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第3章 罠
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ローレル・ハイランドの居室は、国で最も高位の魔術士の称号を持った男のものとは思えないほど、うら寂しい部屋だった。
城の北に設けられたそこは薄暗く、明かりと言えば窓から僅かに差し込む光だけだ。
机と椅子、仮眠するために使う毛布がきちんと折りたたまれて置いてあるくらいで、必要最低限のもの以外何もない。他の魔術士達の部屋に入れば、足の踏み場もないほど山積みになった本や、魔法陣の図式だの、中身が知れない怪しげな瓶――とんでもなく希少で価値のあるものらしい――がそこらに転がっているものだが、彼のそこはむしろ埃一つない、極めて清潔な部屋だった。
先代が急遽され、バルドも病魔に侵されてから多忙を極めて家に帰ることもなかったと聞くが、その割には生活感がまるでなかった。生きることに意味を感じていないかのようで、食事も水分もほとんどとらないという話である。
一通り見渡しても紙媒体は見当たらない。情報等はすべて魔石の中に投影されているのだ。それらは厳重な封印の元管理されているようで、ローレル以外に覗くことはできない。機密の管理を任せるのならば彼以上の適任者はいないだろう。現に彼の元には機密事項の記された魔石が数多く預けられている。彼の持つ情報を得ようと考えるものは少なくないが、大変厄介なことに、その情報を無理やり引き出そうとすると蛙に変えられてしまう術がかかっているという。
ともあれ、粉骨砕身して国に仕えてきた宮廷魔術士のことを疑うものなどまずいなかった。何しろ十六の時に五つ星の称号を得た天才で、是非にと乞われて国に仕えた男である。先代からも覚えめでたかったかの者を、ハティはそれなりに慕っていた。
欠点があるとすれば、人付き合いがひどく苦手で、他国と密通するどころか自国の重鎮とのやり取りでさえ面倒くさがっているところだろうか。言葉数も少なく気難しい人柄だが、堅調な仕事ぶりは評価に値するもので、皆には一目置かれていた。
よって、つい先日までアンネリーゼからその名を聞かなければ、ローレルを疑おうなど思い当たらなかっただろう。
思えば、ハティが初めてドールを訪問した時にも、ローレルが随行していた。重要な場面には必ずかの者が同席していたのだ。
付き合いの長さもあるが、信頼できる男だと思っていた。何かの間違いであって欲しい。できることならば、穏便にことを運びたい。
ハティはローレルの疲れ切った顔を一瞥し、勧められるがまま軋む椅子に腰かけた。部屋に一つしかない椅子にハティが座ったため、ローレルは絨毯の上に直接腰を下ろす。
「今日は如何なる御用でございましょう。公はこのところ、よく私のところにおいでになられる」
「卿が家に帰らずに困ると報告を受けた。ローレル、何故家に帰らぬのだ。家族が寂しがっておろう」
ローレルは意外そうに片眉を上げ、動じることもなく答えた。
「今は家族のことよりも、陛下のお側にいることが肝要かと存じます」
「そうはいっても、もう何年も家を空けているだろう。愛娘を放っておいてよいのか?」
スコッルの報告によると、ローレルの一人娘――ルチア・ハイランドは数年前から行方不明、彼の妻は数年前に亡くなっている。
ルチアの足取りを辿ろうにも、彼女の記録は巧妙に削除されていた。ルチアを知る人間の記憶は不自然に歪められていたのだ。
「これでは、家出されても文句は言えぬだろう。娘が今どこにいるのか、卿にはわかっているのか?」
「もちろん、承知しておりますとも」
「何故連れ戻さぬ。一人娘が心配ではないのか」
「然るべき所にいると分かっている以上、無理に連れ帰ることもできませぬよ」
ただの家出ではなさそうだった。ローレルでさえ連れ帰れないとなると、相当厄介なところにルチアはいると見える。
ローレルは淡々と続けた。
「娘との時間はこれからいくらでも取り戻せましょう。しかし、陛下の時は待ってはくれぬのです。微力ではございますが、お役に立てるのであれば、私は陛下のお側にいたい」
「それはまた、随分と忠義なことだ」
言葉とは裏腹に、ハティは冷ややかにローレルを見下ろした。
「卿にそれほどの愛国心があったとは。これ以上国に尽くして何とする?」
「何がおっしゃりたいのでしょうか」
「折角暇をやろうと申しておるのに、頑なに断るのは何故だ? 卿一人、陛下の傍を離れたからと言って、今更どうにかなるわけでもあるまい。どう足掻いたところで、最後の一人が死ぬか、それとも呪術者が斃れるかせぬ限り、この呪いに終わりはこない。……我らの呪いは、そういうものであろう?」
「仰る通りにございます。病魔を治すには、破魔の聖女が魔力の流れを制御し、御身を蝕む呪いを払う必要がある。そして術者が斃れぬ限り、この呪いが果てることはない。故に、薔薇姫が見いだされることがあれば、私も気兼ねなく陛下の傍を離れることができましょう」
ローレルは畏まり、ハティに首を垂れた。
「私の前に聖女をお連れ下さるというのなら、いくらでも」
