氷弾の魔術師

カタナヅキ

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王都での日常

第88話 恐怖と疑問

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――赤毛熊が立ち去った後、木陰や岩に隠れていたコオリ達は全員が立っていられずに尻餅を着く。数十メートルも離れていたにも関わらず、凄まじい気迫を放つ赤毛熊を見ただけでコオリは息を荒げた。


「はあっ、はあっ……」
「な、何だ……あの化物!?」
「……身体が動かなかった」


コオリもバルトもミイナも赤毛熊を一目見ただけで身体が硬直し、まともに動く事もできなかった。一方で過去に赤毛熊を何体か倒した事があるはずのバルルやアルルでさえも冷や汗が止まらず、お互いの顔を見てやっと口を開く。


「爺さん、あいつをこれまで見た事はあるかい?」
「あ、あるわけないだろう……何じゃ、あの大きさは!?」
「普通の赤毛熊でもにメートル超える奴は珍しくないけど、あんな馬鹿でかい赤毛熊はあたしも生まれて初めて見たよ」
「そ、そうなんですか?」
「びびったぜ……あんな化物がごろごろ居るのかと思った」
「危うく漏らすところだった……バルトが」
「うぉいっ!?なんで俺だよ!!」


元冒険者のバルルや長年猟師を続けてきたアルルでさえもあれほど大きな赤毛熊は見た事がないらしく、明らかに今まで二人が退治した赤毛熊とは別格だった。恐らくは突然変異か何かで異常に身体が発達した赤毛熊だと思われるが、このまま放置するわけにはいかない。


「いかんな……あんな化物がうろついているようでは、この山も安全とは言い切れんぞ」
「け、けどここには魔物は寄り付かないんだろ?」
「さっきの化物も山には登ろうとしなかった」
「……それでも絶対に安全なんて言い切れないだろ?」


白狼山は野生の魔物は何故か寄り付かず、この山に居る限りは魔物に襲われる心配はないはずだった。しかし、先ほどの赤毛熊は麓の方から現れたのも事実であるため、必ずしも山を登ってこないとは限らない。

コオリが倒した猪を捕食した後、赤毛熊は山を降りたがそもそも魔物がここまで訪れている事が異常事態だった。何十年も白狼山で暮らしてきたアルルでさえも山に入ってきた魔物は見た事がなく、しかも現れたのが異常な体躯を誇る赤毛熊という事で彼も動揺していた。


「お、お前等……悪い事は言わない、今夜のうちにここから離れろ」
「爺さん、あんた……」
「いいから聞け!!赤毛熊は昼行性だ、だから夜なら奴に見つからずに山から抜け出せる可能性が高い!!すぐに家に戻って帰る支度を整えろ!!」
「そ、それならアルルさんはどうするんですか?僕達と一緒に逃げたり……」
「馬鹿を言うな!!魔獣如きに猟師の俺が逃げるわけねえだろ!!」


アルルはコオリの言葉に激高して彼の首元を掴み、それを見た他の者が止めようとした。しかし、首元を掴まれたコオリは苦し気な表情を浮かべながらも違和感を抱く。


「うぐぅっ……!?」
「止めな爺さん!!あんた、ガキ相手に何をしてるのか分かってるのかい!?」
「はっ!?」


バルルが無理やりにアルルからコオリを引き剥がすと、怒りで我を忘れていたアルルは相手がまだ子供である事を思い出して謝罪を行う。


「す、すまねえ……つい、かっとなっちまった。許してくれ」
「い、いえ……」
「だが、悪い事は言わない。お前等は今日の夜の間に山から離れろ」
「爺さんはどうするんだよ?」
「決まってるだろ?あんな化物が山に寄り着いたら生活に支障をきたす。だから罠を仕掛けて奴を仕留める……大丈夫だ、赤毛熊ぐらい俺一人で何とかなる。お前等は心配する必要はない」
「何だよそれ……」
「それが本当なら安心」


子供達を安心させるようにアルルは力こぶを見せつけ、先ほどとは打って変わって明るい態度で語り掛けるアルルにバルトとミイナは安心した表情を浮かべる。しかし、彼に首元を掴まれたコオリはアルルが虚勢を張っている事を見抜く。


(……あの時、)


アルルが激高して自分の首元を掴んだ時、彼の腕が震えていた事をコオリは知っていた。今も無理に明るい態度を取り繕っているが、彼の足は僅かに震えていた。

罠を仕掛ければ赤毛熊を仕留められるという話も怪しく、恐らくはコオリ達を白狼山から早々に避難させるために告げた嘘なのだろう。それを見抜いたのはコオリだけではなく、バルルも一緒だった。彼女はアルルとは長い付き合いのため、すぐに彼の嘘を見抜いたが敢えて口にしない。


「あんた達、とりあえずは家に戻るよ。赤毛熊が引き返してくれるとは分からないからね」
「そ、そうだな……」
「大丈夫、もしも近付いて来ても私がすぐに気付く」
「おう、頼りにしているぜ猫の嬢ちゃん」
「…………」


バルルの言葉に全員が賛同して家に戻る中、コオリは赤毛熊が立ち去った方向に視線を向けた。今はもう姿は見えないが、また赤毛熊が現れたらと考えると震えが止まらない。


(本当に怖かった。最初にオークを見た時よりもずっと怖かった……けど)


生まれて初めて魔物を目にした時以上の恐怖がコオリを襲ったが、今回の彼は情けなく失禁する事はなかった。確かに赤毛熊は途轍もなく恐ろしい尊大だと認識しているが、それでもコオリは不思議と冷静だった。


(今の俺の魔法なら……)


