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第1章 秘密の花売り

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「――聖女は見つからなかったと申すか、フローズヴァン公」
「二度は言わぬ。その年で、もう耄碌されたか。アデレイド公」

 冷たく一蹴し、ハティは凍り付く軍議の場を見渡した。そこここで、病んだ咳をするもの、心なしか顔色の優れないものがちらほらいる。
 対して、ハティの顔色は良好だった。

「ドールの新王の触れ回った通り、薔薇姫はドール国内におらぬ」
「待っていただきたい。ネーヴェフィールに向かったソルウォルフの報告を聞いておりません。この場に招致されておらぬが、何かやましいことでもおありか?」

 ハティはうるさそうに顔を顰め、勇敢にも切り込んできた士官を見据えた。
 氷柱にも似た鋭利な眼差しに、士官は竦み上がる。

「奴はあまりの衝撃で寝込んでいる。そっとしておくのが、情けというものだろう」

 切り込まれても淡々と返すその姿に、誰もが反撃できずに押し黙る。

「ネーヴェフィールには化け物がいる。リッピ侯の目の黒いうちは、花街に迂闊に手を出せまい」
「だが、なんの成果も得られず、おめおめと戻ってくるなどどういうつもりだ。このままでは陛下が――」
「ほう、けいが陛下の身を慮るか。保身だけではなく、他人を思いやる心があったとは知らなかったぞ、アデレイド公」

 場の空気は急激に冷え込んだ。下士官以下数名は政敵二人のやりとりに戦々恐々とし、肩身狭く佇んでいた。

「元より、破魔の聖女の存在自体を危険視されていた卿が、熱心な聖女信者となられていたとは。病魔ごとき、子飼いの魔術士がなんとかしてくれようと息巻いていたのはどなただったか……教えてはいただけぬか?」
 
 アデレイド公の顔は怒りでどす黒く染まり、今にも切れそうなほど青筋が浮き上がっていた。
 ハティは、くっと喉の奥で笑い、立ち上がると踵を返す。

「飼い猫が起きる頃合いゆえ、そろそろ失礼する」
 

 ◇


 目覚めたアリカは、茫然と、見知らぬ高い天井を見上げて瞬いた。
 白夜亭ではない。ネーヴェフィールの宿屋でもない。
 気怠げに起き上がれば、薄い布一枚を掛け、やけに豪華なベッドに寝かされていることに気づく。
 薄暗い部屋を見渡せば、見事な細工の調度品が並べられており、それなりの身分のものの屋敷だと窺える。
 カーテンの隙間から蜜色の光が差し込んで、アリカは眩しさに目を細めた。

(もう、朝……)

 状況が全く把握できない。
 腰は妙に重く、全身が痛い。
 狼公爵といたしたのは覚えているが、その後のことが記憶になかった。
 何故ドレスがない。何故裸で寝ている。
 身体は土埃や泥で汚れていたはずなのに、見れば綺麗になっている。
 途端に血の気が引いた。
 誰かが隈なく身体を拭いた――その事実に震える。
 見られた。焼き印も、痣も。
 ――大丈夫、これはきっと夢。狼公爵と出会ったのも気のせい。
 都合のいいように自分に言い聞かせたアリカは、軽快なノックの音で現実に引き戻された。
 身体を隠すには心許ない薄い布をかき寄せて、息を殺して飴色の扉を注視する。鼓動は逸り、じわりと汗が浮かぶ。背筋を伝って滴が流れ落ちたその時、扉が開く。

