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番外編
後日談② 砂漠の国その1
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セラフィト南部の国境を越えれば、その先には広大なルプル砂漠がある。延々と続く熱砂に蠢く影はなく、そこここで連なる砂の丘陵は、風が吹くたびにその形を変えた。太陽が照る日中は黄砂、夕陽に照らされると紅く、夜は銀色とその表情は実に多種多様である。
どの国にも属さぬ空白地帯と呼ばれるルプル砂漠であるが、その最南端にはオアシスがあり、王国が存在しているらしい。
――らしい、というのも、砂漠を超えてそこまで到達したものの話をほとんど聞いたことがないからである。
砂漠を超えた先には海があるとか、更に別の国が存在するとか、真偽の定かではない噂は王宮にいた時分から耳にしていた。
何せ、帝都から遠い。遥か彼方の場所である。南方から来る異国の者はごくわずかだ。
――結論から言うと、れっきとした国家は存在していた。
砂漠には数多の部族が存在する。定住の地を持たず略奪によって生計を立てる蛮族、半遊牧的に暮らすバーディアの民……それらとはまた違う、正真正銘の王国である。
――だからこそ、ハティの状況は厄介極まりなかった。
◇
砂漠の夜は冷える。
濃紺の天には満月が浮かび、銀砂をまいたかのように、幾万もの星々が煌めいていた。
天幕の外では焚火の焔が揺らぎ、冷えた空間を明るく照らしている。人や荷を運ぶ駱駝は砂地の上で腹ばいになり、賊や獣から隊商を守る護衛達は交代で見張りに立っていた。
南方へ向かう隊商の護衛として雇われてひと月。延々と続く砂漠を進めども、未だ目的地は見えない。
――行先は、サイード王国。
セラフィトに比べれば非常に小さな国らしいが、王都にはオアシスがあり、人々の営みを支えている。
ハティの膝の間で、もたれかかるようにして毛布にくるまったアリカは、擦り切れた手帳を真剣に見ていた。
そこにはびっしりと文字が綴られている――異国の言葉である。
「うーん……これ、どうやって発音するんだっけ――」
「من فضلك أعطني(ください)」
「みん、ふぁ……?」
ハティの発音に首を傾げる姿は大変愛らしい。
後ろからアリカを抱き、その耳元でもう一度『ください』と、囁く。それを目撃した他の護衛が囃し立てるように口笛を吹いた。
アリカは北方ドールの生まれ、南方の蛮族の言葉はさっぱり分からないらしい。聞いた言葉を手帳に記し、暇を見つけては熱心に読み返している。
一方のハティ、多少は南国言葉の心得があった。読み書きはもちろんのこと、日常会話ならば支障なく行える。
それもこれも軍事作戦上必要であったからで、好き好んで学んだわけではない。ただ、こうしてアリカと放浪するようになって、これほど異国語習得を感謝したことはなかった。何しろアリカが手放しで褒めてくれる。
砂漠地帯の者達は、公用語としてバーディア語を使う。行商人のほとんどがバーディアの民故だろう。サイード王国の公用語は知らぬが、バーディア語はどこでも通じる、とハティの雇い主は言っていた。
言葉が分からないのでアリカの口数は減った。その結果いつもの強気さはなりをひそめ、今のアリカは正しく清らかな聖女そのものであった。ネーヴェフィールで出会った時の解釈違い甚だしい聖女を思えば、これこそ民衆が想像し、永遠に語り継がれる神の乙女だろう――とはいえハティはそんなもの望んでいないわけだが。
恐らくハティが側にいなければ、隊商の男共全員から邪な想いを抱かれて、熟れた肉体を滅茶苦茶に弄ばれていただろう。
