杀神(ころしがみ)

陽秀美

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第七話 銀髪の青年

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雨が激しく叩きつける中を、シュウは傘もささずにまっすぐ前を見て走り続けた。
ときおりすれ違う人々が何事かと振り返るのにも構わず、息を切らせながら「JAKE」に辿り着くと、シュウはずぶ濡れのまま店の中に飛び込んだ。
バーテンや他の客が驚いてこっちを見るのをよそに、シュウは店内を見渡すと目的の人物を見つけ脇目も振らず彼らの方に向かって行った。
「そこでこのオレ様の登場だ!」テーブル席に座り取り巻きの二人組に自慢気に話をしている檜室の真後ろに立つと、いきなり肩を掴んで自分の方を向かせシュウは思い切り顔をブン殴った。不意を突かれた檜室は驚く暇も無く椅子ごと床に倒れ込んだ。
「貴様! よくも可菜さんを!」シュウは檜室の体の上に馬乗りになり、もう一発お見舞いしようとしたが、二人組が素早く席を立つと腕と髪の毛を掴んでシュウを檜室の体から引き剥がした。
「クソッ! 止めろ!」そう言って抵抗しようとした瞬間、檜室の鋭い蹴りがシュウのみぞおちに入り、シュウは後ろ向きに吹っ飛ばされて隣の席のテーブルに背中から突っ込んだ。
「テメェ! 何だこのやろう!」檜室はシュウの前に仁王立ちになってその素顔をじっと見ていたが、少しして眉を軽くひそめると気が付いたように言った。
「お前、最近よく可菜にくっついて来るガキだな」シュウは顔を上げて檜室の方を睨みつけた。
「そうか、オレたちのことを可菜から聞いて仕返しにでも来たのか。おもしれぇ、たっぷり相手してやるから表に出ろ!」そう言って二人組にシュウの腕を引っ張り上げさせると、店を出て薄暗い路地裏にシュウを連れ込んだ。
「ぐはっ!」顔面にもろにパンチを浴びて倒れ込むシュウに向かい、檜室は怒声を浴びせた。
「もとはと言えばアイツが悪いんだ! 散々オレたちのことをコケにしやがって」シュウの顔は何度も殴られて真っ赤に腫れ上がっている。
「だがお陰でたっぷり楽しませてもらったぜ。まさかアイツがバージンだったとはな。可菜のやろう泣きながらヒーヒー喜んでやがったぜ!」檜室につられて後ろの取り巻き連中も醜い薄ら笑いを浮かべている。
「可菜がどんな泣きごとを言ったか分からねぇが残念だったな。もう手遅れだよ、ボウヤ」
雨はいつの間にか小降りになっていた。誰も入り込むハズのない路地裏の入り口にひとりの銀髪の青年が傘をさして立っていた。
「殺して…やる」ボロボロになった顔で俯いたまま、シュウは檜室に向かって呪いの言葉を吐いた。
「ふざけんな! ボケッ!」檜室はシュウの腹に容赦なく蹴りを入れた。
「まだ分かんねぇのか。お前みたいなガキが何人束になって掛かったって無駄なんだよ!」
だがシュウはよろける足でなおも立ち上がると、檜室に向かって歩き出した。
「お前だけは…絶対に殺して…やる」
青年は路地裏に入ると傘を閉じてポケットに手を入れながら近付いて来た。
「そうか、分かったよ」檜室が手を後ろに差し出すと取り巻きのひとりがナイフを手渡した。
「そんなに死にたきゃ、今すぐ殺してやる」
そして檜室がナイフをシュウの顔面に向けた瞬間、「パンッ」という甲高い音がしてそのまま檜室は頭から血を流して倒れ込んだ。
見るとそこにはいつの間にか銀髪の青年が立っていて檜室の頭があった位置に銃口を向けている。檜室は後頭部を撃ち抜かれていた。
続けざまに青年は隣にいる取り巻きのひとりのこめかみに銃口を当てるとあっと言う間に引き金を引いた。
「パンッ!」
仲間が次々と撃たれるのを目の前にした最後のひとりは、「ヒッ!」と言いながら慌てて逃げようとするが、青年は容赦なくその背中に三発目を撃ち込んだ。
三人が絶命するのを目前にシュウがあっけにとられていると、青年はシュウに向かって言った。
「早くここから離れよう。さぁ来るんだ」シュウは事態がよく呑み込めないまま、とりあえず青年について路地裏を後にした。

