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第3章 罠

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 肘が隠れるほどの長い手袋をはめ、日焼け防止につばの広い帽子を深々と被る。長い髪はゆるく編み込んで帽子の中に入れ込み、ドレスが汚れないよう白いエプロンをかけた。
今のアリカはどこからどう見ても、ただの侍女だ。事実、薔薇園に向かう途中でもすれ違い様に咎める者は誰もいなかった。
 片手には作業に必要な道具を入れた籠を持ち、空いた手で裾をわずかにたくし上げて薔薇園の中に入っていく。足を踏み入れた瞬間アリカの鼻腔に薔薇の芳しい香りが満ちた。
 このところ軍議が続いている。南の国境戦線は一進一退を繰り返しているとか。
 ハティは常に目の届くところにアリカを置こうとし、軍議の度、毎回城に連れてきた。表向きはハティ専属の侍女、軍議が終われば四六時中一緒に過ごし、解放しようとしない。
ハティが傍にいない時も、誰かが陰からアリカを護衛している。――聞こえがいいが、要するに動向の監視、全てはハティに筒抜けである。ドールの動きも気にかかる中、野放しにされるはずもない。散々勝手をしたのだし、大人しく現状を受け入れるしかなかった。
 逆に、未だ見限られていないのが不思議だった。ハティの考えが分からない――得体の知れないその想いは、底なし沼に引きずり込むようにアリカの不安を煽るのだ。

 ただ、軍議の終わりを待つ間如何せん手持無沙汰だった。城内で行ける場所は限られており、退屈を紛らわせるために借りた本は大体読み終わってしまった。
 同じ城内にいてもバルドに近づくことは許されない。三公の許しを得ないものが皇帝陛下に近づこうものならば、即斬り捨てられてもおかしくないのだ。
 もどかしくて仕方ない。
 バルドに直接会えないとなれば、できることは限られる。
 ――呪詛の進行を少しでも遅らせるために、せめて瘴気を払う場所があれば。
 少しずつアリカの血を吸い上げた薔薇はどれよりも瑞々しく、花弁は真紅の宝珠のような輝きを放っている。
 ネーヴェルでそうしたように、ここでも破魔の薔薇を育てることができれば。
 そんな思いから、枯れかけの薔薇の世話を始めた。


 作業を終えて庭園のアーチをくぐったところで、行く手を阻むようにして薔薇に見入っている少女の姿が目に入る。レースで編まれた日傘を差して佇む姿は、まるで一枚の絵画を見ているようだった。
 陽に透ける亜麻色の髪に、深い青緑色の瞳。すっと通った鼻筋に、薄い唇は珊瑚のよう。抜けるような白い肌から覗くのは華奢な四肢。夢か幻かと思うほどに美しい少女だ。それは人を自然と傅かせるような、気安く言葉をかけることすら憚られるような高貴な雰囲気を纏っていた。
 少なくともこの間の夜会にはいなかった。これほど目立つ容姿であれば一度見えれば忘れるはずもない。
 金の髪に翠碧の瞳。その特徴からも皇族に近い者だろうが、アリカは彼女の名前を思い出せなかった。
 彼女はじっと何か考え込むように薔薇を見つめていたが、アリカに気付くとおっとりと口を開いた。

「この薔薇は、貴女がお世話をしているのですか?」
「左様にございます」

 畏まって跪くアリカに、彼女はにっこりと微笑んだ。それまでの近寄り難さは失せて、親しげな印象を抱かせる。

「その薔薇は当代皇帝陛下のもの。わたくしの父が、即位の祝いに献じたものですわ。陛下の御世が長く続きますようにと願いを込めて……。ですがその父も先日身罷りました。そのまま薔薇も枯れてしまうと思いましたが、安心しましたわ。聖なる乙女の血を分け与えて咲く薔薇というのは、これほど輝くものなのですね」 

 自然と流れた少女の言葉に背筋が凍る。
 聞き間違いではない。少女は知っているのだ。
 誰かに時折覗かれていることは薄々勘付いていた。表向きハティの侍女として登城する以上、不特定多数の人間に目撃されることは重々承知していたが、優秀な護衛達に見守られているという安心感もあった。相手は強引に接触を図ってくる様子もなかった為、視線には気付かぬふりをしてきた。
 ネーヴェルでの一件を教訓にして、決して人目のあるところで血を与えなかった。再三注意していた。
 それでも気付かれた。
 しかも堂々と接触を試みるとは豪胆だ。これが多少なりと強引な手段に出てくれたなら、それを口実にハティの配下が手出しできるのに。
 どうやら、ただのお嬢様ではなさそうだ。