「できぬ相談だな」
「そうでございましょうね」
すべてを見透かすかのようにローレルは口の端を吊り上げる。
「もっとも、陛下から直接お言葉をいただけるのであれば、私はいつでもここを辞す覚悟がございますよ。王の命には逆らえますまい。矮小なこの身に、選択の自由などないのですから」
「バルドがそんなことを言うと思うか? ただでさえ、味方となるものが少ない中で……」
「おっしゃらないでしょうね。ハティ様がお口添えすればまた別かもしれませんが」
バルドの側を意地でも離れないところを見ると、猶更怪しいことこの上ない。確証が持てたのなら、今すぐにでもローレルを斬って捨てるくらいの覚悟でやってきたのだが、なかなか真意が伺い知れない。
ハティは表情を消したまま、ローレルへ訊ねた。
「今日は何故バルドの側におらぬ」
「時にそういう日もございますよ。陛下も、始終世話焼きじじいが傍にいては鬱陶しいでしょう」
「ほう、分かっていながらバルドに張り付いていたのか。卿もなかなかの性格だな」
嘲るように返すと、ローレルは肩をすくめた。
「そうでなければ、到底、宮廷魔術士など務まりません」
そのまま立ち上がると、親指大ほどに小さくしたカップを取り出し、それを魔術で元の大きさに戻した。更に湯気の上つ銀のポットをどこからともなく取り出してカップに注ぐと、芳しい香りの茶がそれを満たした。
ハティに茶を渡しながら、ローレルはため息をついた。
「公は私と閑談に興じるために参られたと見える」
「四六時中バルドに張り付いていた卿が珍しく一人でいるのだ。知恵の宝庫とも言われた宮廷魔術士に少しばかりご教示願いたいと思うのは悪いことか?」
ローレルは頭を振った。
「まさか。では公よ、何をお知りになりたいのか。敵を殲滅する新たな術ですか、それとも、決して破れぬ防護術ですか?」
南の国境での戦いにおいて、ローレルが献上した新しい魔術は随分と役に立っていた。圧倒的な力を持った将校達の多くが戦いに参加できない中で、素質と努力次第では平民であっても会得できる術式は貴重な戦力だった。
もっとも、ハティはそんなものを得るためにやってきたわけではない。
「ルプル砂漠の攻略ならば、至って順調だ。もうすぐ砦も奪還されることだろう」
「それは吉報、陛下も心安らかになられることでしょう」
「どうであろうな。呪いが完全に解けぬ限り、この国に平穏など訪れぬだろう……」
アリカの力を借りて一時の平和を得たとしても、皇族を呪う呪術者がいる限りは何の解決にもならない。
ハティはローレルから受け取った茶を一口含んで、それから続けた。
「強力な呪術を施すには相応の媒体が必要となる。もしくは、直接身体に触れて術式を刻む……そうだったな、ローレル・ハイランド」
「左様にございます」
「ならば、離れた地にいながら見知らぬ相手を呪い殺すことは不可能か?」
僅かに思案した後、ローレルは答えた。
「髪の毛、血液、爪などの組織……何かしら媒介するものさえ手に入れば、不可能ではないでしょう。媒介となるものが心臓に近ければ近いほど、呪いは強力になります。殺せるかどうかは相手の耐性次第でしょうが」
「卿は父の代より仕えてきた。いくらでも媒介を得る機会はあっただろうな」
皮肉めいたハティの呟きに、ローレルは僅かに顔をしかめる。
「公は私をお疑いでございますか。謂われなき疑念は、いくら公であっても不愉快にございますが」
「例えばの話、ただの戯言だ。そう本気で怒ることもあるまい。バルドがこれまで生き永らえているのも、一応卿の働きあってのことだろう?」
「ここ最近は目覚ましいほどお元気になられた。まことに良い兆候だ。何故急に回復されたのか、公は心当たりがおありで?」
白々しいことを聞きやがって――ハティは内心毒づきながら、薄く笑みを浮かべた。
「さあな。卿のおかげではないのか」
「そうだと嬉しいのですがね。陛下がお元気になられると、陛下の薔薇も元気になるようだ」
ハティは目を細めて、探るようにローレルを見つめた。
「……かの薔薇が気になるか。薔薇に関心を寄せるなど、卿らしくもない」
「私とて、薔薇を眺めることもありますよ。美しい薔薇が枯れてしまうのは惜しいではありませんか。自然の力の前では、どれほど手を加えようと駄目になってしまう」
「あれは特別な薔薇だ。何故枯れることがあろうか」
「――どれほど特別であっても、薔薇は所詮、薔薇でしかありません。火が回れば燃えるでしょうし、水を与えすぎれば腐ることもありましょう」
折角育った破魔の薔薇が、そのような些細なことで駄目になるとは到底思えなかった。
何よりも、アリカが大切に世話をしているのだ。
あれだけ目をかけていて、枯れることなどあるものか――。
「卿が何を企んでいるか知らぬが、無駄なことを考えぬことだ」
「私が何か策謀を巡らせているとお考えですか。私が殊、人付き合いと謀略に関しては不器用であることは、公もご存知でしょう。姦計を巡らせたところで、直ぐに暴かれてしまう……その程度のことしかできませぬ。仮に、私が何か企んでいるとしたら、公は陛下のお側を離れるべきではないかと……」
「なるほど、一理ある」
