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第3章 罠

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「陛下のお加減はいかがですか、殿下」

 振り返った矢先、窓から差し込む光に目が眩む。外は久しぶりの晴天で、目の覚めるような蒼穹が広がっていた。白い光の中に溶けるように、相手の顔が刹那に消える。
 眩しさに慣れてくると、艶麗な男の顔がはっきりと視認できる。
 彼の方から話しかけてくるとは、何とも珍しいこともあるものだ。
 しかめっ面を浮かべる相手を見て、ハティは皮肉げに笑った。

「卿が陛下の身を案じるようなことを申すなど、何か悪いものでも口にされたか?」
「私が陛下のお身体を心配してはなりませんか?」
「……そうは申しておらぬ。戯れ言に目くじらを立てることもあるまい」

 苦笑を押し殺すハティに彼は明らかにむっとして、苛立ちを隠さずに返した。

「私とて選ばれた公爵の一人。陛下を誠心誠意お支えしたいと思っております故、ご様子を伺うのも至極当然でございましょう」

 険しい表情を浮かべていても、持ち前の美貌は崩れず、むしろ他者を圧倒するような迫力を帯びた。ハティの前では大体いつも不機嫌そうだが、時に氷のような微笑で世の紳士淑女を虜にして止まない彼こそは、三公が一、ユリアン・フォン・ブラーヴその人である。
 つい先日、先代ブラーヴ公が病魔によってこの世を去り、彼が爵位を継いだのは数日前のことだ。どうにか抗おうとしていたが、結局病魔の前では誰もが無力なのだと知らしめただけだ。 
 本来ならば皇帝を補佐する立場にある公爵家。その一角が遂に揺らぎ始めた事実は、ゆっくりと、確実に死の影は忍び寄っているのだと突き付けてくる。表立って騒ぎ立てることはなく何事もないかのように振る舞っているが、内心では着実に近づく滅びの時を恐れているのだ。
 ハティは目を眇めた。

「いや。あまりにも、卿の口から出た言葉が意外でな」

 ユリアンは従兄弟にあたる。先代皇帝の弟こそが、ユリアンの父である。
 ただ、バルドとユリアンの仲はお世話にも良いとは言えなかった。肩を並べているところなど、到底想像できない程度には。
 かつては交流もあったが、いつしかユリアンはバルドに見向きもしなくなり、時折顔を合わせることがあっても節々で見下すような態度を露わにするようになった。初めの頃こそ人前で態度に現さなかったが、そのうち傍から見ても明らかなほどバルドへの当たりは辛くなっていった。そんな状態が何年も続いたためか、バルドはユリアンに強い苦手意識を持っている。
 バルドが即位してからは、その傾向も多少潜まったように思えたが、長年に渡り拗れた二人の関係は、今更どうこうできるものでもないようだ。
 二人は従兄弟である前に、皇位を争う関係にあった。
誰の目から見ても優れていたのはユリアンの方で、バルドは正統な皇太子とはいえ頼りなかったのは紛れもない事実だ。時にハティの前で優秀な従兄への劣等感を吐露し、常に比較されることの苦しさを訴えた。それでもバルドは己に科される責務から逃げようとはしなかった。
 先代皇帝が崩御した際、ユリアンを皇帝にと望む声がなかった訳ではない。それだけの努力を彼は惜しまなかった。だが、最終的にアデレイド公とハティを後ろ盾に即位したのはバルドであり、ユリアンはさぞや自尊心を傷つけられたことだろう。
 確かに従弟は頭脳明晰ではあったが、その驕傲な態度から方々で反感を買い、あらゆるところで人間関係のいざこざが絶えなかった。先代が生きていた頃はその人柄を慕って多くの諸侯が支持したが、ユリアンが当主となった途端に取り巻き連中はブラーヴ家を少しずつ敬遠するようになったと聞き及ぶ。結局、ユリアンが皇帝になったとして、支持するものは少なかっただろう。
 今のブラーヴ家に必要なのは、皇帝の権威と寵愛だ。
 だが、バルドはユリアンが思っている以上に聡い。
 つまらぬ自尊心を捨てて忠誠を誓っても、野心漲る目を隠し切れるわけがない。何よりも、皇位を巡る争いで惨敗したユリアンがバルドを心底案じるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。病魔によって斃れたら、密かに喜びこそすれ悲しむことはなかろう。
 だからと言って、ユリアンや諸侯らを無下にするほどバルドも愚かな振る舞いはしない。弟が未熟なのは紛れもない事実で、周囲の支えなくしては国を治めることも、強国と渡り合うこともできないことを重々承知していた。従って、陰でどれほど誹られようと、できるだけ気に留めないようにとよくよく言い含めてある。

