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1巻
1-3
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「お昼はちゃんと作りますので、はい。期待にお応えできるかは分かりませんが」
「はっは。可愛いお嬢ちゃんに料理してもらえるだけでお兄ちゃんは十分だって」
なかなか口が上手い人だ。お世辞だろうが、一応気持ちは受け取っておこう。
しばらく彼のあとを追っていて分かったのだけど、どうやら彼は、あのログハウスに歩を進めているようだ。
えっ、私が必死に歩いたところをまた戻るの? と、抗議したいが、この森は人の手が余り加わってない分、大物――すなわち強い動物が多いそうで、煮炊きなどをするならきちんとした設備でやった方が安全だという。まあ確かに、煮炊きをしている無防備なときに、野獣に襲われたりしたら危険だものね。
道中、のんびり狩人さんと会話をする。丸一日ぐらい人と話してなかったから、なんだか新鮮な気がするなぁ。
「ところで、お嬢ちゃんはどうもこの森の重要性を分かってないようだな。この森は古来から女神の森って言われていてな。中に入れる奴が限られてるんだ」
「女神の森、ですか」
へえ、なんだか曰く付きみたいな名前の森だったのね、ここ。
「やっぱ、よく分かってないだろ。ここに入れるだけで結構なステータスだってのに、まあ平和な顔で……。お兄さんは、そんなお嬢ちゃんが悪者に拐かされないか心配ですよ」
私の気のない返事に、狩人さんは呆れ顔だ。
「実際、これから向かうロッジの近くには小さな祠があって、そこには女神像が奉られてるんだぜ。なかなか見事な像だから、一度お参りに行くといい」
ずれた背嚢の位置を直しながら、そんなことを語る。
「女神の像……確かに、一度は見てみたいですね」
昔からある女神の像の祠とか、ちょっと知られざる観光地的でワクワクするかも。
「そうしとけ。で、話は元に戻るが、オレは親が創世女神の信心深い教徒だったもんだから、なんとなく礼拝とか行ったり毎日の食事のとき祈ったりする癖があってさ。それで多分、森に入れるんだと思うんだが……。そういった、ここに入れる者のことを、この森の守り手と言うんだ。もう、この大陸でも女神信仰は廃れるばかりでね。同年代でこの森に入れる奴、オレ以外の守り手なんて、聞いたことがないのさ」
「はあ……」
「はは、よく分からんか。まあ、この国もよそと変わらず、あんまり神様に祈るような奴がいなくなったってことさ。だから、この女神の森は一般的にはダンジョンに分類されていても、攻略する奴がほぼいないんだ。もしかしたら別の国から攻略に入る奴もいるかもしれないが、それにしてはもう十年は通っている俺でも、人とすれ違ったこともなくってね。まあ、それで相当少ない人数だろうと見当を付けてる訳だ。だからお嬢ちゃんを見て、お兄さんは驚いてしまったんだよ」
苦笑しながら私に説明する。
ええと……つまり。私はとんでもない秘境に紛れ込んでいた、ということになるのだろうか。
「うーん。格好こそ珍妙だが、その髪の艶やかさといい、荒れてない綺麗な手といい、どこかの国の深窓の令嬢ってとこかねぇ……。しかも、銀狼を連れたモンスターテイマーって、そんなのが一体どうしたらこの森に迷い込むものやら」
首を捻りつつぶつぶつと呟いてる彼に連れられて例の小屋に戻ると、彼はさっさとドアを開け入り込んでしまう。
私は慌てて、彼のあとを追って小屋に入ったのだった。
◆◆◆
「さてっと。じゃあ早速飯にするか」
彼は勝手知ったるという態度で、暖炉脇の水瓶を軽く指先で叩いた。そして柄杓で水を汲み、木製の大きなカップに注いで、ごくごくと水を飲み干している。
「……あれ?」
確か、あの水瓶は空だったはず、だよね。
「お嬢ちゃんも喉渇いたろう。魔法の水瓶に水を汲んどいたから、あんたも飲みな。それから、暖炉に火を起こしといたから」
私が昨日完全に消火したはずの暖炉には、すでに火が燃えている。
「は、はあ。ありがとうございます……?」
私が返事をする間にも、彼はまた水瓶から水を汲んで飲んでいる。
……うーん、やっぱりこの森の動物も人も、簡単に魔法を使うのねぇ。ま、そういうものとして今は受け入れるしかないか。
「とりあえず、料理始めちゃいますね」
私は彼に断ると暖炉に近づいて、料理の準備を始めた。
「おう、よろしくな……っと、いてて」
そう言うと彼は、左の肘を右手で押さえた。
「どうしたんですか?」
「いやあ、元々こっちが利き手だからかな、神経やっちまってるって分かってても、とっさに動かそうとしてね。そうすると、痛みが出るんだよな」
いやあ参った、と笑う彼の表情は深刻そうでもないけれど、でも痛みが出る、と……
「うーん」
私は怪我人を前に唸った。そうだな、ここはやっぱり湿布かな。恩人さんがあんな痛そうにしてて、しかもここにはハーブも揃ってるのに。手当てしないっていうのは、幾らなんでも非情でしょう。
うん。お料理をぱぱっと済ませて、狩人さんの肘の手当てもしておこう。
「さて、忙しくなりそうだな。ぽちは料理の助手、よろしくね」
「わんっ」
ところで狩人さんに聞いたら、ここはどうも森の狩人の共有財産のようなものだそうで、森に入れる人なら勝手に使っていいのですって。それを聞いてホッとした私は、張り切ってお料理に集中することにしたよ。
そうそう、お待たせしてる間はハーブティーでも飲んでいてもらいましょう。
ケトルにお湯を沸かし、ティーポットにささっと洗ったカモミールを適量入れてと。
可愛い花を咲かせるカモミールは、青リンゴの香りと言われるような爽やかな甘い香りがするハーブだ。リラックス効果もあり、寝る前にもおすすめだったりする。
