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番外編
後日談③ スコッルとルチア【 飛躍 】
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「ところでルチア。明日の講義は何時からどこでやるの? ノルドフェルトの近くの分校?」
「いえ。実は、一昨日から七日間ほどの休講となっているのです」
教導の魔術士が所用で不在となるため、急遽休みとなったのだ。噂では南方辺境に駆り出されているとか何とか。
だからこそ、ルチアはノルドフェルトまで足を運ぶ気になったのだ。二、三日もあれば帝都に戻れるが、不測の事態が起こらないとも限らない。
それを聞いたアリカが微笑む。
「それじゃあ、ゆっくりしていけるわね」
「そうしたいのはやまやまですが――」
晩秋、日暮れは早い。客間の窓から外を見れば、すっかり暗くなっていた。今から宿屋へ向かえば夕飯にぎりぎりありつけるだろうか、とルチアはぼんやりと考える。今夜あてにしていた宿は飯が美味いことで有名なのだ。食べたい、何としても――そう強く思った時に腹が鳴った。
アリカは耐えきれずに笑い出した。
「とりあえず今日はこのまま泊まっていきなさい」
「――ですが、ご迷惑では?」
ルチアはちらりとハティを顧みた。
一年もの間各地を放浪し、やっとセラフィトに戻られたのだ。きっとハティとしては、愛する人とゆっくり過ごしたいだろう。ルチアはとんでもなく邪魔なのではないか。
生唾を飲み込み、乾いた目を何度も瞬かせる。推しの望まぬことをするのは不本意である。
ルチアの不安そうな視線を受け、ハティは鼻を鳴らした。
「……俺は構わん。好きにせよ」
「寛大なご配慮を賜り感謝いたします、殿下」
頭を下げるとハティはああ、と素っ気なく答えた。アリカの手前無下にできなかったに違いない。そう考えるとルチアは涎が出そうになったが、必死で我慢する。
アリカはふふっと笑った。
「ハティのことは全然気にしなくていいわよ。ほら、おいで」
そのまま食堂に連れていかれ、夕食となった。かぼちゃときのこをミルクで煮込んだスープに、香ばしく焼いた鶏、ふわふわのパンに、甘そうなプディング。果物は翠色の葡萄と黄金色の珍しい林檎で、熟れた甘い匂いが鼻腔を擽る。そこに赤葡萄酒が添えられている。どれもこれも美味しそうで食欲がそそられた。
「たくさん食べてね。お屋敷の料理長が張り切って作ってくれたんだけど、二人じゃこんなに食べきれないから」
久しぶりの主人の帰還と来客に、使用人一同は大変喜んでいるようだった。主人のいない屋敷ほど寂しいものはない。管理を任されたスコッルも、たまに様子を見に来るくらいでほとんど屋敷に寄り付かなかったらしいし。それゆえか、気合の入れ様が違う。どの料理も大変美味しい。
料理に舌鼓を打ちながら、セラフィトを離れてからの二人の旅道中の話を聞く。どの話も興味深く、ルチアは夢中で耳を傾けた。テーブルに並んでいた皿は気が付けばほぼ空になり、ルチアの腹と心は満たされた。
指についた葡萄の果汁をぺろりと舐めてから、アリカがおもむろに口を開く。
「ねえ、ルチア。好きな人を避け続けるのって、辛いでしょう」
「……はい」
「スコッルに会いたい?」
「本当は、すごく会いたい。以前のように話をしたい」
ルチアはテーブルに銀のフォークを置いて俯いた。
「スコッル殿はすごいお方です。皆からも信頼されているし、とても、お優しい。ご令嬢達が好きになる気持ちもわかります。わたしのような者では釣り合わないのは承知の上……でも、がんばるから、もっともっと頑張るから。女として見られていなくてもいいから。ただの友人の一人でもいいから、わたし――スコッル殿の側にいたい」
「スコッルにもそうやって言えばいいのに。逃げずに正直な気持ちを言っちゃったほうがずっと楽になれるわよ。そうしないと、後々こじれて大変なんだから」
そう言ってアリカが葡萄酒を口に含んだ時、ハティが喉の奥を鳴らした。
「なるほど、お前が言うと重みが違う」
「――――ッ」
「……吹き出すな」
「だって、あんた――!」
「事実だろう」
「――あ、あたしの話はとにかく! このまま避けていたら何も進まないわね」
「ならば、件の子爵令嬢を黙らせればよかろう」
尊大な態度で肘をつき、こともなげに不穏な発言をするものだからルチアは咄嗟の返しもできない。代わりにアリカが答えた。
「……ハティはちょっと黙ってて?」
「スコッルは俺の手駒だ。口を出して何が悪い」
「元、でしょ?」
「元も何もあるか。一度手駒にすれば死ぬまで俺の手中にある。スコッルを含めた奴ら三人、捨てたつもりは毛頭ない」
「それはまた御大層な理屈ね。スコッルが聞いたら嬉しさのあまり失神しちゃうかも」
戯れに囁くアリカにハティは喉の奥で笑った。
「そうであろうな。俺に仕えられるなどこの上ない誉だろう」
ルチアは大きく頷いた。
正直なところ、残念御三家は実に羨ましくも妬ましい。爵位を捨てた今となっても、配下のことを身内のように思っているのがまたハティらしかった。時に捨てる非情さも持ちながら使い潰さない程度に駒を大切に扱う……ルチアだってドールにいなければ、ハティの手足となって働きたかったし、永劫仕えたかった。
ハティは長い脚を組み、目を眇めてルチアを見た。
「いっそのことスコッルに件の令嬢を紹介してしまうのも一つの手だろうが――その案は不服だろう。何も敵の助力をすることはない」
「敵だなどと――」
「事実だ。恋敵、競合相手――何とでも言えようが、同じ獲物を狙う者、お前と相対するもの。いわば障りだ。穏便に済まそうなどという考えは捨てろ」
ハティの言うように、スコッルと気兼ねなく接したければ避けては通れないものだろう。
ルチアは溜息をついた。
「……だからと言ってわたしは、彼女とことを構えたいわけではないのですが――」
「ならばお前はその女とスコッルを共有すればよかろう」
――共有? スコッル殿を?
