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解決編
47.
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(side 萱島晴人)
カリカリと、何かを引っ掻くような音が聞こえる。
揃って動きを止めた俺達は、そっちの方を見つめた。
ドアの外に、誰かいる…?
そう思い至ったのは、先輩の方が早かった。
そのほんの僅かな差の所為で、口にガムテープを貼られてしまう。
更に頭から毛布で全身を覆われて、ドアの死角になる場所へ転がされた。
「ぅ~~!」
精一杯声を出してみたけど、全然ダメだ。
「静かにしろ!」
真上から先輩の押し殺した声が聞こえて、このままやり過ごそうとしてるのが分かった。
圧迫されて苦しい。
だけど、外にいるのは誰なんだろう。
カリカリ音は続いてるのに、玄関チャイムは鳴らないし声も聞こえない。
そもそも、ドアを叩くんじゃなくて引っ掻くって何?
「クソッ、何なんだ!」
先輩にとってもそれは不気味なのか、焦ってるみたいだ。
「いいか、少しでも音を出したら後で酷いぞ?」
俺に脅しをかけながら、ソロリと動く気配を感じる。
圧迫感から解放されて、少しだけ呼吸が楽になった。
ホッとしたのと同時に、今が最大のチャンスだと自覚する。
先輩が外に気を取られてる隙に、何とか逃げる算段を付けないと…!
だけど、手足と口を封じられた状態では動く事すらままならない。
芋虫みたいに動いて、なんとか毛布から這い出るのでやっとだ。
明るくなった視界の先は、先輩が息を殺してドアへと向かってる。
覗き穴から外を確認するつもりなんだろう。
「…誰もいない。」
困惑したような呟きに、俺は絶望する。
そんな…じゃあ、あの音はなんだったの?
こっちを振り返った先輩は、醜悪な笑みを浮かべていた。
「残念だったな、晴人。」
そして、急に真顔に戻る。
「言ったよな、後で酷いぞって。」
クルリと身体をこっちに向けたその手には、さっきの小瓶。
背中を嫌な汗が伝って、恐怖で心臓がドクドクと音を立てる。
今度こそ、もうダメかも…。
蓮ーーー
ガッコォンッッ!!!
突然の耳を劈くような轟音に、反射的に目を瞑った。
何が起こったのか、恐る恐る薄目を開ける。
そこには、玄関ドアの下敷きになってもがく先輩の姿があった。
えっ…?
ドアごと吹っ飛ばされた…?
愕然として見開いた視線の先には、眩しい外の世界。
そして、逆光の中に立つ、背の高い誰か。
この、シルエットはーー
🟰🟰🟰
(side 切藤蓮)
目的のアパート前で車を降りると、駆け出そうとした俺の服をクロが掴む。
「落ち着け蓮、自分の部屋にいる訳じゃないかもしれないんだろ?」
そう、竹田はこのアパート全体を所有している。
住所は302号室だが、他に空き部屋があればそこに晴を捉えている可能性が高い。
「間違った部屋に突入したら厄介でしょ。気付かれて、晴人君を人質にされるかもしれないよ。」
そんな事は分かってる。
竹田ほど強い執着を持つ奴が、晴を奪い返されるのを許容できる訳がない。
最悪、晴を道連れに自死する可能性すらある。
だが、この間にも晴が酷い目に遭わされるかもしれない。
そう思うと、叫び出したいような焦燥に駆られる。