「わたくしはアンネリーゼと申します。アリカ様。お会いできて光栄ですわ」

 一体何者なのか探る前に、彼女はアリカの顔を覗き込んで自らの名を告げた。
 警戒心を抱くアリカに、アンネリーゼは優しく微笑む。途端に、背後の薔薇達が一層輝き、その妖精のように可憐な美しさを引き立てた。ただ、彼女には清楚で可憐な百合の花の方が似合う気がする。

「ハティ様からは、今日アリカ様のお相手をするようにと仰せつかっておりますわ。くれぐれもよろしく頼むと」

 ハティからはそのようなことを聞いた覚えはない。
 黙したままのアリカに、彼女は更に続けた。

「退屈を紛らわせて差し上げて欲しい、と」
「……ハティ様が一介の侍女の相手をするようにと?」
 
 不審げに返せば、アンネリーゼは可愛らしく小首を傾げる。

「はい。そう承っておりますわ。暇を持て余しているだろうから、と」

 確かに、薔薇の世話は好きだが、終わってしまえばやることがない。
 目立つ行動を控える為に、仕事が終わればハティの部屋に閉じこもって本を読むだけだ。
 不用意に人と接触するなとも言われてもいる。言葉を交わすなどもってのほかだ。
ハティが、本当にこのアンネリーゼを寄こしたのだろうか。一介の侍女に扮するアリカの相手としては、少々目立ちすぎる。それこそハティが危惧する事態になりかねない。
 疑念を抱くアリカに、アンネリーゼは寂しそうに微笑む。

「わたくしが信用できませんか?」
「恐れながら、判じかねます」
「まあ。……困りましたね。どうすれば心を開いて下さるのかしら」

 大して困った風でもなく、アンネリーゼはくすりと笑う。それから何かを閃いたように手を叩くと、とんでもない提案をしてきた。

「一緒にお茶を飲むのも駄目ですか? 作業の後で喉が渇いておられるでしょう?」
「姫君とご一緒できるような身分でもございません」

 どこの家か定かではないが、相手は間違いなく皇族に連なる姫だ。これ以上アリカのことを詮索されては困るが、相手が相手なだけにハティの配下も迂闊に手出しできないだろう。
 きっぱりと断れば、アンネリーゼは鈴を転がしたように笑い出してアリカの手を引く。

「仕方ありませんね――では、命じます。アリカ、わたくしのお茶の相手を務めるように」

 アリカは顔が引き攣りそうになるのを辛うじて抑え、小さく首肯する。命じられれば従わざるを得ない。ここで逆らえばそれこそ悪目立ちするだろう。
 徹底して侍女に扮していることを逆手に取るとは、どうやらこのお嬢様は侮ったら痛い目を見ることになりそうだ。
 そっと溜息をつくと、アンネリーゼは思うところがあったのかこう付け加える。

「大丈夫、軍議が終わる前には戻ってきますわ。わたくしとて、ハティ様の逆鱗には触れたくありませんもの」

 ◇ 


「アンネリーゼ、どこに行っていらしたの――……」

 薔薇園を望める白い東屋でカップに口をつけていたレイラ・ペンドルトンは、アンネリーゼが連れてきたアリカと視線が合うと頭から雷を落とされるような衝撃を受けてそのまま固まった。
 そんなレイラに、アンネリーゼは満足げに微笑む。戦利品を獲た兵士のような笑みである。

「アリカ様を連れてきたわ」
「はあ!?」

 伯爵令嬢とは思えないほど素っ頓狂な声を上げるレイラをちらりとみやって、アリカは苦笑を浮かべた。
 レイラが幼馴染とのお茶会を楽しんでいたところ、アンネリーゼが突如立ち上がって去って行ったのはつい先ほどのことである。最近とみに望遠の魔石を覗き込んでは「なかなか守備が固いようね」とかなんとか呟いていたが、アンネリーゼが何を見ていたのかレイラは知る由もない。
 兎に角、それまで先日の夜会についてあれこれと不満やら噂話やらを語っていたレイラは、開いた口が塞がらなかった。
 ――どんな相手がいようとも一歩も引こうとしない貴女を返り討ちにしたなんて聞いてしまったら、その場にいなかったのが本当に悔やまれるわ。是非お会いしたい――などと言っていたのは冗談ではなかったようだ。
 レイラは途端に頭が痛くなり、額を抑えた。
 
