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五章 毎日、毎日、貴方を好きになる。

5ーex. 彼は、渇望する

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 夏のあの日。思わぬトラブルに近づいた距離を維持したくて、彼は強引に彼女の部屋へ通い出した。

 彼女の住む古いアパートは二階建て。
 階段を上がり部屋のドアベルを鳴らせば、彼女は慌てたような、しかし軽い足音を立てて扉を開いてくれる。

「おはよう」
 仏頂面のまま、彼が短く挨拶すれば。
「おはようございます」
 はにかんだ笑顔と共に、小さな声で挨拶が返る。

 季節が変わる度、朝の挨拶が増える度に、少しずつ距離が近づいていくのを、彼は感じていた。

 相変わらず、現実と夢との隔たりは大きい。
 だが、現実主義で非常に頭の固い伊都が、ジルバーゆめ白銀げんじつを同一人物と認めただけでも随分な進歩だ。
 その上で、彼女は大層恐がりな癖に、大好きな絵本のヒーロー本人だと知って、強面の素を出した白銀をあっさり受け入れてしまった。

 今や自室でしか出せない素の姿を、愛しい人の住む部屋でも出せるのだから全くもって有り難い状況だ。


(悔しいが、悪友に感謝すべきなんだろうな……)
 彼は、今も執筆に追われているだろう悪友の顔を思い出してげんなりする。

 人気俳優の経営する劇団の舞台となるぐらいに、今や人気シリーズとなったジルバーの登場する絵本。その名は泣き虫魔女シリーズ。そのヒーローのリサーチだ何だと、今でも月に一度は連絡が来る悪友だ。
 が、先日の連絡では『とうとう手先の器用な彼女を捕まえたか。いや、お付き合いを始めた所って感じかな』 と、何処かで見たかのように現状を当ててきた。
 毎度スパイでも隠れているのかと思うのだが……そして、彼の実家ならそれが出来るだけのコネがあるのだが……軽く否定すれば『あはは、そんな事しなくても分かるって。案外分かりやすいよ、白銀は』 と悪友は飄々として笑う。

 そんな悪友は、次作の為にも魔女のモデルに会わせろと五月蠅い。
 が、少々どころでなく変わっている男に、彼自身が会わせたくないと拒否している。
 お断りだとすげなく言えば、『おやおや随分と大事にしてるねー。前の彼女はホイホイ会わせてたのにまるで懐に隠して会わせない。嫉妬かい、嫉妬なんだな? 彼女の大好きな絵本の作家だものなあ僕は! ははは! じゃあ、続報を楽しみにしているよ』 そう言って電話を切った。
 全く、自由な人物である。


 話は戻るが、余り早くに押し掛けても彼女が困るだろうと思って、彼が部屋で過ごす時間は意外に短く、三十分程だ。

 その短い時間に、自分のテリトリーだからか、巣穴の中のように、彼女は伸び伸びとした姿を彼に見せてくれる。
 ころころと変わる表情や、鈴の音のような笑い声や、ふとした瞬間の安心しきって緩んだ顔。
 普段は見せないような、楽な姿勢でのんびりするくつろいだ姿を。
 身体の線が見える部屋着で出迎えられる時には、あらぬ箇所が疼いて仕方がないが、襲い掛かったらこの時間がなくなると必死に欲望を制御する。

(全く、彼女は俺の忍耐力を試すつもりか)
 嬉しいような苦しいような、そんな日々が今は愛おしい。


「あの、ご飯を食べていきませんか」
 ある日の事。
 真剣な顔で誘われた時には、その愛らしさに思わず伊都を彼は抱き寄せてしまった。
 一時期は摂食障害に悩んだという彼女の身体は未だ細さが目立つ。驚く程に繊細な白いその身体は、夢の記憶通りに彼の身体にしっくりと納まった。
 彼女は驚いて身を竦めたが、おそるおそるとその華奢な手を彼の広い背中へと回してくれる。

 未だ男が苦手な彼女には、彼の身体は大きく、恐ろしく見えるだろうに、怯えながらも応える姿にぞくりとする。

 ……ああ、今あんたを食らい尽くしたい。

 劣情と共に乱暴な感情が沸き上がる。このまま彼女を――。
 だが、そんな事をすれば確実に今までの信頼を失うだろう。

 彼女は男を恐れている。
 彼だからこそ、怯えを堪えここまで近づいてきてくれたというのに、彼女の努力を、自分の欲で台無しにするつもりか! この獣め!
 ……そう思えば、欲望よりも理性が勝った。

 それからの彼の毎日は、欲望との戦いの日々となった。
 腕を広げれば素直に腕に納まる、微かに震える彼女の身体から匂い立つ甘い香りに、反応しかける身体を理性で押さえつける。
 正直、何の修行かという事態に襲われ続けている。

 だが今更、現実に彼女に触れない選択肢は無かった。

 ようやく、なのだ。
 現実に彼女に触れられるのだから、彼は少しでもその暖かな身体を抱き締めたいと、そう思うのだ。


 そして、冬が巡ってくる。
 彼女と出会った季節が。

 昨年の初冬。故郷ティエラナタルで会った日を記念日として、彼は伊都を食事に誘った。

「今日は故郷に予約を取った。ケーキも頼んでいる」
「それは嬉しいわ。何時に上がれそうなの?」
 素直に感情を出して喜んで見せる彼女はとても可愛い。
 唇だけ引き上げる微かな笑みを見せ、彼は頭の中で今日の予定を多い浮かべて返答する。

「七時には上がれると思う。先に行っているか」
「ええ、ちょっと前に行って、マスターと話しているわ」
 一年丁度経った今でも、伊都は意識していないとすぐに敬語に戻る。
 その度に注意して戻させるが、巣穴の中のように親しみを持って話して貰えるのは何時になるのだろうかと思う。

 だが、確かに。
 今、目の前で笑う人はこの腕に納められる距離に居る。

(今は、この距離を大事にして、もっと信頼を勝ち得るべきなのだろうな)

 彼は焦るまいと、心の中で念じながら、笑顔を浮かべる愛しい人との会話を楽しんだ。
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