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第5章 払暁

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 正気とは思えない――それがアリカの率直な感想だった。
 だが、アリカがそれ以上発言することは許されず、もう用はないとばかりに部屋を追い立てられる。アリカは枢機卿の言う通りにするよりほかない。元より拒否権などないのだ。
 代わりに、ラナイが口を開いた。この男はとにかく良く喋る。

「まあ、貴女が五年前に逃げたりされなければ、こんなことにはならなかった。そういうことです」
「一方的にあたしだけが悪いみたいに言わないでよ。今代の聖王が悪いとは思わないの?」
「はあ。たとえ悪いのが王だとしても、貴女は負けた。そこに神意があれば、貴女は勝てたはずだ」
「勝った方が正義だと?」
「何事もそういうものです」
「でもこの状況を見て。ドールは間違いなく傾いている。それでもおにいさまが絶対に正しかったと言えるの?」

 ラナイは肩を竦めた。

「聖王は神と同じ、その神に対し、間違っていると言えるのは貴女くらいなものでしょう。神に抗えるのは、同等の存在だけということです。今がドールにとって最悪な状況なのは認めましょう。かといって、我々教会の人間は積極的に王にご助言申し上げることはできない。それは宰相の役目ですが、今のランゲ宰相では、聖王を御することなど無理でしょう」
「王を諫めるのは聖女の役目だと言った間諜がいたわ」
「ははあ、聖女を疎まず耳を貸す王ならば、それもありだったかもしれませんが。今代の聖王は、どこか掴みにくく、思っていた以上に扱いにくいと諸侯は口を揃える。あなたがご助言申し上げたところで、火に油を注ぐだけでしょう。もう少し柔軟に、聞く耳を持って下さればね……枢機卿も困っていらっしゃいました」

 地方は荒廃し人々は彷徨う、妖魔や魔獣が跋扈する。このままでは、いくらももたない。
 ラナイから深い溜息が漏れた。

「――破魔の守護がなければ、この国はこんなものなのです。もうお逃げになりませんよう」 
「どうして逃げる羽目になったのか、そういうことは考えないの?」
「その身を奴隷に落されたからといって、扱いまで奴隷と同じになったわけではなかったのでしょう?」

 当時を思い返し、苦いものがせり上がってくる。
 レイジーンとの戦いに負け、捕らえられ、王宮に連れてこられた。奴隷のように働かされたわけではないが、逃げ出さぬように細い鎖で繋がれて、常に目の届くところに置かれた。国事の際には御簾の内に見世物のように据え置かれ、聖女は王のものだと知らしめているようだった。
 王宮に幽閉された後、何か酷い仕打ちをされたのかと聞かれると、確かに困る。
 ただ、アリカはレイジーンの傍にいるのが苦痛で仕方なかった。
 無機質で冷たい視線が耐えられなかった。もう決して、優しいおにいさまは戻ってこないと知って、哀しかった。かつての思い出が頭をよぎるだけで苦しくて、全てが虚構のものに過ぎないと思うと、胸が締め付けられた。それでいながら、時々思い出したようにおにいさまはアリカに優しく接した。そうかと思えば苛烈に責め、憎しみの言葉をぶつける。それが、アリカの精神を摩耗させていった。
 神殿に居た頃の方が、余程おにいさまの存在を身近に感じた。優しく温かく、陽だまりのようなおにいさまがアリカは大好きだった。
 王宮に連れてこられて、距離は以前よりずっと近づいたはずなのに、おにいさまの存在はずっと遠かった。何を考えているのか、いつ叱責されるのか分からず、常に顔色を窺っている毎日が苦しかった。おにいさまが嫌いだ、と考えるたびに心が引き裂かれた。
 二人の間には、最早何の繋がりも感じられなかったのだ。
 アリカは神殿を攻め落とされるその時まで、僅かな希望を抱いていた。愚かだと分かっていながらも、おにいさまを信じたくてたまらなかった。しかし、おにいさまは違った。アリカを疑い、疎み、憎み――アリカはおにいさまの傍にいるべきではないのだと、思わざるを得なかった。そして病んでいくアリカを見かねた別の奴隷が、アリカを密かに逃がしたのだ。
 おにいさまの下に戻ったところで、かつてのような温かさが戻ることはないだろう。正直、そんなことをこれっぽっちも期待していない。
 アリカの心はもうおにいさまのところにはない。帰る場所は、別にある。
 アリカとて、ただ何も考えずに司教枢機卿達の条件を飲むわけではなかった。
 彼らはアリカに、王に身を捧げよと言う。そして子を産めと。
 それこそ千載一遇の好機だ。用心深いおにいさまの懐に飛び込める機会などそうないのだから。
 暗い目をするアリカにラナイは息をのみ、一拍置いてから続けた。