自分の杖を見つめながらコオリは先ほど倒した猪の事を思い出し、もしも赤毛熊に猪を仕留めた魔法を繰り出していたらどうなったのか気になった――





――アルルの家に戻った後もしばらくの間は誰も何も話す事はできず、黙々と時間を過ごす。全員が机を挟んで座り込み、アルルの入れてくれたお茶を飲む。


「……ふうっ、やっと落ち着いて来たね」
「はあっ……何か、一気に疲れが来たわ」
「ふうっ……」
「……お腹空いた」


バルルが口を開くとそれを皮切りに他の者たちも言葉を発し、ようやく緊張感が解れた。赤毛熊を見た後からずっとコオリ達は精神的に張りつめていたが、家に戻ってきた事で襲われる心配も無くなった事で安心する。

家に戻って身体を休めながらコオリ達は先ほど遭遇した赤毛熊の事を思い返し、突如として現れた化物の出現にそれぞれが別々の感想を抱く。


「バルル先生よ、あんたはあの化物は何処から来たか分かるか?」
「さあね、少なくともここいらでは赤毛熊はいなかったはずだよ。そうだろう爺さん?」
「ああ、この辺には普通の熊さえも滅多に見かけねえ。恐らくは別の地方からやってきた個体だろう」
「あんなに大きい熊、初めて見た」
「あたしも何度か赤毛熊は倒した事があるけど、あれは規格外だね。いったい何を喰ったらあんなにデカくなる事やら……」
「…………」


全員が赤毛熊の話題で盛り上がる中、コオリだけは何かを考え込む。その様子に気付いたバルルは不思議に思って彼に視線を向けると、お互いの視線が交わった瞬間にコオリは口を開く。


「師匠、聞きたい事があります」
「何だい、改まって……」
「赤毛熊に……僕の魔法は通じると思いますか?」
「「「っ……!?」」」


コオリの言葉に全員が言葉を失い、自分で告げたにも関わらずにコオリ自身も緊張を隠しきれなかった。バルルはコオリの思いもよらぬ言葉に口を開くが、すぐに考え込むように頭に手を伸ばす。


「……あんた、まさか魔法で奴を仕留めるつもりかい?」
「えっと……やっぱり無理ですかね?」
「いや、それは分からないね……もしかしたらあんたの魔法なら通じるかもしれない」


数か月前にバルトの試合で見せた「氷柱弾」の事を思い出したバルトは、コオリの魔法ならば十分に赤毛熊にも通用する可能性がある事を見出す。

コオリが繰り出す氷柱弾は中級魔法の域を超え、上級魔法にも近い威力を誇る。そんな魔法を赤毛熊にから繰り出せば倒せる可能性は十分にあった。それに氷柱弾でなくとも彼の他の魔法ならば通じる可能性も十分にある。


「あんたの魔法ならもしかしたら奴に通用するかもしれない」
「えっ!?マジかよ!!」
「それなら……」
「おい、バルル!!何を言っているんだ!?こんな子供に奴と……」
「いいから話を最後まで聞きな!!」


バルルの言葉に他の者たちは驚いた声を上げ、アルルは慌てふためく。しかし、そんな全員にバルルは怒鳴りつけて黙らせた。


「確かにあんたの魔法は奴にも対抗できるかもしれない。だけどね、あんただって見て分かっただろ?あいつは普通の魔物じゃない、何十メートルも離れてるのにあいつの姿を見ただけであたし達は震えて身体もまともに動けなかった」
「そ、それは……」
「魔術師が魔法を扱う際に尤も重要な事は何なのか分かるかい?それはだよ。精神を取り乱せばどんなに腕の良い魔術師だとしても本来の魔法の効果を引き出す事はできない。動揺している状態では魔法をまともに扱う事もできないのはあんたも嫌という程知っているだろう?」


コオリはバルルの言葉に言い返す事ができず、精神を乱した状態では碌な魔法も扱えない事はよく知っていた。これまでにもコオリは精神的に追い詰められた際、魔法をまともに扱えずに窮地に陥った事はあった。

魔法を発動させる際に重要なのはであるため、赤毛熊に怯えているようではコオリは本来の自分の魔法の力を発揮できない。先ほどの赤毛熊の恐怖を思い出したコオリはもしも戦う事になれば自分はまともに戦えるのか自信がなかった。


「馬鹿な事を考えるんじゃないよ、あんな化物は今のあんたの手に負える相手じゃない。ほら、さっさと帰り支度をしな。世話になったね、爺さん」
「あ、ああっ……」
「ご飯美味しかった。ありがとう」
「狩猟は楽しかったぜ、ありがとな爺さん」
「…………」


バルルは子供達に帰る準備を促すと、それに対してコオリは逆らう事はできなかった。今日の夜に白狼山を経ち、赤毛熊から逃げるのが得策だった――





――自分の貸し与えられた部屋に戻ったコオリはバルルに言われた事を思い出し、赤毛熊の事を思い浮かべる。今までに遭遇したどんな魔物よりも恐ろしく、そして大きな力を持つ相手にコオリは無意識に身体を震わせる。


(……あんなに怖いと思ったのは初めてだ。でも、何だろうこの気持ち)


オークと最初に遭遇した時も恐ろしかったが、赤毛熊の姿を見た時はそれ以上の恐怖を抱く。それでもコオリは心の何処かで今の自分ならばなんとかできるのではないかと考えてしまう。


(物凄く怖いけど、今の僕の魔法なら倒せるかもしれない。けど、あんなのを前にしてまともに戦えるのか?)


赤毛熊の姿を思い返すだけで恐怖のあまりに身体が震える。こんな状態では本物と対峙しただけでまともに身体が動けないかもしれず、魔法を使って戦う事もできない。もう諦めてバルルの言う通りに帰り支度を整えようとした時、不意にコオリはある事を思い出す。
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