「……アンネリーゼ、これは悪い夢かしら。是非そうだと言って欲しいわ」
「大丈夫、現実よ。欠伸が出るほどつまらない夜会の話より、とっても刺激的でしょう?」

 朗らかに笑うアンネリーゼは妖精のように可憐で美しい。さらっと吐かれた毒すら気に留まらないほど。
 その美しさで世の中の紳士淑女を虜にし、お目にかかれれば幸運だと言われるほど夜会には殆ど姿を見せない。振られた男性は星の数ほど、世間を騒がせる美丈夫が誘惑しても全く靡かず歯牙にもかけないことからついた通り名が『不落姫』。
 交友関係が異様に狭く、友人知人と呼べる人物も片手で足りるほどしかいない。皇族との所縁も深いためサロンへの招待状もたくさん届くが、何かと理由をつけては断っている。
 そんな掴みどころのないアンネリーゼだが、普段は引きこもりがちの癖に、世界情勢には驚くほど通じていた。少ない伝手から一体どうやって情報を仕入れているのか、不思議でならない。

「さあ、御掛けになってアリカ様。今日のお茶はエクシリア産ですのよ」

 勧められるがまま優雅に腰かけたアリカに、レイラの鼓動は逸った。
 アリカを目の前にするまでは今度こそ屈するものかと意気込んでいたものの、いざそうなると何故か泣きそうになる。
 敢えて言うなれば、それは絶対的な畏敬だった。
 あの誰にも靡かなかった狼公爵が選んだ人。
 ハティはこれまで、特定の誰かを連れて社交界に現れたことは一度もなかった。金で買った女か、気まぐれに選んだ女を連れてくることはあっても、それも結局一夜限りの関係である。
 その一夜で恋人面する勘違い女もいるが、大体相手にされず泣いて終わるのが落ちだ。人間関係は非常に淡白で、弟以外の誰かに執着する様子は見たことがない。
 そう、天地がひっくり返ったってありえないことだった。
 それ故に、己こそが運命の女ではないかと浅はかな夢を見る娘が後を絶たないのだ。あの狼公爵の心を射止めることができれば、どれほどの賞賛と羨望と嫉妬の的となることか。そしてその優越感たるや類を見ないだろう。氷のような眼差しが自分だけには熱く向けられることがあったとしたら、どんなに素晴らしいだろうと。
 レイラもまた、そんな夢を見る娘の一人だった。
 どんなに冷たくされようと絶対に諦めないが、氷のようなあの視線を前にすると竦んでそれ以上踏み込めなくなる。憧れと恐れがせめぎ合って、近づくことも難しくなるのだ。
 しかしアリカは、そんなハティの視線をものともしないような女性だった。軽くいなしてしまい微笑みさえ浮かべるような強かさがある。一見、娼婦のように見えたと言うのに、どこか近寄りがたささえ感じる美しい佇まいや雰囲気から、狼公爵の隣に立つのはアリカでなければ納得できないと思える。人生で初めて、負けたと感じた。
 きっとレイラだけではなく、ハティを狙っていた誰もが夢から覚めたに違いない。
 兎に角、もう一度お姉さまと対峙して張り合えと言われても、絶対に敵わないだろう。
 そこまで考えて、レイラはわなわなと唇を震わせる。
 ――このレイラ・ペンドルトンが、自ら負けを認めるなどなんたる屈辱。

「お久しぶりね、レイラちゃん」
「覚えていてくださったとは、光栄ですわ。お姉さま」
「もちろんだわ。あなたみたいな素直でかわいい子を忘れるわけがないでしょう」
「このわたくしにそんなことをおっしゃるのはお姉さまくらいです。そんなだから、噂の的になるのです」

 震える声でやっと返せば、アリカはふっと微笑んだ。その艶美な笑みに当てられるように顔が火照る。
 あの日の夜を知っているレイラがいるとなれば、もうアリカが侍女のふりをするのも無理があった。畏まった口調を止め、苦笑いを浮かべた。

「噂されるほどのことはしていないわよ」

 レイラは鼻を鳴らし、苛立ちを隠すように扇子で口元を覆った。

「ハティ様がお連れになった時点で注目されるのは当然のこと。それ以上にお姉さまは色々と目立ちすぎましたもの。――実際のところ、ハティ様とはどういうご関係ですの。はっきりなさっていただかなくては困りますわ」
「それはわたくしも気になっておりました。特にレイラなんて、未練がましく思い続けてしまうものね」 

