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第2章 小夜曲
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アリカから預かった破魔の薔薇の効果は絶大だった。
長らくまともに眠ることもできず、苦しんでいたバルドがものの数分で微睡みはじめたのだ。
健やかな寝息を立て始めた弟の安堵に満ちた顔を覗き込み、ハティは密かに胸をなでおろし、部屋を後にした。
アリカはもう眠っただろうか。眠った時のアリカの顔は幾分幼くて、どれほど眺めていても飽きないのだ。
彼女がアシュラム・ロゼ・マーニ=ドールと名乗っていた頃、手の届かない存在だった。謁見できる者は限られており、美しいと言われるその素顔を知るものは誰もいない。
ただ一度、その素顔を見た。まだ幼さの残る少女の素顔を。
夢を語る少女の横顔は、今でも脳裏に焼き付いている。人から畏怖され続けても、人を純粋に信じている少女は、その時のハティには眩しすぎた。
「遅くなった――……」
ハティは目を眇め、ベッドを見やる。――もぬけの殻だ。
部屋は薄暗いままで、静まり返っていた。人の気配はなく、冷たい空気が流れる。そこにいるはずのアリカの姿がないことに気づいても、ハティは決して内心の動揺を表に出さなかった。
ただ冷静に配下を招集し、己の総力を以ってアリカの捜索に当たらせる。赤目赤髪の女というのは大変珍しい。
目撃者は必ずいるはずだし、見つかるのも時間の問題だ。
ハティは夜の闇に浮かぶ街の明かりを見つめ、ひとりごちた。
「愚かな……逃げられると思っているのか」
――どうせ、街の方に逃げたところでアリカを買うものなど誰もいない。
ただ、今この状況でアリカに出歩かれるのは非常に困る。
街の方に逃げるのならまだいい。人目のない場所に逃げ込まれたら厄介だ。近頃は奴隷商もうろついている。間違っても売り飛ばされては困る。
再びドールの者にでも捕まったら、今度こそ手が届かなくなる。
苦労して探し出した。もう手間をかけさせられるのは御免だ。
剣を取り、ハティは踵を返した。
◇
アリカが目当てにしていた男は、すぐに見つかった。
客の大半はすでに出来上がった状態で、花街で口説いた女達を囲んで酒池肉林の騒ぎを繰り広げていた。中性的な顔立ちの見目麗しい優男を傍に置く者もおり、フィアはそういった類の貴族に囲われているようだった。
流石は上流階級に身を置く人間というべきか、随分と派手に酒を振る舞っている。
視界の端にフィアを捉えながら、アデレイド公に身体を預けるようにしてビロード張りのソファーに座る。アデレイド公はアリカの視線を辿りながら、まろやかな太腿に手を這わせて耳元で囁く。
「リュックス侯が気になるのかね?」
「男を侍らせているから、珍しくて」
「ああ、彼はそういう趣向の持ち主でね。異国の美しい奴隷を連れて歩くのが趣味なのだ。毎回様々な美少年や美少女を囲っている。今連れているのも、最近買ったのだろう。このところ、奴隷商を付近でよく見かける」
艶美な奴隷を、ある種の格として見せびらかしたがる貴族は多い。どこの国にもそういう奴がいるものだが、あまりいい気はしない。内輪の集まりに連れ出すものもいれば、公の場に連れ込むような馬鹿もいる。ドールにいる頃からそういった連中は気にくわなかったが、まさかこの国でも戯け者にお目にかかれるとは。
見目の良い奴隷というのは、多くが欲望のはけ口に使われる。フィアもそうなのだろう。
熱い掌が太腿から付け根へと這ってきたのをさりげなく払って、アデレイド公の胸板をつうと撫で上げ、皮肉めいた笑みを浮かべて囁いた。
「そういうあなたも、毎回違う女を連れているんでしょ? 病魔に侵されているのに、よくやるわね」
「病魔に侵されていようが、私は常にいい女を傍に置いていたいのだ。だが、いい女というのはそうそういなくてね。結局は金欲しさに集まる屑ばかりだ。まあ結果的に、君を手に入れた私にとって、もう他の女なぞどうでもいい」
アリカは笑みを湛えたまま、唇を開いた。
「あら。そういう屑みたいな女が集まるのは、あなた自身がそういう男だからでしょ? 類は友を呼ぶもの。金にものを言わせて女を侍らせる男に、いい女が集まる訳ないじゃない。現にあたしは別に、いい女でも何でもないわ。むしろあなたにとっては猛毒としか言いようがないし」
「ふん。毒が薬へと転じる場合もあろうに。君はその最たるものだろう?」
それは、扱いを間違わなければの話。
破魔の力は、今の魔力至上主義で成り立つ階級社会では、本来脅威そのものだ。毒にしかならないアリカを必要とするのは、病魔に侵されているからに他ならない。つまり、それさえ払ってしまえば用済み。
病魔を治す術が他にあれば、毒に頼ることもなかったのだろう。
皮肉な状況だ――アリカは内心苦笑する。
このアデレイド公にしろ、ハティにしろ、災いさえ取り除かれれば、迅速にアリカを抹消するに違いない。
再び、視線をフィアの元へと戻した。酔ってシャツのはだけた男を前にしても、彼の表情が崩れることはない。一方のリュックス侯、どこか淫猥な目でフィアを見つめている。
「あの方とは親しいの?」
「いいや。特段、親しいとも言えぬ」
リュックス侯は、アデレイド公の傘下ではないようだ。
