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目が覚めて※後半R18BLです。※
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◇◇◇
目がさめると、ベッドに横になっていた。ほんの少しだけ頭痛がする。そして、私はなぜここで寝ているのかを、全く覚えていなかった。
「寝る前……何してた? リョウが来て、入学前の課題を一緒にやって……。私が寝たからリョウは帰ったのかな……」
状況を考えると、どうもその考えが正しいのだろうけれども、どうしてだかわからないが、それはしっくりこなかった。
こんなにぽっかりと寝る前のことが記憶から抜け落ちるなんてことが、今まであっただろうか。
——何かおかしい気がするんだけどなあ。
私は訝しみながらも時計を見た。既に二十時を過ぎている。
そろそろお風呂に入ろうと思い、立ち上がる前にチラリとスマホの日付を見て驚いた。
「えっ? 丸一日過ぎてる?」
驚いて見返すと、間違いなく二十四時間以上が過ぎていた。カーテンを開けて驚く。夜ではなく、翌朝の八時だった。
遮光カーテンを使っているからか、気がつくのが遅くなったみたいだった。
しかも、天候が悪く、分厚い雲が陽の光を遮っていた。これでは夜だと勘違いしても仕方がない。
「ええ? 学校……あー、頭が追いつかない……」
驚き過ぎて頭が状況に付いて行けなかった。
しばらくベッドの上に大の字になって寝転がる。
昨日のうちにしないといけない事はなかっただろうかと考えていると、トントントンとドアがノックされた。
「あおいー? 起きたのー?」
返事をする間も無く、ガチャっとドアが開けられた。
いつも娘に無関心であるはずの母が、今日はなぜかそこに立っていた。
「なに? どうしたの?」
普段話す事などほぼ無い母娘だと言うのに、わざわざ部屋に入って来てまで何の用なのだろうか。
怪訝そうな娘の顔を見て、母はケラケラと笑いながら言った。
「なによー。丸一日ずっと眠ってたら、さすがに心配するでしょー、普通ー」
べったりと絡みつくような話し方をされてうんざりしたが、どうにか「ああ、ありがとうね」という言葉を捻り出した。
昔の母はこんな話し方では無かった。いつからこんな風になったのだろうか。もうそれもよく分からなくなって来ている。
あまりに自分に興味を持たない母に、私自身が興味を失ってしまった。
リョウと一緒にいれば寂しくないし、オルソに行けば誰かが相手をしてくれる。
母は、お金さえ出してくれれば、いてもいなくても構わないくらいに思うようになっていた。
そんな希薄な関係性しか無い自分にも、母に「彼氏」がいるらしいことは知っている。
それも、どうやら複数いるみたいだ。
毎日夕方から出かけては、翌日の昼間に帰宅する。
何度か誰かと歩いている後ろ姿を見かけたことがあるが、いつも違う人を連れ歩いていた。
ただ、なんとなく皆似ていて、おそらくそれが母の好みのタイプなのだろうということもわかった。そして、嫌悪しか無くなった。
母が小説を書き始めてから、十年くらいが経つ。
その間ずっと出しているシリーズものがあって、それが結構ヒットしているらしい。お金には困ってないようだ。
父とも離婚したし、自由気ままなのだろう。勝手にしてくれればいいと思っている。
「眠ってようが、苦しんでようが、気にしたことなんか無いくせに」
ボソッと呟いたが、「えー? なーにー?」と聞き返してくる相手に、わざわざもう一度伝えたいとも思えなかった。
着替えて学校に行こうと思い立ち上がる。そのまま母の横を、無言で通り過ぎていった。
廊下に出る時にトンっと肩が触れた。
——あ。