「お料理できるまで、これ飲んでいて下さい」
「お、ありがとうな。いい匂いだ。痛みも和らぐようだ、よ……?」
ハーブの香りを吸い込んだ彼は、なんだか不思議そうな顔をした。
「うん? 本当に痛みが消えたような?」
何かぶつぶつ呟いているけど、私は料理を優先せねばならぬのです。
まずはお鍋にキノコとハーブと、母親狼が取ってくれたレモンっぽい果実を入れて、汁物を作ろう。綺麗に葉を洗ってから、キノコとレモンを薄切りに、オレガノ、タイム、バジルを刻んでぱらぱらっと。
「ところでここの棚のお塩とかお砂糖とか、使っていいんですか?」
確認したところ、お皿のある棚にある壺に、基本の調味料が揃っているようなんだよね。使っていいものかどうか判断がつかなくて、とりあえず狩人さんに聞いてみる。
「おう。減ったらオレが森から適当に取ってくるから、気にせず使ってくれ。岩塩なら森の北で掘れるところがあるし、砂糖なら西の方にシュガンの木が生えてる。果樹の類も揃ってるし、食べるだけなら困らないんだよな、この森」
ティーカップ片手に、彼はそう答えてくれた。
ほうほう。それなら気にせず使わせてもらいましょう。
お塩を手の甲にのせ舐めてみたら、うん、岩塩だけあってミネラル豊富。
このお塩なら、キノコのうまみで十分美味しいお汁ができそうだ。
キノコのスープと、あと何か一品くらいは作らなきゃね。
イノシシ肉を融通してくれるとは言われたけれど、残念ながら調理の仕方がよく分からない。ここは無理をせず、私のできる範囲でごちそうしましょう。
うーん、もう一品。
そうだな、酸葉……ソレルを塩もみして、お浸しにして出すかな。簡単にできる箸休め。こういうのがあると鰹節が欲しくなるね。あとお醤油。
お醤油があれば、もしかしたらイノシシ肉も食べられたのだろうか。焼いてお砂糖とお醤油で甘辛く味付け、とか。つくづく、お醤油がないのが悔やまれる。
幸いパンの実があるからお腹の持ちはいいはずだし、あとはフルーツを添えて……
あ。
「お砂糖が簡単に採れるなら、お母さんに取ってきてもらったベリー系の果実で、コンフィチュールが作れるんじゃないかな」
コンフィチュールは、コンフィ――お酢や砂糖、油など、保存性を高める素材に浸して調理したものの総称――という単語がついているだけあって、大量の果実を保存するのに向いてるんだよね。
今回は、果実を砂糖と一緒に煮てレモン汁を搾ったものを作りたいんだ。
パンに塗ってもいいし、タルト生地にぎっしり詰めてもいいし。ああ、考えてたらお菓子が食べたくなってきた。
今日このあと、すぐに移動するなら作る時間はそんなにないけど……。ま、まあ、とにかく甘いものに近づけたのはいいことだよ。
一応、シュガンの木という植物の位置を聞いておいて、あとでお砂糖を採りに来ることも考えよう。だって甘味は大事ですから!
それはそれとして、お昼です。
考えごとをしてる内にスープも煮えたので、お皿に盛って、ソレルのお浸しを添えて出す。
男性だし、沢山食べるだろうと、パンの実を好きなだけ取れるよう籠盛りにした。果実も別皿に盛って、テーブルの真ん中へ。足元のぽちには、狩人さんにイノシシ肉を分けてもらって、それをお皿代わりの葉っぱにのせて出す。
「よーし、食うぞぉっ!」
目をらんらんと輝かせた狩人さんが、早速スプーン片手に料理に食らいついた。
「おっ、スープはさっぱりしつつ、キノコがいい味してるなー。オレは好きだぜ。こっちの酸っぱいのもシャキシャキしていい歯ごたえだ」
正直肉が欲しいが……と続いたところは、当人も聞かせるつもりはなかったようだから聞かぬ振り。
ちなみに意外なことに、彼は早食いだけど綺麗な食べ方をしていた。うーんこの人、一見粗野な見た目なんだけど、実は教養がありそう。なかなかに謎な人だな。
狩人さんは、長身で筋肉質な見た目通りに健啖家で、パンの実を五つ、スープも二杯おかわりしてくれた。
「ふう、食べた食べた」
「お粗末様でした」
食後のお茶の時間って最高だよね。
すっきりした後味になるようレモングラスを利かせつつ、フェンネルを加えた消化促進なお茶を。なかなか爽やかな風味だ。お通じが悪いときにも、これにお世話になるんだよね。
ぽちにはお水で我慢してもらうよ。
……さて、お腹もくちたし、あとは狩人さんに湿布を作らないとね。
「よし、では怪我の手当てですね」
「うん? お嬢ちゃん怪我なんてしてたか?」
「いえいえ、狩人さんの左腕のことですよ。痛むのでしょう?」
「え、オレ?」
彼は私の宣言に、お茶のカップを片手に驚いた顔をしていた。
「えーと、狩人さん」
「おう。っていうか、もしかして名前言ってなかったか? オレはアレックスって言うんだけど」
「いえ、多分聞いてましたが。なんとなく名前を呼ぶ機会もなくて……」
「ははは、なんだそりゃ」
アレックスさんには笑いごとかもしれないけれど、男性関係では大学デビュー失敗したときに色々後悔してるので、妙に気安い人は警戒してしまうんだよね……。まあ、今までの会話の感じからして、彼は悪い人ではないのだろうけど。
「まあ、それはともかく。左腕が痛むのでしょう? ちょっとハーブで湿布でもしてみようかと思うんですが、いかがですか」
あるものは使うのだ。というか、折角新鮮なハーブが山盛りであるのだから、できればきちんと役立ててやりたいと思うのが人情でしょう。
「古傷で痛みが出てるってことは、神経痛かなと思いまして。だとするとセントジョーンズワートをメインとした浸出液で湿布をしようかなと。左手に湿布とかしても大丈夫ですか? 問題ないなら作業します」
私は自分なりに考えた、古傷の手当ての話をする。
「おいおい、お嬢ちゃん。本当にやる気なのか? ……いやまあ、痛みをなんとかしてくれるならありがたいがね」
