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解決編
10.
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(side大谷創源)
それから2人の関係がどうなったのかは分からない。
大学受験シーズンを迎えて、ゆっくり話す時間が無かったからだ。
だから、合格報告をしに行った塾でバッタリ会えたのはラッキーだった。
『大学行っても偶には連絡取ろうね!』
笑顔で言い残して帰って行った彼に、心が温くなる。
それが社交辞令だと、分かっていても。
塾が一緒になっただけの人間との縁なんて、続くものではない。
僕は、周りから変わり者だと思われているのを自覚している。
子供の頃から人に合わせる事ができなくて苦労してきて。
それなら合わせなくていいや、と思ったら孤立していた。
まぁ、BLの事を考える時間が増えたのであまりダメージは無かったけれど。
だけど、そんな僕でも少し寂しさを感じた。
萱島君と、もっと親しくなれたらよかったのに。
でも、仕方がない。
僕はこう言う人間だし、萱島君も僕なんかと居ても楽しくはないだろうから。
いい思い出を、ありがとうーー。
ーーなんて思っていた時期もありました。
『新巻でてたよ!大谷君もう読んだ?』
オススメのBLを教えた時に交換したLAINには、どう言う訳かちょくちょく萱島君からのメッセージが届く。
彼はR-18が無いほのぼのした日常系のBLがお気に召したらしく、その情報の遣り取りが主な内容だ。
同じ系統の作品を紹介すると、必ず感想を送ってくれる。
時には大学の話しまで聞かせてくれる彼に…僕は次第に、不相応な感情を抱くようになっていた。
…このままでは、良くない。
連絡先を消してしまうべきだと思ったが、できなかった。
そうやって彼との繋がりが途絶えてしまうのが、堪らなく嫌だったから。
そして、どうしたものかと悶々としていた時、やらかした。
僕は暫くブルボンヌとして執筆はしていなかったのだが、書評等の仕事はしていて。
その日も、絢美さん宛のメールに依頼された本の帯へのコメントを添付したのだが。
いつもなら秒速で来る返事が、半日たっても来ない。
何か不手際があったのかと、送信履歴を見て…血の気が引いた。
ぼんやりしていた僕は、あろう事かレン×ハルのオメガバース小説を送ってしまっていたのである。
慌てて掛けた電話は、留守番電話に接続されてしまった。
『今メールを間違えて送ってしまって!開かないで消去してください!』
仕方なくメッセージを入れて、ソワソワと部屋を歩き回る。
どうか先にメッセージを聞いて、メールを破棄してくれ!
パンドラの箱は、開けなければただの無害な箱なのだから。
『もしもし、中野です。』
それから2時間後、絢美さんからの着信に僕は飛びついた。
『メッセージ聞いてくれました!?メール見ないでくれましたよね!?』
『先生から来てすぐに開けてしまいました。』
ヒュッと息を飲む。
『添付の小説について、お話があります。』
『…僕はありません…。』
絶望に打ちひしがれながら答えると、絢美さんの声が大きくなった。
『先生!話しだけでも聞いて下さい!』
…おや?