自嘲するように呟いて、ハティは立ち上がった。
「父とは違い、バルドは死なせぬ。絶対にな」
◇
その日の夕方、雪が降った。
最初はちらちらと舞うような雪だったが、次第に横殴りの吹雪へ変わっていき、もう春も間近と油断していた人々を容赦なく叩きつけた。
剣術の稽古に励んでいたバルドは急ぎ城の中へと駆け込み、侍従が運んできた白湯を飲み込んで灰色の空を見上げる。対角線上の窓際にアリカの姿を見つけ、彼は嬉しそうに笑って手を振った。そこにはもう、呪詛に飲まれそうだったひ弱な少年の影はない。
何事もなかったかのように元気な姿を見ていると、今すぐにあの少年を押し倒して強引にことを済ませる必要があるのか分からなくなってくる。
バルドはアリカがどうやって呪詛を解いてきたのかを知らないのだ。
ハティが連れてきた女が――聖女が、うつくしいものだと信じて疑っていなかった。濁りなく澄んだ瞳に見つめられると、何も後ろめたいことがあるわけでもないのに、心苦しくなる。
この身を穿ち、血潮に触れる――たったそれだけのこと。
アリカに刃を向けて血を浴びるか、男根で身体を貫いて交わるか。
そのどちらも、バルドに対しては難しいように思える。
彼のことを思うのならば、早々に呪詛を解いた方がいいに決まっている。
皇帝を救い元凶を絶ってしまえば、また気ままに薔薇を売り歩く生活に戻れるというのに。
何を躊躇う必要がある。
齢十五の皇帝が、心に深い傷を刻むことになるのを恐れているのか。無理やり襲われる恐怖と嫌悪感を誰よりも知っているが故に、迷いが生じるのか。それとも、この期に及んで別の何かが引っかかるのか……。
(けれど……――迷っている時間はない)
――もしも本当にドールの呪詛が、おにいさまが、バルドを殺すというのなら。
それは、アリカにも責任がある。
おにいさまをそこまで追い詰めてしまったのは、アリカなのだ。
ため息をついたその時だ。
「アリカおねえさま」
バルドはアリカの姿を認めると、子犬のように駆けてきた。あまりにも懸命で愛らしく、つい笑みがこぼれる。
「折角の稽古も、悪天候に阻まれてしまいましたね」
息を切らして走ってきたバルドは、膝に両手をついて呼吸を整えてから顔を上げた。
「よもやこの時期に雪が降るなど、予測もしておりませんでした。体もようやく温まってきたところなのに、残念です」
そこでふと緊張気味に、アリカの周囲や後ろを探るように視線を泳がせるバルドを見て、アリカは察した。
「アンネリーゼ様ならおりませんよ」
「べ、別に、アンネリーゼのことなど気にしておりませんよ」
「稽古を見られるのが嫌なのですか?」
言葉を詰まらせ、バルドは頷いた。
「あの人はいつも僕のことを揶揄してくるので、あまり見られたくはないのです。多分ユリアン――ブラーヴ候にも筒抜けになってしまうし。今日の稽古だって、きっとどこかで見ていて、後で何を言われることか……」
バルドは、アンネリーゼが歪んだ愛情を向けていることに、全く気付いていなかった。
アリカは苦笑した。
「陛下は、強くなりたいのですか?」
バルドは少し俯いて思案した後、素直に頷いた。
「今の僕にできることは、他にあまりないように思うので……。せめて、自分の身くらいは守れるようにならないと」
「それは殊勝なこと」
バルドを暖炉の前に座らせて蜂蜜と檸檬入りのお茶を渡すと、バルドはにっこり笑って礼を言いつつ、アリカも隣に腰かけるようにソファーをとんと叩いた。アリカは丁重に辞退したが、バルドは頑として譲らず、腕を引いてほぼ無理やり自分の隣に座らせた。
アリカは小さく笑って続けた。
「陛下の努力次第では、兄君を追い抜くほどの腕前になるかもしれませんね」
「そうかな……兄上のようになれたらかっこいいでしょうけれど、いつかあんな風になれるのでしょうか」
バルドの瞳は憧憬に輝いていた。少年の素直な反応は微笑ましく、アリカは笑みを深めた。
(本当にハティを敬愛しているのね)
兄が大好きで、いつまでもその背中を追いかけていたい――アリカにはその気持ちがよく分かる。
力などよりも、おにいさまからの愛が欲しかった。ただ、それだけだった。
バルドもそうなのだろうか。
ハティがバルドを大切に思うように、バルドもまた、ハティを大切に思っている。
それは、何よりも尊いことだ。
バルドの頭を無意識のうちに撫でて、アリカは答えた。
「研鑽を積んでゆけば、きっと。誰にも負けないくらいお強くなられますとも」
「本当にそう思います?」
バルドは寂しそうに笑った。
「でも、誰もそういう期待をしていないの……分かっているのです」
バルドが諸侯から侮られ、傀儡のように玉座に就いているのは十分分かっていた。
病魔に侵され、いつ死ぬかも分からないような皇帝には誰も期待しない。隠すつもりもないのか、それともそこまでの余裕がないのか、あからさまな態度なのだというから腹が立つ。
「いくら兄上に憧れたところで、僕にはそこまでの時間があるとも思えない」
ぽつりと零れた言葉に、アリカは胸が詰まるような思いがした。
バルドは、知っているのだ。
アリカの薔薇が枯れてしまえば、再びその身が病魔に囚われてしまうこと。