貴族も二種類いるらしい。皇族の遠縁たる譜代の貴族か、外様の新興貴族か。
前者は病魔の餌食となる。妙に明るく酒を呷っているものの、そこに漂う終末感は隠しきれない。
リュックス侯は違う。あまりにも馬鹿騒ぎしすぎている。
「まあ、諸侯の趣味趣向を把握しておくのは無駄ではないのでね。ある程度の情報は持っている。まあ、万年大尉の彼を気に掛けるほど私も暇ではなかったのだが、この度やむなく大佐に昇進させるにあたり、色々と素行を調べさせたのだ」
なるほど、流石はアデレイド公。陰の支配者と噂される人物なだけある。
しかし、万年大尉をいきなり三階級特進させ、大佐に昇進させるとは。異例の大出世であるのは間違いない。
ただし、話を聞くにリュックス侯が有能な人物には思えなかった。
軍事大国であるセラフィトにとって、軍事階級は重要な意味を持つ。佐官以上となると、一つ階級が上がるだけでも、得る恩恵もそれまでのものとは比べものにならなくなる。
「人選、間違えたんじゃない? 異国の奴隷を侍らせて、貴族の社交場にまで連れて歩くなんて、とても賢いとは言えないわ」
素直な感想を漏らせば、アデレイド公は眉間の皺を深めた。
「事情も知らぬ部外者に言われずとも、それは十分心得ておる」
「ああそう。ということは、その万年大尉殿以外、選びようがなかったってことね。流石に、士官候補生の坊ちゃんたちをいきなり連隊を率いる大佐になんて抜擢できないものね? 早急に万年大尉を大佐に昇進させねばならない事態が起こった、少しでも実戦経験のあるものは、否応なしに階級をあげたってところかしら?」
軍事の中枢にいた貴族達は、その殆どが皇族の血脈に連なる。
皇帝――その血筋が呪われた今、呪詛から逃れる手立てなどないのだ。多くの者は使い物にならなくなった身体に途方に暮れ、死を待つのみだろう。
それまで盤石だった軍の体制すら、病魔の影響で揺らぎつつある。綻びは徐々に表になり始めている。
帝国瓦解は困る。巨大なこの国だからこそ、潜伏していても容易に居所を掴まれないのだ。それが崩れたとあっては、再びドールへ逆戻り。一生幽閉されるのは確実だろうし、どんな目にあわされるか分からない。
運ばれてきた葡萄酒をぐいっと呷り、アデレイド公は苦々しく返した。
「本当に、無駄に頭の回る女だな、君は。敵には回したくない」
「あら、もったいないお言葉。お褒めにあずかり光栄だわ。それで、彼はどちらへ仕官されるのかしら」
薔薇の甘い香りで鼻腔を擽り、陶器のような白い手で男の身体にそっと触れる。
紅蓮の瞳は仄暗く揺れ、炎のように赤い唇からは掠れた吐息が漏れた。妖艶な肢体を絡めて、耳元で甘く囁く。
「もちろん、教えていただけるのよね?」
「軍事機密だ。部外者に――ましてや、自称花売りの君に易々とこの私が教えるとでも……」
言葉を押しとどめるようにその唇を指で押さえ、アリカは妖しく微笑んだ。
「あなたは教えてくれる。そうでしょう? まだ、ここで終われないんだもの」
アデレイド公は苦々しく息を呑み、それから絞り出すように答えた。
「……っネーヴェフィールだ」
「ネーヴェフィール?」
それはドールとの国境。リッピ侯は、アリカがついこの間病魔を払ったばかりだから、危機的状況は脱しているはずだ。むしろ怪物の復活に周辺諸国はさぞや慄いていることだろう。
「リッピ侯の佐官に?」
「いや、あれが仕官するのはベルク侯だ」
「ベルク侯ねえ……」
ネーヴェフィールは大きく三つの地区に分かれており、それに伴って三人の辺境伯がいた。
その一人たるベルク侯、国境に沿うようにして聳える山脈付近に居城を構えている。彼の人が治める地区は、ドールのみならず北方異民族も相手取っていた。
ネーヴェフィールはどの辺境伯も有能で、領民から大変慕われていたが、ネーヴェフィール=ベルク辺境伯は、自分にも他人にも厳しいことで有名な人物である。奴隷を侍らせ安穏と酒盛りをしている男にその佐官が務まるとは到底思えない。
「今までの佐官殿はどうなったの?」
「君に言う必要があるか」
「どうせ公表されるんだし、別に教えてくれたっていいじゃない」
アリカが折れないと分かると、アデレイド公は唸るように答えた。
「……ルプル砂漠へ異動する」
「ああ、南部の国境ね」
北と同様にその動向を気にかけねばならないのが、南の異民族から成る連合国だ。
南部は北ほど動きが活発ではなく、兵士達も小競り合いには慣れていない。兵士の多くは、戦い以外はその地を耕す農民である。訓練を受けたとはいえ、得物の扱いなど忘れ果て、農耕器具の扱いに長けてしまったことだろう。即座に戦いに対応できるかと言われれば、難しかろう。そこに元ベルク侯の佐官を送るということは、南に何かしら動きがあるのだろうか。
それにしても、今この時期に――。偶然にしては出来すぎている。
(皇帝が病魔に倒れたって話は、一体どこまで伝わっているのかしら)
恐らく、周辺諸国には広まっていることだろう。
誰かが意図的に垂れ込んだに違いない。最強の軍事国、セラフィト帝国を攻めるなら今だと。
国が荒れるドールは今すぐ動ける状態にはない。動きがあるとすれば北の異民族だが、最近やけに大人しい。リッピ侯復活の兆しがあるネーヴェフィールに多少のポンコツを送ったとしても、ある程度の埋め合わせはできるだろう。