ヒートアップして声が大きくなったのかと思ったけれど…どうもおかしい。
『あの…今どちらにいます?』
まさか、と思って青褪めながら問いかけるとウフフッと笑う声がする。
『今、貴方の部屋の前にいるの♡』
メリーさんかメンヘラ彼女の専売特許みたいな台詞
を吐いた担当編集に、僕は膝から崩れ落ちた。
『先生、このオメガバースは素晴らしいです。登場人物全員の心情がリアルで…傷付きながらもハピエンで纏まるラストなんてもう感涙ものでした…!』
目の前で僕の作品について熱烈に語る絢美さんを家に上げてしまったのは、家政婦さんだった。
仕方がない、本を出す時にしょっちゅう来ていた担当編集を警戒する訳もないのだから。
問題は、絢美さんが僕のBL小説をどうやら読了している事。
誤送信したメールをすぐに確認した彼女は、添付ファイルの中の小説に気が付いた。
そして冒頭を読んでーータクシーに飛び乗ったそうだ。
車内で続きを読みながら向かった先はここ、僕の実家である。
後で家政婦さんから聞いた話しだが、後部座席ですすり泣いたり身悶えたりする乗客に、タクシーの運転手さんは怯えていたらしい。
絢美さんを降ろすと一目散に走り去って行ったそうだ。
『先生、これは世に出すべき作品です!』
真剣な顔で感想を言ってくれるのは非常に嬉しい。
だけれど、僕にはそのつもりが全くない。
これは自分の趣味だし、勝手にモデルにしてしまった2人に申し訳ないから。
そう伝えても、燃え盛る腐女子魂を持つ彼女は折れなかった。
『私の新作、読みます?』
テーブルに広げられる作品。
創作者AYAと言うカードを切ってくるのは卑怯だ。
だけど、今回は前のように丸め込まれるつもりはない。
『大変読みたいですが、引き換えにはできません。』
極めて冷静に言えたと思う。
その証拠に、絢美さんが驚いたように目を見開いた。
勝ちを確信した僕は、イスから立ち上がろうとしてーーまた腰を下ろした。
何故なら、絢美さんからこんな言葉が出たから。
『そうですか…。先生の本が出せるなら、書店さんに掛け合って大BL祭りを開催しようと思ってたのに…残念です。』
大BL祭り…とは…。
『特設ブースを作ってその期間BL作品を激推しするんです。』
彼女がタブレットで見せてくれた完成予想図は、正に夢のような空間だった。
所狭しと並べられたBL漫画と小説、冒頭だけ読めるサンプルやフェア特典グッズ。
『BLソムリエを常駐させて、読者さんが一生ものの作品に出逢うお手伝いもします。』
『凄い…。でも、こんな事実現できる訳が…』
『可能ですよ。100万部を売り上げた乙女の聖天使、ブルボンヌ夢子先生が発表する初のBL小説なんて話題になるに決まってます。書店さんも喜んで協力してくれる筈です。』
まさか…そんな…。
『フェア中は日替わりで若手のBL漫画家のサイン会も行います。未来を担う作家にとっては名前を売るチャンスになりますし、ファンとの触れ合いは何よりも励みになりますから。』
そ、それは…。
『でも…先生の作品が出版できないのなら…開催はちょっと難しいかもしれないですね。』
や、やめて…。
『どうしてもダメなんですもんね、先生?』
悲しげに眉を下げる絢美さんに、とても悪い事をしている気分になる。
『あの…僕がこの小説を出版すれば本当に…?』
『絶対に、実現してみせます。約束します。』
強く言い切った絢美さんは、必ず約束を守る人だ。
何がなんでもやってのけるだろう。
『先生がこの小説を世に出す事は、BL界の発展に繋がります。BLの未来の為に、どうかお願いします!』
深々と頭を下げる絢美さんに、僕は狼狽える。
『か、顔を上げてください。…その、もっと加筆したり修正してもいいのなら…』
考えてもいい、と言おうとした言葉は続かなかった。
凄い勢いで顔を上げた絢美さんが、ガッシリと僕の手を握ったから。
『契約成立ですね!ありがとうございます、先生!』