そして、俺の焦りを増長させるのが霊泉家の存在だ。
晴のデータに記入されていた『床下 アパート』の文字からして、奴等は確実に竹田の存在と罪を知っている。
どこからその情報を手に入れたのかは謎だが、一族の誰もが晴には関心を示さない中で、たった一人だけ。
何者かが、気付いた。
俺の弱点が、晴だと言う事にーー。
丈一郎にも言わず、秘密裏に動いていたのは恐らく、一族とは真逆の思惑があるからだろう。
俺が次期当主になるのを阻止する為。
霊泉家で俺の存在が邪魔なのは、与一郎を当主にしたい人間だ。
本人は亡命希望でこっちの陣営にいるが、周りの人間はそれに気付いていない。
潔癖なあの家にとって大学中退は痛手だろうが、候補がそれ以外にいなければ決断せざるを得ない。
病気でも何でも理由を付ければ、周りの目を誤魔化す事はできる。
『血を裏切った』翔よりは幾らかマシだとして、与一郎が再び候補に舞い戻るだろう。
それを望む人物は…霊泉慎一郎だとほぼ断定できる。
俺が消えて一番都合がいいのは、息子を当主にしたいコイツだ。
何らかの経緯で、晴を捕らえれば俺が動く事を知った奴は、計画する。
自分の手を汚さず、丈一郎にバレる事なく俺を始末する方法を。
それが、竹田を利用する事だった。
竹田の歪な感情を利用して晴を捕らえ、俺を誘きだす。
俺達に消し合わせるつもりか、誰かを介入させるつもりなのかは不明だが、俺さえ死ねばそれでいい。
しかし、慎一郎にとっては運が悪い事に、俺が辿り着く前に計画はついえてしまった。
まさか、このタイミングで自分が逮捕されるとは思わなかっただろう。
今頃は一網打尽にされて警察の管理下だから、俺を殺す事は不可能になった。
残されたのは、計画に利用された竹田とその被害者である晴だ。
結局俺は、霊泉家との争いに晴を巻き込んでしまった。
あれだけ遠ざけて、傷付けて。
それなのに、このザマだ。
自分の無能さが嫌になる。
せめて、これ以上晴に辛い思いをさせたくない。
一刻も早く助け出さなくては。
そんな風に、気は急く一方だ。
落ち着け、冷静になる事こそが晴を助け出す最短だ。
ポケットの中で桜守りを強く握り締めて、深く息を吐く。
晴、すぐに行くから。
必ず助けるから、もう少しだけ耐えてくれ。
すると、僅かに落ち着きを取り戻した目が違和感を捉えた。
3階建てのアパートの造りは、横並びの部屋が3つずつ計9部屋。
木造の古い建物だが、そのうちの半数以上のドアはコンクリート製だ。
一目で真新しいと分かるそれは、つい最近付け替えられた物だろう。
反対に、未だ木製のドアを携える部屋がある。
301と、202と、101号室だ。
ドアの付け替えにそれなりの金額がかかる事を考えると、人が住んでいる部屋を優先的に工事したと考えるのが妥当。
つまり、木製ドアの3部屋には契約者が住んでいない事になる。
持ち主である竹田が好きに使えるそこは、晴を監禁するには絶好の場所だろう。
何か異常を感じた晴に逃げられる可能性を加味すると、1階である101は捨てていいだろう。
そうすると、残るは202か301だ。
できるだけ獲物を近くに置いておきたいだろう心理を汲み取れば、竹田の自室の隣である301が優勢。
木製のドアなら俺の蹴りでぶち破れるし、それは中野に渡している警棒でもできる。
301と202に別れて、同時に奇襲をかけるか?
