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heartbeat
13「ミルフィーユ」4
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「っ、そ、そうですね。俺いつもそれで失敗するので……気をつけます!」
ケイタはそう言うと大和さんの腕を振り解いて去っていった。
俺は、その時の大和さんの表情に、妙な引っ掛かりを感じた。ほんの少しだけだけれど眉根が寄っていて、何か痛みを孕んだように見えたのだ。今の会話の中で、大和さんが辛くなるような話は、どこにもなかったように思う。それなのに、どうして何だろう。
「あの……大和さん。ケイタとは話したことがあったんですね」
「ああ、うん。あれ、言ってなかったかな。彼、うちの店舗デザインをお願いしているデザイナーなんだよ。彼からは聞いたことが無いの? このビルの三階にデザイン事務所があるだろう? あれは彼の事務所だよ」
「えっ! じゃあ、ケイタは大和さんの取引先ってことですか?」
驚いた。ケイタがデザイン事務所をクビになった後、またデザインの仕事をしていることは知っていた。でも、自営業だったとは思いもしなかった。
俺が学生だから負担を掛けてくないんだと言って、いつも支払いはケイタがしてくれていた。そうは言ってもただのセフレだから、俺たちがあっていた時にかかっている費用といえばホテル代くらいだった。
それを割り勘にしようとは何となく言い出せず、自分の生活で精一杯だったこともあって、そのあたりは完全にケイタに甘えていた。
今にして思うと、俺はケイタに寄りかかりすぎだったかもしれない。店で会ってホテルへ行くだけの関係だったのに、精神的にも経済的に甘えていた。
俺には他にもセフレがいたし、その事をケイタも知っていたけれど、それを隠そうともせずにいたのだ。どう考えても、軽薄で酷い男だっただろう。
そうやってぐるぐると考え込んでいたからか、大和さんが俺の顔を覗き込んできた。今度は心配そうに眉根を寄せていて、額にそっと手を当てて労ってくれている。
「……大丈夫? 渚が好きだったの、彼なんだろう? まだ辛いかい?」
「え? あ、まあ……」
うまくいかなかった恋の傷は、治ったと思っていてもそう簡単には癒えないのだろう。こんなに素敵な人が心配してくれているのに、消えたと思っていた傷が、まだ少しズキリと痛むような気がした。
「そう、です。結婚するからって言って、俺のこと振ったのはケイタです。何で今日ここにいるんだろう……」
「そうか」
大和さんはそう言って、ケイタが去っていった方を睨んだ。そして、思いもよらない事をした。美しい横顔の艶めいた口元を、長い綺麗な指でなぞりながら、思い切り「チッ」と舌打ちをしたのだ。
「えっ?」
俺は驚いた。普段の大和さんはいつも穏やかで、あまり下品な行動を取らないタイプの人だからだ。それが、一応口元を隠してはいるものの、舌打ちなんていう下品な行動をするなんて、思いもしなかった。
俺だってそんなに上品なわけじゃないし、舌打ちくらいはすることもある。でも、それを彼がすることが信じられなかったのだ。
「大和さん?」
よほどケイタが俺に触れたことが気に入らなかったのだろうか。もしそうだったとすると、タバコの煙から俺を守ったのも、紳士的な優しさではなくて、強い独占欲の表れだったのかも知れない。
——そこまで好きでいてくれたら、嬉しいけどな。
そう思いながら大和さんの顔を見ていると、突然彼が緊張の糸を緩めて、ふっと顔を綻ばせた。
「ごめんね。舌打ちとかしちゃって。嫉妬しただけだから、気にしないで。……それに」
大和さんは俺の腕を引いた。俺は立ち上がり掛けた状態から急に彼の胸の中へと連れていかれ、顔から飛び込んでしまう。ついさっき感じた俺を落ち着かせる香りがまたふわりと広がって、思わずそのまま抱きついてしまった。
「大丈夫ですよ。だって、俺のために怒ってくれたんでしょう? 驚いただけですから、気にしないでください。それに、ちょっと嬉しい気持ちの方が勝ってます」
そのまま抱きついた腕に力を込めると、大和さんは俺の頭を撫でてくれた。
「良かった。舌打ちで嫌われたら、俺の努力が……」
「え?」
「あ、いや、なんでも……」
