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第2章 小夜曲

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「……ハティ。あたし、分かったの」
「何?」

 ハティのマントを拝借しつつアリカが口を開いたその時、外が騒がしくなる。

「お待ちください、陛下」
「何故止める! 兄上がその部屋に入っていかれるのを、僕は確かに見たのだ!」

 防音にも拘わらず聞こえてくる応酬に、アリカは思わずハティを見上げた。ハティは口を閉ざしたまま、首を振る。大きな手がアリカの口を塞ぎ、静かにしろと冷たい瞳が訴えていた。
 隠れる場所を探して視線を彷徨わせ、アリカは重厚なビロードのカーテンに目を止める。身を隠すには丁度いい。
 床には血溜まりができ、ハティが刎ねた首がそこらに転がっている。部屋の中は生臭い血の匂いが充満して息苦しく、酸っぱいものが喉を競り上がってくる。見ているだけでも気分が悪い。
 皇帝はまだ十五歳、戦場さえ知らない。この光景を見た少年がどう思うか定かではない。

「なりません。お顔色が悪い。一旦、部屋に戻りましょう」
「このくらい何でもない! 僕が主催した夜会なのに、自由にできないなんてどう考えたっておかしい!」

 言い募った後で彼は激しく咳き込んだ。

「まだ体調も万全ではないでしょう。私が確認致します。どうか陛下は部屋へ……」
「大丈夫だと言っている! しつこいぞ!」
 
 制止の声を振り切って扉を開けた少年は、息を呑んで立ち尽くした。さもありなん、そこは死屍累々の惨状だ。

「……兄上」

 掠れた声は不安に揺れている。
 アリカは息を詰めて、カーテンの隙間からじっと彼を凝視した。何しろ件の皇帝を拝めるまたとない機会である。
 兄弟だというのに、二人は似ていなかった。
 ハティは獣のような鋭さがあるけれど、皇帝はどこか柔和で、中性的な顔立ちをしている。病的なまでに白い肌に、細い身体は頼りなく、風が吹けば飛んでしまいそうなほど儚い。ハティの黒髪と異なる、稲穂色の美しい髪は額に張り付いて、肩で息をするたびに揺れる。深い湖の底を覗くような青緑色の瞳はどこか精気を欠き、翳りを帯びていた。
 病んでいながらもどこか神聖ささえ漂うその姿、彼の者こそ、帝国の頂に立つ存在だとアリカは確信する。
 とは言え、なんとも頼りない風体だった。その双肩にかかる重圧を思えば当然だろうか。誰かが支え、庇護せねば、立っていることさえ難しいだろう。
 ――この少年を、誰かが呪った。
 アリカは唇を噛み締める。
 まだ即位したばかりで、諸侯にいいように操られる傀儡の皇帝。ハティという強力な後ろ盾があれども、御しやすい皇帝を敢えて廃そうと企む者がこの国にいるのだろうか。邪魔であれば、即位前に抹消するなど容易かろうに。
 ハティはアリカを背後に隠すようにして立ち上がり、少年の名前を呼んだ。

「どうしたバルド」 
「兄上、これは一体どうしたというのです? 人が……」
 
 青白い顔から更に血の気が引いて土気色になる弟の肩を叩いて、ハティは苦笑を浮かべる。

「本当に顔色が優れないな。無理をしてここまで参ったか」
「質問に、答えてください」 
「こいつらは突然斬りかかってきた。故に、俺も剣を抜かざるを得なかったまで。バルド。部屋を汚して悪かったな」

 アリカは瞬時に、自らの置かれた状況を理解した。
 敵味方も不明瞭な状況下で、たとえ皇帝の侍従といえども、ドールの薔薇姫のことを話すわけにはいかない。

「そんなことはどうでもいいのです。兄上、お怪我はありませんでしたか?」
「くだらぬ。この程度の雑兵が、俺に手傷を負わせられるわけがなかろう」

 不敵に笑うハティに、バルドは顔を明るくさせた。

「そうですよね! だって兄上は、誰よりお強い!」
「大げさな奴だ」

 ハティは苦笑して、バルドの頭をくしゃくしゃに撫でまわした。バルドは擽ったそうに笑い、きらきらと瞳を輝かせてハティを見上げる。

「それにしても、兄上に刃を向けるとは、どこの不届きものでしょう。すぐに素性を調べさせます」
「……その必要はない」

 ハティは死体を蹴って仰向けにさせ、冷たくそれを見下ろした。
 
「何せ、俺には敵が多い。この程度の間者を送り込む相手の力量もたかが知れている。羽虫の素性が割れたところで、また新たな虫が湧くだけだ」
「ですが兄上……」
「この話は終わりだ。バルド、身体に障る。部屋に戻れ」

 アリカは、じっとハティの言葉に耳を傾けていた。
 帝国軍を率いる、最強の皇子――ハティ。その名は諸外国にまで轟いている。この男さえ抹殺してしまえば、如何に強固な城塞であろうと、攻略は容易くなる。
 病魔は、ハティをも食い殺そうとしていた。アリカと身体を重ねなければ、いずれ斃れていただろう。
 バルドは見るからにしゅんとなって俯く。

「でも、僕が部屋に戻ったら、兄上はもう帰ってしまうのでしょう?」

 ――その言葉、反則じゃない?
 ハティとは違って、なんと純粋で真っ直ぐなこと。
 ちらりと見えたバルドの顔は捨てられた仔犬のようで、抱きしめたくなるほど可愛らしい。アリカはカーテンの中で悶えた。この子は必ず守らねば、と固く決意する。

