杀神(ころしがみ)

陽秀美

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第四話 目覚め

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持月が刑務所を仮出所できたのは、それから六年後のことだった。
久しぶりのシャバの空気に戸惑いながらも、出所の際に職員から渡されたメモを頼りに電車を乗り継いで行くと、やがて持月は都内近郊にある小さな養護施設にたどり着いた。
「若竹こども園」そう書かれた看板が掲げてある門を抜け施設の入り口までやって来ると、入り口の前に紺のスーツ姿のひとりの中年女性が立っていて、持月の姿を見かけるとこちらに向かって軽くお辞儀をした。
持月がその女性に近付くと、女性はハンドバッグから名刺を取り出し持月に手渡しながら自己紹介をした。
「東京都で保護司をやっている大久保です」
大久保に連れられて施設の中に入り、子供たちの活気ある姿とはしゃぎ声に溢れた廊下を進みながら、場違いな所に来てしまったと持月が困惑していると、そんな彼の姿を冷ややかに一瞥した後で大久保は説明した。
「ご存知のとおり、あの事件の後シュウ君は警察病院に入院し、色々な治療を受けながら事件についての調査が進められたのですが、警察の方がみえても家庭裁判所の調査官の方がみえても一切何の反応も示さずに、事件について何も語ることはありませんでした。これ以上続けても事態の進展が見られないと判断した家庭裁判所は、とりあえず審理開始を保留し、もしシュウ君の状態が良くなって何か話を聞くことができるようになったらその時点で、審理開始について検討するという決定を下し、シュウ君は保護的措置によってこの施設に入れられることになりました」
廊下の曲がり角で向こうから走ってきた子供がぶつかりそうになった。笑顔でその子供の頭をポンポンと軽く叩きながら、「こら、廊下は走らないの」と優しく声を掛けると、大久保は再び言葉を続けた。
「普通、施設に送られる場合は保護観察の対象とはならないのですが、シュウ君の場合は事情が特別なため特例的に保護観察所がシュウ君の状態を定期的に家庭裁判所に報告することになり、私が保護司として任命されて月に一,二回程度の割合でこの施設を訪ねシュウ君の様子を見ています」
それから何度か曲がり角を曲がり、持月がまだ着かないのかと文句を言いそうになった頃、建物のかなり奥の方の細長い廊下の先にあるシュウの部屋にようやくたどり着いた。。
「ここです」部屋の前で大久保が立ち止まり、それからゆっくりとドアを開けると、やや広めの明るいこざっぱりとした洋室の壁際に一台のベッドが置かれていた。部屋の窓はわずかに開けられ白いレースのカーテンがかすかに風に揺られている。ベッドの脇には移動式のサイドテーブルがあり、その上にはパンとスープ、ちょっとしたおかずとフルーツといった昼食がトレーごと乗せられているが、食事には全く手が付けられた様子はない。
「シュウ君こんにちは。久しぶりだね」大久保がそう声を掛けながらベッドに近付いていくのを目で追っていくと、ベッドの上に仰向けになり天井の辺りを見るとも見ないともなく眺めている、パジャマ姿の若者の顔が目に入った。
持月にはそれがあのシュウだと理解するのに少し時間がかかった。髪の毛は不潔とまでは言えない程度に伸び、大きく落ち込んだ眼とげっそりこけ落ちてうっすらと髭の生えた頬には若者らしい生気は全く感じられなかった。
「しょうがないなぁ、また何も食べずにほったらかしにして。シュウ君が食べないならオバサンが代わりに食べちゃうぞ」そう言いながら大久保はハンドバッグをサイドテーブルの上に置き、シュウに近寄ると顔の辺りを観察し始めた。
「また少し髪の毛伸びたね。そろそろ床屋さん呼ばなきゃ。うん、顔色はまぁまぁだね」
これでまぁまぁなのかと持月がやや呆れた顔をしてると、シュウの方を見たまま大久保が持月に語り掛けた。
「もう六年間、ずっとこんな調子です。食事は全く自分で摂ろうとせず、職員の方が無理矢理食べさせようとして何とかほんの少し口にするくらい。足りない分は点滴でまかなってます。下の方も垂れ流し状態で、もう十六だっていうのにオムツはかされてるんですよ。何を聞いても何を見せても上の空。本当にいったい何を考えているのかしら」
