センチネルバース短編集

皆中透

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キヨシとノワ

オールソーツのカウンターにて

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 暗闇の中にうっすらと浮かぶ、コーナーに設置されたオレンジ色の間接照明の光の中に、ダークブラウンの塊がゆらりと揺れる。日常を忘れて夜の闇を楽しむ客が集う店内に、黒いスパイラルロングの影が浮かんだ。

「いらっしゃいませ」

 入ってきた客は、スラリと背が高く、暗闇にサングラスをしているにもかかわらず、スマートにカウンターへと向かってきた。

 普通の人なら、テーブル席のお客様に飲み物を運ぼうとすると、手探りでも行けるかどうかというほどに暗いにもかかわらず、その人はうっとりするほどの綺麗な所作で迷いなく俺の目の前の席に座った。

「あれ? 君、新人さん?」

「あ、はい。今日からなんです。キヨシです。よろしくお願いします」

 俺は、入りの時にマスターの沙枝さんから渡された名刺を、その男へと渡した。男はそれを受け取ると、ちらりと一瞥をしてそれをカウンターの端に寄せた。そして、サングラスを外しながら「俺はノワって呼ばれてるんだ。よろしくね」と言い、ふわりと表情を緩めた。

——うわ、綺麗な人。

 ノワさんは、抜けるように色が白く、肌が輝きを放つほどに透明感と艶があった。大きい目に長いまつ毛、その中に真っ黒で艶のある瞳。そして、ツヤツヤな唇。
 
 それが、カウンターに置いてあるキャンドルの光の揺らめきによって、妖しく光る。きらりと光るピアスが、その妖艶さに優雅さをプラスしていた。

 鼻先をくすぐる甘い香りも、動きのしなやかさも胸が高鳴るくらいに美しい。でも、骨格や喉を見る限り、男性だ。こんなに色香が漂うのに同性だなんて、俺には信じられなかった。

 ノワさんは俺の顔をじっと見つめると、ほんの少しだけ息を吐いた。

「もしかして、俺に見惚れてくれてる? ありがとう。ブラックルシアンくれるかな。俺、ここのすごく好きなんだ」

「あ、か、かしこまりました」

 本当に見惚れていたから、そう言われて動揺してしまう。俺の返事ににこりと笑って、ノワさんはタバコ火をつけた。紫煙を燻らせ、気だるそうにしているけれど、その体の奥底にぼんやりと蒼い炎が揺らめくのが見える。

——何か、悲しんでる?

 俺は、どうしてなのかわからないけれど、人の感情が色で見える。それだけでなく、感情の揺れが匂いでわかることもあって、あまり人の多いところへ行く事が出来ない。
 体調の良し悪しや、人間関係についても、五感で感じ取ってしまうので、学生時代はかなり苦労した。

 ただ不思議なことに、それ以外の刺激には、匂いにも視覚刺激にも特に敏感すぎるところはなくて、人工的な香りには全くと言っていいほど疎い。

 だから、元々は単純作業を繰り返す工場で働いていた。ただ、工場は仕事がきつい分、人間関係に影響が出やすい。その刺激で倒れてしまって以来、無職でいる期間が長かった。

『俺の店で働くか?』

 住む場所を失いそうになって、怖くなって泣いていたところに声をかけたれた。たまたまカフェタイムに来ていたオーナーが、俺を雇ってくれていなかったら、今ごろどうなっていたかわからない。

 その日の事を思い出していたからか、俺もノワさんを少しでも楽に出来ないかと考えていた。

「……何か悲しいことがおありですか?」

 うっかりそう口に出してしまったのは、身体中が色を失いそうなくらいにエネルギーを失っていくのが見えたからだった。ただ、それは他の人にはわからないことだ。

 ノワさんも、俺の方を見て一瞬警戒したのがわかった。俺は薄っぺらい笑いを貼り付けて、適当な言い訳を探した。

「タバコの灰、危ないですよ」

 ノワさんが、今にも落ちそうになっている灰に、全く気が付かずにいたからだということにしておいた。

「あ、ほんとだ。これじゃ心配されても仕方がないね。ありがとう」

 目を細めて笑いながら、ノワさんはタバコを灰皿に押し付けた。そして、俺が提供したブラックルシアンに口をつける。

「あー、ここのブラックルシアン美味しいよね。コーヒーの香りがすごい立つんだ。不思議」

「ありがとうございます。オーセンティックバーのフリしてますけど、カジュアルバーなんで、色々小細工してますからね」

 カクテルを作ってくれた沙枝さんが、突然ノワさんの隣に現れてそう軽口を叩いた。マスターなのに、営業中の今、なぜかカウンター席に腰を下ろしている。

「マスター、まだ仕事中ですよ」

「うん。実は今日ね、ノワがここ貸し切ってんの。キヨシのデビュー日だから、まずは店の環境に慣れてもらおうと思ってるって話したら、なんとノワが売り上げ保証してくれたんだよ。なんかお礼しないとね?」