しかし不思議なのは、フィアが未だにその凡愚に付き従っていることだ。彼が賊たちを城内に引き入れたのだとすれば、役目は既に果たしたのだし、もう男色家の伯爵にすり寄る必要もない。アリカ抹消のための次の一手を打つにしても、顔の割れているフィアが表立って動くのは悪手だ。
(あんたは一体何を――)
思案に耽っていると、刺すような視線に引き戻された。奥歯をぎりりと噛みしめたアデレイド公が、アリカをきつく睨みつけている。
「私にここまで吐かせたのだ、君にもそれ相応の働きをしてもらう。覚悟することだな!」
この程度で平静さを失うなんて、どこまでも器の小さな男。
そう言ってやりたいのを堪えて、アリカは宥めるように笑った。
「まあ、そんな今にも噛みつきそうな顔しないって、今更逃げたりなんてしないわ。あなたがちゃんと報酬を払うなら、どんなことだってしてあげる。だからとりあえず、そこのポンコツ――リュックス侯に近づいていただけるかしら」
席を立ち、アデレイド公を促してリュックス侯へと近づいた。
上機嫌で葡萄酒を飲んでいたリュックス侯は、アデレイド公に気づくと一瞬ぎょっと目を剥いた。隣に控えていたフィアも流石に驚いたのか、小さく息を呑む姿が視界の端に映る。
実質上、帝国の頂点に立つ公爵を前にして、萎縮するなという方が無理な話だろう。
アリカが背中をつつくと、アデレイド公は固まる凡愚を前にして、一つ咳払いをした。
「リュックス侯、随分と盛り上がっているようだな。これでしばらく帝都に戻ることもなかろう。どうだ、出立前に私と一杯飲まないか」
「……っも、もちろんです!」
逆らえるはずもない。こくこくと何度も頷き、リュックス侯はアデレイド公の為に席を設ける。
そこで初めて、アリカに気付いたらしい。乱れた服を直し、こちらを凝視する。
赤銅の髪は絹のよう、瞳は落日の空の色。肉感的な紅い唇は弧を描き、陶器のように滑らかな白い肌は、薄明りの下で桃色に上気する。
微かに薔薇の甘い香りが漂う。
リュックス侯だけではなく、その周囲にいた者達は漏れなくアリカに引き寄せられていた。
見惚れているのではない――信じられないものを見ている、そんな表現が正しい。
「あの、公。失礼ですが、そちらの女性は……その、軍議で取り沙汰になった例の女では。よろしいのですか?」
「関係ない。赤目赤髪など今時珍しくもなかろう」
アデレイド公は話題を強引に変えるように、給仕をしていた女中を呼び止めた。
「君、いつものアレを。ここにいるものに振る舞ってくれたまえ」
「畏まりました」
「軍議以外で、今後集まることもそうないだろう。遠慮することはない。それとも、ハティの酒は飲めても私の酒は飲めぬかね?」
「まさか、決してそのようなことは!」
アリカはアデレイド公の隣に腰掛けながらも、視線は別のところへ向けた。
フィア。
鋭い疑念の籠った目を向ける。フィアは口の端だけ釣り上げて、読めない表情のまま畏まっていた。
――さあ、来てやったわよ。
先に動いたのはフィアだった。
腰に回る手をさりげなく払い、畏まったままリュックス侯へ告げる。
「私は席を外しましょう」
「そ、そうか?」
リュックス侯は完全に、公爵を前にして萎縮していた。何を言われても耳をすり抜けていくのか、ただただ頷いて了承するだけだ。
アリカも続いて、席を離れる。
香ばしい匂いが漂う店内を抜け、控え室に入る。他の貴族の従者達が、雑務をこなすための部屋のようだ。従者と言っても、元は貴族の行儀見習いや名士の子息や息女が多く、それなりの身分の者ばかりである。
先に口を開いたのはフィアだった。周りの目もあるからか、あまり距離は詰めようとしてこない。
「先ほどは、蛮族共がとんだご無礼をいたしました。御身を危険に晒す形になったこと、お許しください」
アリカにしか聞こえないくらいの声で、フィアがそう囁いた。
「本気であたしを殺そうとしているように思えたけれど。無謀な計画を立てたものね」
「返す言葉もございません。邪魔になるものは全て消せと命じられておりますゆえ」
アリカは皮肉げに笑って返す。
「邪魔って、一体あたしが何の邪魔をしたというのかしら?」
「みなまで言わずともお分かりでしょう。尊いお方」
皇帝をはじめとした皇族を病魔に侵すことで、この国の機能を歪ませる。アリカさえ手出ししなければ、歪みが正されることはない。
あの時、アリカの真名を呼んだ者――フィアが出てきた時から、この件にはドールが関わっていると察しはついた。ハティに言わなかったのは、確証がなかったからだ。
それに、アリカは信じたくなかった。
(おにいさま……)
不意に浮かんだ考えを断ち切るために、アリカは頭を振った。
どんなにドール王が変わってしまったのだとしても、流石にそこまで愚かであるはずがない。
「貴女様に非はありません。全ては、あの狼公爵めが悪いのです。貴女様の優しさに付け込んで、呪詛を払うよう強要した」
「あの男はただ、弟を助けて欲しいと願っただけよ」
「目をお覚まし下さい。貴女様の独占は何よりの大罪でしょう。あの男は、情愛深い貴女様を利用する外道だ。主は貴女様の犯した罪をお許しになると仰った。そして必ず連れ帰るようにと……」
「邪魔なら殺せ、でも連れ帰れ? 滅茶苦茶だわ。ねえ、フィア。あなた、以前あたしが買い戻した子よね……? どうしてまた、奴隷になんかなったの?」