何か考えているならこんな状態にはならないだろうと、持月が思わず言いたくなるのを堪えていると、大久保がシュウに向かって大きな声で言った。
「シュウ君! 聞こえる? 今日はあなたのお父さんが来てるのよ。お父さんのこと覚えてる? ものすごく久しぶりだもんねぇ。忘れちゃったかな?」大久保が皮肉を込めて言うのを聞いて、たまりかねた持月が大久保に言い返した。
「ちょっと、アンタさっきから何なんだよ。人のこと冷たい目で見たり、わざとケンカ売るようなものの言い方したり…」
すると、大久保がくるっと後ろを振り返り、持月の顔を正面からじっと睨みつけながら言った。
「申し訳ありませんが、私は幼い頃シュウ君があなたから虐待を受けていたことを聞いています。私はこれまでも親からの虐待が原因で非行に走ってしまったかわいそうな子供たちを沢山見てきましたが、このシュウ君ほど酷いケースは初めてです。直接の原因はあの事件で受けた深い心の傷かもしれませんが、シュウ君がここまで心を閉ざしてしまった原因はあなたにもあるんじゃないですか?」
大久保の剣幕に気後れしそうになりながら、持月がシュウの顔の方を見ると、何やら口の辺りがパクパク動いているように見て取れる。
「シュウ! おいシュウ! どうした? 何か言いたいのか?」
驚いた大久保が再びシュウの方を向くと、確かにシュウの口元が何かを訴えるようにわずかに動いている。
「シュウ君! 何? 何か見えるの?」
持月はサイドテーブルを脇に寄せるとシュウの横に立って大きな声で語り掛けた。
「おいシュウ! オレだ。分かるか? ようやくムショから出られて、お前に会いに取るものもとりあえずやって来たんだぞ。おい、何とか言ってくれよ。おいシュウ!」
そんな持月の声が届いているのかどうかは分からないが、シュウは相変わらず天井を見つめたまま口をパクパクさせていた。
「何だ? シュウ。よく聞こえねぇよ。もう少し大きな声で喋ってくれ」そう言うと持月は自分の耳をシュウの口元に近付け必死に声を聞き取ろうとした。
「何? 何だって?」そう言ってさらに耳を近付けた時、ふいに天井を見つめていたシュウの眼が動いて持月の耳を捉えたと思うと、いきなりその耳に噛みついた。
「うわぁ!」慌てた持月がシュウから離れようと後ろに身を引くと、シュウは持月の耳にかじりついたまま一緒になって起き上がった。
「いてぇ。何すんだこのヤロウ!」ようやくシュウの髪の毛を掴んで顔を引き剥がすと、持月は自分の耳を手で押さえた。シュウはいったい何が起こったのか分からない様子で、驚いて持月の方をじっと見つめている。その口元にはわずかに血が付いていた。
「テメェこのやろう! いったい何のつもりだ。わざと死んだふりしてオレを油断させて殺そうとでも思ったか! 人が心配して来てやったのにこんな真似しやがって!」
今にもシュウに飛び掛かろうとする持月を慌てて大久保が後ろから抑えた。
「ちょっと待ってください。シュウ君は本当にこの六年間寝たきりだったんです。起き上がるどころかほとんど動くことも無かったのに… とにかく落ち着いて!」
しかし持月は興奮した様子で大久保の手を振り払おうとしながら、なおもシュウに向かって毒づいた。
「やいシュウ! オレには分かってるんだ! お前のせいで幸恵が死んじまったってことが。幸恵が死んだのはお前のせいだ! 幸恵を返せこのやろう!」
「やめてください! シュウ君、ちょっと待っててね」大久保がジタバタする持月を無理矢理部屋から連れ出すと、静寂の戻った部屋のベッドの上で、たった今夢から覚めたような呆けた顔のシュウが、大久保が置き忘れていったサイドテーブルの上のハンドバッグをじっと見つめていた。
そして、そのハンドバッグの横に置いてある手付かずの昼食に目がいったかと思うと、おもむろにトレーの上のパンを手に掴み一気に頬張った。次にパンの横に置いてあるすっかり冷めてしまったスープを持ち上げるとパンと一緒に流し込んだ。だが数年ぶりにいきなり物を詰め込まれたシュウの胃袋は到底耐えることができず、なおも続けて皿の上のリンゴを頬張ろうとした瞬間に激しい吐き気に襲われると、シュウはたった今食べた物を全てトレーに吐き出してしまい、そのまま疲れ果てて再びベットに倒れ込んでしまった。