ただ、捨てきれないのは竹田が自室に晴を引き込んでいる可能性だ。
晴の性格上、先輩が暮らすアパート…しかも1Kの狭さに転がり込むのは、邪魔になるからと遠慮する。
誘い出す為には『使ってない部屋がある』のが必須だろうから、少なくとも最初は別の部屋で過ごさせた筈だ。
そのまま留まっていればいいが…『食事を一緒に』なんて言われれば、疑う事なく竹田のテリトリーに入ってしまうだろう。
生憎竹田の部屋は新しいドアで、これをぶち壊すには流石に道具が必要だ。
そんなもの手配してる時間は無い。
どうするーー
その時、ふと何かの気配を感じた。
振り返ると、少し離れた所に男が1人立っている。
その視線はアパート…ではなく、足下の飼い犬に向けられていた。
逆にその飼い犬は、アパートをジッと見つめている。
「どうした切藤?…て、あれ!?佐藤のお父さん!!」
同じく気が付いたらしい中野が驚愕している。
どうやら元剣道部員の父親だったようだ。
「そう言えば佐藤の家ってこの近所だったっけ。」
そう呟く中野に気付いたのか、男ーー佐藤の父親が片手を挙げた。
が、柴犬がテコでも動かない様子を見せている。
この近所って事は、竹田のアパートについて何か知ってるかもしれない。
足早に近付くと、佐藤の父親は眉を下げた。
「やぁ、啓太君。君達も息子と同じ高校だったよね?」
「ご無沙汰してます。コタロー、どうしちゃったんですか?」
「それが、いつもの散歩コースなんだけど突然動かなくなっちゃってね。」
そして、少し迷いつつも後を続ける。
「…実はこの子がこうなる前、あっちから悲鳴って言うか…助けを求めるような声が聞こえたような気がするんだ。それが気になって、無理矢理抱えて帰るべきなのか迷っちゃって。」
ハッと息を呑む俺達に気付いたのか、その瞳に困惑の色が乗る。
「あっちって!?あのアパートですか!?」
「そ、そうだよ…どの部屋かまでは分からないけど。」
それが、隙を見て晴が発したSOSだとしたら?
「それって、どれくらい前!?」
「うーん、まだ10分は経ってないと思うなぁ。」
その時間は希望か絶望か。
佐藤の父親と遣り取りをしながらもまだ何処かで竹田を信じていたらしい中野が、痛みを堪えるような顔をする。
「切藤…コタローは晴人にめちゃめちゃ懐いてるんだ。何回かしか会った事ないのに、晴人がいると一目散に駆けてくくらい。」
『晴人』の言葉に、茶色に覆われた耳がピクリと反応する。
「だから、きっと分かったんだよ…それが晴人の声だって…!コタロー、晴人がどこにいるか分かるか?」
すると、座り込んでいた丸い身体がスッと立ち上がった。
いや、晴がこのアパートにいるのは確定だが…犬を信じろってか?
一瞬疑わし気に茶色の物体を見てしまったが、すぐに思い直した。
人間より優れた聴覚と嗅覚を侮ってはいけない。
訓練された犬でなくても、対象者を見付ける事はあると聞く。
「…分かった。お前らはこの先の交番で警察引っ張って来い。」
即座に、こっちを窺う女子組に指示を出す。
晴を保護してから竹田を引き渡す相手が必要だ。
男よりも女、電話よりも駆け込みの方が、より緊急性を感じさせやすい。
相川の外面を利用しない手は無いだろう。
「了解!できる限り大勢呼んで来るから!」
駆け出した2人に背を向けて、目を白黒させる佐藤の父親からリードをもぎ取る。
「晴人の所に案内してくれ。」
しゃがみ込んでピンと立った耳に囁くと、コタローは迷いなく進み出した。
事の重大さが分かっているのか静かに、それでいて一目散に。
その歩みが止まったのは、301号室の前だった。
リードを離しても、それ以上進む気配はない。
怪しいと睨んでた部屋にドンピシャだ。
半信半疑ではあったが、これは偶然じゃないだろう。
ただし、保険は掛けておくべきだ。
「いいか、俺がドアをぶち破って中に入る。もしハズレだった場合に備えて中野は202の前で待機。クロは隣の竹田の部屋を見張れ。」
「「分かった!」」
囁いてそれぞれの持ち場に移動する。
俺は覗き穴の視覚になる壁にピタリと身を寄せた。
中から物音は聞こえないがーー。
と、コタローの耳がピクリと反応した。
人間には聞こえない何かの音を捉えたのか、前脚でドアを引っ掻く。
カリッ カリッ
すると、部屋の中から人の気配を感じた。
ドアに近付いて来るその気配に、腕を伸ばしてコタローを視覚へと引き込む。
「誰もいない…?」
押し殺したような声だが、確かに聞こえた。
そして、次の台詞も。
「残念だったな、晴人。」
その瞬間、身体が動いていた。
蹴り足の左に力を込めて、思いっ切り叩き付ける。
こっちに寄って来た竹田を、ドア諸共吹っ飛ばす為に。
ガコォンッ!!