現に、アリカが分からないのをいいことに卑猥な言葉が聞こえ、ハティが睨めば黙り込んだ。
そうとは知らぬアリカ、彼らに「言葉が分からないから教えてもらおうと思うの」などと向かっていこうとしたのでハティは焦った。「言葉ならいくらでも教えてやる、だから迂闊にあいつらに近づくな」と言ったらひどく不審そうな顔をされたのが未だに腑に落ちない。
アリカは手帳を投げ出し、その身を完全にハティに預けた。
「あーあ。習得までにはだいぶ時間がかかりそうだわ。まだまだハティに教わらなくちゃ会話もできない」
「この短期間で多少の読み書きができるようになっただけ、大したものだ」
一緒にいて思うのは、アリカは向上心の塊だということだ。知識欲が異様に高い。元々読書が好きなだけあり、読み書きの上達は目をみはるものがある。
アリカはくすぐったそうに笑った。
「そうかしら。知らないことを学ぶのって、楽しいじゃない。一つ一つ覚えるたびに、世界の広さを教えてくれる」
ほら、とアリカは銀河の浮かぶ空を指した。北の夜空とはまた違う、広大な星空が視界に広がっている。
「同じ夜空でも全然違う。あの星の渦は、ドールやネーヴェフィールでは見えなかったもの……今あたしがこうしているのは、ハティのおかげでもあるのよね」
背中を押してくれた、立ち向かう勇気をくれた――そう小さく呟いてアリカは笑った。
「最初は傲慢で自分勝手な嫌な男だったのにね」
「悪かったな」
アリカを抱きしめたままむすっと返す。アリカはハティの腕に手を重ねた。
「ハティに見つからなかったら、今頃あたしは、おにいさまの影に怯えていたわ……ハティには本当に、感謝してるの」
「俺以外の男のことで頭がいっぱいになっているのが、腹立たしかっただけだ」
「何それ。あんたって、本当に――」
アリカが鈴を転がしたように笑う。ハティはふんっと鼻を鳴らした。
事実、レイジーンなんぞにアリカの思考を奪われたくなかった。本来、籠の中におとなしく収まるような女ではない。それがあの男のせいで前に進むのを躊躇い、手を伸ばせば届くところにありながら、ハティの元に降りてくるのを渋った。
過去の泥濘の中からアリカを連れ出せたのは、人生最大の功績である。
ひとしきり笑ってから、アリカは息をついた。
「――どうしようもなく馬鹿ね」
「愛する女を前にして馬鹿にならぬ男がいるのか?」
アリカを抱く腕に力を込める。
思慕の念は人を狂わせる。時に正常な思考を奪い、過激なまでに変貌させる――そういった場面を何度も目撃してきた。色恋に浮かれたたわけが、と冷めた目で見ていた時期もある。ハティとは無縁の話だと思っていたが、どうやら違うらしい。
愛している、その気持ちが全てを突き動かすし、アリカとならどこまでも行ける気がした――事実、こうして遠い異国の地を踏んでいる。
北の諸国は破魔の聖女を知りすぎており、既にドールでの事変を察知している。アリカが出歩こうものならば捕まってもおかしくない。愛妻が聖女として祀り上げられるなどハティとしては到底受け入れられるものではない。
対する南部、流石に情報の回りは遅い。そも、破魔の聖女の存在を認識しているかどうかも危うい。吟遊詩人あたりが各地を漫遊し、先の事変を語り継がぬ限りは南の諸国は安全だろうというのが、ハティの見解である。
アリカの為に、わざわざ南国へ向かう隊商を探して護衛を買って出た。愛ゆえであるが、アリカに通じているかどうかは定かではない。
「きっとね、あなた以上の人なんて世界中どこを探してもいないと思うわ」
「……当然だろう。だから、探すな」