そうなれば、もう長くないこと。
皇帝であるバルドはアリカのように何もかも捨てて逃げ出すことはできず、待つことしかできないのだ。何の非もないというのに、このままでは呪殺される。
やるせない思いが溢れてくる。
「大丈夫ですよ、陛下」
優しく少年の頭を撫でて宥めるように呟くと、バルドはふとアリカの顔を覗き込んだ。
「――アリカおねえさま、何故そんなに悲しそうな顔をされるのですか?」
そっと頬に手を伸ばして、バルドは心配そうに訊ねた。
その手は暖かく、優しさに満ちていた。彼の澄んだ瞳に映るアリカは随分と情けなく、寄る辺のないように揺蕩っている。
「ごめんなさい。陛下を安心させよう思ったのですが、逆に心配させてしまいましたね」
「アリカおねえさま……」
「陛下は、御身の境遇を恨んだりされませんか? 理不尽なこの状況を……」
「おかしなことを聞きますね」
バルドは軽やかに笑って、悩む風でもなく、なんでもないように答える。
「何も悪いことをしたわけでもないのに、自由に動くこともままならなかったのですから、腹が立ちますよ。僕は聖人君子でもないし……」
「ならば――」
アリカの言葉を遮るようにバルドは続けた。
「でも、こうしてアリカおねえさまが来て下さったから、いつまでも恨み言ばかり言うのはやめようと思うのです。それよりも、これからのことを考える方がずっと大切でしょう?」
「これからのことを……」
「過去のことを省みるのは大切だけれど、過ぎたものばかりを辿っていてはいつまで経っても前に進めない。道はこれから自らが見いだすもので、王たるもの、国の未来を考えて歩まねばならないのです」
アリカはぱちくりと瞬きをして、随分大人びた考え方を持つ少年をまじまじと見つめた。
聡明さを持ちながらもまだまだ未熟な皇帝だと認識していたのに、その言葉には重みがある。これで諸侯に侮られているというのだから不思議だ。こんなにも、人を惹きつけるというのに。
感心しきっていたアリカに、バルドは小さく笑った。
「……全部、兄上の受け売りですけれどね」
「なるほど。たまには殿下もよいことをおっしゃるようで、安心いたしました。あの不遜な態度からは考えられないほど、しっかりした考えをお持ちなようで」
おにいさまが、そんな考えをお持ちであればドールがここまで衰退することもなかったのだろうか。
過去の栄華に縋り、先代の王の影に苦しんでいたおにいさま。そして道を踏み外した愚かなおにいさま。
どんなに辛く、苦しい思い出も、幸せな思い出も、辿れば辿るほど、今が見えなくなってしまう――。
アリカ自身もまた、過去に囚われている愚かな女に違いなかった。
「でも僕には、とてもそんな余裕はなかった。明日が来るかも分からないのに、国の未来なんて到底考えられなかった……」
「……お察しいたします」
先代皇帝が亡くなり、バルドが即位してから三年余り。その間、バルドはずっと、じりじりと迫りくる死の影を見つめることしかできなかったのだ。
抗うこともかなわず、振り払うこともできない。
その恐怖がアリカには手に取るように分かる。
「目を閉じて眠ってしまえば、そのまま目覚めないかもしれないと思うと、怖かった。かといって、覚醒していても呪いの影は常に付きまとっていました。これから先も、僕が死ぬまでずっとそれは変わらないはずでした」
アリカはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
力んで白むアリカの指先に触れ、バルドは優しく微笑んだ。
「もう諦めていた時、アリカおねえさまが薔薇をくださいました。僕を、助けてくださった。兄上がおっしゃっていたように、貴女は闇を照らす光です」
光。
そんな綺麗な言葉で言い表せるものなのだろうか。リッピ候も、バルドも、ハティでさえアリカを光に喩える。
破魔の聖女を巡って、どれほどの血が流れたことか。真実から目を背け、盲目的におにいさまを支持し、罪のない人々から魔法を奪った。助かるはずの人々を見殺しにした。
どうしようもなく、愚かだった。
暗い水底に落ちていくような虚無感がアリカを襲った。
ただ静かに、アリカは返す。
「アリカはそのように美しいものではありませんよ。相手を値踏みして選んできた。ハティのこともそう。リッピ候のことも。助けたい人、助けたくない人、そうやって選り分けてきた。誰も彼も平等に助けてきたわけではありません。陛下のことはもちろん助けたい。このまま呪殺されるには惜しいほど、あなたには大きな可能性が秘められている」
「アリカ、おねえさま……」
少年の細く冷たい指が、輪郭をなぞる。頬に触れる指先は震えていた。
「おねえさまは間違いなく、僕にとっての光。それはたとえアリカおねえさまであっても、否定することなどできない確かなものです。だから……」
言葉は最後まで紡がれることはなく、バルドは急に咳込んだ。
額からはじわりと汗が滲み、血色の良かった肌から血の気が引いていた。心なしか息遣いは荒く、苦し気に胸元を抑えてソファーにもたれかかる。そのまま目を閉じて、バルドは気を失ってしまった。
バルドの魔力の流れが急激に乱れたのだ。
(おかしい。どういうことなの?)