右手でメタリックグリーンの髪をかき混ぜるようにして頭をかくお兄さんこと、アレックスさん。
そんな彼を横目に、私は湿布用にハーブを用意し始めた。
手に取りますはセントジョーンズワート、またの名を、セイヨウオトギリソウ。夏至の頃に咲く明るい黄色の花は、オイルに浸したり、アルコールに漬けハーブチンキにして用いられることもある。
消炎効果や抗ウィルス作用が見込まれるハーブで、古くから湿布薬に利用されていた由緒あるハーブです。
今日はこれをメインに、浸出液を作ろうと思う。
「あー、時間があればマッサージと湿布用に、オイル漬けしたいなあ……オリーブの木があるだけあって、オリーブオイルはあるし」
なんだか今日は色々用途が浮かんで、我ながらないものねだりが多い。
再びケトルを火にかけ、お湯が沸いたらティーポットに適量のセントジョーンズワートを入れて、お湯を注ぐ。
しばらくティーコゼ代わりのリネンに包んで蒸らし、そしておまじない。
「おいしくなーれ……じゃなくて、いい感じにエキスが出ますように」
度々蒸らし時間が足りなくてうっすいハーブ液を作っていたから、どうも癖が抜けない。
そうしてティーポットを両手に包んでお祈りをしてると、またふわっと、キンモクセイの香りと共に、温かな何かが手を伝ってポットの中に吸い込まれていく。
「……うーん。本当にこれってなんなんだろ」
そう言って首を傾げている私を、ぎょっとした目でアレックスさんが見ていたなんてことを――このときの私は、気づかなかった。
「なんだ、この匂いは。嗅いでいるだけで痛みが安らぐ。それにあの膨大で清い魔力は……まるで女神の祠で感じた、あの……」
続いた囁くような彼の呟きも、ティーポットの中のハーブの抽出に集中していた私の耳には入らなかった。
「さて、いい感じに浸出液もできましたので湿布しちゃいましょう」
幸い、このロッジには清潔なリネンが沢山あるので、また包帯に使わせてもらうことにする。
「左手、ちょっと痛いかもしれませんが頑張ってテーブルにのせて下さいねー。下にタオル敷きます」
「はいよー……あいたた」
テーブルの上にのった腕は、怪我をして動かないという割には右手と同じく筋肉があって、男性らしい逞しさがある。まだ、怪我をしてから長くは経っていないのかもしれない。だとしたら、湿布とマッサージで少しはよくなるかも。
これから男の人の腕に触るのか、ちょっと怖いな……なんて今更ながらに思ったけれど、それも後の祭りというもの。
……よし、平常心平常心。この人は患者さん、患者さん。
大きく深呼吸してから、アレックスさんの手当てに移る。
「痛いのは肘ですか? 湿布当てます。神経に触っちゃって痛いかもしれませんが、ちょっと我慢して下さいね」
「ああ」
冷ましたセントジョーンズワート液をたっぷりと浸したリネンを彼の肘に当てる。少しだけ肘を浮かせてもらって、細く裂いたリネンで湿布を固定した。
……よし、これであとは安静にしていてもらえば、少しは痛みも和らぐはず。
あ。
私は重大なことに気づく。
「痛みが引くまで安静にしていると、森を抜ける頃には多分暗くなってしまいますよね」
なんだかんだと、お昼を食べてから湿布をするまでのんびりやってたら、すでにおやつの時間になっている。まあ、小腹が空いたら母親狼が持たせてくれたフルーツでも囓ればいいのだけれど……いや、そうじゃない。
「そうだなぁ。別に急ぎでないなら、夜の森なんて危険な場所を歩かないでも、今日はロッジに泊まって明朝から移動すればいいんじゃないか」
この流れ、なんとなく嫌な気配がするんですが……!
「幸い肘の痛みも引いてきたし、オレは屋根さえあればどこでも寝られる。ここの二階に寝室があるから、お嬢ちゃんは二階で休んでいくといいよ」
ほらあ、やっぱり!
親切心あふれる彼の言葉に、私は顔を引きつらせる。
「い、いえいえ! 私はお母さんとぽちと一緒に寝ればいいので! で、では明日の朝!」
私は大学デビューに失敗した女。半ば干物の分際で、初対面の男性と同じ屋根の下で休むなんて無理に決まってます。なら、気心知れた母親狼のお腹で休みますよー!!
「は? お母さん? お嬢ちゃん、あんた親御さんも森にいるのか、って、おい!」
私は頬を真っ赤に染め、彼の言葉も聞かずに、ぽちを抱き上げてダッシュで逃げ出したのだった。
◆◆◆
次の日のこと。
狩人さんことアレックスさんは、大木の下で母親狼のお腹にもたれて寝る私とぽちを見つけ、引きつった顔をしていた。
「おいおい、本当に女神の使役獣たるシルバーウルフと仲良しなのか。お嬢ちゃんはお兄さんをどこまで驚かすつもりなんだろうな」
昨日、一度はアレックスさんのところから逃げ出した私だったけど、そのあと冷静になって森の小屋へ戻り、彼が心配しないよう、どこで寝ているか告げていたのだ。だから探しに来てくれたのかな。
私はむくりと起き上がり、お母さんにおはようの挨拶をしつつ、彼に言った。
「言ったじゃないですか。お母さんもいるし大丈夫ですよ?」
「ああ、そうだな。そうだよなぁ……森の主であるマザーと一緒なら、そりゃ心配ないわ」
母親狼のお腹に懐きながら笑顔で言う私に、大きなため息を吐くアレックスさん。そして彼は、嘆くように両手で顔を覆った。
「……って、アレックスさん。腕が……?」
「ああ。お嬢ちゃんのあの真摯な祈りと、女神の森の薬草が効いたんだろうな。今朝起きたら動くようになってたんだ。昨日のお嬢ちゃんの祈りは、そりゃすごかったしなぁ」
彼はにっかと笑って、動かなかったはずの左手を振り回して見せる。
ええと……私の祈りって? 湿布のことなら、いつもの調子でエキスよ出ろーってやっただけだよ。それよりももっと大きな問題が!