もう何も感じななくなってしまっていた。
触れて欲しくて寂しかった日も、触れられて嬉しかった日も、その気持ちすら思い出せないほどに、それらは遠い過去だった。
今はその気持ちの全てはリョウに向かっている。親代わりは、他の大人たちがしてくれている。
背後でまだ、もう私には要らなくなった甘ったるい喋り方の人が、何かを言い続けている。
既にあの女の言葉は、私の人生にとっては雑音にしか感じなくなっていた。
「あ、リョウ君は今学校休んでるからねー。なんか、ケガしてるんだって」
どうでもいい雑音の中に、リョウの名前が聞こえたので振り返った。
あの女はこちらを見ながらニヤニヤしている。
——私を振り向かせることができて満足なんだ。
私はそれを見て、心底腹が立った。
ゲスという言葉がこんなにも当てはまる人は、他にいるだろうか。
健全な親子関係だったら、こういう時どう思うのだろうか。
私には、娘の彼氏の情報を披露してやっと振り向いて貰えた哀れな母が、妙に勝ち誇った顔はただただ汚らしく見えるだけだった。
リョウのことだから詳しく訊ねようかとも思ったが、その嫌悪感が勝った。
そのまま洗面所へと振り返って進み、ドアを閉めて勢いよく水を流す。
嫌なことも全て流れていくようにと、思いっきり顔を洗った。
「はームカつく、なんなの。今日やたら話しかけてくるし」
私はバシャバシャと乱暴に顔を洗いながらも、リョウの事を考えていた。
ケガとはなんのことだろうか。
この一日で、学校を休むほどのケガをする様な事があったのだろうか。私はだんだんと心配になって来た。
でも、私は学校に行く。
中学生なのだから、特に理由もなく休むわけにはいかない。
今はまだ、何になりたいという夢すら持ち合わせてないけれど、いつか何かを目指した時のために、大学まではちゃんと行っておきたい。
だから大学受験の時に有利になるように、生活態度も常に真面目でいるように心がけて来た。
親は常に自分に興味がない。そうなると、自分を助けられるのは、自分しかいない。
少しでも選択の自由のある道へと進もうと固く誓っている。
歯を磨き、短い髪の寝癖を直した。着替えるために自分の部屋に戻ると、もう母はいなかった。
部屋にいなかったというよりは、家にいなかった。
家の中に、人の気配がしない。
——結局そうなんでしょう?
押しつぶされるような無音が広がっているだけだった。
ふと外を見た。
どんよりとした空からでも朝の光が入ってくる窓ガラスの向こうには、たくさんの家々が並んでいる。あの家の中の人たちは、どんな朝を迎えているのだろうか。
なかなか起きない子供、それを叱る大人、のんびり支度する子、急かす大人。もしかしたら、大人が子供に急かされていたりするのかもしれない。
なんにせよ、朝の家には、音があるものだろうと思う。
でも、私はその事を小学生になるまで知らなかった。
朝起きると家には誰もいないのが当たり前で、自分が立てる音しか聞いたことがなかった。目が覚めたらトイレに行き、歯を磨き、顔を洗い、着替える。買い置きのパンを食べて、保育園や学校へ通った。
その身支度は、隣に住んでいた優希さんが教えてくれた。リョウも私と同様に、そうやって優希さんに育ててもらっていた。
——あの当時、自分たちの親は、何をしていたんだっけ。
選択の自由のある人生を選ぼうと考えたのは、優希さんの背中を見てきたからだ。
優希さんだって、親に愛されてなかった。
隣の家から罵声が聞こえてくるなんて、日常茶飯事だった。
ひどい時は、ものが壊れる音と同時に、何かがドンっと壁にぶつかる音が聞こえてきた。おそらくそれは、優希さん自身が親から壁に投げつけられた音だったはずだ。
当時は高校生だったはずなので、反抗しようと思えば出来たはず。
