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第2章 小夜曲

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 皇帝の苦痛を反映しているかのように、帝都には沈鬱な空気が漂っていた。
 街には夜通し灯りが点るけれど、ネーヴェフィールのような華やかさはなく、どこか病んだような風が吹く。石畳の街路を行く人は、無心で急いているようで、誰も周囲を顧みない。立ち止まれば、たちまち蠢く闇に飲み込まれてしまいそうだった。

「きょうだい……か」

 ハティがバルドを部屋まで送り届ける間、ひとり取り残されたアリカは、北方の峰へ視線を投げて呟いた。彼方には、ドール王の居城がある。
 あの二人を見ていると、優しかったころのおにいさまのことを、どうしても思い出してしまう。

 ――広い神殿に一人、世俗から隔離されて育ったアリカにとって、頼りは世話係の侍女と神官達だった。彼らは必要最低限の接触のみで、望まぬ限り言葉を交わすこともなかった。
 退屈だった。神殿の中は目を瞑ってでも歩けるくらい知り尽くし、神殿内の図書室の本は諳んじるほど読み込んだ。
 時が止まったかのような静寂さの中で、アリカは過ごした。
 それでも心を失わなかったのは、おにいさまが会いに来てくれたからだ。その時ばかりは自由だった。
 おにいさまは、いつも日向の匂いがした。薄暗い神殿にいるアリカとは違う匂いが。だから、おにいさまの膝の上に抱っこしてもらうのが好きだった。

 薔薇に喩えられた聖女が、当時のドール王を呪殺したとして国内が混乱に陥ったのは、もう五年も前の話になる。
 ――優しかったおにいさまは、変わってしまった。

『お前が誑かしたのか!』

 ――違う、違うわ、おにいさま。

『国を傾けるのがお前の目的だったのか!』

 ――話を、聞いて。

『さぞや満足だろう。お前は私から全てを奪っていったのだ。父も、友も、国も全てお前が!』

 ――おにいさまだけは、裏切ってはいけなかったのに。

 優しくアリカを見つめた瞳は遠く、凍えそうなほどに冷たい視線ばかりが、アリカの脳裏に蘇る。


 今のドールに比べれば、帝都はまだましな方だ。それほど、聖女なきドールの衰退ぶりは目に余るという。
 あの国がどうなろうと今のアリカには関係ないが、かの国に残っている民のことを思うと胸が痛むのも事実だった。
 元々、ドールは魔力が滞りやすい気風の国だ。滞った魔力は、妖魔や魔獣を寄せ付ける。飼い慣らされた妖魔や魔獣は別として、野生の妖魔や魔獣は人を害するものだった。そんな中でドールの民は、王侯貴族の持つ固有魔法によって守られ、諸侯が治める領地で生活をしていた。
 だが、領民を守るはずの貴族達は、ある日からその務めを放棄した。
 ――破魔の聖女の誕生である。
 皮肉にも、その存在が王侯貴族を怠惰にさせ、結果的に人々を苦しめることになってしまったのだ。
 そして、かつての聖女の領地も今では荒野と化している。
 神殿の周囲に集落を形成していたアシュラムの信徒達の姿は、もうどこにもない。聖女の血を授かり破魔の力を分け与えられた者は、あらぬ罪を着せられて王侯貴族に連行され、退魔結界の礎とされた。生きた屍のような状態で牢獄に閉じ込められたのだ。
 民は、責務を果たさぬ貴族へ不満を抱き、一方的な搾取に怒り狂った。その不平の鬱積に比例して、王太子は聖女への不信を募らせた。王太子は、聖女が信徒を扇動し、民へ不信の心を植え付けているのではと疑っていたのだ。
 事実無根、アリカは一度だって国を裏切ったことはない。求められれば救いの手を差し伸べ、言われるがまま罪人から魔法を奪った。
 正義を掲げて立ち上がった人々は、王太子によって容易く殲滅された。アリカは無力だった。
 残った僅かな信徒達は悉く奴隷商に捕まった。
 破滅の匂いに敏感で、国が傾く頃に奴隷商は暗躍する。この帝都のどこかにも紛れ込んでいるに違いない。