 沙枝さんがそんな事を言うので、「え!? 本当に?」と思わずいつもの口調で返してしまった。すると、「はい、キヨシ失格ー」と目の前に指で作ったバツを突きつけられた。ノワさんはそれを楽しそうに見ている。

「アホか。そんなわけないでしょう。そうやって突然びっくりさせられても、きちんとバーテンらしき対応すんのよ。今みたいなテストをちょいちょい仕掛けていくからね。気を抜かないように!」

 そして、バツを作っていた指で思い切りデコピンされた。

「いてっ! もう、わかりました。沙枝さんこそ、このご時世にデコピンとか食らわせてたらパワハラで訴えられますよ」

「あーはいはい。大丈夫、私を理解できない人は雇わないから。……ん? なんか落ち込んでんの?」

 俺は、沙枝さんの指摘に、一瞬ヒヤリとした。沙枝さんは、俺と同じように人の感情の揺れに敏感だ。俺が思わず軽口で返してしまったことを後悔したことにさえ、気がついてしまう。

 そして俺は、そのことにもまた落ち込んでしまって……負のループに陥りそうになっていた。

「沙枝、ちょっと黙ってて」

 コツ……とヒールがフロアを蹴る音が聞こえた。その音が、カウンターを回って俺の方へと近づいてくる。

——あれ、なんか目が霞んでるかも……。

 久しぶりの仕事に、緊張していたからか、失敗したらまた無収入になるという恐怖からか。俺は思った以上に落ち込んでしまっていた。そして、そのループの歯止めが、自分の力では及ばなくなってしまっていた。

——やべ……、なんだこれ……。

 ぐるぐると視界が回り始め、俺は真っ暗な店内の天井と床の区別がつかなって行った。

「キヨシ!?」

 名前を呼ばれても何も出来なくなるほどに、弱ってしまっていた。情けないことに、意識が遠のいていくのに、ただ身を任せる事しか出来なかった。


◇◆◇


「大丈夫だよ、心配いらないから、戻っておいで」

 耳元で、誰かの声がする。鼻先に、ふんわり甘い香り。安心する音、匂い。肌に感じる、生体電位差……でも、ビリビリしない。温かい優しさが、俺を包み込んでいるのがわかる。

「キヨシ、起きて」

 髪を大きな手が撫でて、梳く。指が通りぬけていく時の感触がすごく幸せだ。もっと欲しいと思って、思わずその手を探した。

「待って、もっと」

 手探りで追いかけて、やっと見つけた。

「キヨシ」

 よく響く低音で名前を呼ばれて、はっと目が覚めた。

「よかった、起きたね。事情はオーナーの後藤さんから聞いたよ。今日、すごく緊張してたんでしょ?」

「あ、ええ、まあ……。あ、でも、すみません。お客様にはそんな事は関係無いのに……楽しい時間を台無しにしてしまいました」

 せっかくオールソーツにお酒を楽しみに来てくださっていたのに、俺が倒れたせいでノワさんはそれもせず、付き添っていてくれているようだった。

 店員なのにお客様に迷惑をかけるなんて……本当にクビになったらどうしようと思って、また少し動悸がしてきた。

「大丈夫だよ、キヨシ。後藤さんも沙枝さんも、一度の失敗で人をクビにしたりするような人じゃ無いから。きっとわかるよね? 君、センチネルでしょう? パーシャルなのかな。視覚、嗅覚、触覚が優れてるみたいだからね」