アリカは自由だから。繋いでおいても、この手をすり抜けるすべを知っている。いつ「ハティには飽きちゃったわ」と言い出して飛び出していくか分からない。焦りと懇願を含んだ囁きにアリカは肩を揺すって笑った。
「あんたって本当に――でも、ハティのそういうどうしようもないところ、すごく好きよ」
――好き。アリカは俺が好き。
反芻すると気持ちが昂り、バーディア語で『あなたをください』と囁いてから白い項にかぶりついた。
◇
幾つかの夜を越えた頃、緑の木々に囲まれた湖が見えてきた。
――砂漠のオアシスである。
ここまでくれば目的地はもう目と鼻の先だった。砂塵の向こうには、石でできた堅固な城壁、褐色の塔、丸屋根が特徴的な小城がうっすらと望める。それがサイード王国の王都らしかった。都の中央までは駱駝に乗って移動したとしても四半日はかかるという。
「近いようでいて遠いわね」
アリカは両手で顔を扇ぎつつ呟いた。
「最後にベッドで眠ったのっていつだったか、ハティ覚えてる?」
「……ふた月前、セラフィトの小さな村で一緒に寝た」
「すごい。想像以上に詳細な記憶……よく覚えてるわね」
「ああ、感覚を忘れないように反芻している」
何の感覚だろう――聞いてみたかったが、深く追求してはいけないような気がしてアリカはそれ以上何も言えなかった。
皆、疲れていた。一刻も早く宿屋で休みたい気持ちは皆同じだが、急いてもろくなことはない。一旦水辺で休憩をとることになる。
裾をまくって水に足をつけると、冷たくて気持ちよい。そういえば、水浴びもろくにしていなかった。保清の手段と言えば布で体を拭うくらいで、北方のように湯船に浸かるのは相当贅沢なことらしかった――ああ、大理石でできたあの湯殿が恋しい。ゆっくりと身体を沈め、心身ともに温まりたい。アリカは夢想し、水中でぶらぶらと足を動かした。
湖のほとりには、旅人や行商人、傭兵風情の男を連れたうら若い乙女、水を飲む獣達の姿がある。
水が貴重な砂漠において、オアシスは良かれ悪かれ様々なものが集う場なのだ。人で溢れ、秘密で溢れている。
――良かれ悪かれ、である。
北の国から運ばれた色鮮やかな織物、霊峰でしか採掘できない希少な宝玉に、意匠を凝らした絹のドレス。高名な魔術士が術式を組んだ魔導具――どれもこれも、高価で貴重な品々である。隊商はそれらを各地に運んでは売り歩く。
賊共にとっては格好の餌食に違いない。
駱駝達に水を飲ませている最中、馬の嘶きと共に野太い怒号が聞こえた。間髪おかずに悲鳴が上がり、あたりは殺伐とした空気に包まれる。
それまで安穏としていた護衛達の顔つきが変わった。誰が指示せずとも護衛達は隊商の全員を守るように陣形を整え、それぞれ得物に手をかけた。
馬上で曲刀を手にした蛮族一団がオアシスに突撃を仕掛けてくる。どうやら獲物を待ち伏せしていたらしい。
騎馬から引きずり落とそうと一人の護衛が矢を掛ける。馬が倒れるのと同時に地面に投げ出された敵を他の護衛達が相手取った。別の護衛は勢いをつけて豪快に長槍で横なぎに払い馬を倒す。味方が相手の機動力を奪ったところで、アリカの側にいたハティも、仕方ないとばかりに動き出す。
馬を失ってもどうにか荷を強奪しようと敵は必死に食らいついてきた。
露払いを任せるばかりで動こうとしない護衛――ハティが狙い目だと思ったのだろうか。
両目を血走らせて果敢にも突進し、震える手で曲刀を繰り出した。手元はぶれて、狙いがうまく定まらぬ。曲がった刃ならば相手の肉をどうにか裂いてくれよう、そんな魂胆だったのかもしれない。ハティは難なくその剣を弾き飛ばし、切り返して相手の胴を上段から叩き斬った。一人目が足元から崩れるのと同時に、二人目がハティの背後から襲い掛かる。振り降ろされた刃を躱し、相手がたたらを踏んだところを後ろから斬って捨てた。