でもそれをせず、卒業するまで耐えていた。
大学に通い始めたら家を出るだろうと思っていた。
それなのに、優希さんはそのまま家に残り、私とリョウの世話を続けてくれた。
顔を合わせると、いつも花が咲いたような、キラキラと輝くような笑顔で挨拶をしてくれた。色々と相談に乗ってくれて、勉強も教えてくれた。
塾に通えなかった私とリョウに、進学校に通えるようになるほどの学力を与えてくれたのは、優希さんと葵さんだ。
あの優しい幼馴染ペアとその周囲の人々のように、優しい伝播を生むことができる人になりたい。その道は間違えないようにしたい。
だから、親とも必要以上に関って問題を起こさないようにしておきたい。これまでずっとそうして来たのだから、これからも、そうして行けばいい。
——優希さんと葵さんのように生きるんだ。絶対に。
拳を握りしめ、きゅっと唇を引き結び、私はあらためて自分自身にそう誓った。
◇◇◇
「んっ、まぶし……」
肌に触れるシーツがサラサラと心地よい。
その布の隙間でまどろんでいると、優しい手が肌の上を滑っていった。
「あ……ン」
この数日、ずっと自分をギリギリと縛り上げていた神経が、その手の温もりに溶かされていった。
抱き竦められ、背中や首筋に降り注ぐキスの雨が、溶けた神経をとろりと甘く変えていく。
男の手は、肋骨を通りそのまま腰を滑ると、へその周りを優しく撫でるようにするっと通り抜けていった。
「あんっ」
下腹部に走った刺激に、目が覚める。
首筋に触れる唇の周りには、少しだけ伸びてきたヒゲがある。
それが薄い皮膚に当たって、チクチクと甘く傷んでいる。唇が押し当てられるたびにチクリと刺さる。
手はだんだんと上へ戻り、指先が胸の小さな尖へと迫ってきた。
「はァ、あ、ン」
「おい、目ぇ覚めたか、葵」
濡れて熱い舌が、小さな粒を優しく撫で回してくれる。それを震えながら堪能していたのに、いつの間にか離れてしまった。
少し惜しくてその舌先を見つめていると、指先で顎を掴まれ、優しく引き寄せられた。
疲れを労るように、唇が触れ合うだけのキスをくれた。
「うン……ン、ご、後藤さん?」
寝返りを打った先に、朝日が差し込んでいた。カーテンが中途半端にしか引かれておらず、隙間から光がまっすぐに飛び込んできた。
逆光で顔が見えにくくなっていてもわかる、愛する男がそこにいた。
「おう、おはよう。気分はどうだ?」
身体中の力が抜けて、嬉しさでいっぱいになる。
起きて隣に後藤さんがいる朝は、俺に何にも変え難い幸せを与えてくれる。
「疲れてたけど、今良くなりました。来てくれたんだ。嬉しいです」
たくさん頑張った先週の苦労が、まるで全てどこかへと流されてなくなっていくようだった。
大好きな後藤さんの寝起きの顔がすぐそこにある。
いつでも触れられる距離にあることで、とても心が弾んで抑えが効かず、思わずたくましい胸の中へと飛び込んでしまった。
「うおっぷ……倒れた割には元気そうだな。よしよし、忙しかったもんな。ありがとうな」
俺の髪をかき混ぜてぐしゃぐしゃにしながら、ニカッと笑って後藤さんは言った。そして、また優しくて甘いキスをくれた。
さっきまでの浅いのとは違い、深い角度で交わっていく。鼻先から漏れ出す息は、どんどん甘く濃くなっていった。
「はっ、あ、ごと……さん」
「久しぶりに二人っきりだな」
そう言うと、真っ赤になって期待を孕んだ俺の熱をそっと包み込んでくれた。
クッと握られるだけで、ジンジンと痺れるような刺激が腹奥に溜まる。ゆっくりと手が上下すれば、一人でに腰が浮き上がっていった。
「ずっと構ってやれなかったからな。反応がすごいな」
「あっ、あっ、だ、だめ、もっもたないっ!」