 レイラに追従してアンネリーゼが鈴を転がしたように笑う。

「ただの仕事仲間よ」

 アリカは素直に答えた。
 レイラは目を眇め、アンネリーゼは曖昧な笑みを浮かべる。

「ハティ様とは長い付き合いですけれど、あの方が優しくするのは陛下だけ。身内には優しいくせに他人はただの手駒程度にしか思わないあの方が、アリカ様だけは見捨てない。それを仕事仲間の一言で片づけられるものでしょうか」
「あら、ハティ様はそこまで冷血ではなくてよ。手駒や捨て駒にしても、結局見かねて手助けしてしまうのだもの」

 どこか得意げにレイラが言った。
 二人がどういうわけか、アリカとハティが特別な仲だと認めさせたがっていることは不思議だった。レイラはハティのことを憎からず思っていることは傍目にも明らかだし、アンネリーゼに至っては何を考えているのか全く見当もつかない。
 
「……上に立つ以上、配下の責任を負うのは普通でしょう。手駒は湧いて出るものではないのだし、一度失えばもう二度と同じものは手に入らない。だから大事にすることに越したことはない。あたしも結局ハティの手駒の一つに過ぎないのよ」

 特別なんかじゃない、と自分に言い聞かせるように答える。
 ネーヴェフィールでアリカを見つけた時のハティの視線を今でも時々思い出す。どこか侮蔑さえ浮かぶ、冷たい視線を。聖女の力を気安く売り歩いたことへの非難と失望の込められた瞳は、到底忘れられるものではない。
 ハティのあの時の目はどんな言葉より雄弁にアリカを責め立てていた。
 何故そこまで堕ちたのか、こんなはずではない――と。
 レイラは眉を顰め、ぼんやりと紅い水面を見つめるアリカへ言い募る。

「では、お姉さまはハティ様のことを何とも思っていらっしゃらないと。他の女達と同様に、泡沫のような関係であると」

 アリカは口ごもった後、小さく呟くように返す。

「そうよ。何も思っていないわ」
「嘘みたい!」
 
 悲鳴に近い声で叫ぶレイラを押しとどめて、アンネリーゼは静かに問いかける。

「本当に何とも思わないのですか? 貴女おひとりの為に国軍を動かすことさえ厭わず、花街で赤目赤髪の女を売買することを禁じる命を出されたのは他でもないハティ様ですのに……」

 思い当たる節があり、合点がいく。
 花街でどれほど売り込もうとしても、誰も買わないどころか逃げた理由はそれだったのだ。狼公爵の出した禁止令を破ろうとする気概のあるものなど、アデレイド公くらいしかいない。
 抜け目のない男ゆえ、あらゆることを想定していたに違いない。
 例えば、逃げたアリカが奴隷商に捕まったとしても、確固たる律があればアリカの身柄は保護される。
 アンネリーゼは美しい翠眼を眇めてアリカを見つめた。澄んだ瞳は宝玉のようだ。

「――かの特徴を持つ女性が、一体この国に何人いるでしょう。聖女が断罪し、魔力を失った赤目の咎人ならばいざ知らず、貴女のような方は二人といない。少なくともわたくしは、アリカ様以外にその特徴を持つ者を知りません。伝え聞いた話では、ドールの薔薇姫こそがそんな容姿であると言いますが、残念ながら彼女は既に亡い」
 
 迂闊に墓穴を掘るようなことは言えずに言葉を探して唾を飲み込むと、アンネリーゼが心得ているかのように微笑みを浮かべる。
 その美しい笑みはアリカを落ち着かない気分にさせた。

「毛色の珍しい猫を飼っているのと同じような感覚でしょう。普通とは違う趣向だから面白がっているだけだわ」
「……まあ。そうかしら」

 白い陶器に、美しく映える紅い茶を注いでアンネリーゼはアリカへと勧めた。

「ところで、喉が渇いていらっしゃるでしょう? 先ほどから一口も飲んでいらっしゃらないわ」

 どうにもこの少女を信用できず、茶には手を付けないでいたのだが、直接指摘されると全く飲まないわけにもいかなかった。皇族の姫君の申し出を拒めば、色々と荒波立つのは明らかである。
 周囲にはハティの影も潜んでいる。茶や陶器に仕込まれているとしても、最悪の事態にはならないはずだ。何より今の皇族にとってアリカ――破魔の聖女は不可欠なはずだ。自惚れでなければ。
 アリカは意を決し、カップに手を伸ばした。
 喉を通る茶はほんのりとした甘さと香ばしさがある。深みのある味わいが舌に広がった。
 全て飲み下した後で、アリカは視界がぼやけるのを感じた。