冷ややかな口調に、ルチアは腹の底がぎゅっと絞られるような感覚に陥った。
スコッルは器用ではない。殊、恋愛に関しては。選ばれるのは誰かひとりだろうし、共有などできるはずもない。どちらかは必ず傷を負う。
揺れるルチアを前にして、ハティは意地悪く笑った。
「……戯言はさておき、子爵令嬢の目と口がなければ、お前がスコッルを避ける理由がなくなる――違うか?」
「……確かに。おっしゃる通りですね」
帝都では誰かしらの目があり、スコッルと話そうものならば何故紹介してくれないのか、と騒ぎ立てられるのは火を見るよりも明らかである。
身近に件の令嬢の気配がなければ。彼女やその取り巻き達がいなければ。ルチアがスコッルと会っていても批難されることはないだろう。それこそ、帝都から遠く離れた場所、子爵令嬢の実家と無縁の場であれば問題ない。
ただ、一時的に彼女達の目や口から遠ざかったとしても、ルチアは卒業まで彼女達と付き合っていかねばならない。波風を立てるのは得策ではない。
ならばどうすべきか。どちらにせよ、ハティの言うように令嬢を閉口させる手段を講じなければ、ルチアの平穏は保たれまい。
「殿下の色恋沙汰へのご見解、感服いたしました。さすがはアリカお姉さまを射止めただけあります。今後どうすべきか、自分なりに少し考えてみます……」
◇
――翌朝。
かつてないほど豪華なベッドで休んだルチアは、いつもよりゆっくり起床した。
広い客室を暖める暖炉の火は、寝る前よりも小さくなっている。大きく伸びをしてから床に足を下すとその冷たさにぶるりと震えたが、寝ぼけていた頭がそこで完全に覚醒する。
身支度を整え時計を見ればまだ六時、きっと屋敷の主達はまだ眠っているだろう。
ルチアは溜息をついた。
突然の面会で恋の相談など、不躾にもほどがあっただろう。だが、気持ちの整理はできた気がするし、心は少し軽くなった。
カーテンを開けると、朝陽が燈火のように雲を染め、群れたそれが青空を覆っていた。美しい秋の空、空気は澄みわたっている。南の空から一騎の空騎兵――天馬が駆けてくるのが見えた。帝都から飛んできたのだろうか、任務へ向かうのか、それともこれから砦や城へ戻るのか。
庭の木々の紅や黄色の葉が緑の芝生の上にひらりと落ち、薔薇は朝露に濡れている。
窓を境に空気が冷たい。それでも、よく晴れていて気持ちよさそうだった。
――ルチアは屋敷の主達が目覚めるまで散歩でもすることに決めた。
階段を下りてホールを横切り、扉に手を掛けたその刹那。激しいノック音が響く。
よほど急いているようで、何度も何度も。
しかし、使用人達は朝の仕事がありそれどころではない。何しろ、主人達が起きる前に全ての用を済まさなければならないのだ。掃除から始まり、炊事、洗濯――業務は多岐にわたる。
非常識なのは早朝から来訪した客人の方であるが、喫緊事なら用向きを聞く必要がある。それくらいならルチアにもできる――意を決し扉を開いてから、後悔した。
「――ルチア」
理解が追い付かず、動揺のあまりルチアは反射的に扉を閉めた。
――え、ええええええ? スコッル殿?