扱かれるだけで腰がぐんぐん持ち上がっていき、カクカクと揺れていく。ゆっくり後藤さんの腕に抱かれたいのに、体がそれを待ってくれない。
「あ、だめ、も、いっ、ン、っ!」
そのまま白い飛沫を撒き上げてしまった。
息が切れる中、満足そうに微笑んでいる顔を見て、俺は察した。後藤さんは、このままでいいんだろう。
「……昨日は隣にいたんですか?」
俺の問いかけに、それがどういう意味なのか理解した後藤さんが「おう。時間が空いたからな。お前はしんどそうだったから」と答えてくれた。
「まあ、残念だけれど。またの機会に、ですね」
俺がニコリと返すと、後藤さんは嬉しそうにチュッと短く唇を合わせてくれた。
「でも、それよりなんでここに? ……あ、昨日リョウから連絡行ったんですか? 俺、なんか気分悪くなってしまって。倒れたんですよね?」
あの時は、まだ多くの客が食事中だった。カウンター内にいたとはいえ、お客様も驚かれただろう。そして、きっと後藤さんにも迷惑をかけたんだろう。だからここに来ているのだろうから。
店長としてデイタイムを任されているのに、オーナーに心配をかけているようじゃだめだなと落ち込んでしまう。
それを察したのか、後藤さんは俺を抱き寄せてぎゅむっと潰すように挟み込んだ。
「ウプッ!」
「あはは。そう落ち込むなって。いや、俺昨日たまたま店に顔出したんだよ。常連さんから来月のバータイム貸切の予約もらったから、お前と店に電話入れてるのに、誰も出ねーからよ。なんかあったのかと思って」
後藤さんは複数の飲食店を経営している。バイトが足りなくて困っていた日に、俺が店を手伝ったことがあった。
それをきっかけに、時折無給のお手伝いとしてこき使われていた。
その後、カフェタイムの店長を任され、それ以来五年間、従業員と雇用主の関係にある。
そしてもちろん、それだけでは無い関係にある。
「店に着いたら、めっちゃくちゃ騒がしくてさ。お前は倒れてるし、リョウはパニクってるし。どうにもならなくて、俺がお前をここに連れて帰って来たんだよ。あ、店は沙枝ちゃんにちょっと早出してもらったから、心配すんなよ。何か悩んでることでもあるのか? 寝不足だったんだろ? 昨日は死んだように寝てたぞ」
サトルが刺された日から、睡眠時間は短くなっていたし、眠りも浅くなっていた。一応自覚もあったけれど、まさか倒れるほど疲れていたなんて思いもしなかった。
「すみません。ちょっと色々ありまして。でも、もう大丈夫ですから」
俺は後藤さんに頭を下げてお礼をしようとした。
ところが、膝立ちになった時点でフラつき、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
ぽすっと音がして、顔から布団の上に落ちてしまった。
手をつく事も出来ず、尻を突き出したような格好で固まる。
「お前……俺、朝からそんな元気ないぞ……いやそんなことも無いけど、残念ながら時間が無いわ」
「ちっ違います! 手が出せなかっただけだから!」
体がだるくてなかなか体勢を戻すことができず、恥ずかしくて赤くなっていった。後藤さんは腹を抱えて笑っている。
「顔から布団にダイブして、尻出したまま固まってるようじゃ、カフェの店長は務まらねえぞ! 今日は休んでろ。俺が代わりに入るから。そのつもりで昨日はここで寝たんだよ。リョウも休ませるからな。一日ゆっくり世話してもらえ」
そう言って、優しく葵を抱き起こすと、齧り付くようなキスをして、尻をバンバン叩いた。
「じゃあな」
そして、颯爽と帰って行った。
俺はあまりの恥ずかしさに、しばらくそのまま固まっていたが、かろうじて後藤さんの姿が見えているうちに「よ、よろしくお願いしまーす」と背中に声をかけることができた。
「おう、ちゃんと寝てろよ! また今度、みんなでな!」