「ハァ、ハァッ」急に体を動かしたため全身に激しい痛みが走るのをこらえながら、額に手を当てたまま大きく肩で息をしてシュウはそのまましばらくじっとしていたが、やがて手を下ろすとハッキリと決意を込めた眼差しで天井を見つめながら、まるで呪いの言葉を繰り返すように呟いた。
「殺してやる。アイツだけは絶対に、殺して…やる。」

それから六ヶ月後…
若竹こども園を後にしたタクシーの後部座席には、シュウと保護司の大久保が座っていた。
「それにしても、シュウ君がこんなに早く回復するなんて、本当に信じられないわ。やっぱり若さって凄いわね」
嬉しそうに語る大久保の横で、シュウは流れゆく車窓の景色をボンヤリと眺めている。その顔には半年前に見せた眼の落ち込みは無くなり、頬の辺りもふっくらしてすっかり若者らしい生気が戻っていた。髪の毛はサッパリと整えられ、うっすら伸びていた鬚もきれいに剃られていた。
「シュウ君、あなたはお父さんのことを恨んでるかもしれないけど、あの半年前のできごとをきっかけにあなたは生きる気力を取り戻して、食事を摂ったりつらいリハビリにも耐えてここまで元気になることができたんだから、少しはお父さんに感謝しなきゃダメよ。本当によく頑張った。色々と不安はあるだろうけど、これからはお父さんと二人で仲良く暮らしながら、少しずつ昔の自分を取り戻せるように努力してちょうだいね。もしまたお父さんにいじめられそうになったら、オバサンがすぐに駆けつけてお父さんを懲らしめてあげるから」
ひとりで勝手に喋り続ける大久保をよそに、相変わらずシュウは窓の外をボンヤリと見ている。やがてタクシーは大通りから細い路地裏に入り、アパートや一軒家が建ち並ぶ住宅街の一角に入り込んだ。
「ええと、確かこの辺のハズなんだけどな…あっ、運転手さん。そこの角を右に曲がってください」大久保は手にしたメモ用紙に書かれた持月の住所を頼りに何とか探し出そうとするが、なかなかお目当てのアパートは見つからず、何度かあちこちを行ったり来たりしながら、ようやくタクシーは目的の場所にたどり着いた。
タクシーから降りると、大久保はその小さなアパートの入り口にある「コーポ浜田山」と書かれた看板とメモ用紙を見比べ、「うん。ここに間違いない」と言うとシュウを連れてアパートの中に入り、一階の通路に並んだ部屋のドアの前にひとつひとつ立ち止まりながら、メモ用紙を頼りに目的の部屋を探した。
そして、何軒目かのドアの前で、「あった。この部屋だわ」と言うと、そのドアのチャイムを鳴らした。
しばらくして部屋のドアが開くと、中から持月の顔が現れ、大久保の顔を見た後で少しバツが悪そうにシュウの方を見てから、「いらっしゃい。まっ、入れや」と言って二人を部屋の中に招いた。
中に入ると、ワンルームの間取りになっている持月の部屋は男暮らしらしい殺風景さはあったものの、浦和のアパートのような生活に必要な物とそうでない物がゴチャゴチャに溢れ返っていた時と違い、必要最小限の物が整然と片付けられて置かれており、シュウはその様子に正直驚いた。
「ムショ暮らしが長いと、こういう習慣がすっかり身に付いちまってな」そう言いながら持月は大久保とシュウをフローリングの床が剥き出しになっている居間のテーブルの前に座らせた。
「何か飲むか?」そう尋ねる持月に対し軽くお辞儀をして、「結構です」と言うと、正座をしたまま大久保は唐突に喋り始めた。
「二ヶ月前にあなたからシュウ君を引き取りたいと聞いた時、正直私は本当なのかと疑いました。シュウ君がいまだにあなたのことを許せずにいるのは分かっていましたし、あんなことがあった後ですから…でもその後のあなたの生活ぶりを調べさせてもらい、保護観察所とも相談した結果、どうにかあなたが立ち直ろうと頑張っている様子がうかがえることから、シュウ君にあなたの意向を伝えたところ、それでも構わないと言うので、こうやってシュウ君をここに連れて来ました」
耳が痛そうにしかめっ面をして聞いている持月に構わず、大久保は続けた。
「シュウ君はこの半年間で見違えるように元気になりました。しかしまだ完全に回復したとは言えず、七年前の事件のことをいまだに話そうとしません。私はここでお父さんと暮らしながら、シュウ君が少しでも早く昔の自分を取り戻して、つらいと思うけど事件のことを少しずつでもイイから話し始めてくれることを期待しています」
その点については持月も同じ考えらしく、小さく、「うん、うん」と首を縦にして頷いた。