「先代……先々代まで破魔の魔法は王のものだった――神鳥は王の鳥だったのですから。それが王権とは切り離されて存在することはやはり不自然なのでしょう。意のままにならない力は恐ろしいではありませんか」

 要するに、アリカを恐れていたのだ。
 かといって、破魔の力を失ってしまえば瘴気が溢れる――ドールとは、そういう国なのだ。
 一度絶えた魔法は二度と戻らないと聞く。
 かつて生息していたという、破魔の鳥はもういない。
 ならば、アリカが子を産む以外に破魔の魔法を維持する方法はない。

「神鳥なんて、そもそも聞いたことがなかった」
「貴女が生まれる時には絶えていたのですから当然でしょう?」
「あなたは知っていたのね?」
「教会の人間で、神鳥を知らないものはおりませんよ。その血はあらゆる呪いを解き、炎は瘴気を浄化したと聞きます。人々を救済するための大切な王の鳥だったとか。薔薇姫がお生まれになって、役目はそちらに移ってしまいましたが」
「何故、死んでしまったの。本当に一羽も残っていないの?」
「それが分かれば苦労いたしませんとも」

 ラナイは苦々しく呟いた。
 教会としても、さぞや面白くなかっただろう。司教は王族出身である。聖女の誕生は王家の権威を翳らせた。神鳥さえ今もあれば――そう思っているに違いない。
 それは、アリカも同じだった。


 テルン枢機卿の部屋を後にして、まずアリカが一番に向かったのはハティの無事の確認だった。
 別の馬車に乗せて連れてきた、そうは言うが、一度も姿を見ておらず、不審甚だしい。
 道中ハティの馬車だけ密かに別れ、本当はここにはいないのではないか――そう責めると、ラナイはただ苦笑した。
 冷静になって考えてみれば、ハティほど都合のいい人質はないだろう。確かに邪魔な存在ではあるものの、生死を彷徨ったままの現状を維持できるのであれば。アリカを意のままに操る為、ハティを手放す必要はどこにもない。
 すると、ハティを連れてきたという言葉に嘘はないのだろう。ただ、容態ははっきりさせない。

「流石は、卑劣なおにいさまのしもべね。やることなすこと、おにいさまと同じだわ」
「卑劣とは聞き捨てなりませんね」
「やましいことがなければ、ハティに会わせるくらい別にいいじゃない」

 それから心が折れるまでアリカに散々詰られて、ついにラナイは渋々頷いた。
 地下への階段を下りた先にあったのは、客人を迎えるための部屋ではない。石壁に囲まれた室内は薄暗く、冷気が漂っている。教会内部で揉め事や不祥事を起こした者が入る、懲罰房である。部屋には一切の装飾品はなく、灯りはたった一本の蝋燭だけ。部屋の隅には簡素なベッドが置かれている。窓や扉には格子がはめ込まれて、寒々しい部屋をより一層、冷たく見せていた。
 硬いベッドに横たえられたハティの面差しには生気がない。血は止まっているようだが、青白い頬は死人のようで、震えながら触れれば氷のように冷たく、アリカの不安を煽った。
 もしかしたら、次の瞬間には目覚めているかもしれない――そんな淡い希望を抱いて男に縋りついたが、その重い瞼が開かれることはなかった。
 胸が僅かに上下し、細々と呼吸をしているのが確認できる。間違いなく生きているはずなのに、未だ意識が戻らない。
 いかつい鎧兜で武装した見張り番の目も、邪険にしてもめげないラナイの視線も忘れて、温もりを忘れた手を握って囁く。