「バルドに代わって礼を言おう。ユリアン」
「はっ! 陛下の代弁者のおつもりですか。殿下のお言葉が、陛下のご意思そのものだと?」 
「今のはバルドの兄としての言葉だ。そのような分別もつかぬか」

 ハティは呆れた。
 言うこと全てに食って掛かってくる子供じみた振る舞いは、同じ公爵として見ていられない。
 ユリアンは刺々しく言い募った。

「大体貴方は、隠していることが多すぎるのだ! 薔薇姫のことを皮切りに、何一つ明らかにしようとしない! 卑怯で狡猾な方法で、己だけ助かればいいと思っている!」
「口を慎め。何を根拠にそのように喚きたてるのか分からぬな」

 冷ややかに返せば、ユリアンはぐっと唇を噛みしめハティを睨みつける。

「根拠など……!」
「そう、いちいち噛みつくこともなかろう。様子が気に掛かるのなら直接確かめ言葉を賜ればよい。冷静さを欠いては公爵として示しがつかぬ。……それとも、卿は己の矮小さを周囲に示したいと申すか?」

 青筋を浮き立たせたユリアンが口を開きかけたその時だ。

「兄……フローズヴァン公!」

 回廊を走ってきたのは、バルドだった。ハティを見つけて満面の笑みで駆けてきたが、ユリアンを認めると改まった態度で歩調を緩める。公私混同せずに、皇帝としてあろうとする姿は何だか微笑ましい。
 遠目でも分かるほど、バルドは見違えた。宮廷魔術士の手にも負えず、やっと命を繋いでいた状態が嘘のようだった。血色は良く、表情は明るい。本来の快活さを取り戻した姿は天使のようだ。
 ハティを真っ直ぐ見上げる瞳に、死の影はどこにもない。
 内心ほっとした。バルドに与えたアリカの薔薇は未だ効力を持っているに違いない。
 あれが枯れずに在る限り、病魔の進行は抑えられるだろう。
 バルドの頭をくしゃりと撫でて、ハティは低く笑った。

「何だ、今日は兄と呼んでくれぬのか?」

 常ならば、侍従に嗜められようが構わず慕ってくるバルドだが、今日はやけに大人しい。
 理由はすぐに判明した。
 バルドは気まずそうにユリアンをちらりと見てから、ハティにしか聞こえない声で返す。

「先代ブラーヴ公とは違ってユリアンはうるさいので……一応、公の場ですからね」

 バルドの言葉が聞こえたのか、ユリアンはぴくりと柳眉を寄せ、咳払いをする。
 ハティは何だかおかしくなって、喉の奥で笑った。

「体調はいいのか?」 
「はい。最近はよく眠れています。今までの怠さが嘘みたいに身体も軽いし」
「そうか」

 ハティは首肯した。
 視線を彷徨わせユリアンをちらっと見やってから、バルドは意を決したように口を開く。

「調子がいいついでと言っては何ですが、今日の軍議には僕も出席します」
「恐れながら申し上げます」

 黙っていたユリアンが口を開いた。その表情はいつも以上に冷淡だ。

「諸侯が一堂に会する中、陛下が退出されるようなことがあれば、諸侯の不安を益々煽るのではないかと。陛下のご意見はもちろん重要ではありますが、わざわざおいでいただくほどでは。それとも、無理を押してでも陛下はご参加されたいと?」

 ユリアンの棘を含んだ口調に怯みそうになりながらも、バルドは訴えた。

「確かに僕はまだまだ未熟で、皆の進言がなくては決断もできない。だが、僕はもう物事の分別も付かない幼子でもない。今起こっていることを知りたいのだ。言われるがまま命ずるなど、腑に落ちないことだらけだ。だから――形だけでも出席することに意義があると思いたい」