珍しく狼狽える彼を見て、俺は『俺の努力』という言葉にどんな意味があるのだろうかと気になってしまった。
そして、その言葉の意味はすぐに判明することになる。レイさんの母心が爆発してしまったのだ。
「ちょっとあんた! ケイタを呼んだでしょう! どう言うつもりなの! 渚を傷つけるなら、協力なんかしなかったわよ!」
氷の納品の対応をしにいっていたレイさんが、バックヤードから怒涛の勢いで出てくると、突然咆哮を上げるライオンのように大和さんに掴みかかってきた。
レイさんの怒りは凄まじく、俺のことが目に入らないくらいに怒りに囚われていた。大和さんに抱きついていた俺を無理に引き剥がし、間に割り込んでしまった。
体格で負けている俺は、その勢いに完全に負けてしまい、俺は椅子から転げ落ちた。そして、その時に肩を強く打ってしまった。
「いったぃ!」
利き腕ではない方だから良かったものの、打った箇所はかなり痛んだ。そこを抑えて呻く俺を見て、レイさんの顔色がさあっと青くなっていく。
「渚っ! ごめん、ごめんね! 大丈夫?」
痛む箇所を抑えている俺を心配したレイさんが、俺を助け起こそうとした。すると、大和さんが大声をあげて間に割って入り、腕でレイさんを制した。
「触るな!」
大和さんも怒りが凄まじくて俺は驚いてしまったのだが、レイさんはそれをされたことにより本格的に怒りの炎が燃え上がってしまった。イベント開始直前であるにも関わらず、太くて良く響きわたる美声で怒鳴り始めてしまった。
「ふざけんじゃ無いわよっ! 確かに怪我をさせたアタシが悪いわよ! でも、そうなったのはどうしてだったかしら!? あんたのために協力してやったのに、チンケな自己顕示欲を満たそうとしてケイタを呼んだあんたが悪いんでしょう! そんなくだらない男だと知ってたら、絶対に反対したわよ! そこを退きなさい!」
そう言って大和さんに掴みかかった。
「うるせー! 俺がどれだけ渚を好きなのかってことは、お前が一番知ってるだろ! 触るんじゃねーよ! これ以上ケガをさせるわけにはいかねーだろうが!」
「だから退きなさい! あんたがいなかったら、渚にケガなんかさせることは無いわよ! これまで大切に育ててきたんだから!」
「知り合った頃にはもう大人だっただろう! 育てたなんて大口叩いてんじゃねーよ! しかも、この店は俺が共同経営しなかったら、とっくに潰れてんだぞ! 経済的に困窮させてたかもしれないのに、何して守ったつもりなんだよ!」
「う、うるさいわよ! あんただって……」
二人は正面から掴み合っていい争いをしている。つまり、俺は間にいることになるのだが、ガタイのいい男が二人で揉みくちゃになっているわけだから、俺も間でぐちゃぐちゃになっている。
体もガツガツとぶつかられていて痛むし、息も苦しい。でも、それよりも二人の話し方に驚いてしまって、言葉が出なかった。
「ちょ、ちょっと……二人ともどうしたの……うぎゃ!」
いよいよ息が続かなくなって、焦って声をかけるけれども、二人の耳には届かない。レイさんの美しい顔の下には、かなり鍛え上げられた胸筋があって、それが俺の顔を潰している。潰されるたびに大和さんが首を逸らせてくれるから息はできているけれど、角度的にそろそろその首自体に問題が出始めていた。
「ねえ、ちょっと、落ち着いてよ……」
「最初から堂々と正面切って告白すれば良かったでしょ!」
「それが出来なかったからお前に頼んだんだろう!」
「そんな意気地なしなら、ずっと大人しくしてなさいよ! ちょっとイケメンになったからって、調子に……」
何度目かの押し合いが発生した時点で、俺は怒りの頂点を迎えてしまった。生まれて始めて、堪忍袋の尾が切れると言う表現の正確性に感心することになってしまう。
その怒りの勢いのままに二人の間をすり抜けると、いつまでも揉み合っている二人の間で、派手な破裂音が鳴るようにと手を叩いた。パーンという音に驚いた二人は、思わず動きを止める。その隙を見て、俺は出せる限りの大声をあげた。
「いい加減にしろっ! そして、ちゃんと説明しろよ! 全部俺にもわかるように話して!」
滅多に大声を出さない俺が怒鳴ったことで、二人はようやく動きを止めた。そして、それを聞きつけたケイタが、焦りの色を浮かべた顔をして戻ってきた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「渚! 大丈夫か? ごめん、俺から話すよ。全部俺が悪いんだ。俺があんな失敗したから……」