そう言って、彼はオールソーツへと出勤して行った。
目がさめると、ベッドに横になっていた。ほんの少しだけ頭痛がする。そして、私はなぜここで寝ているのかを、全く覚えていなかった。
「寝る前……何してた? リョウが来て、入学前の課題を一緒にやって……。私が寝たからリョウは帰ったのかな……」
状況を考えると、どうもその考えが正しいのだろうけれども、どうしてだかわからないが、それはしっくりこなかった。
こんなにぽっかりと寝る前のことが記憶から抜け落ちるなんてことが、今まであっただろうか。
——何かおかしい気がするんだけどなあ。
私は訝しみながらも時計を見た。既に二十時を過ぎている。
そろそろお風呂に入ろうと思い、立ち上がる前にチラリとスマホの日付を見て驚いた。
「えっ? 丸一日過ぎてる?」
驚いて見返すと、間違いなく二十四時間以上が過ぎていた。カーテンを開けて驚く。夜ではなく、翌朝の八時だった。
遮光カーテンを使っているからか、気がつくのが遅くなったみたいだった。
しかも、天候が悪く、分厚い雲が陽の光を遮っていた。これでは夜だと勘違いしても仕方がない。
「ええ? 学校……あー、頭が追いつかない……」
驚き過ぎて頭が状況に付いて行けなかった。
しばらくベッドの上に大の字になって寝転がる。
昨日のうちにしないといけない事はなかっただろうかと考えていると、トントントンとドアがノックされた。
「あおいー? 起きたのー?」
返事をする間も無く、ガチャっとドアが開けられた。
いつも娘に無関心であるはずの母が、今日はなぜかそこに立っていた。
「なに? どうしたの?」
普段話す事などほぼ無い母娘だと言うのに、わざわざ部屋に入って来てまで何の用なのだろうか。
怪訝そうな娘の顔を見て、母はケラケラと笑いながら言った。
「なによー。丸一日ずっと眠ってたら、さすがに心配するでしょー、普通ー」
べったりと絡みつくような話し方をされてうんざりしたが、どうにか「ああ、ありがとうね」という言葉を捻り出した。
昔の母はこんな話し方では無かった。いつからこんな風になったのだろうか。もうそれもよく分からなくなって来ている。
あまりに自分に興味を持たない母に、私自身が興味を失ってしまった。
リョウと一緒にいれば寂しくないし、オルソに行けば誰かが相手をしてくれる。
母は、お金さえ出してくれれば、いてもいなくても構わないくらいに思うようになっていた。
そんな希薄な関係性しか無い自分にも、母に「彼氏」がいるらしいことは知っている。
それも、どうやら複数いるみたいだ。
毎日夕方から出かけては、翌日の昼間に帰宅する。
何度か誰かと歩いている後ろ姿を見かけたことがあるが、いつも違う人を連れ歩いていた。
ただ、なんとなく皆似ていて、おそらくそれが母の好みのタイプなのだろうということもわかった。そして、嫌悪しか無くなった。
母が小説を書き始めてから、十年くらいが経つ。
その間ずっと出しているシリーズものがあって、それが結構ヒットしているらしい。お金には困ってないようだ。
父とも離婚したし、自由気ままなのだろう。勝手にしてくれればいいと思っている。
「眠ってようが、苦しんでようが、気にしたことなんか無いくせに」
ボソッと呟いたが、「えー? なーにー?」と聞き返してくる相手に、わざわざもう一度伝えたいとも思えなかった。
着替えて学校に行こうと思い立ち上がる。そのまま母の横を、無言で通り過ぎていった。
廊下に出る時にトンっと肩が触れた。
——あ。
もう何も感じななくなってしまっていた。
触れて欲しくて寂しかった日も、触れられて嬉しかった日も、その気持ちすら思い出せないほどに、それらは遠い過去だった。