「あなたがあたしをここまで連れてきたのよ――あなたが願ったから、一緒にいてくれたからここまで来られた」

 ――独りでも大丈夫だ、上手くやれる。
 そう思って進んできて、ネーヴェフィールを離れるまでは実際上手くやれていたと思う。
 だが、今はどういうわけか、独りにされると怖かった。
 何のためにここまできたのか、忘れたわけではない。バルドの、セラフィト皇族の呪いを解くこと。そのためには呪いの元凶を断たなければならない。
 たとえ独りでも、レイジーンと対峙しなければならない。
 大丈夫、迷わずできる――ハティが居た時は、そう確信していた。
 何も難しいことはない――おにいさまから魔力を奪う、先代皇帝の心臓を取り戻す、呪いを払う――たったそれだけのこと。
 この身を貫かれた刹那に、レイジーンの魔力を制御し、完全に止めてしまえばいい。レイジーンも枢機卿も恐らく、アリカの血しか警戒していないだろう。寝所に刃物を持ち込むのを許さないだろうし、仮に隠し持って行けたとしても、上手くいくとは限らない。
 幸いにして、おにいさまも枢機卿もアリカの力をほんの一部しか知らないのだ。そうでなければ、子を作れなどと言うはずがない。魔力を止められてしまえば、王とて魔法は使えない。
 身体を重ねるしか方法がない――そんなことをハティに話したら叱責されるだろうが、やるしかないのだ。出来ない、では済まされない。
 心が、折れそうになる。
 あの兄に抱かれなければならないという戸惑い、屈辱。それを選ばざるを得ないこの状況に。
 たった独りでおにいさまに立ち向かえるだろうか。その時のことを想像するとぞっとした。
 狡猾で卑劣な男が何の警戒もなしに、アリカを迎え入れるとも考えにくい。本当は、アリカと交わるとどうなるか、分かっているのではないか。その上で対策をされているのでは――そう思うのだが、周りにアリカの味方となるものは誰もいない以上、援護は望めない。聖王を害するなど赦されない。今まで以上に世間の風当たりは強くなり、最悪、命を落とすだろう。
 それでも構わないと、かつては思えたのだ。民がアリカに死を望むのならば、それも仕方ないと。
 だが今は、生きて帰りたいと思った。以前に増して、この命が惜しかった。だからこそ怖い。
 これまで幾度となく、死の危機はあったが必ずハティが現れた。だが、今は――?
 アリカは震えた。早く目覚めないハティが恨めしくなり、握った手に力が籠る。

「諦めの悪さが取り柄でしょう。運さえも味方するって豪語していたのは嘘なの? ……早く目を覚ましなさいよ。ここには碌な話し相手もいないのよ。本当、退屈で――……淋しくて死んじゃうわ」

 こんなにも、あなたが愛おしい――。
 薄い唇をつついて幽かな息遣いを確かめていると、ラナイが背後から無機質に言った。

「そろそろお戻りください」
「……しばらく一人にして」
「それは出来かねます」
「今更逃げないし、あなたが心配するようなことはしない」
「確かにアシュラム様には、他のご令嬢方とは違う、並みならぬ胆力がおありだし、何をなさるか分からないところはある……」

 しかし、とラナイは苦笑した。

「別に、そのようなことを心配しているわけではありません。やれることは全てやった以上、今できることは何もない。そのけだものが今後目覚めるか、目覚めないか。誰にも分からないのです。そこでただ見ていることしかできないのは正直なところ、時間の無駄でしょうし、辛いでしょう?」
「あたしの辛さをあんたみたいな馬鹿者に、はかられたくない」

 ラナイはため息をつき、やっていられないとばかりに首を振る。

「それほどまでにご執心でいらしたとは、嬉しい誤算と申すべきか、仮にもドールの聖女と崇められたお方が地を這う虫けらにも劣るような男如きに心奪われ口惜しいと言うべきか、とても複雑でございます」