 ノワさんは、そう言って俺をぎゅっと抱きしめてくれた。でも、俺にはノワさんが何を言っているのかが、全くわからなかった。

「セ、センチネル? パーシャル? なんですか、それ……」

 何もわからずに戸惑う俺を見て、ノワさんは「本当に知らないんだね」と呟いた。俺は返答に困ってしまって、黙り込んだ。

——学校で習ったのかな……。いるのが辛くて、ほとんど行ってなかったから……。

 そこにいるだけで、脳がオーバーヒートを起こしそうになってしまうから、学校という場所には小学校一年生の時から、ほとんど行っていなかった。

 何度も先生が家を訪ねてきて、親が責められるのを見ていた。そのうち二人とも家に帰ってこなくなり、俺は家の中で静かに死ぬことを選んでいた。

「ごめんなさい。俺、学校ほとんど行ってなくて。何も知らないんです。バカなんです」

 そう口にした途端、涙がポロッと溢れてきた。

 そう、俺はバカだ。だから、あの日死ねばよかったんだ。あと数日遅かったら死んでたかもしれないって言われた時、じゃあ見つからなければ良かったのにって思ったのを覚えている。

 ただ、そう思った時の前後に、少しだけ幸せな記憶があるのも覚えてる。何があったのかは覚えてない。ただ、幸せだった。その記憶があるだけだった。

「うん。知ってるよ。それでも頑張って生きてきたんだよね。センチネルの事を知らないのは、君がバカだからじゃないよ。君に正しい学びの機会がなかっただけだ。これから知っていけばいい」

「これから……」

「そう、これからだよ」

 俺にこれからがあっても、きっと今までの繰り返しだろう。そうまでして生きて、何になる? その考えが頭から抜けなくなっていた。

 ほんの僅かに人が機嫌を損ねると、それを察知してどんどん気力が落ちていく。身体中の血が抜け落ちて、地面に染み込んでしまっていくように、動けなくなってしまう。

 コントロールしようにも、血がないんだ。神経だって動かせなくなる。あの感じは、自分にしかわからない。努力しようにも、まるで自分の体じゃなくなったみたいに動かせなくなるんだ。

 そんな事を考えていると、「そうか、そんな感じなんだね。ゾーンアウトするって」とノワさんが呟いた。

——不思議だな。まるで俺の頭の中と会話してるみたい。

 俺が何かを考えると、それに答えるようにノワさんが言葉を発する気がした。だから、素直にそう思っていた。すると、今度は頭の中に、フィルターがかかったようなノワさんの声が聞こえてきて、俺はびっくりしてしまった。

『そうだよ。本当はこうやって、ココロ同士で会話が出来るんだ』

「えっ!? テ、テ、テ、テレパシー?」

『そう、テレパシー』

「なっ、ノワさん超能力者なんですか?」

 驚いてジタバタ暴れる俺を、嬉しそうにカラカラと笑いながらノワさんは抱きしめた。すごく笑っていて、口を挟むタイミングなんて全くなさそうなのに、頭の中には次々と言葉が流れてくる。

『ごめん、知らないと驚くだろうとは思ったけど、すごくいい反応するから……。やばい、可愛い。あーキスしたい』

 まるで立て板に水のようにサラサラと流れる言葉に、「えっ!? キス!?」と驚く俺を見て、さらに笑い転げていた。

 その時、気がついた。ノワさんは、ずっと俺と指を絡めて手を繋いでいる。どうしてなのかはわからないけれど、俺たちはそこから意志を伝え合っているんだと理解した。

『思い出してくれた?』

 そう聞いてきたノワさんは、指をさらに強く握り込んだ。

『キヨ……死なないで……』

「それっ! その言葉……あの日の記憶のやつ……あれ、ノワさん!?」

 俺が死にかけていたあの日、茹だるような暑さの中で密閉されたボロアパートの一室に、餓死寸前の小学一年生男児が見つかったと報告している大人がいた。

 その隣に、いつも俺の事を心配してくれていた近所の六年生のお兄ちゃんがいた。その人が、俺の手を握って言ったんだ。

『キヨ、死なないで』

 俺の手を握って、涙を流してくれた。誰も俺に見向きもしてくれなかったのに、俺の事をしっかり見ていた。その目が……目の前にあった。

「ノワさんって……黒井隼人……くん?」

 問いかける俺の目に、真っ黒でキラキラと輝く瞳が、だんだんと涙に濡れていくのが見えた。そして、遂に一筋溢れた。その流れのように、小さくてか細い声でノワさんは「そうだよ。キヨ」と答えてくれた。
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