今はその気持ちの全てはリョウに向かっている。親代わりは、他の大人たちがしてくれている。
背後でまだ、もう私には要らなくなった甘ったるい喋り方の人が、何かを言い続けている。
既にあの女の言葉は、私の人生にとっては雑音にしか感じなくなっていた。
「あ、リョウ君は今学校休んでるからねー。なんか、ケガしてるんだって」
どうでもいい雑音の中に、リョウの名前が聞こえたので振り返った。
あの女はこちらを見ながらニヤニヤしている。
——私を振り向かせることができて満足なんだ。
私はそれを見て、心底腹が立った。
ゲスという言葉がこんなにも当てはまる人は、他にいるだろうか。
健全な親子関係だったら、こういう時どう思うのだろうか。
私には、娘の彼氏の情報を披露してやっと振り向いて貰えた哀れな母が、妙に勝ち誇った顔はただただ汚らしく見えるだけだった。
リョウのことだから詳しく訊ねようかとも思ったが、その嫌悪感が勝った。
そのまま洗面所へと振り返って進み、ドアを閉めて勢いよく水を流す。
嫌なことも全て流れていくようにと、思いっきり顔を洗った。
「はームカつく、なんなの。今日やたら話しかけてくるし」
私はバシャバシャと乱暴に顔を洗いながらも、リョウの事を考えていた。
ケガとはなんのことだろうか。
この一日で、学校を休むほどのケガをする様な事があったのだろうか。私はだんだんと心配になって来た。
でも、私は学校に行く。
中学生なのだから、特に理由もなく休むわけにはいかない。
今はまだ、何になりたいという夢すら持ち合わせてないけれど、いつか何かを目指した時のために、大学まではちゃんと行っておきたい。
だから大学受験の時に有利になるように、生活態度も常に真面目でいるように心がけて来た。
親は常に自分に興味がない。そうなると、自分を助けられるのは、自分しかいない。
少しでも選択の自由のある道へと進もうと固く誓っている。
歯を磨き、短い髪の寝癖を直した。着替えるために自分の部屋に戻ると、もう母はいなかった。
部屋にいなかったというよりは、家にいなかった。
家の中に、人の気配がしない。
——結局そうなんでしょう?
押しつぶされるような無音が広がっているだけだった。
ふと外を見た。
どんよりとした空からでも朝の光が入ってくる窓ガラスの向こうには、たくさんの家々が並んでいる。あの家の中の人たちは、どんな朝を迎えているのだろうか。
なかなか起きない子供、それを叱る大人、のんびり支度する子、急かす大人。もしかしたら、大人が子供に急かされていたりするのかもしれない。
なんにせよ、朝の家には、音があるものだろうと思う。
でも、私はその事を小学生になるまで知らなかった。
朝起きると家には誰もいないのが当たり前で、自分が立てる音しか聞いたことがなかった。目が覚めたらトイレに行き、歯を磨き、顔を洗い、着替える。買い置きのパンを食べて、保育園や学校へ通った。
その身支度は、隣に住んでいた優希さんが教えてくれた。リョウも私と同様に、そうやって優希さんに育ててもらっていた。
——あの当時、自分たちの親は、何をしていたんだっけ。
選択の自由のある人生を選ぼうと考えたのは、優希さんの背中を見てきたからだ。
優希さんだって、親に愛されてなかった。
隣の家から罵声が聞こえてくるなんて、日常茶飯事だった。
ひどい時は、ものが壊れる音と同時に、何かがドンっと壁にぶつかる音が聞こえてきた。おそらくそれは、優希さん自身が親から壁に投げつけられた音だったはずだ。
当時は高校生だったはずなので、反抗しようと思えば出来たはず。
でもそれをせず、卒業するまで耐えていた。
大学に通い始めたら家を出るだろうと思っていた。
それなのに、優希さんはそのまま家に残り、私とリョウの世話を続けてくれた。