 言外に、人質としての価値が確固たるものとなったと言われてアリカは黙り込んだ。

「世間知らずの姫君が、初めて男を知って溺れていくのはよくあることでしょう。それが悪いとは申しませんが、あなたはこれから王の下に参るのです。身も心も、王にお捧げせねばならない。王の奴隷である以上、王以外の者に心を寄せてはなりませんし、交わるなどもっての外です」
「枢機卿は子どもが出来れば、誰とでも交わっていい――確かにそう言ったじゃない」
「馬鹿な。それは曲解だ」
「何なら、あなたとでもいい。そういうことじゃないの」

 嘲るように笑い、唖然とするラナイを見上げる。
 ラナイはゆっくりと頭を振った。

「お戯れを。我々は神に操を立てた。万が一の間違いも許されない。司祭を篭絡しようとしても、無駄なことですよ」
「あら、残念。神に操を立てたというのなら、別に聖女と交わっても構わないって言うかと思ったのに」
「邪念の断ち切れない未熟者ならば、容易に落せたのでしょうね」
「あなただって、まだ青いでしょう」
「残念ながら、私は毒花を欲するほど愚かではないので。あなたは確かに美しい。だが美しいものには総じて棘があり、毒がある。そういうものでしょう? 安易に手出しし、腐敗したくありません」
「全く酷い言い草。傷つくわ。王の御前に参っても、その調子で素気無くあしらわれてしまうかも」

 しおらしく瞳を潤ませたアリカに、ラナイは失笑した。

「そのように繊細であられたとは、存じ上げませんで――まあ、下手な芝居ができるのも今の内です。明日には御身を王の御前にお連れします。禊をお済ませになり、心の準備をされた方がいい。どうせこれからは昼夜を問わず王に蹂躙され、子を産まされ続ける羽目になる。日の目も見ることなく、王宮の奥深くでお過ごしになられることでしょう。子ができたら王宮と繋がる神殿にお移りになる。そして出産し、また王宮に戻る――聖王の寵愛を受けると思えば、悪くないでしょう?」
「……気が狂いそうな毎日ね。だけど、とっても楽しみだわ」

 皮肉げに呟くアリカに、ラナイは眉を寄せた。

「――あなた達の後悔が目に見えるようだもの」

 その時、凄艶な笑みを浮かべたアリカを前にして、ラナイの中には何とも言い表しがたい畏怖の念が浮かぶ。そして、全身が粟立った。

「と、とにかく、もうこれ以上ここにいても詮無いこと……参りましょう」

 独房から追い出されると、それまで彫像のように立っていた見張り番がアリカの背後に回った。大聖堂に入った時から鎖は外されて、以後拘束されることはなかったが、見張りが始終ついた状態である以上は囚人と変わらず、下手な動きは取れない。ハティの命を握られている以上、今はおとなしく従うしかないのだ。
 ――このクソ男を捻りつぶしてやりたいところだが、我慢してやる。
 ラナイが先に階段を上り、その背中が見えなくなったところでアリカは地団駄を踏んだ。
 見張り番はそれをばっちり目撃したらしい。背後から籠ったような苦笑が漏れた。

「聖女殿は無茶苦茶だ」
「っ……!」
「だが今は、おとなしくされていた方がいい。抵抗なさらず、部屋に戻ってお一人になられても妙な真似をなさらぬよう。騒ぎを起こせばそれだけ監視の目が厳しくなりますからね」
「……言われなくとも、何もしないわ」

 振り返ることなく呟くと、また苦笑が漏れた。

「教会は人手不足に喘いでいるらしくてね。杖を振るうのは得意でも、剣はおろか槍も握ったことがない連中しか、残っていないらしいですよ。妖魔は街に入ってくるわ、王様はセラフィトへの出兵をお命じになるわ。腕っぷしの強い連中は皆戦いに駆り出されちまって。腕に覚えがあるものならば、浮浪者だろうと旅人だろうと声を掛けられる」
「あなたもその手口で雇われて、ここで見張り番してるってわけ?」
「虜囚の貴女には言えませんわ」