口の端を吊り上げる敏腕担当編集に、やられた…と思った時には遅かった。
あれよあれよと打ち合わせが始まり、出版の予定日が決まり…更に本当に大BL祭りの開催まで決定して。
僕は必死に原稿に取り組んだ。
現実の2人に迷惑をかけないように、身体的な特徴などを大幅に変えて。
しかしそうすると、臨場感に欠けてしまう。
そのギリギリのラインを見極めて書き続けて、ようやくあと1章で校了となった時。
見ないようにしてきた現実が、僕の胸を苦しめるようになった。
僕は今、暗い『後悔』と言う闇の中にいる。
ーーどうしてこうなってしまったんだろう。
独りでその中を彷徨い、前にも後ろにも進めない。
ーー周りは同じ方向を向いてるのに、僕だけがどうするべき迷っている。
本当は、こんなつもりじゃなかったんだ。
ーー自分だけの趣味の筈だった。
こんな大それた事をするつもりなんて毛頭なくて。
ーー初めは、実在する人物をモデルにするつもりすらなくて。
それなのに、彼と話せるようになって欲が出てしまった。
ーー切藤君や萱島君と話せた時のインスピレーションが忘れられなかった。
際限のないそれを持て余して、ついにこんな事まで…。
ーーどうしても書きたい欲求を抑えきれず、その結果大事になってしまった。
唆された、なんてただの言い訳だ。
ーー絢美さんの策略に嵌ったのは事実だけれど、決めたのは僕なんだから。
きっとこの罪は許されない。
ーー知られてしまったらきっと、萱島君は僕を軽蔑するだろう。
それでもーー。
ーー今更無理だとは言えない。もう僕だけの問題じゃなく、多くの人が関わり、その人の将来に影響するかもしれない事態になっている。
だからーー
もう、後戻りはできないんだ。
これが完成したら、本当にレン×ハルが世の中に出てしまう。
いつの間にか、僕が怖いのは切藤君にバレる事よりも、萱島君に嫌われる事になっていた。
それでも、締め切りは待ってくれない。
今更『やめたい』なんて言ったら、どれだけの人に迷惑をかけてしまうのか…。
執筆による寝不足とストレスも相まって、僕は限界だった。
『いきなりごめんなさい。僕はもうダメかもしれません。』
そんなLAINを萱島君に送ってしまったのは、もう4月に入ろうかと言う春休みの事。
締め切りに追われて暫く連絡を断っていたにも関わず、彼はすぐに返事をくれた。
『大丈夫?明日会える?』
優しい言葉に思わず涙してしまった。
そして、僕は決断したのだ。
明日、萱島君に全てを話そう。
それが僕ができる唯一の誠意だ。
小説の事も、僕の気持ちもーー。
「それで、晴人が京都から東京に戻って来た訳か…。てかお前ら、卒業してからも交流あったんだな。」
中野君の言葉に頷く。
「けど、大谷がホテルにいるのは何でなんだ?」
それには絢美さんが答えた。
「先生の筆が進まないから、カンヅメ…じゃなくて、環境を変える為に会社で手配したの。」
今何か恐ろしい言葉が聞こえた気がするけど幻聴だろうか。
「へぇ、こんないい部屋を?」
「先生はうちの稼ぎ頭だもの、ジュニアスイートくらい取るわよ。」
凄いな、と感心する中野君は更にお姉さんと話しを進める。
「あとさ、姉ちゃんが持ってるそのナイフはなんなの?」
「あ、いけない!先生が逃走…じゃなかった、えーっと、とにかく心配でね、慌ててたのよ。」
隣の部屋から飛び出して来た時『逃がしませんよぉぉ!』と言う雄叫びが聞こた気がするけど、きっと幻聴なんだろう。
隣の部屋に引っ込んだ彼女は、ナイフの代わりに何かを持ってすぐに戻って来た。
「ほら、コレ。差し入れのロールケーキを切っててね。」
「…ケーキかよ!あの時の姉ちゃん、マジで怖かったんだけど…。」
思い出したのかブルリと震える中野君に、ケラケラ笑う絢美さん。
「てか待て、姉ちゃんが実家帰って来てんのと今回の事、何か関係ある?」
「あるわね。私のマンションより実家の方がこのホテルに近いから。」