――まるで舞のようだった。
所作は綺麗で、無駄がない。次々と襲い来る敵の刃を躱しては切る、一連の流れが美しい。ハティと死の舞を踊り、その高度な技術についていけずに敵が倒れる。その、繰り返しだった。
固唾をのんで見守っていたアリカの元に戻ってきたハティには、傷一つない。
流石、剣豪として名を馳せていただけある――内心感心して見上げれば、ハティが不意に抱きしめてきた。その力強さに息が止まりそうになる。
「ハティ――」
「怪我は」
「して、ません」
「何だその返事は。流れ矢に当たらなかったか」
傷を確かめるように体を触られ、アリカは困惑した。
「大丈夫、当たってないわ」
答えると、ハティの腕の力が抜けた。溜息をつき、額をアリカにくっつける。
「戦場にお前がいると寿命が縮まりそうだ」
「あのね、かすり傷の一つや二つ、大丈夫よ。それくらいで死んだりしないもの」
「馬鹿もの。お前の身体は俺のものでもある。玉のような肌にこれ以上傷なんぞこしらえさせてたまるか」
相も変わらず心配性な夫にアリカは苦笑し、ハティの頭を撫でた。
それを見た隊商の護衛仲間が何か早口でまくし立ててから口笛を吹いた。少しずつなら聞き取れるようになってきたものの、早いと全然分からない。
こちらの言葉は通じていないはずだが、誰が見たってこの甘い空気――ひやかしたくもなるだろう。ハティが彼らを睨めば、肩を竦めて背を向けた。
「……あの人達、何て?」
「……気にするな。全く身にならんことしかほざいておらん」
身になるかどうかは自分で決めるのに、とアリカは思ったが口には出さなかった。彼らに教えて欲しいなどと言おうものなら、ハティに全力で阻止されてしまう。ハティから教えてもらうのはもちろんありがたいが、異国語を話す夫がひどく遠い存在に思えて落ち着かない気持ちになる。それに、耳元で囁かれる言葉に背筋がぞくぞくした。特に『ください』は何度も聞いても身体が溶けそうになる。
ハティに求められるたびに喜びで心が震える。
――今が幸せすぎて、怖いくらいだった。
どの国にも属さぬ空白地帯と呼ばれるルプル砂漠であるが、その最南端にはオアシスがあり、王国が存在しているらしい。
――らしい、というのも、砂漠を超えてそこまで到達したものの話をほとんど聞いたことがないからである。
砂漠を超えた先には海があるとか、更に別の国が存在するとか、真偽の定かではない噂は王宮にいた時分から耳にしていた。
何せ、帝都から遠い。遥か彼方の場所である。南方から来る異国の者はごくわずかだ。
――結論から言うと、れっきとした国家は存在していた。
砂漠には数多の部族が存在する。定住の地を持たず略奪によって生計を立てる蛮族、半遊牧的に暮らすバーディアの民……それらとはまた違う、正真正銘の王国である。
――だからこそ、ハティの状況は厄介極まりなかった。
◇
砂漠の夜は冷える。
濃紺の天には満月が浮かび、銀砂をまいたかのように、幾万もの星々が煌めいていた。
天幕の外では焚火の焔が揺らぎ、冷えた空間を明るく照らしている。人や荷を運ぶ駱駝は砂地の上で腹ばいになり、賊や獣から隊商を守る護衛達は交代で見張りに立っていた。
南方へ向かう隊商の護衛として雇われてひと月。延々と続く砂漠を進めども、未だ目的地は見えない。
――行先は、サイード王国。
セラフィトに比べれば非常に小さな国らしいが、王都にはオアシスがあり、人々の営みを支えている。
ハティの膝の間で、もたれかかるようにして毛布にくるまったアリカは、擦り切れた手帳を真剣に見ていた。
そこにはびっしりと文字が綴られている――異国の言葉である。
「うーん……これ、どうやって発音するんだっけ――」