戸惑い、焦りながらバルドに授けた薔薇をどうにか探り出すと、アリカは青ざめ小さく息をのんだ。花の中に小さな黒い虫が這いずり回り、花弁を食い荒らしていたのだ。
(この薔薇、このまま枯れてしまう)
薔薇が枯れて破魔の力が弱まり、呪詛が再び身体を蝕み始めていた。
他の薔薇を取りに行っている時間はない。
このまま眠ってしまえば稽古の後で疲れている今のバルドでは抵抗できず、そのままきっと――。
心に鎧を纏わせようとバルドを何度か揺さぶって起こそうと試みたが、起きる気配はない。
「バルド、眠っては駄目! 起きなさい!」
青白い頬を叩いたり、耳元で呼名するが小さく呻くだけで反応は乏しい。
躊躇っている時間はない。
アリカはバルドの身体をまさぐって銀細工の短刀をさっと抜き取ると、自らの左腕を切りつけた。さぞや名のある短刀なのだろう。切れ味は素晴らしく、なぞるだけで皮膚は切り裂かれて鮮やかな血潮が噴出した。焼け付くような激痛に耐えつつ、バルドにも刃を振りかざして同じように傷をつける。
(お願いだから、失血死しないでよ――)
アリカは目を閉じて流れる血はすべて彼の傷に垂れるよう、腕をバルドの身体にかざして詠唱を始めた。
「闇の深淵に還れ、招かれざる者よ。我が言の葉は頌歌、我が血潮は破魔の剣となりて汝を討つだろう――……」
――どうか、間に合って。
アリカは強く願った。
城の北に設けられたそこは薄暗く、明かりと言えば窓から僅かに差し込む光だけだ。
机と椅子、仮眠するために使う毛布がきちんと折りたたまれて置いてあるくらいで、必要最低限のもの以外何もない。他の魔術士達の部屋に入れば、足の踏み場もないほど山積みになった本や、魔法陣の図式だの、中身が知れない怪しげな瓶――とんでもなく希少で価値のあるものらしい――がそこらに転がっているものだが、彼のそこはむしろ埃一つない、極めて清潔な部屋だった。
先代が急遽され、バルドも病魔に侵されてから多忙を極めて家に帰ることもなかったと聞くが、その割には生活感がまるでなかった。生きることに意味を感じていないかのようで、食事も水分もほとんどとらないという話である。
一通り見渡しても紙媒体は見当たらない。情報等はすべて魔石の中に投影されているのだ。それらは厳重な封印の元管理されているようで、ローレル以外に覗くことはできない。機密の管理を任せるのならば彼以上の適任者はいないだろう。現に彼の元には機密事項の記された魔石が数多く預けられている。彼の持つ情報を得ようと考えるものは少なくないが、大変厄介なことに、その情報を無理やり引き出そうとすると蛙に変えられてしまう術がかかっているという。
ともあれ、粉骨砕身して国に仕えてきた宮廷魔術士のことを疑うものなどまずいなかった。何しろ十六の時に五つ星の称号を得た天才で、是非にと乞われて国に仕えた男である。先代からも覚えめでたかったかの者を、ハティはそれなりに慕っていた。
欠点があるとすれば、人付き合いがひどく苦手で、他国と密通するどころか自国の重鎮とのやり取りでさえ面倒くさがっているところだろうか。言葉数も少なく気難しい人柄だが、堅調な仕事ぶりは評価に値するもので、皆には一目置かれていた。
よって、つい先日までアンネリーゼからその名を聞かなければ、ローレルを疑おうなど思い当たらなかっただろう。
思えば、ハティが初めてドールを訪問した時にも、ローレルが随行していた。重要な場面には必ずかの者が同席していたのだ。
付き合いの長さもあるが、信頼できる男だと思っていた。何かの間違いであって欲しい。できることならば、穏便にことを運びたい。
ハティはローレルの疲れ切った顔を一瞥し、勧められるがまま軋む椅子に腰かけた。部屋に一つしかない椅子にハティが座ったため、ローレルは絨毯の上に直接腰を下ろす。
「今日は如何なる御用でございましょう。公はこのところ、よく私のところにおいでになられる」
「卿が家に帰らずに困ると報告を受けた。ローレル、何故家に帰らぬのだ。家族が寂しがっておろう」
ローレルは意外そうに片眉を上げ、動じることもなく答えた。
「今は家族のことよりも、陛下のお側にいることが肝要かと存じます」
「そうはいっても、もう何年も家を空けているだろう。愛娘を放っておいてよいのか?」
スコッルの報告によると、ローレルの一人娘――ルチア・ハイランドは数年前から行方不明、彼の妻は数年前に亡くなっている。
ルチアの足取りを辿ろうにも、彼女の記録は巧妙に削除されていた。ルチアを知る人間の記憶は不自然に歪められていたのだ。
「これでは、家出されても文句は言えぬだろう。娘が今どこにいるのか、卿にはわかっているのか?」
「もちろん、承知しておりますとも」
「何故連れ戻さぬ。一人娘が心配ではないのか」
「然るべき所にいると分かっている以上、無理に連れ帰ることもできませぬよ」
ただの家出ではなさそうだった。ローレルでさえ連れ帰れないとなると、相当厄介なところにルチアはいると見える。
ローレルは淡々と続けた。
「娘との時間はこれからいくらでも取り戻せましょう。しかし、陛下の時は待ってはくれぬのです。微力ではございますが、お役に立てるのであれば、私は陛下のお側にいたい」
「それはまた、随分と忠義なことだ」
言葉とは裏腹に、ハティは冷ややかにローレルを見下ろした。
「卿にそれほどの愛国心があったとは。これ以上国に尽くして何とする?」
「何がおっしゃりたいのでしょうか」
「折角暇をやろうと申しておるのに、頑なに断るのは何故だ? 卿一人、陛下の傍を離れたからと言って、今更どうにかなるわけでもあるまい。どう足掻いたところで、最後の一人が死ぬか、それとも呪術者が斃れるかせぬ限り、この呪いに終わりはこない。……我らの呪いは、そういうものであろう?」