青年がシュウを連れて来たのは六本木の交差点から少し外れた所にある、古くなって今は誰も入っていないテナントの一角だった。一階の空き店舗を改造したその部屋は一面黒で統一され、だだっ広いスペースの真ん中に黒いソファとテーブルが置かれ、その脇には事務用の机と椅子があり、机の上には何台ものパソコンが置かれてモニターが薄暗い中妖しい光を放っていた。部屋の隅には小さなベッドと生活に必要な身の回りの物が並べられており、彼はこの部屋で寝泊まりをしているようだった。
「六本木のど真ん中にこんな廃墟みたいな空間があるなんて意外だろ? ここはいずれ取り壊される予定だが、オーナーに頼んでそれまで格安で借りさせてもらってる。華やかなものと醜いものが同居する街。それがこの六本木さ。だけどあんなものができたらどうなるか分からないけどね」
青年は窓の外に見える建設中の高層ビル群を見上げながら言った。
「あの…あなたは?」いまだに事態を呑み込めないシュウは青年に向かって尋ねた。
「あぁ、すまないけど君たちが店を出てから後をつけさせてもらった。ヤツらのことはボクも前々から気に入らなかったからね」青年は持っていた拳銃を机の上に置くと続けた。
「君はボクのことなんて知らないだろうけど、ボクは以前から君のことを知っていたよ。君は片時もマスクを外さなかったけど、何か事情があるの?」シュウは黙ったまま下を向いた。
「まっ、それは別にどうでもイイけどね。とにかく君がいつも一緒にいる女の子のことでヤツらと揉め事になって店の外に連れ出されたから、こいつはマズいと思ってこっそり君たちの後をつけてしばらく様子を見させてもらった。そして気付いたらあの男の背後に回って頭を撃ち抜いていた。あとの二人は成り行きかな? 人を撃ったのは初めてだけど、全然後悔はしてないよ。さっきも言ったように僕はヤツらのことが大嫌いでいつか殺してやろうと思っていたからね。そのきっかけを与えてくれたのは君かもしれない。本当は君がヤツらを八つ裂きにしてやりたいって思ってたかもしれないけど、恨まないでくれよ」
シュウは黙って彼の話を聞いていたが、話が終わるとドアの方に向かってヨロヨロと歩き始めた。
「どうしたの?」
「オレ、帰ります」すると青年はシュウの背中に向けて語り掛けた。
「さっき君がヤツらと揉めている時に店の客の女の子が君の顔を携帯で撮ってたよ」シュウは立ち止まると咄嗟に振り返った。
「あれ、マズいんじゃないかなぁ。店での君とヤツらの一件を聞けば警察がまず真っ先に疑うのは君だろうね。君が過去に何をしたのかは分からないけど、とっくに君の身元は割れて今頃警察が血眼になって君のことを探しているかもしれないよ」シュウは怒りのあまりマスクをすることを忘れて素顔のまま店に入ったことを後悔した。
「とにかく、少なくとも今夜はここを動かない方がイイ。きっと警察がそこら中をウヨウヨしてると思うから」
シュウはしばらく頭を悩ませたが、諦めて彼の言うことに従うことにした。
「まぁ、こんな所だけどゆっくりしてってよ。ボクはこっちのベッドで寝るから君はそっちのソファで寝るとイイ。ちょっとした飲み物や食べ物なら冷蔵庫の中に入ってるから。はい、タオル。濡れたまま寝ると風邪引くよ。もし顔の腫れが引かないようなら冷蔵庫に氷があるから自由に使って。他に必要なものがあれば、ボクが代わりに買いに行くからね」ベッドに向かいながら青年が言った。
やけに親切な青年にシュウが半信半疑のままソファに腰掛けると、「あっ、そうだ」と言って銀色の髪を掻き上げながら青年はシュウの方を向き直った。
「そう言えば、まだ自己紹介をしてなかったね。ボクは藤井 智彦。よろしくね」
シュウはその名前にどこか懐かしい響きを感じながらも、曖昧に返事をするとまだズキズキする顔のままソファに横たわった。

「ヤスさん、シュウの目撃情報が出ました!」
青柳が執務室に入って来るなり息を切らせながら近付くのを見て、安井は思わず椅子から立ち上がった。青柳の話によると、昨夜都内で発生した拳銃による殺人事件の捜査中に、犯行現場の近くにある「JAKE」というロック・バーで殺された三人組とひとりの少年が揉み合いをしていたとの情報があり、捜査員が店を訪れて客と従業員に聞き込みを行っていたところ、ひとりの女性客がその様子を携帯電話で撮影しており、そこに写っていた少年の顔を照合した結果、全国指名手配されているシュウだと分かり、たった今埼玉県警に連絡が入ったらしい。
「店の従業員の話によると、シュウはこの一ヶ月ほど別の女性客と一緒によく店に顔を出していたが、普段はマスクをしていて人相は分からなかったらしく、昨夜初めて素顔で店に入ってきたそうです」
現在捜査員が総出で事件のあった六本木を中心にシュウの足取りを追っているが、今のところ手掛かりは得られていないという。
親不知から戻って以来ぷっつりと切れたままだった自分とシュウを結ぶ糸が再び繋がるのを感じて、安井の胸の鼓動は一気に高鳴った。
「青柳、今から六本木に向かうぞ!」
はやる気持ちを抑えて、安井は上着を手にすると青柳と共に執務室を跡にした。

六本木の街に着くと安井はその人の多さに圧倒された。サッカーワールドカップの開催を間近に控え、街はいつもにも増して多くの人で活気づいていた。気の早い若者たちがブルーのユニフォームを着て闊歩する様を見て、安井はこれから始まるであろう前代未聞のお祭り騒ぎに気が滅入る思いがした。
六本木を管轄する麻布警察署に着くと、安井と青柳は早速捜査本部のある会議室へと案内された。そこでは捜査本部を指揮する刑事課の課長である加納が二人を待っており、挨拶もそこそこに本題に入った。
「埼玉県警からだいたいの話は聞いている。オタクらは被疑者の少年を追ってわざわざ新潟まで行ったらしいな。我々も目下総動員で少年の行方を調べているが、残念ながら今のところ手掛かりらしき物は何も掴めていない。ここはオタクらにも協力してもらって少しでも早く少年の身柄を確保したい。県警には署長から話を通してもらっているから安心してほしい」
そう言うと加納は後ろに控えている二人の若い捜査員に目配せをした。彼らは加納の前に出ると安井に一礼した。
「こいつらは小野と谷村といって私の部下だが、どうか好きに使ってくれ。それと必要な物があれば用意するので遠慮なく言ってくれ。じゃあ頼んだぞ」
そう言い残すと加納は慌ただしそうに他の捜査員たちの集まりに加わり、あれこれと指揮をし始めた。
「どう致しますか?」小野と呼ばれた捜査員が安井に尋ねた。
「そうだな。とりあえず現場が見たい。案内してくれるか?」
「分かりました」ふたりは安井たちを連れて会議室を出た。
警察署から犯行現場までは徒歩でわずかな距離にあった。六本木通りを人混みを避けて歩きながら、青柳が前を行く二人に聞こえないようにそっと安井に話し掛けた。
「浜田山の事件の時とはエラい違いですね。あの時は捜査本部のある会議室にも通してもらえず、細田とかいう若造をひとりあてがわれただけで完全によそ者扱いだったのに」
自分だって若造じゃないかと苦笑いしながら安井は言った。
「今回はさすがに捜査本部もことの重大さを認識してるってことだろう。どの道オレたちにとってはありがたいことだ。好きにできるし、こうやってお付きの者まで付けてくれるんだから」
「実際のところどうだか分かりませんよ。お付きの者って言ったって半分はオレたちの監視役でしょ。もしオレたちが何か掴んだらこっそり本部に報告して手柄を横取りしようって腹なんじゃないですか?」
その疑い深いもの言いに、大分刑事らしくなってきたなと感心しながらも、安井はあえて青柳に厳しい言葉を掛けた。
「そういうのは何か手掛かりを掴んでから言うモンだ。これだけの捜査員が半日かかっても何も得られないんだから、オレたちもうかうかしてるとまたシュウに逃げられるぞ!」
安井と青柳は改めて気を引き締めながら歩道を進んだ。