「え、ええ? 昨日は動かなかったのに……っていうか、治ったばかりなのに急に動かしちゃダメですよ!」
私は慌てて母親狼のお腹から離れ、ぶんぶん左手を振り回すアレックスさんを止めようとした。
けれど彼は走って近づく私をひょいと両手で抱え上げ、くるくると――まるでそう、バカップルがやるあの感じで、私を抱えてはしゃぎ始めたのだ。
鮮やかな緑が萌える森の中、鮮やかなメタリックグリーン髪の精悍な青年が私を抱えてくるくる回る……
「ちょ、ちょっと! アレックスさん左手が!」
「はははっ、そう言うなって。これでも元は騎士なんて呼ばれてたからな。鍛え方が違うぜ」
「へ? アレックスさんって、騎士だったんですか?」
「いや、実は魔術師で、そっちはあだ名っていうか……まあ、そんなのはどっちでもよくて。しばらく利き手が動かなくてイライラして参ってたんだよ。あーっ、両手が動くってやっぱり違うわ」
そうして浮かれ騒ぐ彼と、異性に抱え上げられるなどという非日常的シチュエーションに悲鳴が止まらない私がいたのですが……何故か、母親狼もぽちも止めてくれなかった。
結局、三半規管にダメージが加わって「酔いそう」と私が言い出すまで、アレックスさんのくるくるは止まることがなかったのでした。
はあ、朝からひどい目に遭った。
くらくらと目を回す私を、アレックスさんは母親狼のお腹に預けた。それから、まるで物語の騎士のように、片膝を地面に突き胸に手を当てる姿勢を取る。
そうして彼は、厳かに言ったのだ。
「お嬢ちゃんはオレの恩人だ。オレの奪われた左手を取り戻してくれたあんたに恩返ししたい。何か、オレができることはないか」
その真剣な顔に、私は慌てる。
「……いえいえ。きっと傷がまだ癒やせる範囲で、たまたま湿布がよく効いただけでしょう。素人の手当てでそんなによくなるはずもないし!」
私が両手を振って否定するも、彼は意地でも意思を曲げない様子だ。
片膝を突いたまま、こちらを真剣に見つめている。
うう、何これ。ぽち、どうしよう。彼の姿は、まるで王様に剣を捧げる騎士のようだ。堂々として立派なその姿に気圧され、思わずすぐ隣で寝転がってる子狼を抱き上げてしまう。
「くうん?」
ハッハと舌を出してきょとんとするぽち。まあ子狼だもの、今の私の困惑なんて、分からないよね。
「いいや、あんたのおかげだ。あんたが薬草を扱うときに発する、あの優しくも強大な魔力を込めた癒やしの波動は、女神の祠で感じる気配そのものだしな」
彼はじっと私を見つめて断言する。
え、いやいや。強大な魔力とか、癒やしの波動とか。なんだか大層なことを言われてるけど、私、そんなの使った覚えないんですけれど。
私は必死に頭を振るが、彼は引いてくれない。
「昨日まで、オレの左手は呪われていた。神経は通っているのに、確かに動くはずなのに、動かない。オレは左手を、呪いによって封じられていたんだ。それを動かせるようにするなんてのは、それこそ女神の力しかない――お嬢ちゃん、あんたは女神の薬師だな?」
「女神の、薬師?」
目を丸くしてなんのことかと訊ねる私に、アレックスさんはある伝承を語った。
……優しい女神は創世の際、人類が生きやすいようにこの世界に魔法を与えました。
魔法の力は水を湧かし渇きを癒やし、火をもって身体を温め、風を呼んで淀みを吹き払い、土を動かし豊かな大地を耕して、人々を助けます。
ですが、魔法という奇跡の力は、人類と共に地上に現れた魔力を持つ動物達……モンスターにも力をつけさせてしまいました。
つまり人類は、最初から天敵を持ってこの地に現れたということになります。
なおも悪いことに、魔力が豊富なダンジョンなどは、モンスターを肥やす土壌となりました。
魔力によって独自に進化したモンスターは、元の動物よりも強大です。
モンスターの中には、人の悪心から派生したかのような、二足歩行の小鬼、鬼などもおりました。奴らは集団で街を襲って来るため、人の開拓心を妨げる存在となりました。
モンスターという天敵を有したがゆえに、彼らと戦わざるを得ない人々の心は荒れたのです。
人が荒れると、世の中も荒れます。そんな荒廃した世界で、人は肉欲に溺れました。
分かりやすい快感にこそ、重きを置くようになったのです。それは更なる荒廃に繋がります。
強者である戦う男達は暴力に酔い、弱者である老人や女子供達が彼らの犠牲となりました。
強さを誇示すべく、戦士達は美しき者を勝利の杯代わりに奪い取り、苦言を呈す者を暴力にて排しました。
世には暴力が満ち、弱き者達は悲嘆に暮れたのです。
そうして欲に溺れた戦士達のみならず、か弱き人々も、女神が恵みし奇跡を顕す魔法を忘れ、一匹の獣へと墜ちていきました。
「はっは。可愛いお嬢ちゃんに料理してもらえるだけでお兄ちゃんは十分だって」
なかなか口が上手い人だ。お世辞だろうが、一応気持ちは受け取っておこう。
しばらく彼のあとを追っていて分かったのだけど、どうやら彼は、あのログハウスに歩を進めているようだ。
えっ、私が必死に歩いたところをまた戻るの? と、抗議したいが、この森は人の手が余り加わってない分、大物――すなわち強い動物が多いそうで、煮炊きなどをするならきちんとした設備でやった方が安全だという。まあ確かに、煮炊きをしている無防備なときに、野獣に襲われたりしたら危険だものね。
道中、のんびり狩人さんと会話をする。丸一日ぐらい人と話してなかったから、なんだか新鮮な気がするなぁ。