何故。どうして。
扉が開かないように背を預け、ぽんと手を叩く。
「何だ、これは夢か……」
第一こんなところにいるはずもなし。いくら帝都から近いとはいえ。ここに来る理由がない。
――いや、元管理者なのだからなくはないだろうが。
ともあれ、今是非訪れる理由はないはずである。任務でもないだろうし、こんな朝早くにハティが呼び出すとも思えない。
彼はよほど強く扉を叩いているらしい。背中に振動が伝わってきて、ルチアの鼓動は逸った。
何の心の準備もしていなかった、不意に現れたスコッルに対してどんな顔をしていいか分からず、ルチアはただ狼狽えていた。扉の向こうにスコッルがいると思うと、全身が火照る。
「ルチア、そこにいるんだろう! 開けてくれないなら、力ずくでこじ開けるよ」
まさかそんな、非力なスコッル殿が――などと思ってはいけない。曲がりなりにも彼は軍人である。閉じた扉をこじ開けるなど造作もない。
ルチアは扉から飛びのいて、その勢いのまま回廊を駆け出した。同時にわずかにひしゃげた扉が割れて、吹っ飛んだ。扉を蹴破って現れたのはスコッルである。
まさか紳士の化身のようなスコッル殿が、ハティ殿下の大事なお屋敷を破損させる日が来るなんて――少々ずれた驚きをしつつルチアは走った。
相当派手な音を立てて扉が壊されたにも拘わらず、使用人達は誰も様子を見に来ない。ハティでさえ起きてくる気配がなかった。来訪者に気付いていないのか、事態を静観しているのか、どちらだろう。
心臓が破れてしまいそうだ。全身が脈うち、血潮が熱い。
「ルチア!」
スコッルの声がホールに響いた。
「どうして避ける!」
床を蹴る軍靴の音。それがルチアに徐々に迫ってきていた。
脱兎のごとく逃げ、回廊の角を曲がり、息を切らして中庭へと飛び出せば、スコッルの方は息も乱さずにそれについてくる。意外なことに足が速く、すぐに追いつかれてしまった。
ルチアは生唾を飲み込み、スコッルを見上げた。いつも甘く垂れていたはずの瞳は据わり、まるで別人のようだ。
スコッルはじりじりと距離を詰めてくる。一歩、また一歩と後退し、ついには逃げ場をなくす。
――いや、後ろには扉がある。後ろ手で開ければどうにか……。
「ルチア、話をしよう」
「突然やってきて、話をしよう? 大丈夫、スコッル殿? 君らしくもない。こんな早朝に、殿下のお屋敷に押し掛けて――扉まで壊してしまって……」
ルチアは笑った。スコッルから視線を逸らさず、その一方でそっと手をドアノブにかける。
ルチアの指摘にスコッルは頬を上気させた。
「……そうだね、確かに。僕らしくない」
スコッルの視線が一瞬泳ぐ。その隙をついてルチアは後ろ手で扉を押し開けた。
そこは備品や消耗品、修理中の調度品が置かれている。物置部屋のようだ。室内は灯りが一つあるのみで薄暗く、暖房もないため冷え切っている。
そのまま物置部屋に滑り込んだルチアだったが、部屋の扉を閉めるよりも前にスコッルの身体が割り込んで、その手がルチアの腕を掴んだ。
あまりにも力強いので、ルチアは痛みに顔をしかめた。腕を取られたまま壁に押し付けられ、もう抜け出せそうもない。
スコッルは痛みを堪えるような顔をしてルチアを見つめた。
「どうして逃げるの。僕、君に何か――」
「……何かしたかって?」
自嘲し、首を傾げる。
「心当たりがないなら、わたしのことは放っておいた方がいい」
「それはできない相談だね」
「何故。仲間だから? それとも、わたしをあの国から助け出してセラフィトに連れてきたことに対して責任を感じているから?」
「――それもある」
迷いに揺れた答えにルチアは奥歯を噛みしめた。所詮スコッルは義理でルチアの面倒を見ているに過ぎない。
いつまで経っても世話の焼ける仲間なのだ。
「もう、いいんだよ。そんな責任感、手放したって」
「……手放したくない」
「そんな無責任なこと言わないで――スコッル殿にとってわたしは何? これ以上惑わせないでよ!」
「何って……――」
スコッルは言い淀んだ。腕を抑える力が僅かに緩む。
「はっきり、分からない。けど、理由も分からず避けられるのは嫌なんだ。僕が何か怒らせるようなことをしたなら、謝りたい。改善できることなら、改めたい。だから、前みたいに、一緒に過ごそうよ、ルチア。君がいないとなんか物足りないんだ。側にいて欲しい」
「前、みたいに……」
変わらぬ関係を望むというのだろうか。
人の心を散々かき乱しておいて。それでもルチアはただの仲間の一人として、身近に置きたいのか。それとも、保護者を気取りたいのか。
――残酷だ。
ルチアの瞳から光が消える。虚ろに開かれた大きな瞳は、今にも泣きだしそうなスコッルを映している。彼の目には、明確な怯えが浮かんでいる。どうか拒絶してくれるな、そんな祈りさえ込められているようだった。
――泣きたいのは、わたしの方だ。
「ねえ、一体僕の何が至らなかった? 僕の言動が、ルチアの心を傷つけた? 教えてよ。そうじゃないと、何も分からない……」
――ある意味そうとも言えるわ。
あの日、思い知らされ心が抉られた。ただ、そこに悪意はない。至らないかと言われるとそうではない。
――スコッル殿はそのままでいい。
ルチアは苦々しく笑った。
「避けていたのは謝る。すまなかった、スコッル殿」
「……僕のこと、嫌いになったわけじゃないんだね?」
「スコッル殿を嫌いになんてなるわけがない」