そう言って嗚咽を漏らし始めた。
ケイタのその姿を見て、ようやく二人も冷静さを取り戻したようだ。争うのをやめると、無言のままお互いを解放した。
「レイさん、俺このままデートなんて出来ないよ。俺が今日をどれほど楽しみにしてたかは知ってるでしょ? だから、二階の部屋を貸して。もちろん一緒に来てよ。ケイタもね。それに……大和さん」
大和さんは俺がこれまで見てきた中で、最も情けない顔をしていた。生気が全て抜け落ちたように、顔が真っ白になっていた。
彼が何を隠しているのかは、俺には全くわからない。でも、こんなになるほど明かしたくなかったことがあって、今からそれを話さなければならなくなってしまったことに意気消沈してしまっているということだけは、良くわかった。
「俺、ちゃんと聞きます。最後まで聞きますから」
俺は、大和さんにしっかり向かい合うと、一言も話さずに涙を浮かべている彼の手をとった。そして少し手を持ち上げた。
「うっ……」
腕を動かすと、わずかに痛んだ。それは本当に小さな痛みなのだけれど、今俺は病棟実習中なのだ。万が一患者さんに触れるときに、手に力が入らなかったりしたら、どんな問題が起きるかわからない。そして、基本的に実習は休むことができないようになっている。
そのことを知っているのだろう、大和さんが突然俺の方を見て頭を下げた。
「ごめん、病棟実習中は休めないんだよね? だから病気もケガも最大限気をつけてるはずなのに……俺が、余計なことを考えるから、ケガをさせてしまった」
そう言って、俺の左腕を摩る。小さく何度も「ごめんね」と呟きながら、何度も何度も摩った。その姿を見ていると、妙な庇護欲のような気持ちが湧いてきた。
この少しだけ情けない姿が、きっと彼の本来の姿なのだろう。そして、これほど自信がない人が、俺のために自分を偽って暮らしてくれていたのだろうということだけは想像がついた。
「全く……困った人だな」
大和さんの狼狽ぶりを見るに、このまま全員で話し合うよりも、まずは二人で話さなければならないだろう。俺は大和さんに視線を注いだまま、レイさんへ話しかけた。
「レイさん、俺たち取り敢えず今日は帰るよ。まず大和さんからちゃんと話を聞きたい。また今度レイさんとケイタからの話を聞いてもいい? ここにいたら大和さんは落ち着けないだろうからさ」
レイさんは無言だった。何も言わずに、ただコクリと頷いた。ケイタは青白い顔をしたまま、「わかった」と小さく答えた。三人の様子から察するに、聞かされる話はきっと良く無いことなんだろう。
でもそれは、きっと俺が傷つくか嫌だなあと思うくらいのことだ。それくらいのことなら、許せるような気がしていた。何よりも、俺は大和さんを失いたくないと思っている。だから、情けなく崩れ落ちている彼の腕を、痛めていない右手で思い切り引っ張った。
「ほら、帰ろう。ちょっと失敗したくらいでそんなに落ち込まないの! 俺のこと幸せにしてくれるんでしょう? だったら離れちゃダメだからね」
敢えてぶっきらぼうに聞こえるような言い方をしながら、力任せに彼の腕を自分の方へと引き寄せた。そうして今度は俺の胸に彼を引き入れて、ぎゅっと抱きしめた。
「俺は一緒にいたいの。ちょっとヤバいところがあるのって、漏れ出てるからバレてるよ。あとはそれが具体的に何だったのかを聞くだけだから。心配しないで、帰ろう」
大和さんは、俺の言葉を聞いて目がこぼれ落ちそうなほどに驚いていた。その表情を見て、俺は迂闊にも可愛いと思ってしまった。俺だってこの程度で手懐けられる男だ。大したものじゃないんだから、そんなに傷付かないで欲しかった。
「渚、俺がヤバいって気がついてたの?」
「俺、医者になるんだよ? 観察力が必要そうだって、わかるでしょ? バレバレだよ。多少ストーカー気質があるのはわかってる。あとはそれが俺が許せる限度内だったかどうかってだけだよ。それに、自分が言ったじゃない。『俺は恐ろしい男だと思う』って。つまりヤバい男なんでしょ? だから、ちゃんと話そう。ね?」
大和さんは俺にしがみついたまま、「うん」と言って泣き始めた。
「泣くなよ、大人でしょ?」