安井の予想どおり、犯行現場にはシュウの足取りを辿れそうなものは何も残ってなかった。既に鑑識を終えすっかり片付けられた路地裏に佇みながら、安井はつい数時間前までここにシュウがいたと思うといたたまれなくなった。シュウはまたここで三人もの命を奪ったのだろうか。
小野と谷村の話によると、殺された三人はいずれもこの路地裏の真ん中辺りで倒れていたという。ひとりは後頭部、もうひとりは側頭部、そしてもうひとりは背中を撃たれていた。捜査本部の見解としては、三人組に連れられたシュウがこの路地裏に入ったとたん、隠し持っていた拳銃を抜いてまずひとりの後頭部を撃ち、続けざまに残りのふたりを始末したのだろうということだった。
安井はその光景を思い浮かべながら何となく違和感を感じていた。
シュウが被害者たちと揉み合っていたという店は入り口が閉められており中に入ることはできなかった。中に人の気配もなく「JAKE」と書かれた入り口横の古びたネオンサインの灯りは消えて、この一角だけ時間が止まったように見える。
「昨夜のこの店での聞き取りの記録は残ってるか?」安井は後ろにいる小野に尋ねた。
「はい。署に戻れば見れると思います」
「そうか、ひとまず署に戻ってその記録を見させてもらおう。ここには夜になってから出直しだ」安井は早々とここを引き揚げることにした。
警察署に戻ると、さっそく安井は昨夜の「JAKE」での聞き取りの記録に目を通した。
記録によると、昨夜の十二時近く突然店の中にずぶ濡れの少年が入ってきて、店内で飲んでいた三人組のひとりに殴り掛かったと言う。だがすぐに仲間に取り押さえられ腹に一発蹴りを食らった後、彼らに連れられて店の外に出て行ったという。少年の顔を撮影した女性客は少年が蹴られた後で殴られた男から何かを言われていた時に咄嗟に携帯を取り出してその様子を写真に収めたという。記録にはその写真のデータがプリントされたものが貼り付けられており、そこには間違いなくシュウが座ったまま男を見上げている姿が写っていた。
記録にはその時の話の内容を語った店の従業員の証言も残っており、何でも少年はいつもその店に一緒に来ているカナと言う女性のことで男たちに喧嘩を売った様子で、男は少年にその女性から何かを言われて仕返しに来たのかとかいうことを喋っていたという。肝心の女性については知っているのはカナという名前だけで詳しいことは何も知らないとのことだったが、いつも店に来るのが深夜遅くなってからなのと、昨日の夕方に一度殺された三人組が店に来てその女性を店の前で待ち伏せするようなことを言っていたことから、何か水商売でもやっているのではないかとのことだった。捜査資料を見ると殺された三人組は近年この辺りで急速に力を付けてきている新興の犯罪グループの一員で、麻薬の密売や買春などで荒稼ぎをしており、手段を選ばない彼らのやり方には地元のヤクザですら手を焼いているほどだという。
安井は記録を読み終えて自分が犯行現場を見た時から抱いていた違和感の正体に気付いた。
聞き取り記録と捜査本部の見立てによると、シュウは店内で男たちに喧嘩を売った後で逆に無理矢理店から連れ出され、路地裏に入ったところで隠し持っていた拳銃で彼らを殺害したというところなのだろうが、こんな言い方が適切かどうかは分からないがこのやり方はシュウの殺しの流儀には合わないと安井は思った。もし本当に殺す気なら恐らく店に入った時点で何も言わずその場で三人を撃ち殺していただろうと安井は考える。そんなことをすればたちまち店は大騒ぎになりすぐに逮捕されるからそんなことはしないだろうと、捜査本部は自分の考えを否定するかも知れないが、シュウは殺した後のことまで冷静に考えて人を殺せるタイプではないというのが安井が今まで見てきたシュウに対する見解だ。浜田山の時も親不知の時もたまたまシュウの足取りは掴めなかったが、それはあくまでも偶然で決して彼が意図してやったものではないと安井は思っている。十歳の時に生きることを諦め六年間暗闇の中を過ごしてきたシュウは、年齢は既に十六歳に達してはいるが中身はまだ十歳そこそこの子供なのだ。そんなシュウがわざわざ拳銃を隠し持ち人気の無い路地裏で三人を不意打ちするようなしたたかなマネをするとは、安井にはどうしても思えなかった。
「凶器の拳銃は特定できているのか?」安井は小野に尋ねた。
「はい。ガイシャの遺体から摘出した弾丸を照合した結果、使用された拳銃はイタリア製のベレッタM9であることが分かりました」
「ベレッタM9か… 拳銃の線から追うのは無理だな」
安井はため息をついた。ベレッタM9は一九八五年から米軍の制式拳銃としても採用されている一般的な自動式拳銃で、裏のルートを使えば正直いくらでも手に入るシロモノだ。拳銃の入手ルートを辿って犯人を割り出すことは不可能に近いと安井は判断した。
「いずれにしても、現時点ではこのカナという女性がオレたちとシュウを繋げる唯一の手掛かりだ。青柳、夜になったらさっきの店に行ってもう一度聞き込みをやり直すぞ!」安井は青柳の肩を叩いて立ち上がると、埼玉県警にしばらく戻れない旨を電話で伝えた。
「コイツは長丁場になるな」電話を切ると安井は誰にともなく呟いた。