「من فضلك أعطني(ください)」
「みん、ふぁ……?」
ハティの発音に首を傾げる姿は大変愛らしい。
後ろからアリカを抱き、その耳元でもう一度『ください』と、囁く。それを目撃した他の護衛が囃し立てるように口笛を吹いた。
アリカは北方ドールの生まれ、南方の蛮族の言葉はさっぱり分からないらしい。聞いた言葉を手帳に記し、暇を見つけては熱心に読み返している。
一方のハティ、多少は南国言葉の心得があった。読み書きはもちろんのこと、日常会話ならば支障なく行える。
それもこれも軍事作戦上必要であったからで、好き好んで学んだわけではない。ただ、こうしてアリカと放浪するようになって、これほど異国語習得を感謝したことはなかった。何しろアリカが手放しで褒めてくれる。
砂漠地帯の者達は、公用語としてバーディア語を使う。行商人のほとんどがバーディアの民故だろう。サイード王国の公用語は知らぬが、バーディア語はどこでも通じる、とハティの雇い主は言っていた。
言葉が分からないのでアリカの口数は減った。その結果いつもの強気さはなりをひそめ、今のアリカは正しく清らかな聖女そのものであった。ネーヴェフィールで出会った時の解釈違い甚だしい聖女を思えば、これこそ民衆が想像し、永遠に語り継がれる神の乙女だろう――とはいえハティはそんなもの望んでいないわけだが。
恐らくハティが側にいなければ、隊商の男共全員から邪な想いを抱かれて、熟れた肉体を滅茶苦茶に弄ばれていただろう。
現に、アリカが分からないのをいいことに卑猥な言葉が聞こえ、ハティが睨めば黙り込んだ。
そうとは知らぬアリカ、彼らに「言葉が分からないから教えてもらおうと思うの」などと向かっていこうとしたのでハティは焦った。「言葉ならいくらでも教えてやる、だから迂闊にあいつらに近づくな」と言ったらひどく不審そうな顔をされたのが未だに腑に落ちない。
アリカは手帳を投げ出し、その身を完全にハティに預けた。
「あーあ。習得までにはだいぶ時間がかかりそうだわ。まだまだハティに教わらなくちゃ会話もできない」
「この短期間で多少の読み書きができるようになっただけ、大したものだ」
一緒にいて思うのは、アリカは向上心の塊だということだ。知識欲が異様に高い。元々読書が好きなだけあり、読み書きの上達は目をみはるものがある。
アリカはくすぐったそうに笑った。
「そうかしら。知らないことを学ぶのって、楽しいじゃない。一つ一つ覚えるたびに、世界の広さを教えてくれる」
ほら、とアリカは銀河の浮かぶ空を指した。北の夜空とはまた違う、広大な星空が視界に広がっている。
「同じ夜空でも全然違う。あの星の渦は、ドールやネーヴェフィールでは見えなかったもの……今あたしがこうしているのは、ハティのおかげでもあるのよね」
背中を押してくれた、立ち向かう勇気をくれた――そう小さく呟いてアリカは笑った。
「最初は傲慢で自分勝手な嫌な男だったのにね」
「悪かったな」
アリカを抱きしめたままむすっと返す。アリカはハティの腕に手を重ねた。
「ハティに見つからなかったら、今頃あたしは、おにいさまの影に怯えていたわ……ハティには本当に、感謝してるの」
「俺以外の男のことで頭がいっぱいになっているのが、腹立たしかっただけだ」
「何それ。あんたって、本当に――」
アリカが鈴を転がしたように笑う。ハティはふんっと鼻を鳴らした。
事実、レイジーンなんぞにアリカの思考を奪われたくなかった。本来、籠の中におとなしく収まるような女ではない。それがあの男のせいで前に進むのを躊躇い、手を伸ばせば届くところにありながら、ハティの元に降りてくるのを渋った。
過去の泥濘の中からアリカを連れ出せたのは、人生最大の功績である。