「あら、どうされたのお姉さま」
「大丈夫ですか?」
 
 片手で目元を覆うアリカに、二人の少女は気遣わし気に声を掛けてくる。
 鈴を転がすような小鳥が囀るような甘い囁きが耳元で心地よく反響し、意識が少しずつ遠くなっていく。
 瞼は重く、抗いがたい睡魔が襲ってくる。
 アリカは唇を噛んでどうにか眠気を払おうと試みるが、一度到来したその波は容易に引いてくれない。
 
「何だか、急に眠くなって……」
「少しどこかのお部屋でお休みになります?」
「大丈夫……。心配されるでしょうし……」
「お姉さま、危ないですわ」

 立ち上がろうとするが地面が波打ったように感じ、足元がおぼつかない。明らかにおかしかった。
 ――やってくれるわ
 強気にアンネリーゼを射抜こうとするが、垂れ下がる瞼はそれを許さない。刹那に少女を見れば、その口元には笑みが浮かんでいるようだった。
 ぐらつくアリカをそっと支え、アンネリーゼは労わりを込めて囁いた。
 
「こんな状態でどちらへ行かれるのですか。一旦、お休みになられた方がよろしいかと」
 
 言い返すのも億劫になり、アリカはただただ言われるがまま頷いた。レイラがひたすら心配そうにしていることがおかしくて、笑おうとするが笑えない。
 城内の一室で休むだけならば、ハティもうるさいことは言わないだろう。
 眠気のせいか正常な判断ができなかったアリカは、アンネリーゼに手を引かれるがまま歩き、途中で逞しい腕に抱えられ、気付けば馬車の中で揺られていた。しかしそれが分かったところで、何故かこの睡魔は去ってくれず、それどころかどんどん深い眠りに落ちていくようだった。
 無茶なことはしないと約束をしたはずなのに、結局同じことを繰り返している。きっとハティは烈火のごとく怒るだろう。浅慮だと謗られ、今度こそ手放そうと思いを改めるかもしれない。
 むしろそれでいい――寝惚けた頭でアリカは考えた。
 冷たいようでいて熱を帯びた視線、優しい手つき、唇の温度、汗の匂い、冷えた身体を包み込む引き締まった体躯、逞しく広い背中――とりとめなくハティの全てが浮かび上がっては消えていく。
 これ以上ハティの存在がアリカを浸食する前に、ハティがアリカを見限ればいい。
 情に溺れてしまう前に、この関係が終わればいい。
 そうすれば、大切なものを失って傷つくこともないだろうから。


 
「――確かめさせていただきます、ローレル」
 
 ぼんやりと響く少女の声は涼やかで愛らしい。
 いつの間にか揺れが収まり、気が付けばアリカはふんわりとした寝具に身を包まれていた。薄目を開けてみれば燭台の灯が豪奢な部屋を照らし、二つの影が白い壁に映っている。見知らぬ部屋に連れ込まれるのはこれが二度目だ。ハティが知れば、学習能力を欠いていると嘲るに違いない。
 やけに怠い身体と、指一本さえ満足に動かせない現状にひやりとしたが、それよりも何よりも未だ眠気が勝っていて現状を把握することさえままならなかった。
 低く落ち着いた男の声が、少女に答える。

「それが良いでしょう」
「いくらあなたとはいえ、人伝に聞いただけでは信じられないもの。大事なあの方を託すのに、本物の破魔の聖女なのか……」
「兄君の呪詛を払わせてみればわかることです。それが魔女か、あるいは聖女か」 
「そうね。お兄さまももうすぐ軍議を終えて戻られるでしょうから」

 ぴくりとアリカは瞼を動かした。
 兄という言葉に反射的に応じたのだ。
 
「おにいさまが……戻られる……」
 
 夢心地の中でうわ言のように呟けば、少女は優しく囁いた。

「そう、ユリアンお兄さまがね。ブラーヴ公に会うのは初めてでしょう。アリカ様」
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