目覚めると、一瞬シュウは自分がどこにいるのか分からなかった。
一面黒い壁と天井に囲まれた広い部屋を見回してから、ようやくシュウは昨夜のできごとを思い出した。顔はまだ少し痛むが腫れはだいぶ引いたようだ。窓の方を見ると既に外は明るくなっており建設中の高層ビルが黙ってこちらを見下ろしていた。シュウはその姿をしばらくぼんやりと眺めていた。
「やあ、やっと目が覚めたようだね」声の方を振り返ると藤井がコーヒーを片手にこちらに向かって来るところだった。
「あまりにぐっすり寝てるもんだから、なかなか声を掛けられなかったよ。はい、コーヒー。もし好みに合わないようなら他にジュースもあるよ」シュウはジュースの方が良かったが、黙ってコーヒーを手にした。
コーヒーを一口飲んで苦そうな顔をするシュウに向かって、藤井は立ったまま話し掛けた。
「悪いけど、寝ている間に君のことを少し調べさせてもらったよ。いやぁ、驚いた。君って全国指名手配されてるんだね」そう言うと藤井はソファの横の事務机からノート型パソコンを持ってきて、キーボードを叩くとその画面をシュウの方に向けた。そこにはシュウの顔写真と名前、身体的な特徴などが映し出されていた。シュウは思わず目を疑った。
「持月 臭。一九八五年埼玉県生まれ。一九九五年に浦和のアパートで起きた犠牲者三名の殺人事件の重要参考人。今年の四月五日未明に杉並区内で、その四日後の四月九日に新潟県内で発生した連続殺人事件の被疑者として全国指名手配中。どおりで四六時中マスクが外せない訳だ」
シュウが驚いて自分の顔を見つめているのを見て、藤井は何でもないといった顔をして答えた。
「こんなもの警察のホストコンピュータに潜り込めば簡単に手に入るよ。それより君の臭って名前。誰が付けたんだか分からないけど随分酷いことするねぇ。きっと子供の頃は色々とつらい目に遭ってきたんだろう」そこまで言ってから藤井は遠い記憶を辿るような表情になった。
「待てよ、君確か埼玉県出身っていったね。浦和のアパートってもしかして…」藤井はシュウの顔をじっと覗き込むと弾かれたように言った。
「思い出した! 君、昔ボクの鼻を嚙んだ子でしょ」シュウが呆気にとられていると藤井はわずかに顔をしかめて言った。
「その顔だと何も覚えていないようだね。あの時は死ぬほど痛かったぜ」
藤井の話によると、昔自分はシュウのアパートの近所に住んでおり、普段それほど仲良くもなかったシュウが睨めっこをしようと言うのでいやいやながらつき合っていたところ、突然シュウに鼻を噛みつかれたというのだ。
「あの時はボクの母さんがカンカンになって君の家に連絡して、君のオヤジさんとお母さんが慌ててすっ飛んできて謝り続けてたよ。まぁ、あの頃君はまだ五歳くらいだったから覚えていなくても無理はないか」
シュウはそう言われてわずかな記憶を辿ってみると、鼻を嚙んだことは思い出せなかったものの、その子の泣き叫ぶ姿と当時自分が呼んでいた懐かしい愛称だけは思い出すことができた。
「トモ…くん?」
「そうだよ。やっと思い出してくれたね。それにしても何て偶然だ! こんな所であの時の子と再び会うなんて。ボクはあれからすぐに引っ越してしまって君とはもう会うことは無かったけど、自分の鼻を見る度に君のことを思い出してたよ。あっ、別に恨んだりとかそういう訳じゃないから安心して。ただ君があの後オヤジさんに酷い目に遭わされたんじゃないかと心配になって…君のオヤジさん、謝りながら、「あのやろう帰ったらタダじゃ済まねぇ」って君のことを殺しそうな勢いだったから。そういえば、あの頃君は見る度にいつもつらそうな顔をしてたね」
シュウはあの頃の自分を思い出していた。父親の暴力に怯え、近所の子供たちには名前のことでからかわれ、シュウが安心できる場所は母親の腕の中しかなかった。
「ねぇ、藤井さんはどうしてオレのことを助けたくれたの?」シュウは改まったように尋ねた。
「だからそれは昨日言ったじゃないか。ボクもアイツらのことが殺してやりたいくらい嫌いだったって」藤井はそう言いながらシュウが自分の顔をじっと見つめているのに気付くと、やがて諦めたように肩をすくめて言った。
「参ったな。君には敵わないよ。アイツらが嫌いだったのは本当だけど、正直殺してやろうとまでは思ってなかった。あの時路地裏の入り口で君が何度も殴られているのを見ているうちに、何か自分の背後からモヤモヤした得体の知れない何かが沸き立つのを感じていたんだ。それはやがて大きな塊となってボクを無理矢理路地裏の中に押し込んで、本当に気付いたら最初の男の頭を撃ち抜いていたんだ。もし君を助けるだけだったら、拳銃でアイツらを脅して君を連れてその場を去ればいいだけなのに、なぜあそこまでしてしまったのかは、正直ボクにも分からない」
静まり返った部屋の中に重々しい空気が流れた。シュウは昨夜から机の上に置かれたままの拳銃に目をやると藤井に尋ねた。
「あの拳銃はどうやって手に入れたの?」
「あぁ、あれは米軍の関係者からちょっとしたツテを辿って入手してもらったものだ。あの程度のシロモノならこの業界で仕事をしている人間にはコンビニで買い物するくらいの感覚で手に入るよ。そういえば君にはボクがどんな仕事をしているか話してなかったね。ボクはあることがきっかけで世間の枠からはみ出してしまい、今はコイツを使って普通の人が入手できない情報やモノを調達している、言わばヤミの便利屋だ。始めの頃はたいして依頼も来なかったけど、最近は少しずつ知名度も上がってきてそれなりに忙しくさせてもらってるよ」藤井は持っているノートパソコンをポンと叩いた。
「いずれはコイツの機能も携帯電話の中に納まるくらいに技術が発達して、誰もがボクがやっている程度のことは簡単にできちゃう時代が来るだろうけど、それまではせいぜい稼がせてもらうよ」
シュウは藤井の言っていることがよく理解できなかったが、とりあえず彼が自分を助けてくれたことには礼を言わなければならないと思った。
「ありがとう、藤井さん。オレを助けてくれて」
「おいおい、止めてくれよ。そう改まって言われると照れくさくなる」藤井は銀髪をクシャクシャと掻きながら言った。
「それに、「藤井さん」って言うのやめてくれないかな。何かよそよそしくて。昔みたいに名前で呼んでくれよ。トモ君…いや、トモでいいや。その代わりボクも君のことを名前で呼ばせてもらうよ。シュウ」藤井は笑顔でノートパソコンを机に置くとポンと手を叩いた。
「さぁ、腹が減ったからとりあえず朝メシにしよう。これからのことはその後でゆっくりと考えればいい。シュウ、コーヒーのお代わりは?」
シュウは笑顔のまま大きく首を横に振った。