「ところで、お嬢ちゃんはどうもこの森の重要性を分かってないようだな。この森は古来から女神の森って言われていてな。中に入れる奴が限られてるんだ」
「女神の森、ですか」
へえ、なんだか曰く付きみたいな名前の森だったのね、ここ。
「やっぱ、よく分かってないだろ。ここに入れるだけで結構なステータスだってのに、まあ平和な顔で……。お兄さんは、そんなお嬢ちゃんが悪者に拐かされないか心配ですよ」
私の気のない返事に、狩人さんは呆れ顔だ。
「実際、これから向かうロッジの近くには小さな祠があって、そこには女神像が奉られてるんだぜ。なかなか見事な像だから、一度お参りに行くといい」
ずれた背嚢の位置を直しながら、そんなことを語る。
「女神の像……確かに、一度は見てみたいですね」
昔からある女神の像の祠とか、ちょっと知られざる観光地的でワクワクするかも。
「そうしとけ。で、話は元に戻るが、オレは親が創世女神の信心深い教徒だったもんだから、なんとなく礼拝とか行ったり毎日の食事のとき祈ったりする癖があってさ。それで多分、森に入れるんだと思うんだが……。そういった、ここに入れる者のことを、この森の守り手と言うんだ。もう、この大陸でも女神信仰は廃れるばかりでね。同年代でこの森に入れる奴、オレ以外の守り手なんて、聞いたことがないのさ」
「はあ……」
「はは、よく分からんか。まあ、この国もよそと変わらず、あんまり神様に祈るような奴がいなくなったってことさ。だから、この女神の森は一般的にはダンジョンに分類されていても、攻略する奴がほぼいないんだ。もしかしたら別の国から攻略に入る奴もいるかもしれないが、それにしてはもう十年は通っている俺でも、人とすれ違ったこともなくってね。まあ、それで相当少ない人数だろうと見当を付けてる訳だ。だからお嬢ちゃんを見て、お兄さんは驚いてしまったんだよ」
苦笑しながら私に説明する。
ええと……つまり。私はとんでもない秘境に紛れ込んでいた、ということになるのだろうか。
「うーん。格好こそ珍妙だが、その髪の艶やかさといい、荒れてない綺麗な手といい、どこかの国の深窓の令嬢ってとこかねぇ……。しかも、銀狼を連れたモンスターテイマーって、そんなのが一体どうしたらこの森に迷い込むものやら」
首を捻りつつぶつぶつと呟いてる彼に連れられて例の小屋に戻ると、彼はさっさとドアを開け入り込んでしまう。
私は慌てて、彼のあとを追って小屋に入ったのだった。
◆◆◆
「さてっと。じゃあ早速飯にするか」
彼は勝手知ったるという態度で、暖炉脇の水瓶を軽く指先で叩いた。そして柄杓で水を汲み、木製の大きなカップに注いで、ごくごくと水を飲み干している。
「……あれ?」
確か、あの水瓶は空だったはず、だよね。
「お嬢ちゃんも喉渇いたろう。魔法の水瓶に水を汲んどいたから、あんたも飲みな。それから、暖炉に火を起こしといたから」
私が昨日完全に消火したはずの暖炉には、すでに火が燃えている。
「は、はあ。ありがとうございます……?」
私が返事をする間にも、彼はまた水瓶から水を汲んで飲んでいる。
……うーん、やっぱりこの森の動物も人も、簡単に魔法を使うのねぇ。ま、そういうものとして今は受け入れるしかないか。
「とりあえず、料理始めちゃいますね」
私は彼に断ると暖炉に近づいて、料理の準備を始めた。
「おう、よろしくな……っと、いてて」
そう言うと彼は、左の肘を右手で押さえた。
「どうしたんですか?」
「いやあ、元々こっちが利き手だからかな、神経やっちまってるって分かってても、とっさに動かそうとしてね。そうすると、痛みが出るんだよな」
いやあ参った、と笑う彼の表情は深刻そうでもないけれど、でも痛みが出る、と……
「うーん」
私は怪我人を前に唸った。そうだな、ここはやっぱり湿布かな。恩人さんがあんな痛そうにしてて、しかもここにはハーブも揃ってるのに。手当てしないっていうのは、幾らなんでも非情でしょう。
うん。お料理をぱぱっと済ませて、狩人さんの肘の手当てもしておこう。
「さて、忙しくなりそうだな。ぽちは料理の助手、よろしくね」
「わんっ」
ところで狩人さんに聞いたら、ここはどうも森の狩人の共有財産のようなものだそうで、森に入れる人なら勝手に使っていいのですって。それを聞いてホッとした私は、張り切ってお料理に集中することにしたよ。
そうそう、お待たせしてる間はハーブティーでも飲んでいてもらいましょう。
ケトルにお湯を沸かし、ティーポットにささっと洗ったカモミールを適量入れてと。
可愛い花を咲かせるカモミールは、青リンゴの香りと言われるような爽やかな甘い香りがするハーブだ。リラックス効果もあり、寝る前にもおすすめだったりする。
「お料理できるまで、これ飲んでいて下さい」
「お、ありがとうな。いい匂いだ。痛みも和らぐようだ、よ……?」
ハーブの香りを吸い込んだ彼は、なんだか不思議そうな顔をした。
「うん? 本当に痛みが消えたような?」
何かぶつぶつ呟いているけど、私は料理を優先せねばならぬのです。
まずはお鍋にキノコとハーブと、母親狼が取ってくれたレモンっぽい果実を入れて、汁物を作ろう。綺麗に葉を洗ってから、キノコとレモンを薄切りに、オレガノ、タイム、バジルを刻んでぱらぱらっと。
「ところでここの棚のお塩とかお砂糖とか、使っていいんですか?」