顔を合わせると、いつも花が咲いたような、キラキラと輝くような笑顔で挨拶をしてくれた。色々と相談に乗ってくれて、勉強も教えてくれた。
塾に通えなかった私とリョウに、進学校に通えるようになるほどの学力を与えてくれたのは、優希さんと葵さんだ。
あの優しい幼馴染ペアとその周囲の人々のように、優しい伝播を生むことができる人になりたい。その道は間違えないようにしたい。
だから、親とも必要以上に関って問題を起こさないようにしておきたい。これまでずっとそうして来たのだから、これからも、そうして行けばいい。
——優希さんと葵さんのように生きるんだ。絶対に。
拳を握りしめ、きゅっと唇を引き結び、私はあらためて自分自身にそう誓った。
◇◇◇
「んっ、まぶし……」
肌に触れるシーツがサラサラと心地よい。
その布の隙間でまどろんでいると、優しい手が肌の上を滑っていった。
「あ……ン」
この数日、ずっと自分をギリギリと縛り上げていた神経が、その手の温もりに溶かされていった。
抱き竦められ、背中や首筋に降り注ぐキスの雨が、溶けた神経をとろりと甘く変えていく。
男の手は、肋骨を通りそのまま腰を滑ると、へその周りを優しく撫でるようにするっと通り抜けていった。
「あんっ」
下腹部に走った刺激に、目が覚める。
首筋に触れる唇の周りには、少しだけ伸びてきたヒゲがある。
それが薄い皮膚に当たって、チクチクと甘く傷んでいる。唇が押し当てられるたびにチクリと刺さる。
手はだんだんと上へ戻り、指先が胸の小さな尖へと迫ってきた。
「はァ、あ、ン」
「おい、目ぇ覚めたか、葵」
濡れて熱い舌が、小さな粒を優しく撫で回してくれる。それを震えながら堪能していたのに、いつの間にか離れてしまった。
少し惜しくてその舌先を見つめていると、指先で顎を掴まれ、優しく引き寄せられた。
疲れを労るように、唇が触れ合うだけのキスをくれた。
「うン……ン、ご、後藤さん?」
寝返りを打った先に、朝日が差し込んでいた。カーテンが中途半端にしか引かれておらず、隙間から光がまっすぐに飛び込んできた。
逆光で顔が見えにくくなっていてもわかる、愛する男がそこにいた。
「おう、おはよう。気分はどうだ?」
身体中の力が抜けて、嬉しさでいっぱいになる。
起きて隣に後藤さんがいる朝は、俺に何にも変え難い幸せを与えてくれる。
「疲れてたけど、今良くなりました。来てくれたんだ。嬉しいです」
たくさん頑張った先週の苦労が、まるで全てどこかへと流されてなくなっていくようだった。
大好きな後藤さんの寝起きの顔がすぐそこにある。
いつでも触れられる距離にあることで、とても心が弾んで抑えが効かず、思わずたくましい胸の中へと飛び込んでしまった。
「うおっぷ……倒れた割には元気そうだな。よしよし、忙しかったもんな。ありがとうな」
俺の髪をかき混ぜてぐしゃぐしゃにしながら、ニカッと笑って後藤さんは言った。そして、また優しくて甘いキスをくれた。
さっきまでの浅いのとは違い、深い角度で交わっていく。鼻先から漏れ出す息は、どんどん甘く濃くなっていった。
「はっ、あ、ごと……さん」
「久しぶりに二人っきりだな」
そう言うと、真っ赤になって期待を孕んだ俺の熱をそっと包み込んでくれた。
クッと握られるだけで、ジンジンと痺れるような刺激が腹奥に溜まる。ゆっくりと手が上下すれば、一人でに腰が浮き上がっていった。
「ずっと構ってやれなかったからな。反応がすごいな」
「あっ、あっ、だ、だめ、もっもたないっ!」
扱かれるだけで腰がぐんぐん持ち上がっていき、カクカクと揺れていく。ゆっくり後藤さんの腕に抱かれたいのに、体がそれを待ってくれない。
「あ、だめ、も、いっ、ン、っ!」
そのまま白い飛沫を撒き上げてしまった。