その日の晩から、安井たちは他の捜査員と協力して「JAKE」を交代で訪れ、シュウとカナという女性について知っている者がいないか店の客に尋ねて回った。
さすがに六本木にある店だけあって客の数は多く、入れ替わり立ち替わり新しい客が次々とやってくるが、あいにく二人についての有力な情報は得られなかった。ただ、二人はこの一ヶ月ほど十二時過ぎ頃になるとちょくちょく現れ、二時間ほど一緒に過ごすと帰っていったという。もっぱら話をするのはカナの方で、マスク姿のシュウはカナの話を楽しそうにただ聞いているだけだったらしい。
シュウにそんな親しい女友達ができていたとは意外だったが、若い年頃の男女にとっては当たり前のことで、やはりシュウも一人前の男なんだろうと安井は少し複雑な気持ちになった。

聞き込みを始めてから三日目の晩、「JAKE」にひとりの男が訪ねてきて事態は急変した。
深夜一時を回った頃にその男は店を訪れ、しきりに店内を見回しながら誰かを探している様子だった。ちょうど店内で聞き込みを行っていた捜査員がその様子に気付き、男に声を掛けると、「ちょっと人捜しをしてるもんで」と答えたが何ともオドオドしていて態度が怪しい。そこで逆に捜査員がシュウの顔写真を男に見せてこの少年に心当たりはないかと尋ねると、男は、「アッ!」と叫んだがその後なかなか答えようとしない。このままではらちが明かないと判断した捜査員は男を任意で麻布警察署に同行させ詳しく話を聞くことにした。
男はしばらくは貝のように口を閉ざしていたが、やがて観念したように、「実は…」と少年との関係について話し始めた。何と男はこのひと月半ほど少年を部屋に同居させていたが、四日ほど前から帰って来ないため心配になって少年が話していた店に探しに来ていたという。
「おい、安井を呼べ!」捜査一課長の加納が別室で仮眠を取っていた安井を叩き起こした。

安井の取り調べに対し、堀川 慎治はひと月半前の四月十日に突然シュウが自分のアパートを訪ねてきたこと、昔少年院で世話になった老人から自分にシュウのことを守ってやって欲しいと頼まれたこと、少年には何か表に出せない事情があるということ、シュウを自分が経営している風俗店でアルバイトとして雇っていたことを洗いざらい白状した。
「そのうちにアイツは店で働いている女の子のひとりに連れられて度々あの店に行くようになっていたが、ある日突然帰って来なくなりその女の子もその日からぱったり店に出て来なくなったんで、コイツは二人で彼女の部屋にしけ込んでやがるなと思ってしばらくほっといたんだが、さすがに心配になって今夜店が閉まった後であの「JAKE」って店に様子を見に行ったんだ」
シュウと一緒にいた女性が水商売関係らしいというところまでは見当をつけて、捜査員は六本木界隈のスナックやキャバクラにまで範囲を広げて聞き込みを行っていたが、さすがに風俗店にまでは足を延ばしていなかった。
「その女性の部屋には訪ねて行かなかったのか?」安井が尋ねると慎治は首を横にして言った。
「もちろん真っ先に行ったよ。だけど入り口のインターホンで何度呼び出しても出て来なくて、あそこは高級マンションでセキュリティが厳しく部外者はエレベーターにも乗れないから部屋の前にも行けなくて… ホントどうしちまったんだろうな」
安井はすぐにでもそのマンションに飛んで行きたい衝動に駆られたが、かねてからずっと頭に引っ掛かていた質問を慎治にぶつけた。
「シュウはアンタの部屋を訪ねる前日に親不知でその老人を殺害している。オレたちは埼玉から現地に移動する途中でその知らせを聞き、到着した後から彼の行方を追っていたんだが、シュウがどうやって親不知からアンタのアパートに移動したか話を聞いていないか?」
「ちょっと待ってくれよ! シュウって誰のことだよ?」慎治はピンときていなかったが、安井はシュウが修一という偽名を使っていたらしいことを伝えると、ガックリと肩を落とした。
「そんな…オレは保さんを殺した犯人を一生懸命かくまっていたのか… 修一なんて偽名まで使いやがって、アイツ」
「悪いがさっきの質問に答えてくれないかな?」
「あぁ…そう言えば修一…いや、シュウのヤツ確かトラックに乗って来たって言ってたな」
「トラック?」
「あぁ。真夜中に国道をトボトボと歩いていたら一台のトラックが止まって、降りてきたドライバーに、「こんな夜中にひとりで何してる?」って聞かれたんで、東京に行きたいんだけど電車も動いてないんでとりあえず歩いてるって言ったら、自分はさっき富山で荷物を降ろしてこれから東京に戻るところだがと言われたんでお願いだから一緒に乗せて行ってくださいと頼んだそうだ。ドライバーは初め疑わしそうな顔で考えていたが、保さんから貰った封筒に入っていた一万円札を二枚渡すと喜んで乗せてくれたそうだ。都内の適当な所で降ろしてもらって後は地下鉄でオレのアパートまで来たらしい。そういえばその時オレが何でそんな時間に保さんの家を出たんだ? って聞いたら、「いや、それは色々事情があって」とか、「どうしてもその時間に出ないといけなかった」とか、やけに慌ててやがったな」
安井は思わず青柳と顔を見合わせた。なるほど、どおりでシュウの親不知から東京までの足取りが掴めなかったハズだ。真夜中にトラックで移動したのならば、いくら調べても目撃情報など出ない訳だ。自分たちが親不知に着いた時、既にシュウはそこにはいなかったのだ。
「よし、これから女性のマンションに向かうぞ」安井たちはすぐさま署を後にした。