「ただし…」そんな持月に対して大久保は再び語気を強めて言った。
「もしあなたが昔のようにシュウ君にまた暴力を振るうようなことがあれば、私は保護観察所と協議してすぐにでもシュウ君をあなたから引き離すつもりでいますので、その点だけはよく肝に銘じておいてくださいね。当然あなたの仮出所にも響きますのでそのつもりで」
言うだけのことを一気に喋りきると、「じゃあね、シュウ君。体に気をつけて。これからもちょくちょく様子を見に来るからね」と言い残して、大久保はさっさと引き揚げていった。
「おっかねぇオバサンだな…なぁ、シュウ」
持月は呆れ顔でシュウに話し掛けると、格好を崩して言った。
「まぁ、色々とあったけどこれからは一緒に仲良くやろうや。まずはゆっくりとくつろいで、楽にしてくれ。今夜の晩メシはお前の好きなすき焼きにしてやるからな。しかも、お前の知ってる豚肉入りのすき焼きじゃなくて、牛肉を使った本物のすき焼きを食わしてやる。あの頃は大した稼ぎもなくて幸恵とお前にロクな物も食わせてやれなかったが、今はまじめに働いて少しはカネも貯まってきたんだ。今まで散々苦労させてきたけど、これからは少しは満足な生活ができるように頑張るからな」
シュウはそんな持月の言葉をどことなく上の空で聞きながら、部屋の窓から差し込む暖かな早春の日差しを、相変わらずボンヤリとした様子で眺めていた。

「とにかく、今回の一件はさすがにオレもこたえたぜ」
グツグツと煮えたぎる鍋を突っつきながら、持月はテーブルの向こうのシュウにしみじみと語り掛けた。
「あの時ねぇさんに口説かれてついその気になって門倉をブッ殺したまではイイが、警察で全てをゲロっちまって肝心のねぇさんには迷惑掛けちまうし、松岡と古木のやろうは死んじまって幸恵の恨みを晴らそうにも晴らすこともできねぇ。これから長いムショ暮らしが始まると思うと、正直オレはこのまま死んじまおうかって思ったよ。だけど不思議なモンで、ムショで殺伐とした何の面白味も無い毎日を過ごしてると、だんだんと何か自分の中の余計なものが剥がれ落ちていくっていうか、今までオレが必死にしがみついていたものがいったい何だったんだろうって思えるようになって、それである日オレはもう組とか悪い仲間連中とはスッパリ縁を切って何とか自分の力で生きていこうと思ったんだ。ほれ、肉が煮えたぞ。もっといっぱい食え」
シュウは黙って下を向き、生まれて初めてと言っていいほどの本格的なすき焼きを無心で頬張っていたが、ふと見ると父親の目の前に以前のように酒のグラスが無いことに気付いた。
「あれ? 酒…は?」シュウが尋ねると持月は少し照れくさそうに笑いながら言った。
「いやぁ、別にやめた訳じゃねぇが、せっかくムショで酒と無縁の生活が送れたモンだから、もう少し続けてみようかって思ってな。どうもオレはアレを飲んじまうと正気じゃいられなくなる性分らしい。まぁいつかお前が大人になって一杯やれる年頃にでもなったら、そん時は一緒に少しばかり頂いてもいいかな。へへへ」
冗談とも本気とも取れない持月の言葉にシュウが疑いの眼を向けながら肉を頬張ると、突然改まったような顔をして持月が話し始めた。
「なぁシュウ。あのオバサンはお前のことが可愛そうだみたいな口ぶりをしてたが、オレは決してそうは思っちゃいねぇよ。オレはお前に男としての生き方を教えてきたつもりだ。横っ面張られて悔しかったら、負けずに立ち向かってこい。諦めたら人間終わりだ。オレはお前にどこに行っても立派に生きていける強い人間になって欲しかったんだ」
すると、黙々と肉を食べていたシュウが突然箸を置き、下を向いたままボソボソと喋り始めた。
「分かってない。アンタは何も…分かっちゃいない」
「何だと?」持月が眉をひそめて尋ねるとシュウはさらに続けた。
「アンタは何も分かっちゃいないんだ。あの晩、あの部屋で何が起こったのか。あの部屋で母さんがどんな思いで死んでいったのか、オレがどんな思いで母さんを見送らなきゃならなかったのか、なぜオレも後を追うことができずにおめおめと生き残ったのか、アンタには全く何も分かっちゃいないんだ」
シュウの腹の底から絞り出すような訴えに、持月は真剣な顔で応えた。
「あぁ、分からないさ。オレはあの時部屋にはいなかったんだからな。なぁシュウ、教えてくれ。本当にあの晩、あの部屋でいったいお前は何をしたんだ。半年前はついカッとなって言っちまったが、まさか本当にお前が母さんを殺しちまった訳じゃないよな。頼むから本当のことを聞かせてくれよ」