ひとしきり笑ってから、アリカは息をついた。
「――どうしようもなく馬鹿ね」
「愛する女を前にして馬鹿にならぬ男がいるのか?」
アリカを抱く腕に力を込める。
思慕の念は人を狂わせる。時に正常な思考を奪い、過激なまでに変貌させる――そういった場面を何度も目撃してきた。色恋に浮かれたたわけが、と冷めた目で見ていた時期もある。ハティとは無縁の話だと思っていたが、どうやら違うらしい。
愛している、その気持ちが全てを突き動かすし、アリカとならどこまでも行ける気がした――事実、こうして遠い異国の地を踏んでいる。
北の諸国は破魔の聖女を知りすぎており、既にドールでの事変を察知している。アリカが出歩こうものならば捕まってもおかしくない。愛妻が聖女として祀り上げられるなどハティとしては到底受け入れられるものではない。
対する南部、流石に情報の回りは遅い。そも、破魔の聖女の存在を認識しているかどうかも危うい。吟遊詩人あたりが各地を漫遊し、先の事変を語り継がぬ限りは南の諸国は安全だろうというのが、ハティの見解である。
アリカの為に、わざわざ南国へ向かう隊商を探して護衛を買って出た。愛ゆえであるが、アリカに通じているかどうかは定かではない。
「きっとね、あなた以上の人なんて世界中どこを探してもいないと思うわ」
「……当然だろう。だから、探すな」
アリカは自由だから。繋いでおいても、この手をすり抜けるすべを知っている。いつ「ハティには飽きちゃったわ」と言い出して飛び出していくか分からない。焦りと懇願を含んだ囁きにアリカは肩を揺すって笑った。
「あんたって本当に――でも、ハティのそういうどうしようもないところ、すごく好きよ」
――好き。アリカは俺が好き。
反芻すると気持ちが昂り、バーディア語で『あなたをください』と囁いてから白い項にかぶりついた。
◇
幾つかの夜を越えた頃、緑の木々に囲まれた湖が見えてきた。
――砂漠のオアシスである。
ここまでくれば目的地はもう目と鼻の先だった。砂塵の向こうには、石でできた堅固な城壁、褐色の塔、丸屋根が特徴的な小城がうっすらと望める。それがサイード王国の王都らしかった。都の中央までは駱駝に乗って移動したとしても四半日はかかるという。
「近いようでいて遠いわね」
アリカは両手で顔を扇ぎつつ呟いた。
「最後にベッドで眠ったのっていつだったか、ハティ覚えてる?」
「……ふた月前、セラフィトの小さな村で一緒に寝た」
「すごい。想像以上に詳細な記憶……よく覚えてるわね」
「ああ、感覚を忘れないように反芻している」
何の感覚だろう――聞いてみたかったが、深く追求してはいけないような気がしてアリカはそれ以上何も言えなかった。
皆、疲れていた。一刻も早く宿屋で休みたい気持ちは皆同じだが、急いてもろくなことはない。一旦水辺で休憩をとることになる。
裾をまくって水に足をつけると、冷たくて気持ちよい。そういえば、水浴びもろくにしていなかった。保清の手段と言えば布で体を拭うくらいで、北方のように湯船に浸かるのは相当贅沢なことらしかった――ああ、大理石でできたあの湯殿が恋しい。ゆっくりと身体を沈め、心身ともに温まりたい。アリカは夢想し、水中でぶらぶらと足を動かした。
湖のほとりには、旅人や行商人、傭兵風情の男を連れたうら若い乙女、水を飲む獣達の姿がある。
水が貴重な砂漠において、オアシスは良かれ悪かれ様々なものが集う場なのだ。人で溢れ、秘密で溢れている。
――良かれ悪かれ、である。
北の国から運ばれた色鮮やかな織物、霊峰でしか採掘できない希少な宝玉に、意匠を凝らした絹のドレス。高名な魔術士が術式を組んだ魔導具――どれもこれも、高価で貴重な品々である。隊商はそれらを各地に運んでは売り歩く。