麻布警察署から元麻布の可菜のマンションまでは歩いても十分ほどだ。車を使っても大して変わらないため安井たちは歩いて行くことにした。道すがら青柳が尋ねた。
「ヤスさん、ひとつ気になってるんですが親不知で佐藤さんの家を調べていた時、なぜ慎治との繋がりを示す物が何も出てこなかったんでしょう。少年院を出てから手紙のやり取りをするくらいならどこかにそれが残っていても不思議じゃないハズです。そもそもなぜ佐藤さんは自分でシュウを守らずに慎治にそれを託したのでしょうか?」
「これはオレの推測だが」安井は歩きながら答えた。
「おそらく佐藤さんがあらかじめ証拠が残らないように処分したんだろう。その手紙以外にも、自分の身元を明らかにするような物は全て一緒に片付けたハズだ」
「いったいなぜそんなことを?」
「我々にシュウの後を追わせないためだ。お陰で親不知から先のシュウの行動は見事にかき消された」
「だからなぜ?」
「きっと佐藤さんは初めから自分をシュウに殺させるつもりだったのかもしれない」
「まさか…」
「青柳、お前もこれだけ長くシュウと関わっていれば、アイツの周囲にいつも漂っている不穏な空気を感じてるだろう。アイツは自分が意図するしないに関わらず、何故か”死”を呼び寄せる。いや、“死”と言うより”殺し”だ。佐藤さんがいったいどんな気持ちでいたのかはオレには分からんが、もしかしたらあの人もそのシュウが放つ”殺し”のにおいに導かれてしまったのかもしれない。本来なら会って間もない所在の分からない少年に自分のことを殺してくれないかと頼むなどあり得ない話だが、シュウの眼にはそれを可能にする不思議な力がある」
青柳は安井の言うことを鵜呑みにできないまでも、確かにシュウの身の回りで度々起こる不思議なできごとには何かただならぬものを感じていた。
「オレはもう一度シュウに会って、そいつの正体を確かめたい。そしてできればその得体の知れない化け物からシュウを解き放ってやりたいんだ」
安井はもうこれ以上シュウが罪を重ねないことを心から願うばかりだった。