「覚えて、いらっしゃったのですか?」
フィアは泣きそうな顔で笑った。
「もちろんよ。もう何年前かしら。随分と大人びてしまったから、気づかなかったけれど」
「あの時はまだ幼かった。今はもう、貴女様に守られるだけの子どもではありません」
「本当の主は誰なの。あのポンコツとネーヴェフィールまで行って、どうするつもり」
フィアは首を振り、躊躇いがちに話を続ける。
「何も。私はただ、貴女様にもう一度ドールに戻って欲しい、それだけなのです。私にとっての主は貴女様。貴女様を失ったドールは悲惨だ。飢餓と貧困は変わらず、守ってくれる王侯貴族もいない。妖魔と魔獣の餌食になるのを待つ日々です。食事と居住を与えられる奴隷の方がまだましだ。斯様なドールの民の現状を聞いても、お戻りにならぬと仰るのですか?」
そう容易く手の内は明かしてくれないか。
うまく話をはぐらかされ、かつ相手の要求のみを押し付けられた気がする。如何にも純真無垢そうな眼差しがまた胡散臭い。
アリカは、縋るようなフィアの視線を払うように頭を振った。
「戻れないわ。あの国は、あたしが居ていい場所じゃない」
「……今は一旦、引きましょう。いずれ、正式にお迎えにあがります。その時は、どうぞこの手を拒みませんように」
「随分とあっさり手を引くのね。意外だわ」
「引き際が肝心でございます」
店内がやけに騒がしいのに気付いたのは、その時だ。
大量の軍靴の足音が駆け抜けて、その後で悠然と通り抜ける硬い足音に、アリカは思わず身を竦ませた。
大丈夫、ここはドールではないしおにいさまもいない。誰も薔薇姫を探していないし、追いつめたりしない。
そう言い聞かせて、逸る鼓動を抑える。
こっそりと扉を開けて様子を伺えば、客が次々と散っていく。店内には妙な緊張感が漂っていた。
残ったのは引くに引けなかったリュックス侯と、騒ぎの中心であるアデレイド公。その二人の前に軍属がずらりと整列する。
アデレイド公を守るように、護衛の兵士が飛び出した。
外套を翻し、萎縮する二人の前に進み出た漆黒の髪の男は、さながら狩りをする狼のようだった。その手にした黒い剣で、一撃で護衛を薙ぎ払い、周囲にはまるで葡萄酒のような血液が飛び散った。
やだ、もうここが割れちゃったの?
アリカは後ろ姿を見て、それがハティだとすぐに分かった。
「これは、ハティ殿下。このようなところに来るとは珍しい」
「……黙れ。私は今すこぶる機嫌が悪い。私の質問に簡潔に答えろ」
「はっ、随分な口の利き方だ。この私にそのような口をきいていいと思っているのか。私は陛下の――」
舌打ちをし、ハティはアデレイド公の胸倉を掴んで一発、その顔に拳を叩きこんだ。
「黙れと言ったのが聞こえぬか。耳まで腐ったか、アデレイド公」
「なっ何をっ」
「卿は禁忌を破り、赤目赤髪の女をこの店の前で買った――相違ないか」
「何の話だ。覚えがない」
ハティはしらを切るアデレイド公を冷厳と見下ろす。
「老いた身体に拷問は、さぞや辛かろう。しかしこれも致し方ない。まずは両足を折る。ご承知だろうが、私は冗談を好まぬ。卿が買った女は今どこにいる。何故そこにいない。返答次第では、足だけではすまぬぞ」
「知らんな。先ほど席を離れた。私が誰を買おうが勝手だろう。そも、あれは望んでこの私を選んだ。ハティ、貴様ではない!」
高らかに叫ぶアデレイド公を前にして、ハティはどこまでも冷ややかだった。無表情で黒い剣を深々とソファーに突き付ける。刃が頬をかすめ、アデレイド公は目を点にしてハティを見上げた。
「仮にそうだとしても、アレは既に俺のものだ」
「金を積めば誰にでも靡く娼婦崩れに、一体どれほどの価値があるというのだ。一度抱けばもう用済みだろう。何故そこまで固執する、他に回せ。それこそ、今国境に赴いている者共に!」
「一体何人いると思っている。現実味を欠いた愚かな考えだ」
「はっ、実際、あの女はそうして気まぐれに身体を売り、同じ人間には二度と抱かれない。ならばこちらから斡旋してもおかしい話ではない。国の未来がかかっているのだ、ハティ、貴様にも分かるだろう」
尤もだった。間違ったことは言っていない。それでも、いい気分ではないのは確かだ。
アリカはこっそりと溜息をついた。
誰に買われても結局同じ。金をくれるだけ、アデレイド公はましなのだ。
気づかれないようにそっと扉から抜け出すのと同時に、ハティが言い放つ。
「だからと言って、アレが不特定多数の男に抱かれるのを許すほど、私は心が広くない」
「……ありがと」
言葉は不意に漏れた。人として扱われなくても仕方ない、道具として生きる他ない――そんな諦めがあったからかもしれない。
小さな呟きにも拘わらず、ハティは気付いたらしい。振り向くなり、アリカに向かってくる。
荒れ果て凍てついていた空気が、その途端に和らいだ。
ハティはアリカの前で跪き、同じ視線になると幼子にでも言い聞かせるような口調で説教を始めた。
「勝手に出歩くな、知らない人間についていくな。そう教わらなかったか」
「あたしが誰と一緒でどこにいようと、ハティには関係ないじゃない」
「忘れたのか。お前は俺が買った。いわば、俺のものだ」
「一体いつあんたのものになったのよ。もうお金は払ってくれないんでしょ?」