息が切れる中、満足そうに微笑んでいる顔を見て、俺は察した。後藤さんは、このままでいいんだろう。
「……昨日は隣にいたんですか?」
俺の問いかけに、それがどういう意味なのか理解した後藤さんが「おう。時間が空いたからな。お前はしんどそうだったから」と答えてくれた。
「まあ、残念だけれど。またの機会に、ですね」
俺がニコリと返すと、後藤さんは嬉しそうにチュッと短く唇を合わせてくれた。
「でも、それよりなんでここに? ……あ、昨日リョウから連絡行ったんですか? 俺、なんか気分悪くなってしまって。倒れたんですよね?」
あの時は、まだ多くの客が食事中だった。カウンター内にいたとはいえ、お客様も驚かれただろう。そして、きっと後藤さんにも迷惑をかけたんだろう。だからここに来ているのだろうから。
店長としてデイタイムを任されているのに、オーナーに心配をかけているようじゃだめだなと落ち込んでしまう。
それを察したのか、後藤さんは俺を抱き寄せてぎゅむっと潰すように挟み込んだ。
「ウプッ!」
「あはは。そう落ち込むなって。いや、俺昨日たまたま店に顔出したんだよ。常連さんから来月のバータイム貸切の予約もらったから、お前と店に電話入れてるのに、誰も出ねーからよ。なんかあったのかと思って」
後藤さんは複数の飲食店を経営している。バイトが足りなくて困っていた日に、俺が店を手伝ったことがあった。
それをきっかけに、時折無給のお手伝いとしてこき使われていた。
その後、カフェタイムの店長を任され、それ以来五年間、従業員と雇用主の関係にある。
そしてもちろん、それだけでは無い関係にある。
「店に着いたら、めっちゃくちゃ騒がしくてさ。お前は倒れてるし、リョウはパニクってるし。どうにもならなくて、俺がお前をここに連れて帰って来たんだよ。あ、店は沙枝ちゃんにちょっと早出してもらったから、心配すんなよ。何か悩んでることでもあるのか? 寝不足だったんだろ? 昨日は死んだように寝てたぞ」
サトルが刺された日から、睡眠時間は短くなっていたし、眠りも浅くなっていた。一応自覚もあったけれど、まさか倒れるほど疲れていたなんて思いもしなかった。
「すみません。ちょっと色々ありまして。でも、もう大丈夫ですから」
俺は後藤さんに頭を下げてお礼をしようとした。
ところが、膝立ちになった時点でフラつき、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
ぽすっと音がして、顔から布団の上に落ちてしまった。
手をつく事も出来ず、尻を突き出したような格好で固まる。
「お前……俺、朝からそんな元気ないぞ……いやそんなことも無いけど、残念ながら時間が無いわ」
「ちっ違います! 手が出せなかっただけだから!」
体がだるくてなかなか体勢を戻すことができず、恥ずかしくて赤くなっていった。後藤さんは腹を抱えて笑っている。
「顔から布団にダイブして、尻出したまま固まってるようじゃ、カフェの店長は務まらねえぞ! 今日は休んでろ。俺が代わりに入るから。そのつもりで昨日はここで寝たんだよ。リョウも休ませるからな。一日ゆっくり世話してもらえ」
そう言って、優しく葵を抱き起こすと、齧り付くようなキスをして、尻をバンバン叩いた。
「じゃあな」
そして、颯爽と帰って行った。
俺はあまりの恥ずかしさに、しばらくそのまま固まっていたが、かろうじて後藤さんの姿が見えているうちに「よ、よろしくお願いしまーす」と背中に声をかけることができた。
「おう、ちゃんと寝てろよ! また今度、みんなでな!」
そう言って、彼はオールソーツへと出勤して行った。
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