「仰る通りにございます。病魔を治すには、破魔の聖女が魔力の流れを制御し、御身を蝕む呪いを払う必要がある。そして術者が斃れぬ限り、この呪いが果てることはない。故に、薔薇姫が見いだされることがあれば、私も気兼ねなく陛下の傍を離れることができましょう」
ローレルは畏まり、ハティに首を垂れた。
「私の前に聖女をお連れ下さるというのなら、いくらでも」
「できぬ相談だな」
「そうでございましょうね」
すべてを見透かすかのようにローレルは口の端を吊り上げる。
「もっとも、陛下から直接お言葉をいただけるのであれば、私はいつでもここを辞す覚悟がございますよ。王の命には逆らえますまい。矮小なこの身に、選択の自由などないのですから」
「バルドがそんなことを言うと思うか? ただでさえ、味方となるものが少ない中で……」
「おっしゃらないでしょうね。ハティ様がお口添えすればまた別かもしれませんが」
バルドの側を意地でも離れないところを見ると、猶更怪しいことこの上ない。確証が持てたのなら、今すぐにでもローレルを斬って捨てるくらいの覚悟でやってきたのだが、なかなか真意が伺い知れない。
ハティは表情を消したまま、ローレルへ訊ねた。
「今日は何故バルドの側におらぬ」
「時にそういう日もございますよ。陛下も、始終世話焼きじじいが傍にいては鬱陶しいでしょう」
「ほう、分かっていながらバルドに張り付いていたのか。卿もなかなかの性格だな」
嘲るように返すと、ローレルは肩をすくめた。
「そうでなければ、到底、宮廷魔術士など務まりません」
そのまま立ち上がると、親指大ほどに小さくしたカップを取り出し、それを魔術で元の大きさに戻した。更に湯気の上つ銀のポットをどこからともなく取り出してカップに注ぐと、芳しい香りの茶がそれを満たした。
ハティに茶を渡しながら、ローレルはため息をついた。
「公は私と閑談に興じるために参られたと見える」
「四六時中バルドに張り付いていた卿が珍しく一人でいるのだ。知恵の宝庫とも言われた宮廷魔術士に少しばかりご教示願いたいと思うのは悪いことか?」
ローレルは頭を振った。
「まさか。では公よ、何をお知りになりたいのか。敵を殲滅する新たな術ですか、それとも、決して破れぬ防護術ですか?」
南の国境での戦いにおいて、ローレルが献上した新しい魔術は随分と役に立っていた。圧倒的な力を持った将校達の多くが戦いに参加できない中で、素質と努力次第では平民であっても会得できる術式は貴重な戦力だった。
もっとも、ハティはそんなものを得るためにやってきたわけではない。
「ルプル砂漠の攻略ならば、至って順調だ。もうすぐ砦も奪還されることだろう」
「それは吉報、陛下も心安らかになられることでしょう」
「どうであろうな。呪いが完全に解けぬ限り、この国に平穏など訪れぬだろう……」
アリカの力を借りて一時の平和を得たとしても、皇族を呪う呪術者がいる限りは何の解決にもならない。
ハティはローレルから受け取った茶を一口含んで、それから続けた。
「強力な呪術を施すには相応の媒体が必要となる。もしくは、直接身体に触れて術式を刻む……そうだったな、ローレル・ハイランド」
「左様にございます」
「ならば、離れた地にいながら見知らぬ相手を呪い殺すことは不可能か?」
僅かに思案した後、ローレルは答えた。
「髪の毛、血液、爪などの組織……何かしら媒介するものさえ手に入れば、不可能ではないでしょう。媒介となるものが心臓に近ければ近いほど、呪いは強力になります。殺せるかどうかは相手の耐性次第でしょうが」
「卿は父の代より仕えてきた。いくらでも媒介を得る機会はあっただろうな」
皮肉めいたハティの呟きに、ローレルは僅かに顔をしかめる。
「公は私をお疑いでございますか。謂われなき疑念は、いくら公であっても不愉快にございますが」
「例えばの話、ただの戯言だ。そう本気で怒ることもあるまい。バルドがこれまで生き永らえているのも、一応卿の働きあってのことだろう?」
「ここ最近は目覚ましいほどお元気になられた。まことに良い兆候だ。何故急に回復されたのか、公は心当たりがおありで?」
白々しいことを聞きやがって――ハティは内心毒づきながら、薄く笑みを浮かべた。
「さあな。卿のおかげではないのか」
「そうだと嬉しいのですがね。陛下がお元気になられると、陛下の薔薇も元気になるようだ」
ハティは目を細めて、探るようにローレルを見つめた。
「……かの薔薇が気になるか。薔薇に関心を寄せるなど、卿らしくもない」
「私とて、薔薇を眺めることもありますよ。美しい薔薇が枯れてしまうのは惜しいではありませんか。自然の力の前では、どれほど手を加えようと駄目になってしまう」
「あれは特別な薔薇だ。何故枯れることがあろうか」
「――どれほど特別であっても、薔薇は所詮、薔薇でしかありません。火が回れば燃えるでしょうし、水を与えすぎれば腐ることもありましょう」
折角育った破魔の薔薇が、そのような些細なことで駄目になるとは到底思えなかった。
何よりも、アリカが大切に世話をしているのだ。
あれだけ目をかけていて、枯れることなどあるものか――。
「卿が何を企んでいるか知らぬが、無駄なことを考えぬことだ」
「私が何か策謀を巡らせているとお考えですか。私が殊、人付き合いと謀略に関しては不器用であることは、公もご存知でしょう。姦計を巡らせたところで、直ぐに暴かれてしまう……その程度のことしかできませぬ。仮に、私が何か企んでいるとしたら、公は陛下のお側を離れるべきではないかと……」
「なるほど、一理ある」
自嘲するように呟いて、ハティは立ち上がった。
「父とは違い、バルドは死なせぬ。絶対にな」
◇
その日の夕方、雪が降った。
最初はちらちらと舞うような雪だったが、次第に横殴りの吹雪へ変わっていき、もう春も間近と油断していた人々を容赦なく叩きつけた。