それを聞いて、胸を撫でおろすスコッルを見上げ、ルチアは観念したように力なく笑った。
「――その逆だよ」
「……逆?」
「君のことが、どうしようもなく好きだから。大好きだから。他の女子に渡したくない、そんな浅ましい考えで君を避けていた」
スコッルは虚をつかれたようだった。瞠目し、ただ無言でルチアを見下ろす。
――ついに告白してしまった。
自ら今の関係を壊そうとしている。穏やかで均衡のとれた心地よい関係を。
「君を紹介して欲しいと子爵令嬢からお願いされた。一度は断り切れずに頷いてしまったけれど、わたしはどうしてもそれが嫌だった。考えた末、君を避けるしかないという結論に至ったわけだ。好きなのに避けるのは、心苦しかったけれど……」
「ルチア、僕――好き……? 好き!?」
脳が破壊されてしまったのか、片言でスコッルは呟いた。
「君はわたしを女として見ていないだろうし――もう心に決めた人がいるのかもしれないけれど、想うだけなら自由でしょう?」
頭から湯気が出ていそうなほど真っ赤になり、魂が飛びかけていたスコッルはそこで意識を取り戻した。
「何、何て? 情報が多くて処理が追い付かない! 心に決めた人って何? 女として見ていない? え、何。何言ってるの……?」
「以前、スコッル殿の別荘で茶会を開いたのを覚えている? 結局夜酒盛りをすることになって、外は嵐で帰れなかった――」
「……うん」
スコッルは耳の裏まで赤くなり、視線を泳がせた。
間違いない、これは覚えている反応だ。酔っていてもその記憶力は確かだとルチアも承知している。
「一晩中わたしを抱いて放さなかった。挙句起きてから君は相手がわたしで良かったと、そうのたまった。その時思ったの。ああ、わたしは女として意識されてない――って。結構、傷ついたよ」
スコッルは後ろめたそうに「ああっ」とか「うう……それは――」とか頭を抱えて呻きだした。今頃身に染みて分かったのだろう、己がどれほど失礼千万な態度であったか。
「あの日、わたしを誰かと重ねていたでしょう?」
呻いていたスコッルはそこで顔を上げ、怪訝な表情で返す。
「僕がルチアを誰かと間違えたの?」
「そう。いい子だから、おとなしくして――って。あれはわたしに向けた言葉じゃなかった。他の、愛護対象に向けた言葉でしょう?」
「僕は寝ぼけてそんなこと言ったのか。それは、多分――」
スコッルの言葉を継ぐように犬の吠える声がしたかと思えば、影からふさふさの魔獣が現れた。全長、おそらくルチアと同程度。
スコッルは顔を覆い、溜息をついた。
「……ごめん、こいつのせいだと思う。就寝時いっつも出てきて、一緒に寝たがるから」
「この子は……?」
「覚えてない? 僕の使い魔だよ。だからルチアが思っているような、心に決めた人なんていうのは――いなかった……さっきまでは……」
――そうだったのか。勝手に焦れてやきもきして、馬鹿みたい。
疑問が一つ解消され、晴れやかな気分だった。今のところスコッルに特別な人はいないのだ。それが分かっただけでもルチアにとっては大きな前進である。
「なんだか肩の荷が下りたみたい。すっきりした!」
「……」
わたしにもまだ望みがあるみたい――笑うルチアとは対照的に、スコッルの顔はいつになく真剣だった。
「本当、避けていて悪かった。これからも仲間の一人としてよろしく、スコッル」
「……いや、うん」
スコッルは歯切れ悪く返す。
「殿下がね、いっそのこと子爵令嬢を紹介してみたらって言うんだ。わたしもその方がいい気がしてきた。一度紹介すれば角も立たない――」
「ルチア」
呼ばれて、勢いよく顔を上げる。
息が交わるほど近くにスコッルの端麗な顔があり、鼓動が跳ねる。
「僕の返事、興味ないの?」
「……あ、あり、ます」
「これからすることに、怒らないでね――? あと、これは誰にでもするわけじゃない、から……ね」
スコッルは少し緊張気味に囁いて、ルチアの顎に冷えた指をかけた。
揺れるハニーブラウンの髪、意外と長い睫毛、伏せられた翡翠色の瞳。薄い唇。ゆっくりと近づいてきて、やわらかな感触が唇に当たる。
――溶けそうに甘いキスだった。
「…………っ」
「僕も君が好きみたい。ルチア」
スコッルがたまに見せるこの色香が、ルチアを混乱させるのだ。
「子爵令嬢に紹介してもらう時は、君の恋人ですってちゃんと言うからそのつもりでいて?」
「は、はい!」
その時、どこかで天馬の嘶きが聞こえた。
スコッルが蹴破った扉から入ってきてしまったらしい。
ちゃんと繋いでおかなかったからな――とスコッルは頭を掻いた。
「ああ、どうしよう。シグルドが陛下から賜ったばかりの仔だからあまり人馴れもしていないんだ。早く捕まえないと」
「そんな大事な天馬をシグルド殿が?」
「貸してくれたんだよ。あいつは女にだらしないけどこういう時は無駄に頼りになるから」
確かに、とルチアは頷く。
男であれ女であれ、仲間と友人は大事にする、それがシグルドである。曰く、恋情は移ろうが友情は不変だからとか何とか。
「ただ、ルチアに会って話したくて飛んできたけど、後先考えていなかった。いくら殿下の許しがあったとしても、これじゃあ叱られるかな……」
「本当、スコッル殿らしい」
ルチアはくすくすと笑い、スコッルの頬に唇を寄せた。
《スコッルとルチア 終》
「いえ。実は、一昨日から七日間ほどの休講となっているのです」
教導の魔術士が所用で不在となるため、急遽休みとなったのだ。噂では南方辺境に駆り出されているとか何とか。
