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鍵と鍵穴

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◆◇◆


 心電図のモニターの音が鳴り響く廊下で、父からの連絡を待っていた。その時、俺は兄と二人で待合室のソファに座っていて、長くともに暮らしていた池内大気の容体を案じることしか出来なかった。

 池内は潜入捜査に失敗し、拷問を受けた末に瀕死の状態で病院に運ばれた。父は、ケアを済ませるとあとを医師に託し、犯人である大垣はじめを追っていなくなった。

『澪斗、俺は犯人を探してくる。咲人には知らせるな。晴翔と二人でここにいてくれ。池内の人間を何人か呼ぶから、安心しろ』

 そう言って走り出した父は、まるで般若のように恐ろしい顔をしていた。

「あの、君たちは池内さんのご家族?」

 父の愛人としていけ好かないとはいえ、それなりに良くしてくれていた池内のことを、俺と兄は家族同然に思っていた。だから、その問いに、すぐに「はい、そうです」と答えた。

 相手の女性は、背が高く、黒くて長い髪が美しく輝いていた。当時の俺は、あまり人に興味が無かった。それでも印象に残っているほどに、ふっと吹けば消えそうな儚さを抱えた人だった。

 その女性は俺たちの目の前までやってくると、突然、リノリュウムの廊下に額を擦り付ける格好になった。俺は当時中学生で、大人が土下座で謝罪している姿を、この時初めて見た。

 兄もまだ大学を出たばかりで、おそらく俺と同じくらいに動揺していたのだろう。二人でそれを呆然と眺めることしか出来なかった。

「ごめんなさいっ! あんな風になるまで暴力を振るうなんて……父のせいで、大切な方を傷つけてしまって、本当に申し訳ありません! 謝って済むことではないですけれど、もう、どうして、こんなことに……」

 その人は、廊下に額をつけたままそう叫ぶと、俯いたまま涙を流し始めた。その嗚咽に混じって、ずっと「ごめんなさい」を繰り返していた。

 その姿はあまりにも悲しくて、屈んで小さくなった体に、何かの呪いがのしかかっているようにすら見えた。そして、謝りながら彼女が少しずつ疲弊してくのを感じた。

——センチネルなのか? このままじゃアウトする危険が……。

 俺がそう思っても動けずにいると、隣の兄がスッと立ち上がった。そして、彼女の前まで近づいて行き、その身を屈めて優しく声をかけた。

「……失礼ですが、あなたはセンチネルですよね? そんなに悲しんでいると、アウトしますよ? 僕は特級レベル8のガイドなんですけれど、触れても構いませんか? まずはケアしましょう。話は、それからでもいいでしょう?」

 冷静に話し始めた兄に驚いたのか、彼女は顔をぱっと持ち上げた。驚いたことに、顔を下げていた数秒間で、恐ろしく顔色が悪くなっていた。

 センチネルは感情に振り回されると、命が危険だという。知識としては知っていたけれど、それを実体験としてこの時初めて知った。

「あの……でも、私はボンディングした人がいます。だから……」

「そうですか。でも、大丈夫ですよ。僕は大体のセンチネルには触れます。今この界隈に、僕が触れることができないレベルのセンチネルはいないんですよ」

 兄はそう言って、笑顔で手を差し出した。彼女は、家族を命の危険に晒したことを謝っているのに、自分のことを気にかけてくれた兄に心底驚いたようで、目を見開き、涙を流しながら手を差し出した。

 兄はその手を掴むと、やや強引に彼女を引き寄せて、ぎゅっと音がしそうなほどに強く抱きしめた。そして、その背中に手のひらを当てると、優しくさすったり、リズムをつけて叩いたりした。

「……あなたは、大垣はじめの息子さんですよね。晶くん……でしたね、確か。今は女性になって、晶さんになったんですね。家族関係も、お身体のことも、辛いことがたくさんあったんでしょう? どうか、お気になさらないでください。池内にいる者は、永心の家族です。ですから僕たちにとっては大切な存在ですが、彼らはこういうことは覚悟の上で生きています。でも、あなたはそうじゃない。親は選べない。好きで生まれた家では無いはずです。僕は父からここの判断を任されたんですが、あなたが全てを背負う必要は無いと思っています。だから、安心してください」