「大谷ィィィィ!!」
悲痛な中野君の声に、この姉弟の力関係が分かった気がする。
大変申し訳ないな、と思っていた時だった。
「…で?呼び出した晴はどこにいんだよ。
てかテメェ、晴の事そう言う目で見てんのか…?」
沈黙を貫いていた魔王の、あまりに低い声に竦み上がる。
「え、晴人君もしかして行方不明なの?」
僕の横で絢美さんが戸惑っている。
「…まぁ、居場所はこの『先生』が知ってんだろうけどな?」
ゆらりと立ち上がって近付いてくる姿に、僕は声が出ない。
万事急須かと思った時、頼れる担当編集が声を上げた。
「待って!」
そして、僕の顔を覗き込む。
「先生、ちゃんと全部話すべきです!たとえ晴人君に口止めされてるとしても!」
●●●
解決編『8』冒頭の、大谷の独白はこんな思いから。
『7』で啓太が怯えてた絢美の帰省には、こんな訳がありました。
うちの近所でも大BL祭り開催してくれないかな…。
それから2人の関係がどうなったのかは分からない。
大学受験シーズンを迎えて、ゆっくり話す時間が無かったからだ。
だから、合格報告をしに行った塾でバッタリ会えたのはラッキーだった。
『大学行っても偶には連絡取ろうね!』
笑顔で言い残して帰って行った彼に、心が温くなる。
それが社交辞令だと、分かっていても。
塾が一緒になっただけの人間との縁なんて、続くものではない。
僕は、周りから変わり者だと思われているのを自覚している。
子供の頃から人に合わせる事ができなくて苦労してきて。
それなら合わせなくていいや、と思ったら孤立していた。
まぁ、BLの事を考える時間が増えたのであまりダメージは無かったけれど。
だけど、そんな僕でも少し寂しさを感じた。
萱島君と、もっと親しくなれたらよかったのに。
でも、仕方がない。
僕はこう言う人間だし、萱島君も僕なんかと居ても楽しくはないだろうから。
いい思い出を、ありがとうーー。
ーーなんて思っていた時期もありました。
『新巻でてたよ!大谷君もう読んだ?』
オススメのBLを教えた時に交換したLAINには、どう言う訳かちょくちょく萱島君からのメッセージが届く。
彼はR-18が無いほのぼのした日常系のBLがお気に召したらしく、その情報の遣り取りが主な内容だ。
同じ系統の作品を紹介すると、必ず感想を送ってくれる。
時には大学の話しまで聞かせてくれる彼に…僕は次第に、不相応な感情を抱くようになっていた。
…このままでは、良くない。
連絡先を消してしまうべきだと思ったが、できなかった。
そうやって彼との繋がりが途絶えてしまうのが、堪らなく嫌だったから。
そして、どうしたものかと悶々としていた時、やらかした。
僕は暫くブルボンヌとして執筆はしていなかったのだが、書評等の仕事はしていて。
その日も、絢美さん宛のメールに依頼された本の帯へのコメントを添付したのだが。
いつもなら秒速で来る返事が、半日たっても来ない。
何か不手際があったのかと、送信履歴を見て…血の気が引いた。
ぼんやりしていた僕は、あろう事かレン×ハルのオメガバース小説を送ってしまっていたのである。
慌てて掛けた電話は、留守番電話に接続されてしまった。
『今メールを間違えて送ってしまって!開かないで消去してください!』
仕方なくメッセージを入れて、ソワソワと部屋を歩き回る。
どうか先にメッセージを聞いて、メールを破棄してくれ!
パンドラの箱は、開けなければただの無害な箱なのだから。
『もしもし、中野です。』
それから2時間後、絢美さんからの着信に僕は飛びついた。
『メッセージ聞いてくれました!?メール見ないでくれましたよね!?』
『先生から来てすぐに開けてしまいました。』
ヒュッと息を飲む。
『添付の小説について、お話があります。』
『…僕はありません…。』
絶望に打ちひしがれながら答えると、絢美さんの声が大きくなった。
『先生!話しだけでも聞いて下さい!』
…おや?