馬鹿にしたような顔をされ、アリカは腹立たしくなってハティの頬を思い切り引っ張ってやった。
長らくまともに眠ることもできず、苦しんでいたバルドがものの数分で微睡みはじめたのだ。
健やかな寝息を立て始めた弟の安堵に満ちた顔を覗き込み、ハティは密かに胸をなでおろし、部屋を後にした。
アリカはもう眠っただろうか。眠った時のアリカの顔は幾分幼くて、どれほど眺めていても飽きないのだ。
彼女がアシュラム・ロゼ・マーニ=ドールと名乗っていた頃、手の届かない存在だった。謁見できる者は限られており、美しいと言われるその素顔を知るものは誰もいない。
ただ一度、その素顔を見た。まだ幼さの残る少女の素顔を。
夢を語る少女の横顔は、今でも脳裏に焼き付いている。人から畏怖され続けても、人を純粋に信じている少女は、その時のハティには眩しすぎた。
「遅くなった――……」
ハティは目を眇め、ベッドを見やる。――もぬけの殻だ。
部屋は薄暗いままで、静まり返っていた。人の気配はなく、冷たい空気が流れる。そこにいるはずのアリカの姿がないことに気づいても、ハティは決して内心の動揺を表に出さなかった。
ただ冷静に配下を招集し、己の総力を以ってアリカの捜索に当たらせる。赤目赤髪の女というのは大変珍しい。
目撃者は必ずいるはずだし、見つかるのも時間の問題だ。
ハティは夜の闇に浮かぶ街の明かりを見つめ、ひとりごちた。
「愚かな……逃げられると思っているのか」
――どうせ、街の方に逃げたところでアリカを買うものなど誰もいない。
ただ、今この状況でアリカに出歩かれるのは非常に困る。
街の方に逃げるのならまだいい。人目のない場所に逃げ込まれたら厄介だ。近頃は奴隷商もうろついている。間違っても売り飛ばされては困る。
再びドールの者にでも捕まったら、今度こそ手が届かなくなる。
苦労して探し出した。もう手間をかけさせられるのは御免だ。
剣を取り、ハティは踵を返した。
◇
アリカが目当てにしていた男は、すぐに見つかった。
客の大半はすでに出来上がった状態で、花街で口説いた女達を囲んで酒池肉林の騒ぎを繰り広げていた。中性的な顔立ちの見目麗しい優男を傍に置く者もおり、フィアはそういった類の貴族に囲われているようだった。
流石は上流階級に身を置く人間というべきか、随分と派手に酒を振る舞っている。
視界の端にフィアを捉えながら、アデレイド公に身体を預けるようにしてビロード張りのソファーに座る。アデレイド公はアリカの視線を辿りながら、まろやかな太腿に手を這わせて耳元で囁く。
「リュックス侯が気になるのかね?」
「男を侍らせているから、珍しくて」
「ああ、彼はそういう趣向の持ち主でね。異国の美しい奴隷を連れて歩くのが趣味なのだ。毎回様々な美少年や美少女を囲っている。今連れているのも、最近買ったのだろう。このところ、奴隷商を付近でよく見かける」
艶美な奴隷を、ある種の格として見せびらかしたがる貴族は多い。どこの国にもそういう奴がいるものだが、あまりいい気はしない。内輪の集まりに連れ出すものもいれば、公の場に連れ込むような馬鹿もいる。ドールにいる頃からそういった連中は気にくわなかったが、まさかこの国でも戯け者にお目にかかれるとは。
見目の良い奴隷というのは、多くが欲望のはけ口に使われる。フィアもそうなのだろう。
熱い掌が太腿から付け根へと這ってきたのをさりげなく払って、アデレイド公の胸板をつうと撫で上げ、皮肉めいた笑みを浮かべて囁いた。
「そういうあなたも、毎回違う女を連れているんでしょ? 病魔に侵されているのに、よくやるわね」
「病魔に侵されていようが、私は常にいい女を傍に置いていたいのだ。だが、いい女というのはそうそういなくてね。結局は金欲しさに集まる屑ばかりだ。まあ結果的に、君を手に入れた私にとって、もう他の女なぞどうでもいい」
アリカは笑みを湛えたまま、唇を開いた。
「あら。そういう屑みたいな女が集まるのは、あなた自身がそういう男だからでしょ? 類は友を呼ぶもの。金にものを言わせて女を侍らせる男に、いい女が集まる訳ないじゃない。現にあたしは別に、いい女でも何でもないわ。むしろあなたにとっては猛毒としか言いようがないし」
「ふん。毒が薬へと転じる場合もあろうに。君はその最たるものだろう?」
それは、扱いを間違わなければの話。
破魔の力は、今の魔力至上主義で成り立つ階級社会では、本来脅威そのものだ。毒にしかならないアリカを必要とするのは、病魔に侵されているからに他ならない。つまり、それさえ払ってしまえば用済み。
病魔を治す術が他にあれば、毒に頼ることもなかったのだろう。
皮肉な状況だ――アリカは内心苦笑する。
このアデレイド公にしろ、ハティにしろ、災いさえ取り除かれれば、迅速にアリカを抹消するに違いない。
再び、視線をフィアの元へと戻した。酔ってシャツのはだけた男を前にしても、彼の表情が崩れることはない。一方のリュックス侯、どこか淫猥な目でフィアを見つめている。
「あの方とは親しいの?」
「いいや。特段、親しいとも言えぬ」
リュックス侯は、アデレイド公の傘下ではないようだ。
貴族も二種類いるらしい。皇族の遠縁たる譜代の貴族か、外様の新興貴族か。
前者は病魔の餌食となる。妙に明るく酒を呷っているものの、そこに漂う終末感は隠しきれない。