数分前には王子様のようにかっこよかったのに、今は幼子のように泣いている。
レイさんとケイタにも守られながら、俺は腕の中にいる愛しい王子様の頭をしばらく撫で続けた。
ケイタはそう言うと大和さんの腕を振り解いて去っていった。
俺は、その時の大和さんの表情に、妙な引っ掛かりを感じた。ほんの少しだけだけれど眉根が寄っていて、何か痛みを孕んだように見えたのだ。今の会話の中で、大和さんが辛くなるような話は、どこにもなかったように思う。それなのに、どうして何だろう。
「あの……大和さん。ケイタとは話したことがあったんですね」
「ああ、うん。あれ、言ってなかったかな。彼、うちの店舗デザインをお願いしているデザイナーなんだよ。彼からは聞いたことが無いの? このビルの三階にデザイン事務所があるだろう? あれは彼の事務所だよ」
「えっ! じゃあ、ケイタは大和さんの取引先ってことですか?」
驚いた。ケイタがデザイン事務所をクビになった後、またデザインの仕事をしていることは知っていた。でも、自営業だったとは思いもしなかった。
俺が学生だから負担を掛けてくないんだと言って、いつも支払いはケイタがしてくれていた。そうは言ってもただのセフレだから、俺たちがあっていた時にかかっている費用といえばホテル代くらいだった。
それを割り勘にしようとは何となく言い出せず、自分の生活で精一杯だったこともあって、そのあたりは完全にケイタに甘えていた。
今にして思うと、俺はケイタに寄りかかりすぎだったかもしれない。店で会ってホテルへ行くだけの関係だったのに、精神的にも経済的に甘えていた。
俺には他にもセフレがいたし、その事をケイタも知っていたけれど、それを隠そうともせずにいたのだ。どう考えても、軽薄で酷い男だっただろう。
そうやってぐるぐると考え込んでいたからか、大和さんが俺の顔を覗き込んできた。今度は心配そうに眉根を寄せていて、額にそっと手を当てて労ってくれている。
「……大丈夫? 渚が好きだったの、彼なんだろう? まだ辛いかい?」
「え? あ、まあ……」
うまくいかなかった恋の傷は、治ったと思っていてもそう簡単には癒えないのだろう。こんなに素敵な人が心配してくれているのに、消えたと思っていた傷が、まだ少しズキリと痛むような気がした。
「そう、です。結婚するからって言って、俺のこと振ったのはケイタです。何で今日ここにいるんだろう……」
「そうか」
大和さんはそう言って、ケイタが去っていった方を睨んだ。そして、思いもよらない事をした。美しい横顔の艶めいた口元を、長い綺麗な指でなぞりながら、思い切り「チッ」と舌打ちをしたのだ。
「えっ?」
俺は驚いた。普段の大和さんはいつも穏やかで、あまり下品な行動を取らないタイプの人だからだ。それが、一応口元を隠してはいるものの、舌打ちなんていう下品な行動をするなんて、思いもしなかった。
俺だってそんなに上品なわけじゃないし、舌打ちくらいはすることもある。でも、それを彼がすることが信じられなかったのだ。
「大和さん?」
よほどケイタが俺に触れたことが気に入らなかったのだろうか。もしそうだったとすると、タバコの煙から俺を守ったのも、紳士的な優しさではなくて、強い独占欲の表れだったのかも知れない。
——そこまで好きでいてくれたら、嬉しいけどな。
そう思いながら大和さんの顔を見ていると、突然彼が緊張の糸を緩めて、ふっと顔を綻ばせた。
「ごめんね。舌打ちとかしちゃって。嫉妬しただけだから、気にしないで。……それに」
大和さんは俺の腕を引いた。俺は立ち上がり掛けた状態から急に彼の胸の中へと連れていかれ、顔から飛び込んでしまう。ついさっき感じた俺を落ち着かせる香りがまたふわりと広がって、思わずそのまま抱きついてしまった。
「大丈夫ですよ。だって、俺のために怒ってくれたんでしょう? 驚いただけですから、気にしないでください。それに、ちょっと嬉しい気持ちの方が勝ってます」
そのまま抱きついた腕に力を込めると、大和さんは俺の頭を撫でてくれた。
「良かった。舌打ちで嫌われたら、俺の努力が……」
「え?」
「あ、いや、なんでも……」
珍しく狼狽える彼を見て、俺は『俺の努力』という言葉にどんな意味があるのだろうかと気になってしまった。
そして、その言葉の意味はすぐに判明することになる。レイさんの母心が爆発してしまったのだ。