ヒートアップして声が大きくなったのかと思ったけれど…どうもおかしい。
『あの…今どちらにいます?』
まさか、と思って青褪めながら問いかけるとウフフッと笑う声がする。
『今、貴方の部屋の前にいるの♡』
メリーさんかメンヘラ彼女の専売特許みたいな台詞
を吐いた担当編集に、僕は膝から崩れ落ちた。
『先生、このオメガバースは素晴らしいです。登場人物全員の心情がリアルで…傷付きながらもハピエンで纏まるラストなんてもう感涙ものでした…!』
目の前で僕の作品について熱烈に語る絢美さんを家に上げてしまったのは、家政婦さんだった。
仕方がない、本を出す時にしょっちゅう来ていた担当編集を警戒する訳もないのだから。
問題は、絢美さんが僕のBL小説をどうやら読了している事。
誤送信したメールをすぐに確認した彼女は、添付ファイルの中の小説に気が付いた。
そして冒頭を読んでーータクシーに飛び乗ったそうだ。
車内で続きを読みながら向かった先はここ、僕の実家である。
後で家政婦さんから聞いた話しだが、後部座席ですすり泣いたり身悶えたりする乗客に、タクシーの運転手さんは怯えていたらしい。
絢美さんを降ろすと一目散に走り去って行ったそうだ。
『先生、これは世に出すべき作品です!』
真剣な顔で感想を言ってくれるのは非常に嬉しい。
だけれど、僕にはそのつもりが全くない。
これは自分の趣味だし、勝手にモデルにしてしまった2人に申し訳ないから。
そう伝えても、燃え盛る腐女子魂を持つ彼女は折れなかった。
『私の新作、読みます?』
テーブルに広げられる作品。
創作者AYAと言うカードを切ってくるのは卑怯だ。
だけど、今回は前のように丸め込まれるつもりはない。
『大変読みたいですが、引き換えにはできません。』
極めて冷静に言えたと思う。
その証拠に、絢美さんが驚いたように目を見開いた。
勝ちを確信した僕は、イスから立ち上がろうとしてーーまた腰を下ろした。
何故なら、絢美さんからこんな言葉が出たから。
『そうですか…。先生の本が出せるなら、書店さんに掛け合って大BL祭りを開催しようと思ってたのに…残念です。』
大BL祭り…とは…。
『特設ブースを作ってその期間BL作品を激推しするんです。』
彼女がタブレットで見せてくれた完成予想図は、正に夢のような空間だった。
所狭しと並べられたBL漫画と小説、冒頭だけ読めるサンプルやフェア特典グッズ。
『BLソムリエを常駐させて、読者さんが一生ものの作品に出逢うお手伝いもします。』
『凄い…。でも、こんな事実現できる訳が…』
『可能ですよ。100万部を売り上げた乙女の聖天使、ブルボンヌ夢子先生が発表する初のBL小説なんて話題になるに決まってます。書店さんも喜んで協力してくれる筈です。』
まさか…そんな…。
『フェア中は日替わりで若手のBL漫画家のサイン会も行います。未来を担う作家にとっては名前を売るチャンスになりますし、ファンとの触れ合いは何よりも励みになりますから。』
そ、それは…。
『でも…先生の作品が出版できないのなら…開催はちょっと難しいかもしれないですね。』
や、やめて…。
『どうしてもダメなんですもんね、先生?』
悲しげに眉を下げる絢美さんに、とても悪い事をしている気分になる。
『あの…僕がこの小説を出版すれば本当に…?』
『絶対に、実現してみせます。約束します。』
強く言い切った絢美さんは、必ず約束を守る人だ。
何がなんでもやってのけるだろう。
『先生がこの小説を世に出す事は、BL界の発展に繋がります。BLの未来の為に、どうかお願いします!』
深々と頭を下げる絢美さんに、僕は狼狽える。
『か、顔を上げてください。…その、もっと加筆したり修正してもいいのなら…』
考えてもいい、と言おうとした言葉は続かなかった。
凄い勢いで顔を上げた絢美さんが、ガッシリと僕の手を握ったから。
『契約成立ですね!ありがとうございます、先生!』
口の端を吊り上げる敏腕担当編集に、やられた…と思った時には遅かった。
あれよあれよと打ち合わせが始まり、出版の予定日が決まり…更に本当に大BL祭りの開催まで決定して。
僕は必死に原稿に取り組んだ。
現実の2人に迷惑をかけないように、身体的な特徴などを大幅に変えて。
しかしそうすると、臨場感に欠けてしまう。
そのギリギリのラインを見極めて書き続けて、ようやくあと1章で校了となった時。
見ないようにしてきた現実が、僕の胸を苦しめるようになった。
