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1章:異世界、湖、ラブ・ハプニング

二話: 異世界、熊とこんにちは。

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「グルルルル……」
 生臭い息が、頬に掛かる。
 ベロリと首筋を這う湿って熱いものは何だろうかと、彼女、織部伊都(おりべいと)は目を開いた。

 伊都は困惑した。

 目に入るのは、さんさんと降る太陽の光の下に咲く、花畑。ぐるりと囲む木立の中にぽっかりと開けた平地。
 伊都は横倒しの木の上に、ビニール袋を提げたまま、座っていた。

 ……ここは、どこ。ようやく覚醒した伊都は、混乱した。

(私は……確か、いつものように境内で、手芸店のセール品を……また積み上げてしまった罪庫を確認してて)
 ちなみに罪庫とは、買ったものの手を付けず積み上げてしまっている状態を指す。伊都はストレスが溜まると手芸店に行ってセール品を山ほど買ってストレス解消をするため、罪庫を作りやすい状況にあった。
(ご神木の下のベンチで思いついたものを編んでたら、うとうとして……?)
 柔い手のひらに感じるのは木の皮のごつごつした感触。少なくとも、ご神木の下の馴染みのベンチでないことは確かだった。

 それはどこかで見た光景だ。横倒しの木の上で編み物をする女の子と銀色の狼の、絵にも似た。

 しかし、問題はそこではない。
 近くで、グルルと唸るような音の混ざる呼吸が聞こえてくる。
 そろりと、視線を横に向ければ。

 横倒しの大木に座る伊都に伸し掛るようにして、分厚い毛皮を被った大きな生き物がそこにいた。


「…………!!」
 ひゅっと、喉が鳴る。本当に恐ろしいと、声も出ないのだと伊都は知った。
 大きな熊は、まるで伊都の恐怖を理解したように、鼻面に皺を寄せ、グルルと喉奥で笑う。

 これは、なに。
 私は、境内にいて……編み物の途中で。

 ガタガタと震える伊都は、手にした編み途中の銀色のネッカチーフと、大きな買い物袋を地面に落とす。

 ガサリ。地に落ちたビニール袋は小さく音を立てた。その音に釣られるように熊の口が大きく開き……。

 熊はまるで伊都の恐怖を味わうかのように、喉元を分厚い舌で舐め上げた。
 鋭く尖った犬歯に、ぎざぎざの乱杭歯。伊都の頭を丸呑みできそうな大きな口。ハッハッと、忙しない呼気に生臭い臭いが混じる。

「ひっ……」
 伊都はぶつぶつと鳥肌が立つ。
 熊は ベロリ、ベロリと、伊都のなめらかな肌を味わうようにじっとりと舐めずる。
 か細い悲鳴は途切れ途切れ上がり、その反応に笑うかのように熊が喉を鳴らす。

 森のしじまに、熊の声は、妙に響いた。

 鼻面を擦るよう、喉元を過ぎたそれは、伊都の白い長袖シャツの襟元を噛んだ。ぶちぶちを音を立てボタンが飛び散る。
 ラフな仕立ての白シャツの下は、シュミーズと下着のみ。

 蹂躙は続く。
 生臭い獣の息が掛かるたび、酷い吐き気がせり上がってくる。だがそれはぐっと堪えた。

 伊都は恐怖で固まりながらも、その大きな生き物の目に宿る知性に気づいていた。
 それは伊都の恐怖を味わっている。伊都の動き如何で、何時なりとその大きな口を閉じ、彼女の命を奪うのだろう。
 か弱い生物をただ暇つぶしのために嬲り傷付け、時に命を奪う。
 伊都はそんな残虐非道な熊を、知っていた。

 伊都の大好きな絵本の中にも、悪役として焦げ茶の熊は出てくる。
 ヒーローのジルバーのに立ちはだかる敵。
 森の怪物、スコーチベアー。
 焦げ熊、と名付けられたそれは、残忍で憎らしい最強の敵役として描かれている。暴虐な性格は実に嫌らしく、伊都も大嫌いなキャラクターだ。
 非道で暴力的で強大な敵。だからこそ、ヒーローの立ち回りも映える。
 森の中心的存在な魔女を気まぐれに襲い泣かせた時に、颯爽と現れ撃退した、ジルバーの格好良かった事。
 それは繰り返し読んだ大好きな場面であったけれど……。

 絵本の熊は絵本だけあって可愛らしい造形をしていたが、リアルなそれは違った。
 ただ大きく、ただ恐ろしく、そして逃げる事すら思いつかないような圧倒的な力を持っている。

 熊はとうとう、伊都を嬲るのも飽きたか。
 少しばかり顔を遠ざけると、ぐわりと大きく顎を開いてみせた。

「……ああ」

 伊都は死を前にして、ただただ困惑していた。

 未だに、何が何だか分からない。
 どうしてここに居るのか、どうして森の中、寝こけていたのかも。
 でもこのスコーチベアーに似た、恐ろしいものが自分を食い殺すべく狙っている事だけはわかる。

(もしかして、夢なの? ああそれなら。葉書の絵を見てたし、魔女の歌なんて歌ったし。だから、こんな変な夢を見ているのかも。なら、早く目が覚めないかな)

 死を目前にして、短絡的に、伊都が逃避に走ったのもまた仕方のない事だったのかも知れない。


 さやさやと涼やかに鳴る梢、バサバサと鳥が飛び立つ音がする。何の因果かこの見知らぬ深い森の中、伊都は命を落とすようだ。

 潤んだ瞳からほろりと、眦から雫が転がり落ちた。
 かすかな溜息のような声を上げると……伊都は死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑る。

(死の夢って何を暗示するんだっけ? こんなおかしな死に方をするなら、せめて、ジルバーと一目会いたかったな……)



 そうして死を覚悟した、その時だ。
 地を蹴る音と共に、伊都を救う銀光が駆け寄ってきたのは。
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