賊共にとっては格好の餌食に違いない。
駱駝達に水を飲ませている最中、馬の嘶きと共に野太い怒号が聞こえた。間髪おかずに悲鳴が上がり、あたりは殺伐とした空気に包まれる。
それまで安穏としていた護衛達の顔つきが変わった。誰が指示せずとも護衛達は隊商の全員を守るように陣形を整え、それぞれ得物に手をかけた。
馬上で曲刀を手にした蛮族一団がオアシスに突撃を仕掛けてくる。どうやら獲物を待ち伏せしていたらしい。
騎馬から引きずり落とそうと一人の護衛が矢を掛ける。馬が倒れるのと同時に地面に投げ出された敵を他の護衛達が相手取った。別の護衛は勢いをつけて豪快に長槍で横なぎに払い馬を倒す。味方が相手の機動力を奪ったところで、アリカの側にいたハティも、仕方ないとばかりに動き出す。
馬を失ってもどうにか荷を強奪しようと敵は必死に食らいついてきた。
露払いを任せるばかりで動こうとしない護衛――ハティが狙い目だと思ったのだろうか。
両目を血走らせて果敢にも突進し、震える手で曲刀を繰り出した。手元はぶれて、狙いがうまく定まらぬ。曲がった刃ならば相手の肉をどうにか裂いてくれよう、そんな魂胆だったのかもしれない。ハティは難なくその剣を弾き飛ばし、切り返して相手の胴を上段から叩き斬った。一人目が足元から崩れるのと同時に、二人目がハティの背後から襲い掛かる。振り降ろされた刃を躱し、相手がたたらを踏んだところを後ろから斬って捨てた。
――まるで舞のようだった。
所作は綺麗で、無駄がない。次々と襲い来る敵の刃を躱しては切る、一連の流れが美しい。ハティと死の舞を踊り、その高度な技術についていけずに敵が倒れる。その、繰り返しだった。
固唾をのんで見守っていたアリカの元に戻ってきたハティには、傷一つない。
流石、剣豪として名を馳せていただけある――内心感心して見上げれば、ハティが不意に抱きしめてきた。その力強さに息が止まりそうになる。
「ハティ――」
「怪我は」
「して、ません」
「何だその返事は。流れ矢に当たらなかったか」
傷を確かめるように体を触られ、アリカは困惑した。
「大丈夫、当たってないわ」
答えると、ハティの腕の力が抜けた。溜息をつき、額をアリカにくっつける。
「戦場にお前がいると寿命が縮まりそうだ」
「あのね、かすり傷の一つや二つ、大丈夫よ。それくらいで死んだりしないもの」
「馬鹿もの。お前の身体は俺のものでもある。玉のような肌にこれ以上傷なんぞこしらえさせてたまるか」
相も変わらず心配性な夫にアリカは苦笑し、ハティの頭を撫でた。
それを見た隊商の護衛仲間が何か早口でまくし立ててから口笛を吹いた。少しずつなら聞き取れるようになってきたものの、早いと全然分からない。
こちらの言葉は通じていないはずだが、誰が見たってこの甘い空気――ひやかしたくもなるだろう。ハティが彼らを睨めば、肩を竦めて背を向けた。
「……あの人達、何て?」
「……気にするな。全く身にならんことしかほざいておらん」
身になるかどうかは自分で決めるのに、とアリカは思ったが口には出さなかった。彼らに教えて欲しいなどと言おうものなら、ハティに全力で阻止されてしまう。ハティから教えてもらうのはもちろんありがたいが、異国語を話す夫がひどく遠い存在に思えて落ち着かない気持ちになる。それに、耳元で囁かれる言葉に背筋がぞくぞくした。特に『ください』は何度も聞いても身体が溶けそうになる。
ハティに求められるたびに喜びで心が震える。
――今が幸せすぎて、怖いくらいだった。
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