安井たちが慎治を取り調べていた頃、シュウは藤井の部屋で机の上のパソコンを眺めていた。モニターにはよく分からない英語の文字や数字などが並んでおりシュウにはその意味がサッパリ分からなかったが、刻々と変わるカラフルな画面を見ているとなぜかシュウは気持ちが落ち着くような感じがした。
「お待たせ。今戻って来たよ」振り返ると藤井が部屋の入り口から大きなビニール袋を両手にぶら下げながら近付いて来た。
「これで当分の間は飲み食いには困らないハズだ」藤井はビニール袋をドサッとソファに置くと、シュウの横に並んでパソコンのモニターを眺めた。
「おっ、また新しい注文が入ってるな。よしよし、商売繁盛」そう言いながらビニール袋の中に手を突っ込むと、藤井はペットボトルのジュースをシュウに手渡しながら言った。
「さっきコンビニで店員に聞いたけど、警察のヤツら相当しつこく君のことを探し回ってるみたいだね。街中で君の写真を見せびらかせているらしい。全くアイツら少年法なんて完全に無視してやがる。どっちにしても、まだしばらくここを出るのは無理だな」
藤井は一台のデスクトップパソコンの前に向かうと、キーボードを叩いてモニターを確認してから言った。
「うん、まだ警察のネットワークには新しい動きは見られないな」シュウは貰ったペットボトルに口を付けながら、藤井がなぜそんな魔法みたいなことができるのか不思議でならなかった。
「ねぇ、トモさんっていったいどこでこんなモノ使えるようになったの?」シュウは素朴な質問をぶつけた。
「だから、さん付けはやめてくれよ。気持ち悪いから。まぁ話すと色々長くなるから言わないけど、昔ちょっとアメリカに渡っていた時があってコンピュータはそこで本格的に覚えたんだ。向こうはやっぱり凄いよ。特にネットワークは日本の遥か先を行ってる。この頃ようやく日本でもインターネットが普及し出したけど、まだまだ電話回線を利用するのが主流で処理速度は遅い。向こうは既にネット用の専用回線が普及していて、日本より格段に早いスピードでデータや画像が転送できるんだ。ボクはこのネットワークの技術と、まだ向こうでも実用化され始めたばかりの機械が自分で学習する人工知能の技術を使って、高度な知能を持ったコンピュータが人間の行動を管理するシステムのアイデアを作って、帰国してから色んなデジタル技術関連の企業に売り込みを掛けたんだ。だけどどこの企業も、「そんなのSFみたいな話だ」ってまともに取り合ってくれなかった。ある企業の担当者なんか、大笑いしてボクのことを頭のイカレタ男みたいに見るモンだから、仕返しと警告の意味も込めてその企業のホストコンピュータにハッキングを仕掛けてやったんだけど、あと一歩のところでバレて大騒ぎになっちゃった。そんなこともあってボクもちょっと精神的に参ってしまい、そのうち諦めてこんな裏稼業を始めることになったんだ」
シュウは藤井が言っていることの半分も意味が分からなかったが、自分なりに彼も結構大変だったんだなと理解した。
「ボクのこの髪の色、変だろ。これって別に染めてる訳じゃなくてその頃色々悩んでたら自然とこんな色になっちゃったんだ。黒く染め直してもイイんだけど、何かこの方が自分に合ってるんじゃないかなと思って、このままにしてるんだ」藤井は自分の銀色の髪の毛をつまみながら言った。
「ねぇ、今度は逆にボクが質問するけど、君は何で人を殺したの?」藤井はシュウの顔をまっすぐ見つめて聞いた。
「オレは…」シュウは自分の手のひらを見つめながら、これまでの間に立て続けに起きた様々なできごとを思い出した。浦和のアパートでの母を巻き込んでしまった悲し過ぎるできごと。自分を長い眠りから目覚めさせた憎き父の声。その父を殺し虚しさを抱えたまま死に場所を求めて行った先での、不思議な老人との出会い。そしてその老人の命と引き換えに教えてもらった、憎しみの末に相手を許すという悟りにも似た慈愛… 全てのことがあまりに一遍に、若過ぎる自分に押し寄せたため、シュウはとてもひと言でそれを言い表すことはできないと思った。
シュウが何も喋れずに黙っていると、藤井はそんなシュウの心中を察したように言った。
「喋れないのなら無理に喋らなくてもイイよ。きっとボクなんか想像もできないことを君は体験してきたんだろう。君のその眼を見れば何となく想像できる」そしてシュウの方に近付きながら続けた。
「君の眼には不思議な力がある。人を”殺し”へいざなうというか、君が”殺し“を導いてくるというか。ボクもあの時、きっと君が放つ不思議なにおいに誘われてあの路地裏に足を踏み込んでしまったんだろう。”死“にはどことなく安らかなイメージがあるけれど、”殺し“にはもっと動きのある…ものすごく矛盾してるけど生命力を感じさせる響きがある。怒らないで聞いてほしいけど、君は人を殺すことによって生きる力を得ているのかもしれないね」
シュウは思わず藤井の顔を見返した。
「おいおい、冗談だって。冗談だよ。頼むからそんな怖い顔でボクを睨まないでくれよ」
しかしシュウは決して怒って藤井の顔を見た訳ではなかった。今藤井が言った言葉は、あの日自分が思わず呟いた言葉とあまりにそっくりだったからだ。
「ねぇシュウ、ボクに何か手伝えることは無いかな? ボクは何とかして君の力になってあげたいんだ。お願いだから教えてくれよ。君は何かに怒ってるの? 世の中に復讐したいと思ってるの? 君が本当に殺したい相手って誰?」
そう言われて、シュウは窓の方に近付きながら改めて考えた。窓の外には来週から始まるサッカーワールドカップを待ちきれずに、熱気に満ちた若者たちが通りを流れていく様が見える。この人たちはいったい何を求め、どこに向かって歩いているんだろう。あてどもなく延々と続くその様はまるで死に場所を求めて歩く、かつての自分と同じ姿にも重なって見えた。
「オレには…よく分からないよ。いったい何に復讐したいかなんて。第一、世の中って言ってもそんなに深い関わりがある訳じゃないし」
(六本木は華やかさと醜さが同居する街)
その時、出会った頃に藤井が話していた言葉が不意にシュウの頭をよぎった。
「ねぇ、トモ。答えになってるかどうか分からないけど…」シュウは窓の外をぼんやりと眺めた後で、思いついたように藤井に向かって言った。
「この人たちに大きな花火を見せてあげたいな!」

安井たちはマンションに着くとエントランスで管理人を呼び出し、警察官であることを告げてセキュリティを解除させエレベーターに乗り込むと、まっすぐ可菜の部屋を目指した。そしてドアを何度かノックして呼び掛け返事が無いことを確認すると、同行させた管理人にマスターキーでドアを開けさせた。捜索令状は無かったが犯人逮捕に伴う例外措置として警察署長の了解は既に得ていた。
部屋に入ると中は明かりが点いておらず、暗い中を進むとリビングルームの真ん中のテーブルの前にひとりの女性が座っている姿がうっすらと見えた。近寄って確かめると女性はすっかりやつれた様子で呆然と前を見つめており、青柳が声を掛けてもまるで反応が無かった。ベッドルームの方を調べてから戻って来た安井が、「ダメだ。ここにはシュウはいないようだ」と言うと、その”シュウ”という響きに反応したのか、女性はハッと我に返り周囲を見回すと改めて自分が大勢の男たちに囲まれているのに驚き、「今、誰かシュウって言った? ねぇ、誰かシュウのこと知ってるの? ねぇ教えて!」と叫んだ。