だからこそ、ルチアはノルドフェルトまで足を運ぶ気になったのだ。二、三日もあれば帝都に戻れるが、不測の事態が起こらないとも限らない。
それを聞いたアリカが微笑む。
「それじゃあ、ゆっくりしていけるわね」
「そうしたいのはやまやまですが――」
晩秋、日暮れは早い。客間の窓から外を見れば、すっかり暗くなっていた。今から宿屋へ向かえば夕飯にぎりぎりありつけるだろうか、とルチアはぼんやりと考える。今夜あてにしていた宿は飯が美味いことで有名なのだ。食べたい、何としても――そう強く思った時に腹が鳴った。
アリカは耐えきれずに笑い出した。
「とりあえず今日はこのまま泊まっていきなさい」
「――ですが、ご迷惑では?」
ルチアはちらりとハティを顧みた。
一年もの間各地を放浪し、やっとセラフィトに戻られたのだ。きっとハティとしては、愛する人とゆっくり過ごしたいだろう。ルチアはとんでもなく邪魔なのではないか。
生唾を飲み込み、乾いた目を何度も瞬かせる。推しの望まぬことをするのは不本意である。
ルチアの不安そうな視線を受け、ハティは鼻を鳴らした。
「……俺は構わん。好きにせよ」
「寛大なご配慮を賜り感謝いたします、殿下」
頭を下げるとハティはああ、と素っ気なく答えた。アリカの手前無下にできなかったに違いない。そう考えるとルチアは涎が出そうになったが、必死で我慢する。
アリカはふふっと笑った。
「ハティのことは全然気にしなくていいわよ。ほら、おいで」
そのまま食堂に連れていかれ、夕食となった。かぼちゃときのこをミルクで煮込んだスープに、香ばしく焼いた鶏、ふわふわのパンに、甘そうなプディング。果物は翠色の葡萄と黄金色の珍しい林檎で、熟れた甘い匂いが鼻腔を擽る。そこに赤葡萄酒が添えられている。どれもこれも美味しそうで食欲がそそられた。
「たくさん食べてね。お屋敷の料理長が張り切って作ってくれたんだけど、二人じゃこんなに食べきれないから」
久しぶりの主人の帰還と来客に、使用人一同は大変喜んでいるようだった。主人のいない屋敷ほど寂しいものはない。管理を任されたスコッルも、たまに様子を見に来るくらいでほとんど屋敷に寄り付かなかったらしいし。それゆえか、気合の入れ様が違う。どの料理も大変美味しい。
料理に舌鼓を打ちながら、セラフィトを離れてからの二人の旅道中の話を聞く。どの話も興味深く、ルチアは夢中で耳を傾けた。テーブルに並んでいた皿は気が付けばほぼ空になり、ルチアの腹と心は満たされた。
指についた葡萄の果汁をぺろりと舐めてから、アリカがおもむろに口を開く。
「ねえ、ルチア。好きな人を避け続けるのって、辛いでしょう」
「……はい」
「スコッルに会いたい?」
「本当は、すごく会いたい。以前のように話をしたい」
ルチアはテーブルに銀のフォークを置いて俯いた。
「スコッル殿はすごいお方です。皆からも信頼されているし、とても、お優しい。ご令嬢達が好きになる気持ちもわかります。わたしのような者では釣り合わないのは承知の上……でも、がんばるから、もっともっと頑張るから。女として見られていなくてもいいから。ただの友人の一人でもいいから、わたし――スコッル殿の側にいたい」
「スコッルにもそうやって言えばいいのに。逃げずに正直な気持ちを言っちゃったほうがずっと楽になれるわよ。そうしないと、後々こじれて大変なんだから」
そう言ってアリカが葡萄酒を口に含んだ時、ハティが喉の奥を鳴らした。
「なるほど、お前が言うと重みが違う」
「――――ッ」
「……吹き出すな」
「だって、あんた――!」
「事実だろう」
「――あ、あたしの話はとにかく! このまま避けていたら何も進まないわね」
「ならば、件の子爵令嬢を黙らせればよかろう」
尊大な態度で肘をつき、こともなげに不穏な発言をするものだからルチアは咄嗟の返しもできない。代わりにアリカが答えた。
「……ハティはちょっと黙ってて?」
「スコッルは俺の手駒だ。口を出して何が悪い」
「元、でしょ?」
「元も何もあるか。一度手駒にすれば死ぬまで俺の手中にある。スコッルを含めた奴ら三人、捨てたつもりは毛頭ない」
「それはまた御大層な理屈ね。スコッルが聞いたら嬉しさのあまり失神しちゃうかも」
戯れに囁くアリカにハティは喉の奥で笑った。
「そうであろうな。俺に仕えられるなどこの上ない誉だろう」
ルチアは大きく頷いた。
正直なところ、残念御三家は実に羨ましくも妬ましい。爵位を捨てた今となっても、配下のことを身内のように思っているのがまたハティらしかった。時に捨てる非情さも持ちながら使い潰さない程度に駒を大切に扱う……ルチアだってドールにいなければ、ハティの手足となって働きたかったし、永劫仕えたかった。
ハティは長い脚を組み、目を眇めてルチアを見た。
「いっそのことスコッルに件の令嬢を紹介してしまうのも一つの手だろうが――その案は不服だろう。何も敵の助力をすることはない」
「敵だなどと――」
「事実だ。恋敵、競合相手――何とでも言えようが、同じ獲物を狙う者、お前と相対するもの。いわば障りだ。穏便に済まそうなどという考えは捨てろ」
ハティの言うように、スコッルと気兼ねなく接したければ避けては通れないものだろう。
ルチアは溜息をついた。
「……だからと言ってわたしは、彼女とことを構えたいわけではないのですが――」
「ならばお前はその女とスコッルを共有すればよかろう」
――共有? スコッル殿を?