しかし、そうせがむ持月の声にも応えずにシュウは黙って下を向いたきり、何かをブツブツとしきりに呟くだけで何も話そうとしない。
「シュウ。お前はいったい何を考えているんだ」
途方に暮れてシュウを見つめる持月の前で、誰も箸をつけようとしないすき焼き鍋だけが、グツグツと寂しげな音を立てていた。

「シュウ…シュウ」誰かが遠くから自分を呼んでいるような気がする。じっと耳を澄ますと、それは懐かしい母の声となってなおも自分を呼び続ける。
「シュウ…ここよ。母さんはここだよ」
「かあ…さん」母に向かって伸ばした手が思わず宙を切ると、シュウは突然目覚め自分が薄暗い部屋の中にいることに気付いた。
見ると部屋の反対側に敷かれた布団の上で父親が安らかな寝息を立てて寝ている。シュウは自分が彼のアパートで寝ていたことをようやく思い出した。
シュウは布団から身を起こし、しばらくは父親が寝入っている様を見続けていたが、やがていつか味わったような、深い深い穴の底に落ちていくような奇妙な感覚に襲われていった。
そしておもむろに立ち上がると、シュウは何かに導かれるようにキッチンの方に歩き出し、包丁を手に握りしめて戻ると持月の横に立っていた。
「かあ…さん」もう一度呟くと、シュウは包丁を手に持ったまま持月の腹の上にドスンと座り込んだ。
「ぐふっ!」持月が突然のことに驚いて見上げると、そこには自分の上に馬乗りになったシュウが、包丁を片手にこちらを睨んでいるのが目に入った。
「シュウ、いったいどうした!」持月が慌てて問い掛けるが、目の前の息子の顔からは一切の表情が抜け、その眼はポッカリ空いた穴のように果てしない暗闇を覗かせていた。
やがてシュウは両手を振り上げて包丁を握りしめると、一気に持月の胸目がけて振り下ろそうとした。
「シュウ! 待て!」持月は慌ててシュウの手を掴み、横になったまま必死にその重みに耐えた。
「おいこら、正気に戻れシュウ! お前いったいどうしちまったんだ?」
なおも抵抗する持月に対しシュウは手の力を緩めずに、包丁の先を自分の方に押し付けようとする。
「お前の…せいだ。お前のせいだ。母さんが死んだのも、オレが死ねなかったのも全てお前のせいだ」
声を震わせながらしきりに訴えるシュウの声に、持月は半年前に自分が息子に投げつけた言葉の重みを初めて知るとともに、いつの間にかすっかり力強くなった息子の腕力に、殺されかけているのになぜか胸が熱くなるような不思議な気持ちが込み上げてくるのを感じた。
そして、シュウの空洞のような眼から一筋の涙がこぼれ落ちるのを見ると、一瞬だが持月はそこに幸恵の面影を見たような気がした。シュウだけではなく幸恵までオレを許してはくれないのか… オレが今までしてきたことはそんなに酷いことだったのか。そう思うと持月は急に何もかもどうでもよくなり、低く力のこもった声で、「分かった!」とシュウに言い放った。
思いがけない言葉に包丁を持つ手から力が抜け、シュウは驚いた様子で持月の顔を見た。持月は息子が自分の顔を見つめるのを感じながら、横になったまましばらく天井を見上げた後で、ゆっくり目を閉じて息子に語り掛けた。
「好きにしろ…」
ほんの少しの時間だったハズだが、持月にはそれが遥かに長く感じられた。束の間の静寂の中で持月は幸恵の誰よりも美しかった笑顔を思い出していた。
「もうすぐお前の所に行ける」頭の中で呟きながらそれもイイかと口元を緩めた時、圧倒的な闇を抱えた強大な力が襲い掛かってきた。

埼玉県警捜査一課の警部補、安井 和広のもとに事件の知らせが届いたのは、その翌日のことだった。
東京都杉並区のアパートで発見された刺殺死体の身元が持月  治雄だと分かった時、初動捜査に当たっていた捜査員のひとりがたまたま七年前の事件のことを覚えていて、埼玉県警に連絡を取ったのだ。
安井は部下の青柳と一緒にすぐさま警視庁の所轄署である高井戸警察署に向かった。
「わざわざご足労いただきありがとうございます」警察署で二人を出迎えたのは細田という若い巡査長だった。細田は安井たちを会議室に連れて行くと、テーブルの上に並べられた初動捜査の資料を見せながら説明した。