リュックス侯は違う。あまりにも馬鹿騒ぎしすぎている。
「まあ、諸侯の趣味趣向を把握しておくのは無駄ではないのでね。ある程度の情報は持っている。まあ、万年大尉の彼を気に掛けるほど私も暇ではなかったのだが、この度やむなく大佐に昇進させるにあたり、色々と素行を調べさせたのだ」
なるほど、流石はアデレイド公。陰の支配者と噂される人物なだけある。
しかし、万年大尉をいきなり三階級特進させ、大佐に昇進させるとは。異例の大出世であるのは間違いない。
ただし、話を聞くにリュックス侯が有能な人物には思えなかった。
軍事大国であるセラフィトにとって、軍事階級は重要な意味を持つ。佐官以上となると、一つ階級が上がるだけでも、得る恩恵もそれまでのものとは比べものにならなくなる。
「人選、間違えたんじゃない? 異国の奴隷を侍らせて、貴族の社交場にまで連れて歩くなんて、とても賢いとは言えないわ」
素直な感想を漏らせば、アデレイド公は眉間の皺を深めた。
「事情も知らぬ部外者に言われずとも、それは十分心得ておる」
「ああそう。ということは、その万年大尉殿以外、選びようがなかったってことね。流石に、士官候補生の坊ちゃんたちをいきなり連隊を率いる大佐になんて抜擢できないものね? 早急に万年大尉を大佐に昇進させねばならない事態が起こった、少しでも実戦経験のあるものは、否応なしに階級をあげたってところかしら?」
軍事の中枢にいた貴族達は、その殆どが皇族の血脈に連なる。
皇帝――その血筋が呪われた今、呪詛から逃れる手立てなどないのだ。多くの者は使い物にならなくなった身体に途方に暮れ、死を待つのみだろう。
それまで盤石だった軍の体制すら、病魔の影響で揺らぎつつある。綻びは徐々に表になり始めている。
帝国瓦解は困る。巨大なこの国だからこそ、潜伏していても容易に居所を掴まれないのだ。それが崩れたとあっては、再びドールへ逆戻り。一生幽閉されるのは確実だろうし、どんな目にあわされるか分からない。
運ばれてきた葡萄酒をぐいっと呷り、アデレイド公は苦々しく返した。
「本当に、無駄に頭の回る女だな、君は。敵には回したくない」
「あら、もったいないお言葉。お褒めにあずかり光栄だわ。それで、彼はどちらへ仕官されるのかしら」
薔薇の甘い香りで鼻腔を擽り、陶器のような白い手で男の身体にそっと触れる。
紅蓮の瞳は仄暗く揺れ、炎のように赤い唇からは掠れた吐息が漏れた。妖艶な肢体を絡めて、耳元で甘く囁く。
「もちろん、教えていただけるのよね?」
「軍事機密だ。部外者に――ましてや、自称花売りの君に易々とこの私が教えるとでも……」
言葉を押しとどめるようにその唇を指で押さえ、アリカは妖しく微笑んだ。
「あなたは教えてくれる。そうでしょう? まだ、ここで終われないんだもの」
アデレイド公は苦々しく息を呑み、それから絞り出すように答えた。
「……っネーヴェフィールだ」
「ネーヴェフィール?」
それはドールとの国境。リッピ侯は、アリカがついこの間病魔を払ったばかりだから、危機的状況は脱しているはずだ。むしろ怪物の復活に周辺諸国はさぞや慄いていることだろう。
「リッピ侯の佐官に?」
「いや、あれが仕官するのはベルク侯だ」
「ベルク侯ねえ……」
ネーヴェフィールは大きく三つの地区に分かれており、それに伴って三人の辺境伯がいた。
その一人たるベルク侯、国境に沿うようにして聳える山脈付近に居城を構えている。彼の人が治める地区は、ドールのみならず北方異民族も相手取っていた。
ネーヴェフィールはどの辺境伯も有能で、領民から大変慕われていたが、ネーヴェフィール=ベルク辺境伯は、自分にも他人にも厳しいことで有名な人物である。奴隷を侍らせ安穏と酒盛りをしている男にその佐官が務まるとは到底思えない。
「今までの佐官殿はどうなったの?」
「君に言う必要があるか」
「どうせ公表されるんだし、別に教えてくれたっていいじゃない」
アリカが折れないと分かると、アデレイド公は唸るように答えた。
「……ルプル砂漠へ異動する」
「ああ、南部の国境ね」
北と同様にその動向を気にかけねばならないのが、南の異民族から成る連合国だ。
南部は北ほど動きが活発ではなく、兵士達も小競り合いには慣れていない。兵士の多くは、戦い以外はその地を耕す農民である。訓練を受けたとはいえ、得物の扱いなど忘れ果て、農耕器具の扱いに長けてしまったことだろう。即座に戦いに対応できるかと言われれば、難しかろう。そこに元ベルク侯の佐官を送るということは、南に何かしら動きがあるのだろうか。
それにしても、今この時期に――。偶然にしては出来すぎている。
(皇帝が病魔に倒れたって話は、一体どこまで伝わっているのかしら)
恐らく、周辺諸国には広まっていることだろう。
誰かが意図的に垂れ込んだに違いない。最強の軍事国、セラフィト帝国を攻めるなら今だと。
国が荒れるドールは今すぐ動ける状態にはない。動きがあるとすれば北の異民族だが、最近やけに大人しい。リッピ侯復活の兆しがあるネーヴェフィールに多少のポンコツを送ったとしても、ある程度の埋め合わせはできるだろう。
しかし不思議なのは、フィアが未だにその凡愚に付き従っていることだ。彼が賊たちを城内に引き入れたのだとすれば、役目は既に果たしたのだし、もう男色家の伯爵にすり寄る必要もない。アリカ抹消のための次の一手を打つにしても、顔の割れているフィアが表立って動くのは悪手だ。