冷ややかな口調に、ルチアは腹の底がぎゅっと絞られるような感覚に陥った。
スコッルは器用ではない。殊、恋愛に関しては。選ばれるのは誰かひとりだろうし、共有などできるはずもない。どちらかは必ず傷を負う。
揺れるルチアを前にして、ハティは意地悪く笑った。
「……戯言はさておき、子爵令嬢の目と口がなければ、お前がスコッルを避ける理由がなくなる――違うか?」
「……確かに。おっしゃる通りですね」
帝都では誰かしらの目があり、スコッルと話そうものならば何故紹介してくれないのか、と騒ぎ立てられるのは火を見るよりも明らかである。
身近に件の令嬢の気配がなければ。彼女やその取り巻き達がいなければ。ルチアがスコッルと会っていても批難されることはないだろう。それこそ、帝都から遠く離れた場所、子爵令嬢の実家と無縁の場であれば問題ない。
ただ、一時的に彼女達の目や口から遠ざかったとしても、ルチアは卒業まで彼女達と付き合っていかねばならない。波風を立てるのは得策ではない。
ならばどうすべきか。どちらにせよ、ハティの言うように令嬢を閉口させる手段を講じなければ、ルチアの平穏は保たれまい。
「殿下の色恋沙汰へのご見解、感服いたしました。さすがはアリカお姉さまを射止めただけあります。今後どうすべきか、自分なりに少し考えてみます……」
◇
――翌朝。
かつてないほど豪華なベッドで休んだルチアは、いつもよりゆっくり起床した。
広い客室を暖める暖炉の火は、寝る前よりも小さくなっている。大きく伸びをしてから床に足を下すとその冷たさにぶるりと震えたが、寝ぼけていた頭がそこで完全に覚醒する。
身支度を整え時計を見ればまだ六時、きっと屋敷の主達はまだ眠っているだろう。
ルチアは溜息をついた。
突然の面会で恋の相談など、不躾にもほどがあっただろう。だが、気持ちの整理はできた気がするし、心は少し軽くなった。
カーテンを開けると、朝陽が燈火のように雲を染め、群れたそれが青空を覆っていた。美しい秋の空、空気は澄みわたっている。南の空から一騎の空騎兵――天馬が駆けてくるのが見えた。帝都から飛んできたのだろうか、任務へ向かうのか、それともこれから砦や城へ戻るのか。
庭の木々の紅や黄色の葉が緑の芝生の上にひらりと落ち、薔薇は朝露に濡れている。
窓を境に空気が冷たい。それでも、よく晴れていて気持ちよさそうだった。
――ルチアは屋敷の主達が目覚めるまで散歩でもすることに決めた。
階段を下りてホールを横切り、扉に手を掛けたその刹那。激しいノック音が響く。
よほど急いているようで、何度も何度も。
しかし、使用人達は朝の仕事がありそれどころではない。何しろ、主人達が起きる前に全ての用を済まさなければならないのだ。掃除から始まり、炊事、洗濯――業務は多岐にわたる。
非常識なのは早朝から来訪した客人の方であるが、喫緊事なら用向きを聞く必要がある。それくらいならルチアにもできる――意を決し扉を開いてから、後悔した。
「――ルチア」
理解が追い付かず、動揺のあまりルチアは反射的に扉を閉めた。
――え、ええええええ? スコッル殿?
何故。どうして。
扉が開かないように背を預け、ぽんと手を叩く。
「何だ、これは夢か……」
第一こんなところにいるはずもなし。いくら帝都から近いとはいえ。ここに来る理由がない。
――いや、元管理者なのだからなくはないだろうが。
ともあれ、今是非訪れる理由はないはずである。任務でもないだろうし、こんな朝早くにハティが呼び出すとも思えない。
彼はよほど強く扉を叩いているらしい。背中に振動が伝わってきて、ルチアの鼓動は逸った。
何の心の準備もしていなかった、不意に現れたスコッルに対してどんな顔をしていいか分からず、ルチアはただ狼狽えていた。扉の向こうにスコッルがいると思うと、全身が火照る。
「ルチア、そこにいるんだろう! 開けてくれないなら、力ずくでこじ開けるよ」
まさかそんな、非力なスコッル殿が――などと思ってはいけない。曲がりなりにも彼は軍人である。閉じた扉をこじ開けるなど造作もない。
ルチアは扉から飛びのいて、その勢いのまま回廊を駆け出した。同時にわずかにひしゃげた扉が割れて、吹っ飛んだ。扉を蹴破って現れたのはスコッルである。
まさか紳士の化身のようなスコッル殿が、ハティ殿下の大事なお屋敷を破損させる日が来るなんて――少々ずれた驚きをしつつルチアは走った。
相当派手な音を立てて扉が壊されたにも拘わらず、使用人達は誰も様子を見に来ない。ハティでさえ起きてくる気配がなかった。来訪者に気付いていないのか、事態を静観しているのか、どちらだろう。
心臓が破れてしまいそうだ。全身が脈うち、血潮が熱い。
「ルチア!」
スコッルの声がホールに響いた。
「どうして避ける!」
床を蹴る軍靴の音。それがルチアに徐々に迫ってきていた。
脱兎のごとく逃げ、回廊の角を曲がり、息を切らして中庭へと飛び出せば、スコッルの方は息も乱さずにそれについてくる。意外なことに足が速く、すぐに追いつかれてしまった。