 兄はそう言って、晶の背中を叩き続けた。その言葉に、手の優しさに、晶の涙腺が崩壊した。兄さんのスーツにしがみつき、泣きながら頽れていった。その姿が、俺たちにも重なる。

——親は、選べない。

 生まれる家を選べたなら、俺たちの人生も違っていたのだろうか。そう考えることは、時々ある。有力な議員家系の息子として生まれた三兄弟は、いつも誰かの視線に晒されていた。

 しかも、両親が不仲で、父は男の秘書である池内と不倫関係にあった。好奇の目に晒され、辛い思いをした日々は忘れられない。

 ただ、兄は池内が生まれながらに女性だったこと、父と一緒にいるために男になったことなどを、この時点で知っていた。俺たちに比べて父への嫌悪が薄かったのは、それがあったからだろう。ただ、家族がうまくいっていないことに、誰よりも胸を痛めていたのは確かだった。

「永心は、あなたのお父さんを許す事は出来ません。でも、あなたには何もしません。それは保証します。どうか、このままお引き取りくださいね」

 気がつくと、真っ青だった顔色はほんのり赤みが刺すほどに回復していた。晶は、兄の意図を汲み、すぐにその場を辞した。

 あの日が、俺と晶の出会いだった。だから、強烈に覚えている。

 あの日、あの場所に、晶の母はいなかった。あの人は、そういう人だということだ。


◆◇◆


「これが、大垣さんのお母さんだと言い切れる証拠は?」

 田崎がそう訊ねると、翼さんは手にしていた封筒を俺に渡してくれた。その封筒の中には、またいくつかの封筒が入っていた。開封済みのその手紙は、全て大垣さん宛てになっていて、差出人は大垣美津子となっていた。

「美津子というのが、晶のお母さんです。俺が付き合っていた時に、何度か親の話を聞いたことがあるんですけど、両親ともにネグレクトで、家にいれば暴力を振るうような虐待を受けて育ったみたいなんです」

「……大垣はじめは、池内の能力を奪うほどの拷問を働いた人物で、池本の息がかかった組織で末端の構成員をしている。汚れ仕事を平気で請け負える男で、何人の命を奪ったのかは、正確にはわからない。ただ、この男ももう死んだよ」

 澪斗さんは、そう言って悲しそうに目を伏せた。それを見て、晴翔さんも同じように眉根を寄せた。大垣さんの父親が死んでいることが、なぜそんなに辛いことなのかが俺にはわからず、その意味を汲み取ろうとしたところ、それを菊神さんが教えてくれた。

「翠くん、前に蒼くんには伝えたんだが、ガイドでサイコキネシスを発動した人物は、この世に二人しかいない。そのうちの一人は、蒼くんだ。そして、もう一人は、永心照史なんだよ。サイコキネシスは、ガイドの感情が昂った時に発動する傾向にある。その制御はほぼ不可能なんだ。ガイドの能力と感情の昂りにのみ支配される。つまり、未散を瀕死の状態に追いやった大垣一を、死に至らしめたのは、照史氏だ」

 その場にいた全員がざわついた。あの照史さんが人を殺めていたなんて、誰も知らなかったはずだ。正確には、澪斗さんと晴翔さん、菊神さん以外になるのだろうか。もしかしたら、多英おばさんも知っていたのかもしれない。

 もしそれが明るみに出ていたら、あんな風に活躍することなど不可能だっただろう。よく隠し通せたものだと驚いた。

「ただ、実は照史氏本人は、自分が大垣を殺したことを知らない。その時の記憶が無いんだ。蒼くん、君もそうじゃないか? どうやって力を発動したか、覚えていないだろう?」

「え? 力の発動……確かに、それは分かりません。わかるのは、目の前のコンクリートの壁がバラバラになるほどのことを、自分が起こしたのかもしれないという、可能性があることだけです。そう言われれば、肝心な部分でのはっきりした記憶はありません」

 蒼が答えると、菊神さんは小さく頷いた。

「君の場合は、目の前でものが壊れたから、何かが起きたと理解できただろう。でも、大垣の時は周囲のものには一切被害がなく、大垣の細胞のみが壊されていた。明らかに何らかの特殊能力が発動した影響で、あいつは死んだんだ」