「ちょっとあんた! ケイタを呼んだでしょう! どう言うつもりなの! 渚を傷つけるなら、協力なんかしなかったわよ!」
氷の納品の対応をしにいっていたレイさんが、バックヤードから怒涛の勢いで出てくると、突然咆哮を上げるライオンのように大和さんに掴みかかってきた。
レイさんの怒りは凄まじく、俺のことが目に入らないくらいに怒りに囚われていた。大和さんに抱きついていた俺を無理に引き剥がし、間に割り込んでしまった。
体格で負けている俺は、その勢いに完全に負けてしまい、俺は椅子から転げ落ちた。そして、その時に肩を強く打ってしまった。
「いったぃ!」
利き腕ではない方だから良かったものの、打った箇所はかなり痛んだ。そこを抑えて呻く俺を見て、レイさんの顔色がさあっと青くなっていく。
「渚っ! ごめん、ごめんね! 大丈夫?」
痛む箇所を抑えている俺を心配したレイさんが、俺を助け起こそうとした。すると、大和さんが大声をあげて間に割って入り、腕でレイさんを制した。
「触るな!」
大和さんも怒りが凄まじくて俺は驚いてしまったのだが、レイさんはそれをされたことにより本格的に怒りの炎が燃え上がってしまった。イベント開始直前であるにも関わらず、太くて良く響きわたる美声で怒鳴り始めてしまった。
「ふざけんじゃ無いわよっ! 確かに怪我をさせたアタシが悪いわよ! でも、そうなったのはどうしてだったかしら!? あんたのために協力してやったのに、チンケな自己顕示欲を満たそうとしてケイタを呼んだあんたが悪いんでしょう! そんなくだらない男だと知ってたら、絶対に反対したわよ! そこを退きなさい!」
そう言って大和さんに掴みかかった。
「うるせー! 俺がどれだけ渚を好きなのかってことは、お前が一番知ってるだろ! 触るんじゃねーよ! これ以上ケガをさせるわけにはいかねーだろうが!」
「だから退きなさい! あんたがいなかったら、渚にケガなんかさせることは無いわよ! これまで大切に育ててきたんだから!」
「知り合った頃にはもう大人だっただろう! 育てたなんて大口叩いてんじゃねーよ! しかも、この店は俺が共同経営しなかったら、とっくに潰れてんだぞ! 経済的に困窮させてたかもしれないのに、何して守ったつもりなんだよ!」
「う、うるさいわよ! あんただって……」
二人は正面から掴み合っていい争いをしている。つまり、俺は間にいることになるのだが、ガタイのいい男が二人で揉みくちゃになっているわけだから、俺も間でぐちゃぐちゃになっている。
体もガツガツとぶつかられていて痛むし、息も苦しい。でも、それよりも二人の話し方に驚いてしまって、言葉が出なかった。
「ちょ、ちょっと……二人ともどうしたの……うぎゃ!」
いよいよ息が続かなくなって、焦って声をかけるけれども、二人の耳には届かない。レイさんの美しい顔の下には、かなり鍛え上げられた胸筋があって、それが俺の顔を潰している。潰されるたびに大和さんが首を逸らせてくれるから息はできているけれど、角度的にそろそろその首自体に問題が出始めていた。
「ねえ、ちょっと、落ち着いてよ……」
「最初から堂々と正面切って告白すれば良かったでしょ!」
「それが出来なかったからお前に頼んだんだろう!」
「そんな意気地なしなら、ずっと大人しくしてなさいよ! ちょっとイケメンになったからって、調子に……」
何度目かの押し合いが発生した時点で、俺は怒りの頂点を迎えてしまった。生まれて始めて、堪忍袋の尾が切れると言う表現の正確性に感心することになってしまう。
その怒りの勢いのままに二人の間をすり抜けると、いつまでも揉み合っている二人の間で、派手な破裂音が鳴るようにと手を叩いた。パーンという音に驚いた二人は、思わず動きを止める。その隙を見て、俺は出せる限りの大声をあげた。
「いい加減にしろっ! そして、ちゃんと説明しろよ! 全部俺にもわかるように話して!」
滅多に大声を出さない俺が怒鳴ったことで、二人はようやく動きを止めた。そして、それを聞きつけたケイタが、焦りの色を浮かべた顔をして戻ってきた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「渚! 大丈夫か? ごめん、俺から話すよ。全部俺が悪いんだ。俺があんな失敗したから……」
そう言って嗚咽を漏らし始めた。