確認したところ、お皿のある棚にある壺に、基本の調味料が揃っているようなんだよね。使っていいものかどうか判断がつかなくて、とりあえず狩人さんに聞いてみる。
「おう。減ったらオレが森から適当に取ってくるから、気にせず使ってくれ。岩塩なら森の北で掘れるところがあるし、砂糖なら西の方にシュガンの木が生えてる。果樹の類も揃ってるし、食べるだけなら困らないんだよな、この森」
ティーカップ片手に、彼はそう答えてくれた。
ほうほう。それなら気にせず使わせてもらいましょう。
お塩を手の甲にのせ舐めてみたら、うん、岩塩だけあってミネラル豊富。
このお塩なら、キノコのうまみで十分美味しいお汁ができそうだ。
キノコのスープと、あと何か一品くらいは作らなきゃね。
イノシシ肉を融通してくれるとは言われたけれど、残念ながら調理の仕方がよく分からない。ここは無理をせず、私のできる範囲でごちそうしましょう。
うーん、もう一品。
そうだな、酸葉……ソレルを塩もみして、お浸しにして出すかな。簡単にできる箸休め。こういうのがあると鰹節が欲しくなるね。あとお醤油。
お醤油があれば、もしかしたらイノシシ肉も食べられたのだろうか。焼いてお砂糖とお醤油で甘辛く味付け、とか。つくづく、お醤油がないのが悔やまれる。
幸いパンの実があるからお腹の持ちはいいはずだし、あとはフルーツを添えて……
あ。
「お砂糖が簡単に採れるなら、お母さんに取ってきてもらったベリー系の果実で、コンフィチュールが作れるんじゃないかな」
コンフィチュールは、コンフィ――お酢や砂糖、油など、保存性を高める素材に浸して調理したものの総称――という単語がついているだけあって、大量の果実を保存するのに向いてるんだよね。
今回は、果実を砂糖と一緒に煮てレモン汁を搾ったものを作りたいんだ。
パンに塗ってもいいし、タルト生地にぎっしり詰めてもいいし。ああ、考えてたらお菓子が食べたくなってきた。
今日このあと、すぐに移動するなら作る時間はそんなにないけど……。ま、まあ、とにかく甘いものに近づけたのはいいことだよ。
一応、シュガンの木という植物の位置を聞いておいて、あとでお砂糖を採りに来ることも考えよう。だって甘味は大事ですから!
それはそれとして、お昼です。
考えごとをしてる内にスープも煮えたので、お皿に盛って、ソレルのお浸しを添えて出す。
男性だし、沢山食べるだろうと、パンの実を好きなだけ取れるよう籠盛りにした。果実も別皿に盛って、テーブルの真ん中へ。足元のぽちには、狩人さんにイノシシ肉を分けてもらって、それをお皿代わりの葉っぱにのせて出す。
「よーし、食うぞぉっ!」
目をらんらんと輝かせた狩人さんが、早速スプーン片手に料理に食らいついた。
「おっ、スープはさっぱりしつつ、キノコがいい味してるなー。オレは好きだぜ。こっちの酸っぱいのもシャキシャキしていい歯ごたえだ」
正直肉が欲しいが……と続いたところは、当人も聞かせるつもりはなかったようだから聞かぬ振り。
ちなみに意外なことに、彼は早食いだけど綺麗な食べ方をしていた。うーんこの人、一見粗野な見た目なんだけど、実は教養がありそう。なかなかに謎な人だな。
狩人さんは、長身で筋肉質な見た目通りに健啖家で、パンの実を五つ、スープも二杯おかわりしてくれた。
「ふう、食べた食べた」
「お粗末様でした」
食後のお茶の時間って最高だよね。
すっきりした後味になるようレモングラスを利かせつつ、フェンネルを加えた消化促進なお茶を。なかなか爽やかな風味だ。お通じが悪いときにも、これにお世話になるんだよね。
ぽちにはお水で我慢してもらうよ。
……さて、お腹もくちたし、あとは狩人さんに湿布を作らないとね。
「よし、では怪我の手当てですね」
「うん? お嬢ちゃん怪我なんてしてたか?」
「いえいえ、狩人さんの左腕のことですよ。痛むのでしょう?」
「え、オレ?」
彼は私の宣言に、お茶のカップを片手に驚いた顔をしていた。
「えーと、狩人さん」
「おう。っていうか、もしかして名前言ってなかったか? オレはアレックスって言うんだけど」
「いえ、多分聞いてましたが。なんとなく名前を呼ぶ機会もなくて……」
「ははは、なんだそりゃ」
アレックスさんには笑いごとかもしれないけれど、男性関係では大学デビュー失敗したときに色々後悔してるので、妙に気安い人は警戒してしまうんだよね……。まあ、今までの会話の感じからして、彼は悪い人ではないのだろうけど。
「まあ、それはともかく。左腕が痛むのでしょう? ちょっとハーブで湿布でもしてみようかと思うんですが、いかがですか」
あるものは使うのだ。というか、折角新鮮なハーブが山盛りであるのだから、できればきちんと役立ててやりたいと思うのが人情でしょう。
「古傷で痛みが出てるってことは、神経痛かなと思いまして。だとするとセントジョーンズワートをメインとした浸出液で湿布をしようかなと。左手に湿布とかしても大丈夫ですか? 問題ないなら作業します」
私は自分なりに考えた、古傷の手当ての話をする。
「おいおい、お嬢ちゃん。本当にやる気なのか? ……いやまあ、痛みをなんとかしてくれるならありがたいがね」
右手でメタリックグリーンの髪をかき混ぜるようにして頭をかくお兄さんこと、アレックスさん。
そんな彼を横目に、私は湿布用にハーブを用意し始めた。
手に取りますはセントジョーンズワート、またの名を、セイヨウオトギリソウ。夏至の頃に咲く明るい黄色の花は、オイルに浸したり、アルコールに漬けハーブチンキにして用いられることもある。