 言ったも同然じゃない、アリカは苦笑した。

「あたしは馬車で一日以上揺られてやっと着いたのよ。あなたはどうなの、浮浪者あがりの見張り番さん?」
「浮浪者とはひでえ。せめて旅人でしょう――俺は空からちょっとね」
「まぁ、贅沢なこと。よく撃ち落とされなかったわね」
「聖都の手前で降りたんで。――まぁ要するに、ここに詰めている連中は烏合の衆みたいなものだ。そんな中で騒ぎを起こされたんじゃ、たまったものではないってことです」
「そうでしょうね」

 思わず口元が綻んだ。アリカは肩を竦める。

「安心なさい。明日には王城に行かなければならない。ここで騒ぎなんて起きないでしょう。そこで横たわっている男が目覚めない限りは、ここは平和そのものよ」
「しかしさっきの言葉、せめて殿下の意識のある時に言って差し上げて欲しかった」
「さっきのって、どれのことよ」
「淋しくて死んじゃう――ってやつですよ。そんなこと好いた女に言われて喜ばない野郎はいないでしょう? 俺だったら、じゃあもう一生離さないってなっちまう。何せ単純だから」
「馬鹿! い、言えるわけないじゃない!」

 再び、後ろから苦笑が漏れた。



 予め用意されていた部屋に入ると、どっと疲れが押し寄せてきた。吸い寄せられるようにしてベッドに倒れ込むと、柔らかな寝具が身体を包み込んでくれた。
 瞼が重い。馬車に揺られている間うとうとはしたものの、眠れたという気はしなかった。ピーチカでも結局碌に寝ていない。
 睡魔には勝てず、瞳を閉じた。カーテンの隙間から陽が差し込んでいたが、その明るささえ気にならなかった。
 ハティが生きていると知って気が緩んだのかもしれなかったし、寝不足が続いて限界を超えたのかもしれない。とにかく、夢を見る間もなく泥のように眠った。
 どれほど時間が経ったのか、控え目なノックの音でアリカは目を覚ました。
 気怠く起き上がり、格子の嵌まる窓を覗けば、既に日が暮れている。卓上の水差しの水を一口飲んでから呆然とベッドに腰かけていると、澄んだ少女の声が入室の許可を求めた。
 アリカがそれに答えると、ゆっくりと扉が開く。そこにいたのは、綺麗なブルネットの髪を一つに束ねた、凛とした若葉色の瞳が印象的な、十六、七くらいの、利発そうな少女だった。
 教会には司教のみならず、数多の司祭、修道士、修道女達が暮らしている。司教以上は王族でなければなれないが、司祭までならば出自関係なく、敬虔に道を修めれば誰でもなれる。まずは修道院で下働きをしながら司祭を目指すのが普通だ。教会には下郎や下女がいないため、食事の支度から掃除まで、身の回りのことは全て自分達で行うのだ。更に司教以上となると、修道士や修道女達が彼らの身の回りの世話を行うことになっている。この教会にもおびただしい数の修道士達がいるらしく、枢機卿が住むこの建物とは別に、宿舎がある。やってきたこの少女も、修道女のひとりらしかった。
 アリカは、建前上は客という扱いのようで、侍女代わりに修道女が世話を担当するらしい。世話係などいらないと言ってやったところで、教会としての威厳を失い面目がつぶれるとか、そんな返事しかこないに違いない。
 叩頭した少女に向けてアリカは問う。

「何か用?」
「お疲れのところ、まことに申し訳なく存じます。伝え聞いたことかと存じますが、禊を。明日に備えて必ず身をお清めせよとのことにございます」
「そうね……分かったわ」
「禊の後で、お食事をお持ちいたしますね、アリカ様」

 ここに来て初めて己を『アリカ』と呼んだ少女に、目を見開いた。ここの連中は、『アリカ』を知らないはずだ。アリカと呼ぶのはセラフィトの関係者だけ。
 では彼女は。どこでアリカを知ったのだ。
 真新しい下着とドレスを渡しながら少女が訊ねる。

「お手伝いいたしましょうか?」
「大丈夫よ」
「お困りの際は、お呼びください。明日には王宮に参られるでしょうが、アリカ様がお望みなら、どこへなりと馳せ参じたく存じます」
「……あなた、名前は? ――聞いておかないと、呼べないわ」
「ルチアと申します」

 含みを持たせて笑い、少女は部屋を辞した。
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