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1章:異世界、湖、ラブ・ハプニング

1ーex. 銀狼の物思い

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 その夢は、いつから見ていたものか。
 銀の狼になり、森を駆ける夢は。
 おそらくはそう、婚約者の裏切りからだろう。一年前、拗れに拗れた最後を迎える頃には、彼は軽度の精神障害を患っていた。
 睡眠剤を処方され無理やりに寝る時に、この夢を見ていたように思う。

 現在の彼ははっきりとそれを自覚しつつ、明晰夢の中で遊んでいた。


 その舞台を用意してくれたのは友人だ。

 彼の悪友が、手遊びに書いた小話から生まれた狼。
 今じゃ一丁前の作家になり、「まけオオカミ ジルバーの冒険」 というシリーズにまでなったその作品の中に、彼はキャラクターとして生かされていた。

 それは群れを追われた負け犬で、その癖図体はでかく、粗暴者。
 己の流儀で動くだけで、決して正義漢なんかじゃない。

 ……まるで俺のようだ。こいつは。彼は思う。
 外向き用にお上品なツラをしている「私」 じゃなく、常に苛立っていた、児童養護施設暮らしの頃の「俺」 そのものだ、と。
 やがて彼も親切な家族の元に身を寄せその凶暴さを潜めたが、本来の性質が完全に消えることはなく、二十八にもなった今でも、時折にその片鱗を見せる。

 夢の中、四つ足で思い切り駆けるのは心地良い。気に入らない奴がいれば野生の流儀で牙を向ければよく、思い切り唸って、叫んで、血の沸き立つままに走り回る。
 夢の中では、自分を偽らなくてもいい。粗暴で気の荒く融通の利かない、生来の自分を曝け出せる。
 擦り傷などいつかは消える。心に付いた傷ほど、重篤でないと彼は知っている。だから彼は、傷付く事を恐れない。

 既に習い性となって久しい上品な表の顔だが、それでも多少はストレスになっているのだと、この夢を見る度に実感する。
 義母から受けた教育の質は高く、それが故、現実の彼ときたら良家の子息が如くに紳士な振る舞いである。だが、生来の質はこれだから、知らず鬱屈が溜まるのだろう。
 故に夢の中とはいえ、暴れられる場がある事は、彼の精神の安定の一助となっている。

 ……そんな世界で、想い人に逢った事は望外の事だ。

 彼は、干し草のベッドで横になり、愛する人を腕に抱きながら欲深い自分に嗤う。

 こんな姿の俺を、怖がりな君が許す訳がないのに、と。
 夜目が利く「ジルバー」 は、あどけない顔で眠る彼女の顔が暗がりでもよく見えた。初心な彼女には大分無体を強いたのに、安らいで眠っているように見えるのは、何故だろうか。

(これも、俺の願望か)
 ああ全く、どうしようもないと内心に己に呆れつつ、彼は寝乱れた彼女の髪を指で梳いた。
 嬉しげに頬を緩め、その白く細い手で彼に抱きつく。無邪気な彼女が漏らした言葉に、ハッとする。
「……ろがね、さん。だいすき……」

 よく出来た夢だと彼は笑う。そんな言葉、彼女が漏らす筈もないのに。

 この世界の彼は、紳士な彼ではない。
 軽い男性恐怖症の気がある彼女を脅かさぬよう、常に適切に距離を置くような、気遣いの出来る男ではないのだ。
 現に今も、変態熊の暴行に遭った上に無体を強いられて、気絶するように眠った被害者の彼女がここにいる。
 反省は、しているのだが……ほぼ裸体で共寝をしていて、手を出さないでいられる自信はなかった。

 現実の彼が信頼を得て側に居られるのは、紳士ぶりを発揮し、距離を少しずつ縮めていった、たゆまぬ努力による結果である。
 ようやく肩先が触れ合うぐらいの、軽い接触に慣れてくれた彼女。
 現実の彼女には、壊れ物みたいに大事にし過ぎて未だに指先すらも触れていないのに、この世界では、裸のまま抱き合っているのだから、男の欲の果ては知れない。

(俺の、魔女。俺がこんなにも君に焦がれている事を、きっと現実の君は知らないだろうな)

 暖炉の火に暖められた部屋の中、無防備に抱きついてくれる彼女が愛おしくて、彼は鋭い瞳をつかの間和らげた。

 夢でもいい。君を抱ける。愛らしい頬に口づけ、彼は彼女を抱き締める。


 現実でもそうあれば、どれだけ幸せだろうか……。
 彼は苦く笑いながらも、夢の中の女を、全身で包むようにして抱き寄せた。
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