古く錆びた蝶番はあっけなく役目を放棄して、その先に空間が現れた。
踏みつけたドアの下に生き物の気配を感じるが、そんな事はどうでも良くて。
見回した部屋の、柱で視覚になる位置に目が吸い寄せられる。
逆光なのか眩しそうに細められたそのブルーグレーが、大きく見開かれた。
「………蓮?」
🟰🟰🟰
(side 萱島晴人)
部屋に入って来たのが蓮だと認識した次の瞬間には、助け起こされてた。
ゆっくりと口のガムテープを剥がされて、それでも驚きで声は出せなくて。
縛られた手足を解放してくれる様子を、呆然と見つめる。
忙しなく動きながらも、蓮の瞳が揺れてて。
まるで、涙を堪えてるみたいに。
そこには、あの日の冷たさなんて一切ない。
「……蓮?」
おずおずと呼びかけると、蓮が顔を上げた。
真っ直ぐに俺を見てくれる、いつもの蓮。
「……晴」
包みこまれるのと、俺がその腕に飛び込むのは同時だった。
「蓮…!蓮…!」
どうしてここが分かったの?
どうして、来てくれたの?
…蓮は、俺に何を隠してるの?
聞きたい事は山程あるのに、ただ名前を呼ぶ事しかできない。
痛いくらいに抱き締められて、涙が止まらなかった。
ずっとずっと、この腕が恋しかったから。
●●●
解決編『45』で晴人が助けを求めようとした犬連れの男性は佐藤のお父さんでした。
佐藤は登場人物紹介にも一応いて、side晴人高校編12話『新学期』でほんのり出てた子犬がコタローだったりします。
啓太が持ってる警棒は解決編『8』で大谷襲撃の為に持たされたやつです。
蓮がドアぶっ飛ばした時、コタローさんは安全な所に逃してますのでね。
ワンちゃんの怪我、ダメ、絶対。
晴人は犬好きで犬にとても好かれます。子供の頃からの夢は大型犬を飼う事。
蓮は動物に関心ゼロですが、本能的にボスだと思われて服従されます。
カリカリと、何かを引っ掻くような音が聞こえる。
揃って動きを止めた俺達は、そっちの方を見つめた。
ドアの外に、誰かいる…?
そう思い至ったのは、先輩の方が早かった。
そのほんの僅かな差の所為で、口にガムテープを貼られてしまう。
更に頭から毛布で全身を覆われて、ドアの死角になる場所へ転がされた。
「ぅ~~!」
精一杯声を出してみたけど、全然ダメだ。
「静かにしろ!」
真上から先輩の押し殺した声が聞こえて、このままやり過ごそうとしてるのが分かった。
圧迫されて苦しい。
だけど、外にいるのは誰なんだろう。
カリカリ音は続いてるのに、玄関チャイムは鳴らないし声も聞こえない。
そもそも、ドアを叩くんじゃなくて引っ掻くって何?
「クソッ、何なんだ!」
先輩にとってもそれは不気味なのか、焦ってるみたいだ。
「いいか、少しでも音を出したら後で酷いぞ?」
俺に脅しをかけながら、ソロリと動く気配を感じる。
圧迫感から解放されて、少しだけ呼吸が楽になった。
ホッとしたのと同時に、今が最大のチャンスだと自覚する。
先輩が外に気を取られてる隙に、何とか逃げる算段を付けないと…!
だけど、手足と口を封じられた状態では動く事すらままならない。
芋虫みたいに動いて、なんとか毛布から這い出るのでやっとだ。
明るくなった視界の先は、先輩が息を殺してドアへと向かってる。
覗き穴から外を確認するつもりなんだろう。
「…誰もいない。」
困惑したような呟きに、俺は絶望する。
そんな…じゃあ、あの音はなんだったの?
こっちを振り返った先輩は、醜悪な笑みを浮かべていた。
「残念だったな、晴人。」
そして、急に真顔に戻る。
「言ったよな、後で酷いぞって。」
クルリと身体をこっちに向けたその手には、さっきの小瓶。
背中を嫌な汗が伝って、恐怖で心臓がドクドクと音を立てる。
今度こそ、もうダメかも…。
蓮ーーー
ガッコォンッッ!!!