消炎効果や抗ウィルス作用が見込まれるハーブで、古くから湿布薬に利用されていた由緒あるハーブです。
今日はこれをメインに、浸出液を作ろうと思う。
「あー、時間があればマッサージと湿布用に、オイル漬けしたいなあ……オリーブの木があるだけあって、オリーブオイルはあるし」
なんだか今日は色々用途が浮かんで、我ながらないものねだりが多い。
再びケトルを火にかけ、お湯が沸いたらティーポットに適量のセントジョーンズワートを入れて、お湯を注ぐ。
しばらくティーコゼ代わりのリネンに包んで蒸らし、そしておまじない。
「おいしくなーれ……じゃなくて、いい感じにエキスが出ますように」
度々蒸らし時間が足りなくてうっすいハーブ液を作っていたから、どうも癖が抜けない。
そうしてティーポットを両手に包んでお祈りをしてると、またふわっと、キンモクセイの香りと共に、温かな何かが手を伝ってポットの中に吸い込まれていく。
「……うーん。本当にこれってなんなんだろ」
そう言って首を傾げている私を、ぎょっとした目でアレックスさんが見ていたなんてことを――このときの私は、気づかなかった。
「なんだ、この匂いは。嗅いでいるだけで痛みが安らぐ。それにあの膨大で清い魔力は……まるで女神の祠で感じた、あの……」
続いた囁くような彼の呟きも、ティーポットの中のハーブの抽出に集中していた私の耳には入らなかった。
「さて、いい感じに浸出液もできましたので湿布しちゃいましょう」
幸い、このロッジには清潔なリネンが沢山あるので、また包帯に使わせてもらうことにする。
「左手、ちょっと痛いかもしれませんが頑張ってテーブルにのせて下さいねー。下にタオル敷きます」
「はいよー……あいたた」
テーブルの上にのった腕は、怪我をして動かないという割には右手と同じく筋肉があって、男性らしい逞しさがある。まだ、怪我をしてから長くは経っていないのかもしれない。だとしたら、湿布とマッサージで少しはよくなるかも。
これから男の人の腕に触るのか、ちょっと怖いな……なんて今更ながらに思ったけれど、それも後の祭りというもの。
……よし、平常心平常心。この人は患者さん、患者さん。
大きく深呼吸してから、アレックスさんの手当てに移る。
「痛いのは肘ですか? 湿布当てます。神経に触っちゃって痛いかもしれませんが、ちょっと我慢して下さいね」
「ああ」
冷ましたセントジョーンズワート液をたっぷりと浸したリネンを彼の肘に当てる。少しだけ肘を浮かせてもらって、細く裂いたリネンで湿布を固定した。
……よし、これであとは安静にしていてもらえば、少しは痛みも和らぐはず。
あ。
私は重大なことに気づく。
「痛みが引くまで安静にしていると、森を抜ける頃には多分暗くなってしまいますよね」
なんだかんだと、お昼を食べてから湿布をするまでのんびりやってたら、すでにおやつの時間になっている。まあ、小腹が空いたら母親狼が持たせてくれたフルーツでも囓ればいいのだけれど……いや、そうじゃない。
「そうだなぁ。別に急ぎでないなら、夜の森なんて危険な場所を歩かないでも、今日はロッジに泊まって明朝から移動すればいいんじゃないか」
この流れ、なんとなく嫌な気配がするんですが……!
「幸い肘の痛みも引いてきたし、オレは屋根さえあればどこでも寝られる。ここの二階に寝室があるから、お嬢ちゃんは二階で休んでいくといいよ」
ほらあ、やっぱり!
親切心あふれる彼の言葉に、私は顔を引きつらせる。
「い、いえいえ! 私はお母さんとぽちと一緒に寝ればいいので! で、では明日の朝!」
私は大学デビューに失敗した女。半ば干物の分際で、初対面の男性と同じ屋根の下で休むなんて無理に決まってます。なら、気心知れた母親狼のお腹で休みますよー!!
「は? お母さん? お嬢ちゃん、あんた親御さんも森にいるのか、って、おい!」
私は頬を真っ赤に染め、彼の言葉も聞かずに、ぽちを抱き上げてダッシュで逃げ出したのだった。
◆◆◆
次の日のこと。
狩人さんことアレックスさんは、大木の下で母親狼のお腹にもたれて寝る私とぽちを見つけ、引きつった顔をしていた。
「おいおい、本当に女神の使役獣たるシルバーウルフと仲良しなのか。お嬢ちゃんはお兄さんをどこまで驚かすつもりなんだろうな」
昨日、一度はアレックスさんのところから逃げ出した私だったけど、そのあと冷静になって森の小屋へ戻り、彼が心配しないよう、どこで寝ているか告げていたのだ。だから探しに来てくれたのかな。
私はむくりと起き上がり、お母さんにおはようの挨拶をしつつ、彼に言った。
「言ったじゃないですか。お母さんもいるし大丈夫ですよ?」
「ああ、そうだな。そうだよなぁ……森の主であるマザーと一緒なら、そりゃ心配ないわ」
母親狼のお腹に懐きながら笑顔で言う私に、大きなため息を吐くアレックスさん。そして彼は、嘆くように両手で顔を覆った。
「……って、アレックスさん。腕が……?」
「ああ。お嬢ちゃんのあの真摯な祈りと、女神の森の薬草が効いたんだろうな。今朝起きたら動くようになってたんだ。昨日のお嬢ちゃんの祈りは、そりゃすごかったしなぁ」
彼はにっかと笑って、動かなかったはずの左手を振り回して見せる。
ええと……私の祈りって? 湿布のことなら、いつもの調子でエキスよ出ろーってやっただけだよ。それよりももっと大きな問題が!