「遺体が発見されたのは本日、つまり四月五日の早朝。場所は杉並区内にある「コーポ浜田山」の103号室で、新聞配達員がアパートのドアが半開きになっていたので気になって中の様子をうかがったところ、奥の部屋に持月が血まみれになって倒れているのを発見し、すぐさま持っていた携帯電話で110番通報しました」
鑑識が撮った現場写真を見ると、そこには上半身を血で真っ赤に染めたスウェット姿の持月の無残な様子が写されていた。
「死因は刃物による出血死。首の辺りから胸元にかけて、十数カ所を刺されています。死亡推定時刻は昨日四月四日の深夜十一時から翌四月五日の一時頃の間。凶器の刃物は遺体のすぐ横に捨てられていた刃渡り十八㎝の文化包丁で、柄の部分から息子の持月 臭の指紋が検出されました」
「何てこった」資料に目を通しながら安井は思わず言葉を失った。
「持月 治雄は半年前に服役中の府中刑務所から仮釈放され、近所の町工場で働きながらこのアパートで暮らしていたようです。それと息子のシュウですが、昨日墨田区内の養護施設「若竹こども園」を退所してこのアパートにやって来たそうです」
持月が仮出所したという話は安井の耳にも届いていた。七年前の浦和のアパートでの殺人事件の捜査はその後も進展が見られず、重要参考人のシュウが家庭裁判所から保護的措置をとられ施設に入ったこともあり、面会もままならない状況となったことから、事実上打ち切りの状態となっていた。安井自身警察病院に入院していた頃に何度か訪ねたきり、シュウにはもう何年も会っていなかった。捜査資料に貼られたシュウの人間らしさを取り戻しすっかり若者に成長した顔を見ながら、安井は何ともいたたまれない気持ちになっていた。
「それで、シュウ君の所在は?」巡査長に昇進し少しは貫禄が身に付いてきた青柳が、細田に尋ねた。
「今のところ分かりません。新聞配達員が持月の遺体を発見した時は既にシュウの姿はアパートに無かったそうです。すぐに周囲の聞き込みを行いましたが、犯行予想時刻から四時間以上経過していたことと真夜中でほとんど目撃情報が得られないことから難航しています。まだ電車が動き出す前だったのでそれほど遠くへは行っていないと思うのですが…」
「ガイシャの様子からすると、犯行時に相当の返り血を浴びているハズだが」持月の写真を見ながら安井が尋ねた。
「アパートの浴室を調べたところ、大量の血を洗い流した跡と脱ぎ捨てられたシュウの血だらけの衣服が見つかっています。隣の部屋の住人から夜中に水を使う音がして迷惑だったという証言がとれていることからも、浴室でシャワーを浴びて着替えてから出て行ったものと思われます」
「覚悟を決めた上での逃走か…」青柳がいかにもマズそうに顔をしかめた。
「緊急配備は既に敷いてあるのか?」安井は細田に尋ねた。
「はい。アパートの周辺と主要な駅には捜査員を配置してシュウの足取りを追っていますので、何か動きがあれば網に掛かるハズなんですが」細田の言葉に安井が腕時計を見ると時刻は既に午前十時を回っていた。
「この時間になっても見つからないところを見ると、もう既に遠くへ行ってしまった可能性もあるな」安井が神妙な面持ちで言うと、細田は驚いた顔で応えた。
「まさか、いくら用意周到に出て行ったとしても相手は十六歳の子供ですよ。どうせどこかに陰を潜めて隠れているに決まってます。見つかるのは時間の問題ですよ」
「相手が子供かどうかは逃走の範囲を決める判断にはならん。むしろ子供の方が大人より身軽な分、遠くへ逃げることも可能だ」安井は細田の楽観的な推測を打ち消した。
「近くの駅まで歩いて行って、始発を待ってから電車で移動したのでは」青柳の推測を今度は細田が打ち消した。
「いえ。始発が動き出す頃には既に捜査員が配置されています。駅に姿を現したところですぐに見つかりますよ」
「いったいどこに消えちまったんだ。シュウ…」安井はシュウの顔写真に向かって問い掛けたが、やや不機嫌そうな顔でこちらを睨みつける写真の中のシュウは何も語らない。
「そう言えば、シュウ君は保護観察中でしたね」青柳が尋ねると細田は思い出したように言った。
「あぁ、そうだ。七年前からシュウの保護司をしている大久保という女性に来てもらってます。こども園でのシュウの様子や昨日のアパートでのことなどを聞き、今も別の会議室で待機してもらってます」
「その女性に会わせてもらえませんか」安井が提案すると、細田はすぐさま答えた。