ケイタのその姿を見て、ようやく二人も冷静さを取り戻したようだ。争うのをやめると、無言のままお互いを解放した。
「レイさん、俺このままデートなんて出来ないよ。俺が今日をどれほど楽しみにしてたかは知ってるでしょ? だから、二階の部屋を貸して。もちろん一緒に来てよ。ケイタもね。それに……大和さん」
大和さんは俺がこれまで見てきた中で、最も情けない顔をしていた。生気が全て抜け落ちたように、顔が真っ白になっていた。
彼が何を隠しているのかは、俺には全くわからない。でも、こんなになるほど明かしたくなかったことがあって、今からそれを話さなければならなくなってしまったことに意気消沈してしまっているということだけは、良くわかった。
「俺、ちゃんと聞きます。最後まで聞きますから」
俺は、大和さんにしっかり向かい合うと、一言も話さずに涙を浮かべている彼の手をとった。そして少し手を持ち上げた。
「うっ……」
腕を動かすと、わずかに痛んだ。それは本当に小さな痛みなのだけれど、今俺は病棟実習中なのだ。万が一患者さんに触れるときに、手に力が入らなかったりしたら、どんな問題が起きるかわからない。そして、基本的に実習は休むことができないようになっている。
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「ごめん、病棟実習中は休めないんだよね? だから病気もケガも最大限気をつけてるはずなのに……俺が、余計なことを考えるから、ケガをさせてしまった」
そう言って、俺の左腕を摩る。小さく何度も「ごめんね」と呟きながら、何度も何度も摩った。その姿を見ていると、妙な庇護欲のような気持ちが湧いてきた。
この少しだけ情けない姿が、きっと彼の本来の姿なのだろう。そして、これほど自信がない人が、俺のために自分を偽って暮らしてくれていたのだろうということだけは想像がついた。
「全く……困った人だな」
大和さんの狼狽ぶりを見るに、このまま全員で話し合うよりも、まずは二人で話さなければならないだろう。俺は大和さんに視線を注いだまま、レイさんへ話しかけた。
「レイさん、俺たち取り敢えず今日は帰るよ。まず大和さんからちゃんと話を聞きたい。また今度レイさんとケイタからの話を聞いてもいい? ここにいたら大和さんは落ち着けないだろうからさ」
レイさんは無言だった。何も言わずに、ただコクリと頷いた。ケイタは青白い顔をしたまま、「わかった」と小さく答えた。三人の様子から察するに、聞かされる話はきっと良く無いことなんだろう。
でもそれは、きっと俺が傷つくか嫌だなあと思うくらいのことだ。それくらいのことなら、許せるような気がしていた。何よりも、俺は大和さんを失いたくないと思っている。だから、情けなく崩れ落ちている彼の腕を、痛めていない右手で思い切り引っ張った。
「ほら、帰ろう。ちょっと失敗したくらいでそんなに落ち込まないの! 俺のこと幸せにしてくれるんでしょう? だったら離れちゃダメだからね」
敢えてぶっきらぼうに聞こえるような言い方をしながら、力任せに彼の腕を自分の方へと引き寄せた。そうして今度は俺の胸に彼を引き入れて、ぎゅっと抱きしめた。
「俺は一緒にいたいの。ちょっとヤバいところがあるのって、漏れ出てるからバレてるよ。あとはそれが具体的に何だったのかを聞くだけだから。心配しないで、帰ろう」
大和さんは、俺の言葉を聞いて目がこぼれ落ちそうなほどに驚いていた。その表情を見て、俺は迂闊にも可愛いと思ってしまった。俺だってこの程度で手懐けられる男だ。大したものじゃないんだから、そんなに傷付かないで欲しかった。
「渚、俺がヤバいって気がついてたの?」
「俺、医者になるんだよ? 観察力が必要そうだって、わかるでしょ? バレバレだよ。多少ストーカー気質があるのはわかってる。あとはそれが俺が許せる限度内だったかどうかってだけだよ。それに、自分が言ったじゃない。『俺は恐ろしい男だと思う』って。つまりヤバい男なんでしょ? だから、ちゃんと話そう。ね?」
大和さんは俺にしがみついたまま、「うん」と言って泣き始めた。
「泣くなよ、大人でしょ?」
数分前には王子様のようにかっこよかったのに、今は幼子のように泣いている。
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