他の捜査員を帰らせ、可菜が落ち着くのを待ってから安井は改めて尋ねた。
「あなたはこの少年のことをよく知ってますね?」シュウの顔写真を見せると可菜は黙って頷いた。
「四日前の晩、いったい何があったのか教えてもらえますか?」安井の質問に可菜はポツポツとその日のできごとを話し始めた。
可菜がシュウに首を絞められたところまで話が進むと、安井は黙ったままジッと前を向き、青柳たちは信じられないといった顔でうなだれたり上を向いたりしていた。
「そして私が少しずつ意識が無くなってきて、あぁもうダメだと思った時、突然シュウが我に返って私の首を締めていた手を離したんです」可菜は当時の状況を思い出すように自分の喉元に手を当てた。
「私がぐったりしていると、シュウは自分の両手を見つめて信じられないといった顔をして私に謝ってました。そしてそのまま部屋を去って行ったんです」
「その時シュウは何か言ってませんでしたか?」安井が尋ねると可菜は前を見て思い出しながら言った。
「去り際に彼は変なことを言ってました。「今やっとオレに憑いている神の正体が分かった」と」
「神?」
「はい。死神は”死“を連れてくるけど、自分の神は”殺し“を連れてくると。それから自分は人を殺すことでしか生き続けることができないとも言ってました」
「”殺し“を連れてくる神…」安井はその言葉の意味を噛みしめていた。
「ねぇ、今シュウはどこにいるの? 生きてるの? お願いだから教えて!」可菜は涙混じりに訴えたが、その場にいる誰も可菜の質問に答えることはできなかった。
「可菜さん、我々は今全力を挙げてシュウ君を探しています。何でもイイ。シュウ君の行方に繋がるような手掛かりがあればどうか教えてくれませんか」
「そんなこと言われても… 慎治さんの所にも戻ってないんだったら、私にも分かんないよ…」
しばらく部屋の中を重苦しい沈黙が流れた。
「そう言えば…」可菜がふと思い出したように言った。
「あの店によく来る銀色の髪をした男の人には話を聞いた?」
「銀色の髪の男?」
「えぇ。特に知り合いって訳じゃないけど、噂では彼はこの辺で普通の人じゃ手に入れられない情報とか品物を裏のルートを使って仕入れてくれる、便利屋さんみたいなことをやってるみたいで、仲間内から「ウルフ」って呼ばれてた。それにシュウは気付いていないみたいだったけど、私が店に連れてくるようになってからエラくシュウのことが気になってたみたいで、私たちがお喋りしてるのをいつも遠巻きに眺めていた。シュウがトイレに行って席を外している時に一度私が、「シュウに何かご用?」って話し掛けたら、「特に用は無いけど、あまりにあの少年が楽しそうにしてるもんだから、君のことよっぽど好きなんだろうなって思って」って言われて、私恥ずかしくなっちゃってすぐその場を離れちゃった」
安井は青柳たちと顔を見合わせた。銀色の髪の男というのは今まで聞き込みの対象には無かった。シュウが喧嘩騒ぎを起こした晩に店にいたかどうかも含めて、もう一度洗い直す必要がある。
可菜に礼を言って安井たちが部屋を出ようとすると後ろから呼び止められた。
「ねぇ刑事さん。もしシュウが見つかったら彼に伝えてほしいの。私はいつまでもアナタを待ってるって。お願いだから絶対にシュウを見つけて!」
安井は力強く頷くと、可菜の部屋を後にした。

その次の晩から安井たちは「JAKE」で「ウルフ」に関する聞き込みを徹底的に行った。
さすがにその目立つ外見からか、「ウルフ」に関する情報は数多く集まった。そしてある客からあの晩確かに「ウルフ」は店にいて、シュウが檜室たちに連れて行かれた後にすぐ席を立ち、彼等の後をつけるように店を出て行ったという情報が得られた。
同時に客と従業員の証言から「ウルフ」のモンタージュを作製し照合したところ、警視庁の前歴者データの中にヒットするものがあった。
「ヤスさん、コイツとんでもないヤツですよ」青柳はそのデータを見て驚くように言った。
「ウルフ」こと藤井 智彦は埼玉県出身の二一歳で、中学校を卒業後に大学入学資格検定、いわゆる大検に合格して大学入学資格を獲得すると、アメリカのバージニア工科大学に合格し十七歳の時に渡米、飛び級制度を利用してわずか二年で卒業するという天才的頭脳の持ち主だった。しかし十九歳で帰国後、どういう訳か定職には就かず二十歳の時にある大手デジタル技術関連会社のホストコンピュータにハッキングを仕掛け不正アクセス防止法違反で逮捕されている。しかしこの時は未成年ということもあり会社側と示談が成立して不起訴処分となっている。
捜査本部は藤井が檜室たちの殺害に関わりシュウをかくまっている可能性が高いとして、彼を重要参考人としてその所在を徹底的に調べるように手配した。
数日後、あるテナントのオーナーから解体前の古い空き店舗の一部を藤井に貸しているという情報が寄せられ捜査員が踏み込んだが、既にそこはもぬけの殻となっており一面黒色の部屋の中にはソファと事務机にパソコン、ベッドや冷蔵庫などが残されたままだった。
捜査員以外誰もいない部屋に安井は佇んでシュウの痕跡を確かめるようにしていた。
「ヤスさん、また逃げられましたね」青柳が背後から声を掛けた。
しかしなぜか安井は彼等が再びこの部屋に戻って来るような気がした。うまく言い表すことはできないがシュウの放つ念のようなものがまだ部屋には残っており、それは近いうちに主が帰るのを待つ忠実なしもべのようにじっと息をひそめているように感じられたのだ。
シュウに戻ってきて欲しいと願う心がそう思わせるのかもしれないが、安井はその思いに賭けてみてもイイかもしれないと思っていた。
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