「えぇ、構いませんけど…でもあまり参考になる話は聞けませんよ。今回の事件でかなり動揺してるし、施設にいた頃のシュウは半年前までほとんど植物状態みたいなものだったって言ってますから」
「それでも結構です。この部屋に連れて来てくれませんか?」なおも安井が懇願すると、しばらく考えてから細田が言った。
「分かりました。いずれにしても上の許可が要るので少し待ってください」
会議室を出て行ってからしばらくして、細田は紺のスーツ姿の大久保を連れて入ってきた。
大久保はすっかり憔悴しきった様子で、安井が昨日のアパートでのできごとについて尋ねると、相手の質問には一切お構い無しに勝手に自分の言いたいことを喋り始めた。
「だからさっきこの刑事さんにも言ったとおり、私にはシュウ君が本当にあの父親を殺したなんて信じられないんです。あのおとなしいシュウ君が人のことを刺すなんて…きっとあのろくでもない父親がシュウに何か悪さをしようとしたに違いないんだわ。それでシュウ君は自分を守るためにやむなく…あぁ、やっぱりあの父親の元へなんか連れて行かなければ良かった。私が悪いんです。私があの時引き留めてさえいれば…ああ」
勝手に喋り勝手に泣き崩れる大久保にへきえきしながらも、安井はどうにかシュウの行方を知る手掛かりになるものが得られないかと、一呼吸してから大久保にゆっくりと語り掛けた。
「大久保さん。お気持ちは分かりますけど今は泣いている場合じゃありません。少しでも早くシュウ君を見つけ出して保護してあげるためにも、何かシュウ君が行きそうな場所に心当たりはありませんか?」
すると、しばらく下を向いて鼻を拭いていた大久保が急に顔を上げた。
「そう言えばほんの最近ですけど、元気になったシュウ君がしきりに私に新幹線の乗り方について尋ねることがありました」
「新幹線?」
「はい。新幹線に乗るにはどの駅からどう乗ればいいのかと私に聞くものだから、新幹線に乗ってどこに行きたいの? って聞くと、確か新潟に行きたいと…」
「新潟…?」
「えぇ。それでなぜ新潟に行きたいのって聞くと、お母さんに会えるかもしれないって答えてました。シュウ君はお母さんが亡くなったことは百も承知だし、いったい何を言ってるのかなと思ってあまり気にも留めなかったけど」
「それで、その時あなたは何と答えたんですか?」
「確か…新潟に行くなら上越新幹線だから、上野駅から乗るのよって教えてあげたと思うけど」
「上野駅? 東京駅じゃなくて?」
「えぇ。だってあの時シュウ君がいた「若竹こども園」は墨田区にありましたから。一番近いのは上野駅です」
しばらく考えてから安井は細田に尋ねた。
「緊急配備で捜査員を配置している駅は?」
「実際に人を置いているのはあくまでも浜田山とその周辺の駅です。歩いて駅に来たところを捕まえるのが目的ですから。後は新宿駅や渋谷駅、東京駅といった主要な駅にはシュウの顔写真を送って駅構内の防犯カメラを交番勤務の者に調べさせています」
「上野駅は?」
「上野駅は…正直漏れてました。路線が違うものですから」
確かに浜田山近辺は京王線、小田急線、JR総武線や地下鉄丸の内線が通っているが直接上野駅に向かう路線は無い。
「しかし、いずれにせよどこかで電車に乗る訳ですから…」そこまで言いかけて細田はハッと我に返った。
「まさか、歩いて…」
「そう。大人なら考えもつかないだろうが、身軽な子供…しかも電車に乗り慣れていないシュウならば歩いて上野駅を目指すのは決して不自然なことじゃない。実際浜田山から上野駅までは十五㎞くらい。四時間ほどかければ決して歩けない距離じゃない」
「しかし、ほんの半年前まで寝たきりだったんでしょう。それが急にそんな距離を歩けますかね?」
「いや、不可能じゃないと思います」細田の疑念を、思い詰めた顔をした大久保が否定した。
「私も何度か立ち会ったことがありますが、リハビリの時のシュウ君の真剣さといったらもの凄いものがありました。初めは立ち上がるのがやっとでしたが、歩けるようになるとまるで何かに取り憑かれたように一生懸命、職員の方がもういい加減やめるように諭してもやめないで、真冬の園庭を何時間も歩いていましたから」
「恐らく…」安井がシュウの気持ちを推し量りながら喋った。
「アパートに行った最初の晩に持月を殺害したことから考えても、シュウは初めから父親を殺すつもりだったんだろう。緊急配備の隙を突いたのはたまたまだっただろうが、犯行後は歩いて上野駅に向かい上越新幹線に乗って新潟を目指したというのが妥当な線だ。至急連絡して上野駅の防犯カメラもチェックするように言ってくれ」