ルチアは生唾を飲み込み、スコッルを見上げた。いつも甘く垂れていたはずの瞳は据わり、まるで別人のようだ。
スコッルはじりじりと距離を詰めてくる。一歩、また一歩と後退し、ついには逃げ場をなくす。
――いや、後ろには扉がある。後ろ手で開ければどうにか……。
「ルチア、話をしよう」
「突然やってきて、話をしよう? 大丈夫、スコッル殿? 君らしくもない。こんな早朝に、殿下のお屋敷に押し掛けて――扉まで壊してしまって……」
ルチアは笑った。スコッルから視線を逸らさず、その一方でそっと手をドアノブにかける。
ルチアの指摘にスコッルは頬を上気させた。
「……そうだね、確かに。僕らしくない」
スコッルの視線が一瞬泳ぐ。その隙をついてルチアは後ろ手で扉を押し開けた。
そこは備品や消耗品、修理中の調度品が置かれている。物置部屋のようだ。室内は灯りが一つあるのみで薄暗く、暖房もないため冷え切っている。
そのまま物置部屋に滑り込んだルチアだったが、部屋の扉を閉めるよりも前にスコッルの身体が割り込んで、その手がルチアの腕を掴んだ。
あまりにも力強いので、ルチアは痛みに顔をしかめた。腕を取られたまま壁に押し付けられ、もう抜け出せそうもない。
スコッルは痛みを堪えるような顔をしてルチアを見つめた。
「どうして逃げるの。僕、君に何か――」
「……何かしたかって?」
自嘲し、首を傾げる。
「心当たりがないなら、わたしのことは放っておいた方がいい」
「それはできない相談だね」
「何故。仲間だから? それとも、わたしをあの国から助け出してセラフィトに連れてきたことに対して責任を感じているから?」
「――それもある」
迷いに揺れた答えにルチアは奥歯を噛みしめた。所詮スコッルは義理でルチアの面倒を見ているに過ぎない。
いつまで経っても世話の焼ける仲間なのだ。
「もう、いいんだよ。そんな責任感、手放したって」
「……手放したくない」
「そんな無責任なこと言わないで――スコッル殿にとってわたしは何? これ以上惑わせないでよ!」
「何って……――」
スコッルは言い淀んだ。腕を抑える力が僅かに緩む。
「はっきり、分からない。けど、理由も分からず避けられるのは嫌なんだ。僕が何か怒らせるようなことをしたなら、謝りたい。改善できることなら、改めたい。だから、前みたいに、一緒に過ごそうよ、ルチア。君がいないとなんか物足りないんだ。側にいて欲しい」
「前、みたいに……」
変わらぬ関係を望むというのだろうか。
人の心を散々かき乱しておいて。それでもルチアはただの仲間の一人として、身近に置きたいのか。それとも、保護者を気取りたいのか。
――残酷だ。
ルチアの瞳から光が消える。虚ろに開かれた大きな瞳は、今にも泣きだしそうなスコッルを映している。彼の目には、明確な怯えが浮かんでいる。どうか拒絶してくれるな、そんな祈りさえ込められているようだった。
――泣きたいのは、わたしの方だ。
「ねえ、一体僕の何が至らなかった? 僕の言動が、ルチアの心を傷つけた? 教えてよ。そうじゃないと、何も分からない……」
――ある意味そうとも言えるわ。
あの日、思い知らされ心が抉られた。ただ、そこに悪意はない。至らないかと言われるとそうではない。
――スコッル殿はそのままでいい。
ルチアは苦々しく笑った。
「避けていたのは謝る。すまなかった、スコッル殿」
「……僕のこと、嫌いになったわけじゃないんだね?」
「スコッル殿を嫌いになんてなるわけがない」
それを聞いて、胸を撫でおろすスコッルを見上げ、ルチアは観念したように力なく笑った。
「――その逆だよ」
「……逆?」
「君のことが、どうしようもなく好きだから。大好きだから。他の女子に渡したくない、そんな浅ましい考えで君を避けていた」
スコッルは虚をつかれたようだった。瞠目し、ただ無言でルチアを見下ろす。
――ついに告白してしまった。
自ら今の関係を壊そうとしている。穏やかで均衡のとれた心地よい関係を。
「君を紹介して欲しいと子爵令嬢からお願いされた。一度は断り切れずに頷いてしまったけれど、わたしはどうしてもそれが嫌だった。考えた末、君を避けるしかないという結論に至ったわけだ。好きなのに避けるのは、心苦しかったけれど……」
「ルチア、僕――好き……? 好き!?」
脳が破壊されてしまったのか、片言でスコッルは呟いた。
「君はわたしを女として見ていないだろうし――もう心に決めた人がいるのかもしれないけれど、想うだけなら自由でしょう?」
頭から湯気が出ていそうなほど真っ赤になり、魂が飛びかけていたスコッルはそこで意識を取り戻した。
「何、何て? 情報が多くて処理が追い付かない! 心に決めた人って何? 女として見ていない? え、何。何言ってるの……?」
「以前、スコッル殿の別荘で茶会を開いたのを覚えている? 結局夜酒盛りをすることになって、外は嵐で帰れなかった――」
「……うん」
スコッルは耳の裏まで赤くなり、視線を泳がせた。
間違いない、これは覚えている反応だ。酔っていてもその記憶力は確かだとルチアも承知している。