 軍議にはこれまで数回出た程度だ。しかも、途中で具合が悪くなり、最後まで参加したことは一度もない。
 出陣の経験もなければ、軍を率いた経験もない。
 張りぼて同然の皇帝に誰も意見など求めず、話の内容を理解できるはずもないと砕いた説明もしなかった。懸命に考えた上で何か発言しようものならば失笑を招く。彼らに必要なのは操舵し易い皇帝という人形だ。
 それでも、自分で考えたいと言う。それは決して悪いことではない。
 ハティは満足げに口の端を吊り上げ、対するユリアンは大仰に額を抑えて頭を振る。

「そうですか。……陛下がそこまで仰るのでしたら、私は反対致しません。何にせよ、体調が回復されて何よりでございます。それでは、後ほど軍議にて」

 早口でまくし立てるとユリアンは踵を返した。
 肩をそびやかして去っていくユリアンを見送ってから、バルドは俯いて思案した後に大真面目な顔でハティへ囁いた。

「ユリアンは何か悪いものでも食べたのでしょうか。いつもならば一切考慮することも無しに却下するのに……」

 ハティは笑いを堪えきれなかった。


 南の国境の攻防は、日増しに激しくなっていた。
 北の辺境――ネーヴェフィールから赴任した佐官が到着する頃には、国境付近に構えられていた砦の一つが陥落し、後退を余儀なくされていた。
 砂漠地帯――日中は猛暑による脱水、夜間は寒気で震える。遮蔽物がなく、身を隠す場所が少ない。見通しが良く敵を発見しやすいが、同時に標的にされる危険性も高い。常に強い風が吹きすさび、部隊の軌跡も痕跡も一瞬で消え、方向感覚は失われる。加えて砂に足を取られ、歩みもおぼつかない。頼みの騎馬は暑さに弱く、機動力にも欠ける。
 北方から徴兵された者にとっては過酷な環境である。いくら戦慣れしているとはいえ、順応に時間がかかる。しかも、戦いが長引くほど疲労が蓄積され、調子を崩しやすくなる。
その状況下で砦の奪還は困難を極めた。
 敵を容易く葬ってきた南辺境の主力将校達は病床に臥せっている。兵達の統率も取れない。農繁期には農夫達が村に帰る予定だったがそれも叶っていない。
 戦の終結が見えず、圧倒的に兵糧不足だった。現地で調達するにしても食糧となり得る動植物は少ないし、砦に備蓄されていた食糧は敵方に渡ってしまった。
 そこに拍車をかけるように、今年は不作だった。男手を兵にとられ、村に残っているのは女子供と年寄りばかりなのも一因だろう。それはどこの領地も同じような状況で、これ以上の徴収は民を苦しめ貧困に陥らせることになる。

 バルドはどうにか話について行こうと、諸侯からの報告に耳を傾けていた。眉間に皺を寄せ、懸命に情報を整理する。
 民が苦しい状況にあることは理解した。兵糧が必要なことも分かる。防衛が失敗すれば国そのものが危うい。どれも重要だが、今、一番必要なことは何か。
 バルドの思考を遮るように、ユリアンは力強く発言した。

「――敵の補給路はどうにか断ったが、先に我が軍の兵糧が尽きる。今後の作戦にも支障を来たすだろう」
「かといってこれ以上徴収すれば民の暮らしが……」
「貴殿はこの戦いの重要性を理解しておられぬようだ。南部の防衛が万が一にでも失敗すれば、蛮族共の勢いはいよいよ止められぬ。国の存亡にかかわるのだ。綺麗事ばかり並べ立てても仕方なかろう」

 ユリアンに追従するように、アデレイド公が声を上げる。

「今回ばかりは私もブラーヴ公の意向を支持する。砦の奪還がほぼ不可能な以上、どうあっても食糧の備蓄は不可欠だ。早急な対応をすべきであろう」
「しかし――」

 アデレイド公は反論しようとした将校をひと睨みする。

「他に打開策があるとでも?」

 アデレイド公に気圧され沈黙する将校に代わって、それまで置物のように大人しくしていたバルドは、気難しい顔のまま疑問を投げた。

「今、本当に必要なことは何だ。残り少ない食べ物を民から搾り取ってまで兵糧を集め、民を飢えさせることか? 城に備蓄されているものを兵達へ支給してはならぬのか?」
「恐れながら陛下。この城は国の最後の砦ともいえる場所。そこから兵糧を出すなど――」
「もう良い。陛下は何もご存知ないのだ」