「分かりました」慌てて細田が出て行った後で、安井は大久保に再びシュウの行方について尋ねた。
「大久保さん、シュウ君の行き先についてもう少し詳しい情報はありませんか。いくら新潟に行ったのが本当だったとしても、それだけじゃあまりにも広すぎる」
そんな安井の問い掛けに対して大久保はしきりに首をかしげながら考えた後で、こめかみに指を当てて思い出すように呟いた。
「そう言えば、新潟のどこに行きたいの? って聞いたらあまり聞き覚えのない地名を言っていたような…本人もうろ覚えなんだと言いながら。どこだったかなぁ…何か随分よそよそしい感じの地名だったような気がします。「他人事」みたいな感じの…」
「他人事? 何ですかそりゃあ?」青柳が呆れて言ったが、結局大久保の頼りない記憶はそこまでだった。
しばらくすると、息を切らせた細田が戻って来るなり、上野駅の防犯カメラにシュウの姿が映っていたことを知らせた。シュウが上越新幹線に乗ったのはほぼ確実となった。
「しかし、例えシュウ君の新潟行きが分かったところで、いったい新潟のどこを探せばイイんですか?」青柳は腕組みをしながら頭を悩ませていた。
「こうなったら、シュウ君を指名手配して、新潟県警の応援も借りて大々的に捜索するしか…」
「今捜査本部でもシュウを指名手配すべきか検討しています。少年犯罪の場合捜査は原則非公開ですが万が一シュウの顔と名前が漏れるようなことがあれば、例え捕まえたとしてもシュウは生涯世間から犯罪者のレッテルを貼られ更生が難しくなります。デリケートな事案なだけに捜査本部も慎重にならざるを得ません」
「それじゃいったいどうやってシュウを探し出せば…」青柳が途方に暮れていると、安井が改めて大久保の方を見て尋ねた。
「大久保さん。保護観察所を通じて新潟の保護司の方々にシュウの目撃情報を寄せてもらうように協力を依頼することはできませんか」
すると、大久保は納得したように頷いて言った。
「なるほど。それは可能だと思います。新潟にも多くの保護司の方がいらっしゃって、日々活動をしていますから。それにもしシュウ君が見つかったとしても保護司の方ならきっとうまく対処してくれると思います」
「いい考えですね。今捜査本部に伝えてきます」細田が会議室を出た。
「青柳、オレたちは戻って幸恵が当時キャバレーのホステスをしていた大宮を当たり、新潟と幸恵の関係について調べるぞ」
「了解です。しかしもう十七年以上前のことですからねぇ。どこまで調べられることやら…」諦め顔の青柳に安井は諭すように言った。
「何事も予断は禁物だ。さぁ、忙しくなるぞ」安井は心なしか気分が沸き立つのを感じていた。七年前の殺人事件の謎が解けないまま、重要参考人にも関わらず何も語ってくれなかったシュウが、今度は殺人犯として再び安井の前に立ちはだかった。
同時に安井は先ほどの細田からの説明の中で気になったことを思い出していた。持月の遺体を調べるとどこを見ても抵抗した跡が見られなかったというのだ。
「普通あれほどの刃物による襲撃を受ければ、着衣の乱れや防御創など、何かしら争った痕跡が見つかるハズなんですが、持月の場合それがどちらも無かったんです。例え寝込みを襲われたとしても、ただ黙って十カ所以上も刺され続けるなんて、通常はあり得ません」
細田の言葉に安井は七年前の浦和のアパートでの殺人事件を思い起こした。殺された古木といい松岡といい、まるで自ら死に導かれるように確実に仕留められていた。巻き添えを食ったであろう幸恵でさえも、その死に顔は決して苦痛に満ちたものではなかった。そしてこの持月のまるで殉教徒を思わせるような死に様。いったいシュウの中にはどんな悪魔が宿っているのか…
警察署の廊下を足早に歩く安井の後ろから青柳が声を掛けた。
「それにしても、ヤスさんも大変ですねぇ。もう少しで定年だっていうのに、またあの事件に振り回されることになるなんて」
しかしそんな青柳の慰めの言葉など耳に入らない様子で、安井はひたすらにまっすぐ進みながら、前を向いてひとり語った。
「待ってろよシュウ。お前の居場所はオレが必ず突き止めてやる!」
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