突然の耳を劈くような轟音に、反射的に目を瞑った。
何が起こったのか、恐る恐る薄目を開ける。
そこには、玄関ドアの下敷きになってもがく先輩の姿があった。
えっ…?
ドアごと吹っ飛ばされた…?
愕然として見開いた視線の先には、眩しい外の世界。
そして、逆光の中に立つ、背の高い誰か。
この、シルエットはーー
🟰🟰🟰
(side 切藤蓮)
目的のアパート前で車を降りると、駆け出そうとした俺の服をクロが掴む。
「落ち着け蓮、自分の部屋にいる訳じゃないかもしれないんだろ?」
そう、竹田はこのアパート全体を所有している。
住所は302号室だが、他に空き部屋があればそこに晴を捉えている可能性が高い。
「間違った部屋に突入したら厄介でしょ。気付かれて、晴人君を人質にされるかもしれないよ。」
そんな事は分かってる。
竹田ほど強い執着を持つ奴が、晴を奪い返されるのを許容できる訳がない。
最悪、晴を道連れに自死する可能性すらある。
だが、この間にも晴が酷い目に遭わされるかもしれない。
そう思うと、叫び出したいような焦燥に駆られる。
そして、俺の焦りを増長させるのが霊泉家の存在だ。
晴のデータに記入されていた『床下 アパート』の文字からして、奴等は確実に竹田の存在と罪を知っている。
どこからその情報を手に入れたのかは謎だが、一族の誰もが晴には関心を示さない中で、たった一人だけ。
何者かが、気付いた。
俺の弱点が、晴だと言う事にーー。
丈一郎にも言わず、秘密裏に動いていたのは恐らく、一族とは真逆の思惑があるからだろう。
俺が次期当主になるのを阻止する為。
霊泉家で俺の存在が邪魔なのは、与一郎を当主にしたい人間だ。
本人は亡命希望でこっちの陣営にいるが、周りの人間はそれに気付いていない。
潔癖なあの家にとって大学中退は痛手だろうが、候補がそれ以外にいなければ決断せざるを得ない。
病気でも何でも理由を付ければ、周りの目を誤魔化す事はできる。
『血を裏切った』翔よりは幾らかマシだとして、与一郎が再び候補に舞い戻るだろう。
それを望む人物は…霊泉慎一郎だとほぼ断定できる。
俺が消えて一番都合がいいのは、息子を当主にしたいコイツだ。
何らかの経緯で、晴を捕らえれば俺が動く事を知った奴は、計画する。
自分の手を汚さず、丈一郎にバレる事なく俺を始末する方法を。
それが、竹田を利用する事だった。
竹田の歪な感情を利用して晴を捕らえ、俺を誘きだす。
俺達に消し合わせるつもりか、誰かを介入させるつもりなのかは不明だが、俺さえ死ねばそれでいい。
しかし、慎一郎にとっては運が悪い事に、俺が辿り着く前に計画はついえてしまった。
まさか、このタイミングで自分が逮捕されるとは思わなかっただろう。
今頃は一網打尽にされて警察の管理下だから、俺を殺す事は不可能になった。
残されたのは、計画に利用された竹田とその被害者である晴だ。
結局俺は、霊泉家との争いに晴を巻き込んでしまった。
あれだけ遠ざけて、傷付けて。
それなのに、このザマだ。
自分の無能さが嫌になる。
せめて、これ以上晴に辛い思いをさせたくない。
一刻も早く助け出さなくては。
そんな風に、気は急く一方だ。
落ち着け、冷静になる事こそが晴を助け出す最短だ。
ポケットの中で桜守りを強く握り締めて、深く息を吐く。
晴、すぐに行くから。
必ず助けるから、もう少しだけ耐えてくれ。
すると、僅かに落ち着きを取り戻した目が違和感を捉えた。
3階建てのアパートの造りは、横並びの部屋が3つずつ計9部屋。
木造の古い建物だが、そのうちの半数以上のドアはコンクリート製だ。
一目で真新しいと分かるそれは、つい最近付け替えられた物だろう。
反対に、未だ木製のドアを携える部屋がある。
301と、202と、101号室だ。
ドアの付け替えにそれなりの金額がかかる事を考えると、人が住んでいる部屋を優先的に工事したと考えるのが妥当。
つまり、木製ドアの3部屋には契約者が住んでいない事になる。
持ち主である竹田が好きに使えるそこは、晴を監禁するには絶好の場所だろう。
何か異常を感じた晴に逃げられる可能性を加味すると、1階である101は捨てていいだろう。
そうすると、残るは202か301だ。
できるだけ獲物を近くに置いておきたいだろう心理を汲み取れば、竹田の自室の隣である301が優勢。
木製のドアなら俺の蹴りでぶち破れるし、それは中野に渡している警棒でもできる。
301と202に別れて、同時に奇襲をかけるか?