剣術の稽古に励んでいたバルドは急ぎ城の中へと駆け込み、侍従が運んできた白湯を飲み込んで灰色の空を見上げる。対角線上の窓際にアリカの姿を見つけ、彼は嬉しそうに笑って手を振った。そこにはもう、呪詛に飲まれそうだったひ弱な少年の影はない。
何事もなかったかのように元気な姿を見ていると、今すぐにあの少年を押し倒して強引にことを済ませる必要があるのか分からなくなってくる。
バルドはアリカがどうやって呪詛を解いてきたのかを知らないのだ。
ハティが連れてきた女が――聖女が、うつくしいものだと信じて疑っていなかった。濁りなく澄んだ瞳に見つめられると、何も後ろめたいことがあるわけでもないのに、心苦しくなる。
この身を穿ち、血潮に触れる――たったそれだけのこと。
アリカに刃を向けて血を浴びるか、男根で身体を貫いて交わるか。
そのどちらも、バルドに対しては難しいように思える。
彼のことを思うのならば、早々に呪詛を解いた方がいいに決まっている。
皇帝を救い元凶を絶ってしまえば、また気ままに薔薇を売り歩く生活に戻れるというのに。
何を躊躇う必要がある。
齢十五の皇帝が、心に深い傷を刻むことになるのを恐れているのか。無理やり襲われる恐怖と嫌悪感を誰よりも知っているが故に、迷いが生じるのか。それとも、この期に及んで別の何かが引っかかるのか……。
(けれど……――迷っている時間はない)
――もしも本当にドールの呪詛が、おにいさまが、バルドを殺すというのなら。
それは、アリカにも責任がある。
おにいさまをそこまで追い詰めてしまったのは、アリカなのだ。
ため息をついたその時だ。
「アリカおねえさま」
バルドはアリカの姿を認めると、子犬のように駆けてきた。あまりにも懸命で愛らしく、つい笑みがこぼれる。
「折角の稽古も、悪天候に阻まれてしまいましたね」
息を切らして走ってきたバルドは、膝に両手をついて呼吸を整えてから顔を上げた。
「よもやこの時期に雪が降るなど、予測もしておりませんでした。体もようやく温まってきたところなのに、残念です」
そこでふと緊張気味に、アリカの周囲や後ろを探るように視線を泳がせるバルドを見て、アリカは察した。
「アンネリーゼ様ならおりませんよ」
「べ、別に、アンネリーゼのことなど気にしておりませんよ」
「稽古を見られるのが嫌なのですか?」
言葉を詰まらせ、バルドは頷いた。
「あの人はいつも僕のことを揶揄してくるので、あまり見られたくはないのです。多分ユリアン――ブラーヴ候にも筒抜けになってしまうし。今日の稽古だって、きっとどこかで見ていて、後で何を言われることか……」
バルドは、アンネリーゼが歪んだ愛情を向けていることに、全く気付いていなかった。
アリカは苦笑した。
「陛下は、強くなりたいのですか?」
バルドは少し俯いて思案した後、素直に頷いた。
「今の僕にできることは、他にあまりないように思うので……。せめて、自分の身くらいは守れるようにならないと」
「それは殊勝なこと」
バルドを暖炉の前に座らせて蜂蜜と檸檬入りのお茶を渡すと、バルドはにっこり笑って礼を言いつつ、アリカも隣に腰かけるようにソファーをとんと叩いた。アリカは丁重に辞退したが、バルドは頑として譲らず、腕を引いてほぼ無理やり自分の隣に座らせた。
アリカは小さく笑って続けた。
「陛下の努力次第では、兄君を追い抜くほどの腕前になるかもしれませんね」
「そうかな……兄上のようになれたらかっこいいでしょうけれど、いつかあんな風になれるのでしょうか」
バルドの瞳は憧憬に輝いていた。少年の素直な反応は微笑ましく、アリカは笑みを深めた。
(本当にハティを敬愛しているのね)
兄が大好きで、いつまでもその背中を追いかけていたい――アリカにはその気持ちがよく分かる。
力などよりも、おにいさまからの愛が欲しかった。ただ、それだけだった。
バルドもそうなのだろうか。
ハティがバルドを大切に思うように、バルドもまた、ハティを大切に思っている。
それは、何よりも尊いことだ。
バルドの頭を無意識のうちに撫でて、アリカは答えた。
「研鑽を積んでゆけば、きっと。誰にも負けないくらいお強くなられますとも」
「本当にそう思います?」
バルドは寂しそうに笑った。
「でも、誰もそういう期待をしていないの……分かっているのです」
バルドが諸侯から侮られ、傀儡のように玉座に就いているのは十分分かっていた。
病魔に侵され、いつ死ぬかも分からないような皇帝には誰も期待しない。隠すつもりもないのか、それともそこまでの余裕がないのか、あからさまな態度なのだというから腹が立つ。
「いくら兄上に憧れたところで、僕にはそこまでの時間があるとも思えない」
ぽつりと零れた言葉に、アリカは胸が詰まるような思いがした。
バルドは、知っているのだ。
アリカの薔薇が枯れてしまえば、再びその身が病魔に囚われてしまうこと。
そうなれば、もう長くないこと。
皇帝であるバルドはアリカのように何もかも捨てて逃げ出すことはできず、待つことしかできないのだ。何の非もないというのに、このままでは呪殺される。
やるせない思いが溢れてくる。
「大丈夫ですよ、陛下」
優しく少年の頭を撫でて宥めるように呟くと、バルドはふとアリカの顔を覗き込んだ。
「――アリカおねえさま、何故そんなに悲しそうな顔をされるのですか?」
そっと頬に手を伸ばして、バルドは心配そうに訊ねた。
その手は暖かく、優しさに満ちていた。彼の澄んだ瞳に映るアリカは随分と情けなく、寄る辺のないように揺蕩っている。
「ごめんなさい。陛下を安心させよう思ったのですが、逆に心配させてしまいましたね」
「アリカおねえさま……」
「陛下は、御身の境遇を恨んだりされませんか? 理不尽なこの状況を……」
「おかしなことを聞きますね」