 バルコニーで夜風にあたりながら、城下を見下ろしていたアリカは、冷えた気配に振り返る。
 ハティが戻ってきたのだ。その眉間には深い皺が刻まれている。

「陛下は眠ったの?」
「分からん。部屋にたどり着くなり、宮廷魔術士に追い出された。俺がいると無理をするからと」
「ハティが簡単に引き下がるなんて、明日は槍でも降るかもね」
「では、どうしろと? この国一番の魔術士に意見できるとでも?」

 ベッドに腰かけ、ハティはアリカを鋭く見上げた。アリカはどこ吹く風でそれを受け流し、手すりに頬杖をついて苛立つハティを見つめ返す。

「逆に、できないことの方が不思議で仕方ないわよ。いつもだったら、お前如き下郎が俺様に意見するな、とか、たいして役にも立たぬ駒がよく吠える、下がるのは貴様の方だ、とか言って切り捨てるところでしょ? 引き下がるとか、あり得ないじゃない。とても強引にあたしの正体を暴こうとした男の行動とは思えないわ」

 ハティの冷然とした口調の真似をして揶揄するアリカに、ハティは顔を顰めた。
 アリカは肩を竦めて続ける。

「実際、宮廷魔術士はたいして役に立ってないのよ。それなら、まだハティが側にいた方が心強いでしょうね」
 
 暗闇の中に一人取り残され、見えざる呪いとせめぎ合うことを思えば。
 ハティが隣にいれば、心強いだろうに。何せバルドは兄を心から慕っているように見えた。
 アリカはハティの隣に腰かけた。

「大事なきょうだいでしょう? 安心させてあげなさいよ」
「だが、俺に何ができる? バルドが苦しんでいても、どうすることもできない。奴に任せるよりほかないだろう!」
「あのね、何のためにあたしをここまで連れてきたのよ。あんた、頭が空っぽなの?」

 ハティは鼻白んだ。

「なんなら、あたしが陛下と添い寝してあげる」
「馬鹿を言うな」

 立ち上がったアリカの腕を掴み、今にも噛みつきそうな勢いでハティが唸る。何だかそれがおかしくて、アリカは鈴を転がすように笑った。

「あら、冗談よ。いくらあたしが、どうしようもない色魔だとしても、あんなに純粋な少年を籠絡しようだなんて思わないわ」
「そういう問題ではない」

 ハティは複雑そうな表情をして、唇を閉ざした後で、深い溜息をついた。

「あれでも一応、バルドは男だ」
「そうね」

 アリカは肩を揺すりながら、豪奢な部屋に飾りつけられている薔薇に近づいた。その棘に触れれば、白い指先からぷくりと血の珠が浮かぶ。その血を薔薇に吸わせれば、それはたちまち、破魔の力を得る。
 血を与え続けて育てた薔薇と違い効果は持続しないが、眠るには十分だろう。

「これを、持って行って」
「この薔薇は――」
「これはアシュラム・ロゼ・マーニ=ドール。あたしの名を得た薔薇。薔薇の中の血が涸れない限り、陛下を守るわ」

 名というのは、魔術において最も意味あるものだ。 
 名を持つと力を得る。名を奪われれば、力を失う。
 薔薇姫と謳われたドールの聖女、その名を薔薇に与えることで、それは特別な意味を持つ。
 ハティに手渡した薔薇は、甘い香りを漂わせて、瑞々しく咲き誇っていた。この薔薇は、呪詛に飲まれそうなバルドに反応して、より一層匂い立つだろう。
 出来ることならアリカがバルドの側にいた方がいい。皇帝への呪いは特に重く、確実に命の灯を消しに掛かっている。しかし、宮廷魔術士や臣下が終始付き従っているこの状況では、堂々とバルドへ近づくことも難しい。それに、ハティにしがみついてあちこちを歩くのはもう御免被りたい。