僕は今、暗い『後悔』と言う闇の中にいる。
ーーどうしてこうなってしまったんだろう。
独りでその中を彷徨い、前にも後ろにも進めない。
ーー周りは同じ方向を向いてるのに、僕だけがどうするべき迷っている。
本当は、こんなつもりじゃなかったんだ。
ーー自分だけの趣味の筈だった。
こんな大それた事をするつもりなんて毛頭なくて。
ーー初めは、実在する人物をモデルにするつもりすらなくて。
それなのに、彼と話せるようになって欲が出てしまった。
ーー切藤君や萱島君と話せた時のインスピレーションが忘れられなかった。
際限のないそれを持て余して、ついにこんな事まで…。
ーーどうしても書きたい欲求を抑えきれず、その結果大事になってしまった。
唆された、なんてただの言い訳だ。
ーー絢美さんの策略に嵌ったのは事実だけれど、決めたのは僕なんだから。
きっとこの罪は許されない。
ーー知られてしまったらきっと、萱島君は僕を軽蔑するだろう。
それでもーー。
ーー今更無理だとは言えない。もう僕だけの問題じゃなく、多くの人が関わり、その人の将来に影響するかもしれない事態になっている。
だからーー
もう、後戻りはできないんだ。
これが完成したら、本当にレン×ハルが世の中に出てしまう。
いつの間にか、僕が怖いのは切藤君にバレる事よりも、萱島君に嫌われる事になっていた。
それでも、締め切りは待ってくれない。
今更『やめたい』なんて言ったら、どれだけの人に迷惑をかけてしまうのか…。
執筆による寝不足とストレスも相まって、僕は限界だった。
『いきなりごめんなさい。僕はもうダメかもしれません。』
そんなLAINを萱島君に送ってしまったのは、もう4月に入ろうかと言う春休みの事。
締め切りに追われて暫く連絡を断っていたにも関わず、彼はすぐに返事をくれた。
『大丈夫?明日会える?』
優しい言葉に思わず涙してしまった。
そして、僕は決断したのだ。
明日、萱島君に全てを話そう。
それが僕ができる唯一の誠意だ。
小説の事も、僕の気持ちもーー。
「それで、晴人が京都から東京に戻って来た訳か…。てかお前ら、卒業してからも交流あったんだな。」
中野君の言葉に頷く。
「けど、大谷がホテルにいるのは何でなんだ?」
それには絢美さんが答えた。
「先生の筆が進まないから、カンヅメ…じゃなくて、環境を変える為に会社で手配したの。」
今何か恐ろしい言葉が聞こえた気がするけど幻聴だろうか。
「へぇ、こんないい部屋を?」
「先生はうちの稼ぎ頭だもの、ジュニアスイートくらい取るわよ。」
凄いな、と感心する中野君は更にお姉さんと話しを進める。
「あとさ、姉ちゃんが持ってるそのナイフはなんなの?」
「あ、いけない!先生が逃走…じゃなかった、えーっと、とにかく心配でね、慌ててたのよ。」
隣の部屋から飛び出して来た時『逃がしませんよぉぉ!』と言う雄叫びが聞こた気がするけど、きっと幻聴なんだろう。
隣の部屋に引っ込んだ彼女は、ナイフの代わりに何かを持ってすぐに戻って来た。
「ほら、コレ。差し入れのロールケーキを切っててね。」
「…ケーキかよ!あの時の姉ちゃん、マジで怖かったんだけど…。」
思い出したのかブルリと震える中野君に、ケラケラ笑う絢美さん。
「てか待て、姉ちゃんが実家帰って来てんのと今回の事、何か関係ある?」
「あるわね。私のマンションより実家の方がこのホテルに近いから。」
「大谷ィィィィ!!」
悲痛な中野君の声に、この姉弟の力関係が分かった気がする。
大変申し訳ないな、と思っていた時だった。
「…で?呼び出した晴はどこにいんだよ。
てかテメェ、晴の事そう言う目で見てんのか…?」
沈黙を貫いていた魔王の、あまりに低い声に竦み上がる。
「え、晴人君もしかして行方不明なの?」
僕の横で絢美さんが戸惑っている。
「…まぁ、居場所はこの『先生』が知ってんだろうけどな?」
ゆらりと立ち上がって近付いてくる姿に、僕は声が出ない。
万事急須かと思った時、頼れる担当編集が声を上げた。
「待って!」
そして、僕の顔を覗き込む。
「先生、ちゃんと全部話すべきです!たとえ晴人君に口止めされてるとしても!」
●●●
解決編『8』冒頭の、大谷の独白はこんな思いから。
『7』で啓太が怯えてた絢美の帰省には、こんな訳がありました。
うちの近所でも大BL祭り開催してくれないかな…。
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