「一晩中わたしを抱いて放さなかった。挙句起きてから君は相手がわたしで良かったと、そうのたまった。その時思ったの。ああ、わたしは女として意識されてない――って。結構、傷ついたよ」
スコッルは後ろめたそうに「ああっ」とか「うう……それは――」とか頭を抱えて呻きだした。今頃身に染みて分かったのだろう、己がどれほど失礼千万な態度であったか。
「あの日、わたしを誰かと重ねていたでしょう?」
呻いていたスコッルはそこで顔を上げ、怪訝な表情で返す。
「僕がルチアを誰かと間違えたの?」
「そう。いい子だから、おとなしくして――って。あれはわたしに向けた言葉じゃなかった。他の、愛護対象に向けた言葉でしょう?」
「僕は寝ぼけてそんなこと言ったのか。それは、多分――」
スコッルの言葉を継ぐように犬の吠える声がしたかと思えば、影からふさふさの魔獣が現れた。全長、おそらくルチアと同程度。
スコッルは顔を覆い、溜息をついた。
「……ごめん、こいつのせいだと思う。就寝時いっつも出てきて、一緒に寝たがるから」
「この子は……?」
「覚えてない? 僕の使い魔だよ。だからルチアが思っているような、心に決めた人なんていうのは――いなかった……さっきまでは……」
――そうだったのか。勝手に焦れてやきもきして、馬鹿みたい。
疑問が一つ解消され、晴れやかな気分だった。今のところスコッルに特別な人はいないのだ。それが分かっただけでもルチアにとっては大きな前進である。
「なんだか肩の荷が下りたみたい。すっきりした!」
「……」
わたしにもまだ望みがあるみたい――笑うルチアとは対照的に、スコッルの顔はいつになく真剣だった。
「本当、避けていて悪かった。これからも仲間の一人としてよろしく、スコッル」
「……いや、うん」
スコッルは歯切れ悪く返す。
「殿下がね、いっそのこと子爵令嬢を紹介してみたらって言うんだ。わたしもその方がいい気がしてきた。一度紹介すれば角も立たない――」
「ルチア」
呼ばれて、勢いよく顔を上げる。
息が交わるほど近くにスコッルの端麗な顔があり、鼓動が跳ねる。
「僕の返事、興味ないの?」
「……あ、あり、ます」
「これからすることに、怒らないでね――? あと、これは誰にでもするわけじゃない、から……ね」
スコッルは少し緊張気味に囁いて、ルチアの顎に冷えた指をかけた。
揺れるハニーブラウンの髪、意外と長い睫毛、伏せられた翡翠色の瞳。薄い唇。ゆっくりと近づいてきて、やわらかな感触が唇に当たる。
――溶けそうに甘いキスだった。
「…………っ」
「僕も君が好きみたい。ルチア」
スコッルがたまに見せるこの色香が、ルチアを混乱させるのだ。
「子爵令嬢に紹介してもらう時は、君の恋人ですってちゃんと言うからそのつもりでいて?」
「は、はい!」
その時、どこかで天馬の嘶きが聞こえた。
スコッルが蹴破った扉から入ってきてしまったらしい。
ちゃんと繋いでおかなかったからな――とスコッルは頭を掻いた。
「ああ、どうしよう。シグルドが陛下から賜ったばかりの仔だからあまり人馴れもしていないんだ。早く捕まえないと」
「そんな大事な天馬をシグルド殿が?」
「貸してくれたんだよ。あいつは女にだらしないけどこういう時は無駄に頼りになるから」
確かに、とルチアは頷く。
男であれ女であれ、仲間と友人は大事にする、それがシグルドである。曰く、恋情は移ろうが友情は不変だからとか何とか。
「ただ、ルチアに会って話したくて飛んできたけど、後先考えていなかった。いくら殿下の許しがあったとしても、これじゃあ叱られるかな……」
「本当、スコッル殿らしい」
ルチアはくすくすと笑い、スコッルの頬に唇を寄せた。
《スコッルとルチア 終》
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みんなの感想(6件)
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退会済ユーザのコメントです
番外編までお付き合いくださり本当にありがとうございます!
ハティは本編でもアリカのことになると色々おかしな男だったんですが、番外編になりよりそれが著明になった感じです(笑)
ルチアは人を疑う環境で過ごしてきたので、言葉の裏を考えるあまり拗らせてしまっています。本来できる子です!秀才タイプ。
お察しのことかもしれませんが、飛んできたスコッルを呼びつけた(?)のはハティです。ドア壊すとは思ってなかったけど、はよ来いと言った手前(?)拳骨はしないと思いますwwwただ説教して修理はさせるでしょう。
番外編は完全に読者サービスです!血腥くないよ!!
楽しんでいただけて良かったです!!ありがとうございました!
退会済ユーザのコメントです
最後までお読みいただきありがとうございました! なんだかんだと楽しんでいただけたようでほっとしています。
レイジーンは正真正銘の愚王です、本当にありがとうございました。なので遠慮なくぼこぼこにさせてもらいました!
引き続き番外編もお読みいただけると嬉しいです!
退会済ユーザのコメントです