 薄く笑み、ユリアンは説明しようとした将校を押しとどめる。周囲から失笑が漏れた。
 それ以上何も言えずに口を噤む。
 所詮、お飾りの皇帝だ。何を言おうが真面目に取り合われず、間違っていても糺されない。下手に知識を与えない。
 以前は気にする余裕もなかった、小さな棘がバルドを苛む。
 沈鬱な表情を隠さないバルドを一瞥し、静観していたハティは溜息をつく。

「陛下はお優しい故、民を案じておられるのだ。卿らは国がなくなる前に、民を潰えさせるおつもりか?」
「それでは殿下は、さぞや素晴らしい案をお持ちなのでしょうな。例えば――かの薔薇姫を召され、病床の将校たちに平等に加護を分け与えるとか。さすれば砦の奪還など容易いもの」

 ハティは失笑を漏らした。未だ諦めていない様子に、アデレイド公の執念深さが窺える。
 
「それは名案かもしれぬが、あまりにも非現実的な案だな」
「ではせめて、殿下がお買い付けになったあの女性を随伴されてはいかがか。先日の夜会でも随分と皆の目を惹いた。戦に荒む兵たちの潤いとするには十分かと」 
「はっ! なるほど、それは良い考えだ。だがあれ一人では事足りん。この際だ、卿らも兵たちを鼓舞するために己が娘を連れてかの地に赴くがいい。皆さぞや慰められることだろう」 

 皮肉の利いた言葉にアデレイド公は怒りで顔を真っ赤にし、そのまま閉口した。
 
「どうやら諸侯らは酷くお疲れの様子だ。一旦の休憩を提案いたすが、如何か」

 ハティはちらりとバルドを顧みる。
 半ば茫然としていたバルドは、兄の視線にはっと面を上げて頷いた。 


 運ばれてきた紅茶を一口飲み干すと、深々と溜息をついて俯いた。ハティは、そんな弟を労わるように華奢な肩を叩く。

「あまり無理はするな」
「……ですが」

 言いかけて、口を噤む。
 兄が心配してくれているのは痛いほどわかっていた。
 いくら気にするなと言われても、あからさまに侮られるような態度を取られると辛い。
 ハティは落ち込むバルドの頭をくしゃりと撫で、励ますように言った。

「喚くしか能のない馬鹿には、好きなだけ言わせておけ。お前は何も間違ったことは言っていなかった。城の蓄えは十分ある。加工しておらぬ食糧を貯め込んだところで、いずれ腐って捨てることになる。それこそ無駄だ。なれば、前線に配給した方が遙かに有用だろうな」
「……僕がもっと毅然とした態度でいれば、諸侯も聞き入れたのでしょうか?」

 言ってから、それは違うと首を振る。
 きっと兄やユリアン、アデレイド公が同じことを提案すれば、すんなり受け入れられる。バルドでは駄目なのだ。

「早々に砦さえ奪還できれば、奴らも己の無能さを恥じて黙るだろう」
「兄上自ら、南の国境に赴かれるおつもりですか……?」
「そうしたいのは山々だがな……」

 兄は複雑な表情を浮かべた。きっとバルドには思いもよらないことを考えているのだろう。あらゆる可能性を想定して動き、バルドがようやく気付く頃には全てが終わっている。
 兄はすごい。
 何度目かの溜息をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。視線の先には薔薇園で侍女が懸命に土いじりをしていた。手入れしているのはバルドの薔薇。皇帝が代替わりするたびに献上されるそれ。ついこの間までは今にも枯れてしまいそうだったが、近頃はかつての美しさを取り戻している。
 慈しみを込めて世話をしてくれていると素人目にもはっきりとわかる。薔薇が大事にされているのを見ると、あたかも自分が大事にされているかのように錯覚する。
 大丈夫、まだ見捨てられていない、そんな風に思う。
 彼女が世話をしに現れるのは決まって軍議の日のみだ。
 それ以外の日に見かけることはなく、誰に聞いても分からないと言う。
 もしかすると、城仕えする侍女ではなく、誰かが軍議の度に連れてきているのかもしれない。
 兄も何か思うところがあるのか、その侍女の姿をじっと見つめていた。
 
「この寒い中、水仕事は大変なのでしょうね」
「そうだな……手が荒れて困ると言っていた」

 何となく口にした疑問に、ハティは唸るように答える。
 誰かの苦言だろうか。バルドは首を傾げた。
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