ただ、捨てきれないのは竹田が自室に晴を引き込んでいる可能性だ。
晴の性格上、先輩が暮らすアパート…しかも1Kの狭さに転がり込むのは、邪魔になるからと遠慮する。
誘い出す為には『使ってない部屋がある』のが必須だろうから、少なくとも最初は別の部屋で過ごさせた筈だ。
そのまま留まっていればいいが…『食事を一緒に』なんて言われれば、疑う事なく竹田のテリトリーに入ってしまうだろう。
生憎竹田の部屋は新しいドアで、これをぶち壊すには流石に道具が必要だ。
そんなもの手配してる時間は無い。
どうするーー
その時、ふと何かの気配を感じた。
振り返ると、少し離れた所に男が1人立っている。
その視線はアパート…ではなく、足下の飼い犬に向けられていた。
逆にその飼い犬は、アパートをジッと見つめている。
「どうした切藤?…て、あれ!?佐藤のお父さん!!」
同じく気が付いたらしい中野が驚愕している。
どうやら元剣道部員の父親だったようだ。
「そう言えば佐藤の家ってこの近所だったっけ。」
そう呟く中野に気付いたのか、男ーー佐藤の父親が片手を挙げた。
が、柴犬がテコでも動かない様子を見せている。
この近所って事は、竹田のアパートについて何か知ってるかもしれない。
足早に近付くと、佐藤の父親は眉を下げた。
「やぁ、啓太君。君達も息子と同じ高校だったよね?」
「ご無沙汰してます。コタロー、どうしちゃったんですか?」
「それが、いつもの散歩コースなんだけど突然動かなくなっちゃってね。」
そして、少し迷いつつも後を続ける。
「…実はこの子がこうなる前、あっちから悲鳴って言うか…助けを求めるような声が聞こえたような気がするんだ。それが気になって、無理矢理抱えて帰るべきなのか迷っちゃって。」
ハッと息を呑む俺達に気付いたのか、その瞳に困惑の色が乗る。
「あっちって!?あのアパートですか!?」
「そ、そうだよ…どの部屋かまでは分からないけど。」
それが、隙を見て晴が発したSOSだとしたら?
「それって、どれくらい前!?」
「うーん、まだ10分は経ってないと思うなぁ。」
その時間は希望か絶望か。
佐藤の父親と遣り取りをしながらもまだ何処かで竹田を信じていたらしい中野が、痛みを堪えるような顔をする。
「切藤…コタローは晴人にめちゃめちゃ懐いてるんだ。何回かしか会った事ないのに、晴人がいると一目散に駆けてくくらい。」
『晴人』の言葉に、茶色に覆われた耳がピクリと反応する。
「だから、きっと分かったんだよ…それが晴人の声だって…!コタロー、晴人がどこにいるか分かるか?」
すると、座り込んでいた丸い身体がスッと立ち上がった。
いや、晴がこのアパートにいるのは確定だが…犬を信じろってか?