(あんたは一体何を――)
思案に耽っていると、刺すような視線に引き戻された。奥歯をぎりりと噛みしめたアデレイド公が、アリカをきつく睨みつけている。
「私にここまで吐かせたのだ、君にもそれ相応の働きをしてもらう。覚悟することだな!」
この程度で平静さを失うなんて、どこまでも器の小さな男。
そう言ってやりたいのを堪えて、アリカは宥めるように笑った。
「まあ、そんな今にも噛みつきそうな顔しないって、今更逃げたりなんてしないわ。あなたがちゃんと報酬を払うなら、どんなことだってしてあげる。だからとりあえず、そこのポンコツ――リュックス侯に近づいていただけるかしら」
席を立ち、アデレイド公を促してリュックス侯へと近づいた。
上機嫌で葡萄酒を飲んでいたリュックス侯は、アデレイド公に気づくと一瞬ぎょっと目を剥いた。隣に控えていたフィアも流石に驚いたのか、小さく息を呑む姿が視界の端に映る。
実質上、帝国の頂点に立つ公爵を前にして、萎縮するなという方が無理な話だろう。
アリカが背中をつつくと、アデレイド公は固まる凡愚を前にして、一つ咳払いをした。
「リュックス侯、随分と盛り上がっているようだな。これでしばらく帝都に戻ることもなかろう。どうだ、出立前に私と一杯飲まないか」
「……っも、もちろんです!」
逆らえるはずもない。こくこくと何度も頷き、リュックス侯はアデレイド公の為に席を設ける。
そこで初めて、アリカに気付いたらしい。乱れた服を直し、こちらを凝視する。
赤銅の髪は絹のよう、瞳は落日の空の色。肉感的な紅い唇は弧を描き、陶器のように滑らかな白い肌は、薄明りの下で桃色に上気する。
微かに薔薇の甘い香りが漂う。
リュックス侯だけではなく、その周囲にいた者達は漏れなくアリカに引き寄せられていた。
見惚れているのではない――信じられないものを見ている、そんな表現が正しい。
「あの、公。失礼ですが、そちらの女性は……その、軍議で取り沙汰になった例の女では。よろしいのですか?」
「関係ない。赤目赤髪など今時珍しくもなかろう」
アデレイド公は話題を強引に変えるように、給仕をしていた女中を呼び止めた。
「君、いつものアレを。ここにいるものに振る舞ってくれたまえ」
「畏まりました」
「軍議以外で、今後集まることもそうないだろう。遠慮することはない。それとも、ハティの酒は飲めても私の酒は飲めぬかね?」
「まさか、決してそのようなことは!」
アリカはアデレイド公の隣に腰掛けながらも、視線は別のところへ向けた。
フィア。
鋭い疑念の籠った目を向ける。フィアは口の端だけ釣り上げて、読めない表情のまま畏まっていた。
――さあ、来てやったわよ。
先に動いたのはフィアだった。
腰に回る手をさりげなく払い、畏まったままリュックス侯へ告げる。
「私は席を外しましょう」
「そ、そうか?」
リュックス侯は完全に、公爵を前にして萎縮していた。何を言われても耳をすり抜けていくのか、ただただ頷いて了承するだけだ。
アリカも続いて、席を離れる。
香ばしい匂いが漂う店内を抜け、控え室に入る。他の貴族の従者達が、雑務をこなすための部屋のようだ。従者と言っても、元は貴族の行儀見習いや名士の子息や息女が多く、それなりの身分の者ばかりである。
先に口を開いたのはフィアだった。周りの目もあるからか、あまり距離は詰めようとしてこない。
「先ほどは、蛮族共がとんだご無礼をいたしました。御身を危険に晒す形になったこと、お許しください」
アリカにしか聞こえないくらいの声で、フィアがそう囁いた。
「本気であたしを殺そうとしているように思えたけれど。無謀な計画を立てたものね」
「返す言葉もございません。邪魔になるものは全て消せと命じられておりますゆえ」
アリカは皮肉げに笑って返す。
「邪魔って、一体あたしが何の邪魔をしたというのかしら?」
「みなまで言わずともお分かりでしょう。尊いお方」
皇帝をはじめとした皇族を病魔に侵すことで、この国の機能を歪ませる。アリカさえ手出ししなければ、歪みが正されることはない。
あの時、アリカの真名を呼んだ者――フィアが出てきた時から、この件にはドールが関わっていると察しはついた。ハティに言わなかったのは、確証がなかったからだ。
それに、アリカは信じたくなかった。
(おにいさま……)
不意に浮かんだ考えを断ち切るために、アリカは頭を振った。
どんなにドール王が変わってしまったのだとしても、流石にそこまで愚かであるはずがない。
「貴女様に非はありません。全ては、あの狼公爵めが悪いのです。貴女様の優しさに付け込んで、呪詛を払うよう強要した」
「あの男はただ、弟を助けて欲しいと願っただけよ」
「目をお覚まし下さい。貴女様の独占は何よりの大罪でしょう。あの男は、情愛深い貴女様を利用する外道だ。主は貴女様の犯した罪をお許しになると仰った。そして必ず連れ帰るようにと……」
「邪魔なら殺せ、でも連れ帰れ? 滅茶苦茶だわ。ねえ、フィア。あなた、以前あたしが買い戻した子よね……? どうしてまた、奴隷になんかなったの?」
「覚えて、いらっしゃったのですか?」
フィアは泣きそうな顔で笑った。
「もちろんよ。もう何年前かしら。随分と大人びてしまったから、気づかなかったけれど」