「要するに、お前がバルドと共にあると」
「そういうことね。陛下バルドがその薔薇を手放さない限りは」
「……複雑だ」
「馬鹿なこと言ってないで、早く行ってあげて」 
「俺には何もないのか?」
「言ってる意味が分からないわ」
「バルドにあって俺にないのはおかしい」
 
 アリカはどことなく不満そうなハティを見上げ、彼のスカーフを掴んで引き寄せた。唐突な行動に驚いたのか、ハティは息を詰めてアリカを見つめる。吐息が交わるほど近くに、ハティの端正な顔があった。
 アリカは人形のようなハティの顔を覗いて笑った。

「おかしくないでしょ? あんたにはあたしがいるんだし」

 だから、とアリカは呟いた。

「あなたの大切な弟を、守って――」

 言い終わる前に、噛みつくように唇を塞がれる。
 生ぬるい舌がふっくらとした唇をなぞり、隙間から割って入ってくる。角度を変えて、次第に深く。粘着質な水音と、二人の息遣いが暗い部屋の中を満たした。

「んっ」

 互いの呼吸を静かに奪い合うように、何度も口づけを交わす。
 
「アリカ……」

 息継ぎの合間に譫言のように囁かれる名前は、随分と熱を帯びていて、アリカを落ち着かない気分にさせる。
 ハティがどんな顔をしているのか知るのが恐ろしく、アリカはずっと目を閉じていた。

「目を開けろ」
「どうして?」
「お前の目を見たい」
「そんなことを言うのは、あんたくらいだわ」

 苦笑して目を開ける。
 アリカと視線を合わせるものは少ない。この朽ちていく空のような色の瞳に、皆不安を覚えるのだ。だが、ハティの視線は、アリカの全てを見透かすように真っ直ぐだった。
 ハティの節くれた指がアリカの髪を弄び、闇の中で浮かぶ白い頬に手が滑る。ハティに触れられた肌がやけに熱い。

「どこも、傷つけられなかったか」
「あんたって、つくづくおかしな奴よね。それ、今確認すること?」

 アリカは鋭利な刃のようなハティの瞳をのぞき込んだ。
 敵を炙り出すための餌にしておきながら、アリカの心配をするこの男の気がしれない。
 ハティには、アリカが必要だ。皇帝の病魔を治すためには、破魔の力が不可欠だから。
 それでも、アリカを利用した。彼にとって全ては手駒、そこに情が入り込む余地などあるはずもない。それなのに。
 アリカはくすりと笑った。

「何がおかしい」
「あたしは大丈夫よ」

 闇の中で浮き立つようなハティの薄紫の双眸は、朝焼けのようで美しい。
 眩しい、と思った途端、胸が騒めく。
 それ以上考えては駄目――アリカは思考を停止させる。機械的にハティを見上げ、仮面のような微笑みを浮かべて訊ねる。

「ねえ。この口付けは、奉仕のうちよね。報酬をもらえる?」

 ハティはアリカの言葉にぴくりとこめかみを動かし、何とも複雑怪奇な表情を浮かべた。

「……それほど金が欲しいか」
「最初にあたしを買うって言ったのはハティでしょ。慈善事業をしているわけじゃないもの。恋人でもなければ、お互い好きでもない。ただキスするのはおかしいわ」

 金で繋がった関係だし、病魔はもう払った。ならば何故。理解できない。
 金で買われたとて、心まで売った覚えはない。

「第一、バルドを助けるのとあんたとキスするの、一体何の関係があるのよ」
「……分からぬか」

 ハティは呆れとも怒りともつかぬ声音で言うと、アリカから視線を反らした。

「バルドが心配だ。様子を見て参る。お前はそこで大人しく寝ていろ」 
「ちょっと、ハティ!」
「いいかアリカ。今後バルドに関すること以外で、お前に金を払うことはない!」

 一方的にそれだけ言い捨てて、ハティは薔薇を持って出て行った。

「どういうことよ……」
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