一瞬疑わし気に茶色の物体を見てしまったが、すぐに思い直した。
人間より優れた聴覚と嗅覚を侮ってはいけない。
訓練された犬でなくても、対象者を見付ける事はあると聞く。
「…分かった。お前らはこの先の交番で警察引っ張って来い。」
即座に、こっちを窺う女子組に指示を出す。
晴を保護してから竹田を引き渡す相手が必要だ。
男よりも女、電話よりも駆け込みの方が、より緊急性を感じさせやすい。
相川の外面を利用しない手は無いだろう。
「了解!できる限り大勢呼んで来るから!」
駆け出した2人に背を向けて、目を白黒させる佐藤の父親からリードをもぎ取る。
「晴人の所に案内してくれ。」
しゃがみ込んでピンと立った耳に囁くと、コタローは迷いなく進み出した。
事の重大さが分かっているのか静かに、それでいて一目散に。
その歩みが止まったのは、301号室の前だった。
リードを離しても、それ以上進む気配はない。
怪しいと睨んでた部屋にドンピシャだ。
半信半疑ではあったが、これは偶然じゃないだろう。
ただし、保険は掛けておくべきだ。
「いいか、俺がドアをぶち破って中に入る。もしハズレだった場合に備えて中野は202の前で待機。クロは隣の竹田の部屋を見張れ。」
「「分かった!」」
囁いてそれぞれの持ち場に移動する。
俺は覗き穴の視覚になる壁にピタリと身を寄せた。
中から物音は聞こえないがーー。
と、コタローの耳がピクリと反応した。
人間には聞こえない何かの音を捉えたのか、前脚でドアを引っ掻く。
カリッ カリッ
すると、部屋の中から人の気配を感じた。
ドアに近付いて来るその気配に、腕を伸ばしてコタローを視覚へと引き込む。
「誰もいない…?」
押し殺したような声だが、確かに聞こえた。
そして、次の台詞も。
「残念だったな、晴人。」
その瞬間、身体が動いていた。
蹴り足の左に力を込めて、思いっ切り叩き付ける。
こっちに寄って来た竹田を、ドア諸共吹っ飛ばす為に。
ガコォンッ!!
古く錆びた蝶番はあっけなく役目を放棄して、その先に空間が現れた。
踏みつけたドアの下に生き物の気配を感じるが、そんな事はどうでも良くて。
見回した部屋の、柱で視覚になる位置に目が吸い寄せられる。
逆光なのか眩しそうに細められたそのブルーグレーが、大きく見開かれた。
「………蓮?」
🟰🟰🟰
(side 萱島晴人)
部屋に入って来たのが蓮だと認識した次の瞬間には、助け起こされてた。
ゆっくりと口のガムテープを剥がされて、それでも驚きで声は出せなくて。
縛られた手足を解放してくれる様子を、呆然と見つめる。
忙しなく動きながらも、蓮の瞳が揺れてて。
まるで、涙を堪えてるみたいに。
そこには、あの日の冷たさなんて一切ない。
「……蓮?」
おずおずと呼びかけると、蓮が顔を上げた。
真っ直ぐに俺を見てくれる、いつもの蓮。
「……晴」
包みこまれるのと、俺がその腕に飛び込むのは同時だった。
「蓮…!蓮…!」
どうしてここが分かったの?
どうして、来てくれたの?
…蓮は、俺に何を隠してるの?
聞きたい事は山程あるのに、ただ名前を呼ぶ事しかできない。
痛いくらいに抱き締められて、涙が止まらなかった。
ずっとずっと、この腕が恋しかったから。
●●●
解決編『45』で晴人が助けを求めようとした犬連れの男性は佐藤のお父さんでした。
佐藤は登場人物紹介にも一応いて、side晴人高校編12話『新学期』でほんのり出てた子犬がコタローだったりします。
啓太が持ってる警棒は解決編『8』で大谷襲撃の為に持たされたやつです。
蓮がドアぶっ飛ばした時、コタローさんは安全な所に逃してますのでね。
ワンちゃんの怪我、ダメ、絶対。
晴人は犬好きで犬にとても好かれます。子供の頃からの夢は大型犬を飼う事。
蓮は動物に関心ゼロですが、本能的にボスだと思われて服従されます。
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▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
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