「そんなことが起こりうるんですね……」

 驚く周囲をよそに、菊神さんは翼さんの持ってきた封筒を一つ手に取り、中から便箋を取り出した。そして、ほんの少しだけ眉を顰めて、珍しく嫌悪感を示した。

「大垣美津子は、代理によるミュンヒハウゼン症候群の典型的なパターンを示していた。晶さんを虐待して病気を作り出し、我が子のために動いたふりをする。そして、そんな自分に酔っている間だけ、幸せを感じることができる。それと同じようなことが、夫の場合にも起きたんだ。愛する夫を奪った永心に復讐をするという目的を持って、池本に近づいた。今や池本が大層大事に抱えている愛人だ。ただ、見た目が若すぎるだろう……まさか、娘そっくりに整形したんだろうか」

 信じられないとばかりに言う菊神さんに、翼さんが「それは、順番が違うと思います」と割って入った。

「晶は、元々男性です。性別適合手術を受けるときに、若い頃のお母さんに近づけたと言っていました。理由は、お母さんに愛されなかったからだって……。あ、愛してくれなかったから、自分がその姿になって……自分を、愛してあげたいって……おかしな話ですよね」

 翼さんは声を震わせていた。そして、拳を握り締め、それすらも震わせるほどに怒りを滲ませていた。

「晶が晴翔さんと澪斗さんに謝罪した日、この人は男の家を渡り歩いていたんです。そんな人が、復讐? 笑わせんな! どうせメサイアシンドロームだろ。いいことしたつもりになってそれに酔って……そんなこと、いくらやっても意味なんて無いのに!」

 そう言って、一つの封筒をテーブルに叩きつけた。その便箋には、やたらと美しい文字でこう記してあった。

『愛する晶。あんたを奪った未散が憎い。未散のせいで、お父さんも死んだ。永心は滅亡すればいい。私がやるから、待ってるのよ』

「これ、晶が死んだ後に、サラスヴァティに届いたらしいんです。ケイさんに話を聞きに行ったら、これを出してきてくれました」

 俺はその便箋を手にすると、すぐにテーブルに戻した。知らない人間の匂いがしたのだか、それは凶悪な性質の人間のものだった。少し接触しただけで、悪心がする。

「……と言うことは、池本側の黒幕は、大垣美津子で間違いなさそうだな。その大垣をそそのかしたのは、池本本人だろう。虹川と灰野は、大垣と直接交渉していた可能性が高いな。その方が、簡単に切り捨てられるだろうから」

 俺の胸の内に、真っ黒い思いが溜まり始めた。

 俺は孤児だと思っていた。その時、一番辛かったことは、親の愛情を知らなかったことだ。それだけで、自分はこの世で一番かわいそうな人間だと思ってしまったほどに、辛かった。

 ただ、今大垣さんの話を聞いて、それも揺らいだ。実の親に存在を否定され続け、捨てられ、責任を押し付けられた挙句、死んだ後に利用される。そんな酷い話があるだろうか。

『能力者も、非能力者も平等な社会を。進むべきベクトルを、俺たちがデザインするんだ』

——大垣さん、あなたの人生が意味のあるものであったこと、俺たちはちゃんと知っています。

 俺の気持ちを見抜いたのか、蒼と田崎が視線を送ってきた。俺もそれに応える。

「VDSセンチネル総出で、大垣美津子を探します。同時に虹川と灰野の捜索を続けましょう。三人とも、きちんと罪を償わせるぞ」

 俺の指示を受け、田崎からスタッフへと通達が行く。事務所以外のフロアも巻き込んで、ホテル内が俄かに活気に満ち始めた。

「蒼、行こう」

 俺は蒼の手を取り、立ち上がった。蒼は引き締まった笑顔を向けて、「了解、ロック」と答えた。

「……コードが必要な現場になるかもな。いくぞ、ラッチ」

 数年ぶりにコードで呼び合い、田崎と拳を合わせた。

「とりあえず、生きて戻れよ」

 そう言う田崎に手を振って、俺たちは地下駐車場へと向かった。 
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