「え、ええ? 昨日は動かなかったのに……っていうか、治ったばかりなのに急に動かしちゃダメですよ!」
私は慌てて母親狼のお腹から離れ、ぶんぶん左手を振り回すアレックスさんを止めようとした。
けれど彼は走って近づく私をひょいと両手で抱え上げ、くるくると――まるでそう、バカップルがやるあの感じで、私を抱えてはしゃぎ始めたのだ。
鮮やかな緑が萌える森の中、鮮やかなメタリックグリーン髪の精悍な青年が私を抱えてくるくる回る……
「ちょ、ちょっと! アレックスさん左手が!」
「はははっ、そう言うなって。これでも元は騎士なんて呼ばれてたからな。鍛え方が違うぜ」
「へ? アレックスさんって、騎士だったんですか?」
「いや、実は魔術師で、そっちはあだ名っていうか……まあ、そんなのはどっちでもよくて。しばらく利き手が動かなくてイライラして参ってたんだよ。あーっ、両手が動くってやっぱり違うわ」
そうして浮かれ騒ぐ彼と、異性に抱え上げられるなどという非日常的シチュエーションに悲鳴が止まらない私がいたのですが……何故か、母親狼もぽちも止めてくれなかった。
結局、三半規管にダメージが加わって「酔いそう」と私が言い出すまで、アレックスさんのくるくるは止まることがなかったのでした。
はあ、朝からひどい目に遭った。
くらくらと目を回す私を、アレックスさんは母親狼のお腹に預けた。それから、まるで物語の騎士のように、片膝を地面に突き胸に手を当てる姿勢を取る。
そうして彼は、厳かに言ったのだ。
「お嬢ちゃんはオレの恩人だ。オレの奪われた左手を取り戻してくれたあんたに恩返ししたい。何か、オレができることはないか」
その真剣な顔に、私は慌てる。
「……いえいえ。きっと傷がまだ癒やせる範囲で、たまたま湿布がよく効いただけでしょう。素人の手当てでそんなによくなるはずもないし!」
私が両手を振って否定するも、彼は意地でも意思を曲げない様子だ。
片膝を突いたまま、こちらを真剣に見つめている。
うう、何これ。ぽち、どうしよう。彼の姿は、まるで王様に剣を捧げる騎士のようだ。堂々として立派なその姿に気圧され、思わずすぐ隣で寝転がってる子狼を抱き上げてしまう。
「くうん?」
ハッハと舌を出してきょとんとするぽち。まあ子狼だもの、今の私の困惑なんて、分からないよね。
「いいや、あんたのおかげだ。あんたが薬草を扱うときに発する、あの優しくも強大な魔力を込めた癒やしの波動は、女神の祠で感じる気配そのものだしな」
彼はじっと私を見つめて断言する。
え、いやいや。強大な魔力とか、癒やしの波動とか。なんだか大層なことを言われてるけど、私、そんなの使った覚えないんですけれど。
私は必死に頭を振るが、彼は引いてくれない。
「昨日まで、オレの左手は呪われていた。神経は通っているのに、確かに動くはずなのに、動かない。オレは左手を、呪いによって封じられていたんだ。それを動かせるようにするなんてのは、それこそ女神の力しかない――お嬢ちゃん、あんたは女神の薬師だな?」
「女神の、薬師?」
目を丸くしてなんのことかと訊ねる私に、アレックスさんはある伝承を語った。
……優しい女神は創世の際、人類が生きやすいようにこの世界に魔法を与えました。
魔法の力は水を湧かし渇きを癒やし、火をもって身体を温め、風を呼んで淀みを吹き払い、土を動かし豊かな大地を耕して、人々を助けます。
ですが、魔法という奇跡の力は、人類と共に地上に現れた魔力を持つ動物達……モンスターにも力をつけさせてしまいました。
つまり人類は、最初から天敵を持ってこの地に現れたということになります。
なおも悪いことに、魔力が豊富なダンジョンなどは、モンスターを肥やす土壌となりました。
魔力によって独自に進化したモンスターは、元の動物よりも強大です。
モンスターの中には、人の悪心から派生したかのような、二足歩行の小鬼、鬼などもおりました。奴らは集団で街を襲って来るため、人の開拓心を妨げる存在となりました。
モンスターという天敵を有したがゆえに、彼らと戦わざるを得ない人々の心は荒れたのです。
人が荒れると、世の中も荒れます。そんな荒廃した世界で、人は肉欲に溺れました。
分かりやすい快感にこそ、重きを置くようになったのです。それは更なる荒廃に繋がります。
強者である戦う男達は暴力に酔い、弱者である老人や女子供達が彼らの犠牲となりました。
強さを誇示すべく、戦士達は美しき者を勝利の杯代わりに奪い取り、苦言を呈す者を暴力にて排しました。
世には暴力が満ち、弱き者達は悲嘆に暮れたのです。
そうして欲に溺れた戦士達のみならず、か弱き人々も、女神が恵みし奇跡を顕す魔法を忘れ、一匹の獣へと墜ちていきました。
応援ありがとうございます!
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