うぞという主張を込めて、そっとベッドへ横たえた。

「つまり、俺に痛み止めになって欲しいってことだよな?」

 きっちりとボタンを止めて着られているワイシャツを、一つずつ解放していく。その中に、俺ではない男がつけたあとがチラリと見え始めた。

「はい。痛いの止めてください。僕、ラムネ飲まないで我慢しましたよ」

 少し得意げに言い張る蓮の顔は、褒められたがっている子供のようだった。それが愛しくてたまらなくなり、少し上向いている唇に優しく、深く、甘さを感じられるほど丁寧なキスをした。

「んっ……」

 窮屈さから解放されたシャツを開くと、アンダーシャツの向こう側に、うっすらと模様のように透けて見える跡がある。一つは、これから迎える心地よさを期待した粒の姿、そしてそれ以外は、生々しい傷の痕と真新しいアザの色だった。

「薄いけどグレーのアンダーシャツに透けるほどのアザってなんだよ……本当に酷いヤツだな。触ると痛むのか?」

 そう尋ねながら、ワイシャツをそっと体から離していく。腕から袖を抜くときに、首筋を吸った。蓮はそれに幸せそうに目を閉じた。

「あっ、首、気持ち……アザ、少し痛みますけれど、触ってください。……あの、お願いってそれなんです。出来れば、跡を辿って、記憶を上書きさせてください。全部触って欲しいんです」

 そう言って、自分でアンダーシャツをガバッと脱いだ。俺はその姿を見て驚いてしまった。

「お前……どうして逃げないんだ……」

 その体には、鎖骨の下から足首まで、噛み跡、裂傷の瘢痕、火傷の痕、真新しい切り傷と、ありとあらゆる傷跡があった。
 そしてさらに、赤みが強いものから青みがかったもの、黄色いものと、さまざまな経過を辿っているアザが、まるで花畑のように広がっていた。

「仕方が無いんです。僕が悪いので。耐えるしか無いから、痛みを消して欲しいんです」

 そう言って泣く蓮の姿を見ていると、俺にも痛みが襲ってきた。何があるのかわからない。逃すべきだとは思っている。
 それでも、それは後の話だ。今してあげられることを考えると、蓮の望みを聞いてあげるしかないと思った。

 俺は蓮に覆い被さり、その首の傷に軽く口付けた。

「わかった。これから月曜の夜は、週末の地獄を抜けたお前が辿り着く天国ってことにしようぜ」

「ふっ、ちょっとダサい……でも、ありがとうございます」

 そう言って笑いながら涙を流す蓮を、俺はぎゅうっと抱きしめた。
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