「本当に顔色が優れないぞ。もう寝ろ」
「でも……」
「僭越ながら、殿下。私が陛下を部屋へお連れいたします」

 畏まって侍従が申し出ると、ハティは冷たく彼を一瞥して返す。

「よい。俺が連れていく。お前はもう下がれ」
「ですが――」
「二度同じことを言わせるな」

 鋭く切り返されて侍従は黙礼し、そのまま下がった。アリカは一瞬逡巡し、その場に留まることに決めた。半裸のアリカが聖女の名乗りを上げたとて、バルドに不審がられるだけだ。
 バルドはあからさまにほっと肩を撫でおろし、ハティに向き合った。一応、侍従がいる手前、気を張っていたのだろう。そのまま歯切れ悪く続ける。

「……全然、眠れないのです。目を閉じれば蠢く闇に引き込まれて、もう戻ってこられないような気がして……」
 

 呪詛がバルドを侵そうとしているのだろう。
 魔力の流れを乱されることで、身体にかかる負荷は絶大なのだという。休まなければ体力は消耗する。されど目を閉じても呪いは精神を蝕む。眠りについて無防備になった心は、呪詛の恰好の餌食だ。
 心に鎧を纏わぬものは、簡単に侵される。
 アリカは、年頃にしては細いバルドの両肩をじっと見つめ、奥歯を噛みしめた。
 ハティは不審げに眉を顰めた。

「宮廷魔術士はどうした」

 国で最高位の魔術士ならば、確かにバルドの精神を守り、安らぎを与えられるだろう。ハティが不審に思うのは尤もだった。
 バルドは苦笑を浮かべて返す。

「よくやってくれています。それでも……怖い」

 結局、魔術士の与える安らぎも一時的なものに過ぎない。
 皇族全てを病魔に侵すような強い呪詛を、齢十五の皇帝が耐えられるはずもない。
 皇帝としての重責と共に呪詛に苛まれる――想像を絶する苦痛である。

「情けないですよね。自分でも、何故そんな風に考えてしまうのか分からなくて。もっと気丈でいようと思っても、体が全然言うことをきかない。僕は、いつまでたっても未熟者です……」
「大丈夫だ、バルド。案ずることはない。ただ今は、身体を休める時だ」 

 これまでかつてないほどに、優しい声音にバルドも素直に頷く。

「よし、君主たるもの、諫言も受け入れねばならない」
「聞く耳を持て、ということですね」
「そうだ。それから、無理をしてまで出歩くな。途中で何かあったらどうするつもりだ」
「……次からは気を付けます」
「あまり気張るなよ。適当に肩の力を抜け」

 ぽんぽんと頭を軽く叩き、ハティは苦笑を浮かべた。
 
「ちょっと、ハティ」

 小声で呼びかけたアリカに、ハティは見向きもしない。ムッとして、ハティの裾を掴んでもう一度問いかける。

「あたしはどうすればいいのよ」
「……外套を取ってくる」
「兄上?」
「今夜は冷える。そのまま出歩けば風邪をひくぞ」
「でも、僕は大丈夫ですよ」
「いや、俺が寒くてかなわん」

 バルドは不思議そうに小首を傾げながらも、頷いた。
 一寸部屋を出て、ハティはすぐに戻ってきた。大きめの外套には、細身の女性なら二人くらいは入れるほどの余裕がありそうだ。
 ハティは無言で、アリカにそこに潜り込めと指示を送る。バルドの視線が逸れたのを見計らって、ハティの外套の中に潜り込んだ。

「もっとくっつけ」 
「十分くっついてるわよ」
「足りん。いっそ身体にしがみつけ」
 
 小声で指示をされ、アリカはハティの背中を軽く叩く。
 冗談じゃない、出来るわけない――そう噛みついてやりたいのをぐっと堪えて、アリカはしぶしぶとハティの身体に抱き着いた。豊かな胸が押しつぶれ、形を変える。歩きにくいことこの上ない。
 何よりも、バルドが相変わらず不思議そうにしている。やはり不自然なのだろう。

「兄上、どうされたのですか?」
「何がだ」
「だって、なんだか……嬉しそうなので」

 アリカは再びハティの背中を叩いた。しかし先ほどのような優しさはなく、力のままに拳をふるった。
 泣く子も黙る狼公爵が、この程度で平常心を失うなどあってはならないことだ。
 今は邪な欲望はしまって、さっさと歩けと無言で拳を振るう。
 顔を顰め、ハティは憮然として答えた。

「いや、大丈夫だ」
「何がですか?」
「これが平常だ」
「ふふっ。そうですね」

 眩しい笑みを向けて、バルドは頷いた。ハティ以外誰もいないと思っているからなのか、仔犬のようにはしゃいで、長い回廊を先に行く。
 そんなバルドの純粋な笑みを浴びて、アリカは思わず呟く。
 
「全然ハティに似てないわ」
「何だ、いきなり」
「ううん。誰かさんと違って可愛げがあるなって思っただけ」
「俺にだって可愛げがあるだろう」
「別にあんたにそれは求めてないわ。ハティがああなったら、逆に怖い」 
「だが、お前は可愛いものが好きなのだろう」
「嫌いじゃないわ」
「……そうか」
「あたしだけに限らずね、大抵の女子は、可愛いものが好きよ」
「そうか」
 
 アリカはくすりと笑った。ハティの声の浮き沈みがなんだかおかしくて仕方ない。

「あら、お可愛いこと」
「……もういい、黙れ」

 ハティの逞しい腕が、アリカの身体を抱き寄せる。その瞬間に思い起こされたのは、忘れかけていた欲情の熱だった。
 初めて会ったあの日以来、ハティはアリカを抱こうとしない。
 病魔はもう治した。だから、きっと。
ハティの感触がふと甦る。
 熱く触れた指も、広い背中も、逞しい腕も、もうアリカのものではない。
 そう思うと、身勝手ながら寂しさを覚えた。 
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