「あの時はまだ幼かった。今はもう、貴女様に守られるだけの子どもではありません」
「本当の主は誰なの。あのポンコツとネーヴェフィールまで行って、どうするつもり」
フィアは首を振り、躊躇いがちに話を続ける。
「何も。私はただ、貴女様にもう一度ドールに戻って欲しい、それだけなのです。私にとっての主は貴女様。貴女様を失ったドールは悲惨だ。飢餓と貧困は変わらず、守ってくれる王侯貴族もいない。妖魔と魔獣の餌食になるのを待つ日々です。食事と居住を与えられる奴隷の方がまだましだ。斯様なドールの民の現状を聞いても、お戻りにならぬと仰るのですか?」
そう容易く手の内は明かしてくれないか。
うまく話をはぐらかされ、かつ相手の要求のみを押し付けられた気がする。如何にも純真無垢そうな眼差しがまた胡散臭い。
アリカは、縋るようなフィアの視線を払うように頭を振った。
「戻れないわ。あの国は、あたしが居ていい場所じゃない」
「……今は一旦、引きましょう。いずれ、正式にお迎えにあがります。その時は、どうぞこの手を拒みませんように」
「随分とあっさり手を引くのね。意外だわ」
「引き際が肝心でございます」
店内がやけに騒がしいのに気付いたのは、その時だ。
大量の軍靴の足音が駆け抜けて、その後で悠然と通り抜ける硬い足音に、アリカは思わず身を竦ませた。
大丈夫、ここはドールではないしおにいさまもいない。誰も薔薇姫を探していないし、追いつめたりしない。
そう言い聞かせて、逸る鼓動を抑える。
こっそりと扉を開けて様子を伺えば、客が次々と散っていく。店内には妙な緊張感が漂っていた。
残ったのは引くに引けなかったリュックス侯と、騒ぎの中心であるアデレイド公。その二人の前に軍属がずらりと整列する。
アデレイド公を守るように、護衛の兵士が飛び出した。
外套を翻し、萎縮する二人の前に進み出た漆黒の髪の男は、さながら狩りをする狼のようだった。その手にした黒い剣で、一撃で護衛を薙ぎ払い、周囲にはまるで葡萄酒のような血液が飛び散った。
やだ、もうここが割れちゃったの?
アリカは後ろ姿を見て、それがハティだとすぐに分かった。
「これは、ハティ殿下。このようなところに来るとは珍しい」
「……黙れ。私は今すこぶる機嫌が悪い。私の質問に簡潔に答えろ」
「はっ、随分な口の利き方だ。この私にそのような口をきいていいと思っているのか。私は陛下の――」
舌打ちをし、ハティはアデレイド公の胸倉を掴んで一発、その顔に拳を叩きこんだ。
「黙れと言ったのが聞こえぬか。耳まで腐ったか、アデレイド公」
「なっ何をっ」
「卿は禁忌を破り、赤目赤髪の女をこの店の前で買った――相違ないか」
「何の話だ。覚えがない」
ハティはしらを切るアデレイド公を冷厳と見下ろす。
「老いた身体に拷問は、さぞや辛かろう。しかしこれも致し方ない。まずは両足を折る。ご承知だろうが、私は冗談を好まぬ。卿が買った女は今どこにいる。何故そこにいない。返答次第では、足だけではすまぬぞ」
「知らんな。先ほど席を離れた。私が誰を買おうが勝手だろう。そも、あれは望んでこの私を選んだ。ハティ、貴様ではない!」
高らかに叫ぶアデレイド公を前にして、ハティはどこまでも冷ややかだった。無表情で黒い剣を深々とソファーに突き付ける。刃が頬をかすめ、アデレイド公は目を点にしてハティを見上げた。
「仮にそうだとしても、アレは既に俺のものだ」
「金を積めば誰にでも靡く娼婦崩れに、一体どれほどの価値があるというのだ。一度抱けばもう用済みだろう。何故そこまで固執する、他に回せ。それこそ、今国境に赴いている者共に!」
「一体何人いると思っている。現実味を欠いた愚かな考えだ」
「はっ、実際、あの女はそうして気まぐれに身体を売り、同じ人間には二度と抱かれない。ならばこちらから斡旋してもおかしい話ではない。国の未来がかかっているのだ、ハティ、貴様にも分かるだろう」
尤もだった。間違ったことは言っていない。それでも、いい気分ではないのは確かだ。
アリカはこっそりと溜息をついた。
誰に買われても結局同じ。金をくれるだけ、アデレイド公はましなのだ。
気づかれないようにそっと扉から抜け出すのと同時に、ハティが言い放つ。
「だからと言って、アレが不特定多数の男に抱かれるのを許すほど、私は心が広くない」
「……ありがと」
言葉は不意に漏れた。人として扱われなくても仕方ない、道具として生きる他ない――そんな諦めがあったからかもしれない。
小さな呟きにも拘わらず、ハティは気付いたらしい。振り向くなり、アリカに向かってくる。
荒れ果て凍てついていた空気が、その途端に和らいだ。
ハティはアリカの前で跪き、同じ視線になると幼子にでも言い聞かせるような口調で説教を始めた。
「勝手に出歩くな、知らない人間についていくな。そう教わらなかったか」
「あたしが誰と一緒でどこにいようと、ハティには関係ないじゃない」
「忘れたのか。お前は俺が買った。いわば、俺のものだ」
「一体いつあんたのものになったのよ。もうお金は払ってくれないんでしょ?」
馬鹿にしたような顔をされ、アリカは腹立たしくなってハティの頬を思い切り引っ張ってやった。
応援ありがとうございます!
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