バルドは軽やかに笑って、悩む風でもなく、なんでもないように答える。
「何も悪いことをしたわけでもないのに、自由に動くこともままならなかったのですから、腹が立ちますよ。僕は聖人君子でもないし……」
「ならば――」
アリカの言葉を遮るようにバルドは続けた。
「でも、こうしてアリカおねえさまが来て下さったから、いつまでも恨み言ばかり言うのはやめようと思うのです。それよりも、これからのことを考える方がずっと大切でしょう?」
「これからのことを……」
「過去のことを省みるのは大切だけれど、過ぎたものばかりを辿っていてはいつまで経っても前に進めない。道はこれから自らが見いだすもので、王たるもの、国の未来を考えて歩まねばならないのです」
アリカはぱちくりと瞬きをして、随分大人びた考え方を持つ少年をまじまじと見つめた。
聡明さを持ちながらもまだまだ未熟な皇帝だと認識していたのに、その言葉には重みがある。これで諸侯に侮られているというのだから不思議だ。こんなにも、人を惹きつけるというのに。
感心しきっていたアリカに、バルドは小さく笑った。
「……全部、兄上の受け売りですけれどね」
「なるほど。たまには殿下もよいことをおっしゃるようで、安心いたしました。あの不遜な態度からは考えられないほど、しっかりした考えをお持ちなようで」
おにいさまが、そんな考えをお持ちであればドールがここまで衰退することもなかったのだろうか。
過去の栄華に縋り、先代の王の影に苦しんでいたおにいさま。そして道を踏み外した愚かなおにいさま。
どんなに辛く、苦しい思い出も、幸せな思い出も、辿れば辿るほど、今が見えなくなってしまう――。
アリカ自身もまた、過去に囚われている愚かな女に違いなかった。
「でも僕には、とてもそんな余裕はなかった。明日が来るかも分からないのに、国の未来なんて到底考えられなかった……」
「……お察しいたします」
先代皇帝が亡くなり、バルドが即位してから三年余り。その間、バルドはずっと、じりじりと迫りくる死の影を見つめることしかできなかったのだ。
抗うこともかなわず、振り払うこともできない。
その恐怖がアリカには手に取るように分かる。
「目を閉じて眠ってしまえば、そのまま目覚めないかもしれないと思うと、怖かった。かといって、覚醒していても呪いの影は常に付きまとっていました。これから先も、僕が死ぬまでずっとそれは変わらないはずでした」
アリカはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
力んで白むアリカの指先に触れ、バルドは優しく微笑んだ。
「もう諦めていた時、アリカおねえさまが薔薇をくださいました。僕を、助けてくださった。兄上がおっしゃっていたように、貴女は闇を照らす光です」
光。
そんな綺麗な言葉で言い表せるものなのだろうか。リッピ候も、バルドも、ハティでさえアリカを光に喩える。
破魔の聖女を巡って、どれほどの血が流れたことか。真実から目を背け、盲目的におにいさまを支持し、罪のない人々から魔法を奪った。助かるはずの人々を見殺しにした。
どうしようもなく、愚かだった。
暗い水底に落ちていくような虚無感がアリカを襲った。
ただ静かに、アリカは返す。
「アリカはそのように美しいものではありませんよ。相手を値踏みして選んできた。ハティのこともそう。リッピ候のことも。助けたい人、助けたくない人、そうやって選り分けてきた。誰も彼も平等に助けてきたわけではありません。陛下のことはもちろん助けたい。このまま呪殺されるには惜しいほど、あなたには大きな可能性が秘められている」
「アリカ、おねえさま……」
少年の細く冷たい指が、輪郭をなぞる。頬に触れる指先は震えていた。
「おねえさまは間違いなく、僕にとっての光。それはたとえアリカおねえさまであっても、否定することなどできない確かなものです。だから……」
言葉は最後まで紡がれることはなく、バルドは急に咳込んだ。
額からはじわりと汗が滲み、血色の良かった肌から血の気が引いていた。心なしか息遣いは荒く、苦し気に胸元を抑えてソファーにもたれかかる。そのまま目を閉じて、バルドは気を失ってしまった。
バルドの魔力の流れが急激に乱れたのだ。
(おかしい。どういうことなの?)
戸惑い、焦りながらバルドに授けた薔薇をどうにか探り出すと、アリカは青ざめ小さく息をのんだ。花の中に小さな黒い虫が這いずり回り、花弁を食い荒らしていたのだ。
(この薔薇、このまま枯れてしまう)
薔薇が枯れて破魔の力が弱まり、呪詛が再び身体を蝕み始めていた。
他の薔薇を取りに行っている時間はない。
このまま眠ってしまえば稽古の後で疲れている今のバルドでは抵抗できず、そのままきっと――。
心に鎧を纏わせようとバルドを何度か揺さぶって起こそうと試みたが、起きる気配はない。
「バルド、眠っては駄目! 起きなさい!」
青白い頬を叩いたり、耳元で呼名するが小さく呻くだけで反応は乏しい。
躊躇っている時間はない。
アリカはバルドの身体をまさぐって銀細工の短刀をさっと抜き取ると、自らの左腕を切りつけた。さぞや名のある短刀なのだろう。切れ味は素晴らしく、なぞるだけで皮膚は切り裂かれて鮮やかな血潮が噴出した。焼け付くような激痛に耐えつつ、バルドにも刃を振りかざして同じように傷をつける。
(お願いだから、失血死しないでよ――)
アリカは目を閉じて流れる血はすべて彼の傷に垂れるよう、腕をバルドの身体にかざして詠唱を始めた。
「闇の深淵に還れ、招かれざる者よ。我が言の葉は頌歌、我が血潮は破魔の剣となりて汝を討つだろう――……」
――どうか、間に合って。
アリカは強く願った。
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