「目が覚めたか」
 
 冷ややかな声と同時に現れたのは、ハティだった。その手にはパンと果物、それから茶器の乗ったトレーがある。息を吸い込むと芳醇な香りがアリカの鼻腔を満たし、強張っていた肩の力が僅かに抜ける。あのハティとは言え、顔見知りが入ってきたことに一瞬安堵した己が悔しくて、威嚇するように睨みつける。
 ハティは既に着替えており、濃紺の軍服を着用していた。鍛え上げられ、余計な肉のそぎ落とされた体躯にその軍服姿はよく映える。容姿だけは抜群にいいのが腹立たしいし、不覚にもそそられる。
 油断していた己の不徳の致すところとはいえ、過去の自分を知る人間と行動を共にするなんて。あのまま寒い小屋に放置しておいてくれたほうが、何倍もましだったことだろう。
 大体、薔薇を売ってやると言ったつもりもなければ、あの端金だって突き返したはずだ。動揺している隙に体を弄ばれ、連れ出された。
 これは夢でも何でもない。昨夜から続く、紛れもないアリカの現実。憂鬱で溜息が出る。
 ハティは手にしていた食事を円卓上に置いて、くっと喉の奥で笑った。

「どうした。声も出ぬか?」
「とりあえず、今すぐあたしの視界から消えてくれないかしら?」
 
 冷ややかな視線を投げつければ、ハティは唇の端を釣り上げて肩を竦めてみせた。

「健在そうで何よりだな」

 その時だ。空腹に耐えかね、腹の音が鳴る。
 恥ずかしさのあまり真っ赤になって俯くアリカに、ハティは意地悪く笑った。

「丁度いい。あれを食べるといい」
「……変なものいれてないでしょうね」
「さあ? 食ってみれば分かる」

 アリカは不満げな表情のまま、食事の乗ったトレーに視線を落とす。新鮮な野菜と薄切りハムを挟んだパンは香ばしく、果物は甘く成熟した香りが漂う。なんとも美味そうな匂いに空腹感を刺激され、不覚にも喉が鳴る。

「口を開けろ」
「は? どうして」
「食わせてやる」
「嫌よ。あんたのおままごとに付き合ってあげる義理なんてない」
「では、俺の上に乗って食べろ」

 そういって、ハティはぽんと自らの膝を叩いた。馬鹿ばかしい――アリカは冷ややかに首を振った。

「これは命令だ。ここが無理だというのなら、俺の上に跨がれ。多少重くとも鍛錬だと思えばどうにでもなる」
「あのね。あたし今何も身に着けてないのよ。絶対に嫌」
「わがままを申すな」

 ハティは舌打ちをし、卓上へ金貨を十枚ばら撒いた。

「何、この金貨は」
「分らぬか。追加料だ。金は払った。奉仕しろ」

 ハティは無茶苦茶な御託を並べ立てて、強引にアリカの腕を掴んで膝の上に抱き込んだ。逞しい腕に囲われて逃げ場をなくし、座り心地の悪い椅子にぶち切れそうになりながら、アリカは一口パンをかじる。最早やけくそである。
 おいしい!
 新鮮な野菜と、カリッと焼きあげられた薄切り肉。噛めば噛むほど、ふわとろの卵が弾けてそれらと絡みあい、絶妙に舌の上で踊る。
 アリカの満面の笑みを食い入るように見つめていたハティは、その唇についたパン屑を親指で掬い取って、満足気な表情を浮かべる。

「あれだけまぐわっておきながら、今更、何を恥じることがある」
「……あんたには、きっと理解できないでしょうね」

 この身には幾つもの醜い痕がある。
 奴隷の証、鞭うたれた痕。ドールの聖女の証たる、薔薇の痣。
これまで肌を重ねた相手にも、背中を見せたことはない。――見せたくない。
 
 破魔は稀有な魔法である。全ての魔を打ち払い、呪詛を返す。故にアリカはドールにおいて聖女と称えられ、敬われた。
 顔は仮面で覆い隠し、頭にはベールを被って更に姿を隠した。人前に姿を現すことは殆どなく、他国の皇族や王族ですら、薔薇姫の姿を直に見ることはなかった。
 誰もが聖女を知っているが、誰も聖女を知らぬ。
 遠い雲の上のような存在だった。
 かつての栄華はもうない。それでも、ハティはかつての栄華を知っている。
 そう、一度だけ。
 ハティはドールの新王即位の際に、セラフィトの大使として、かの国へと招かれていた。
 遥か高みに据えられた聖女を見上げ、彼は何を思っただろう。
 それが今では娼婦崩れの花売り。
 背中の醜い跡は、アリカが堕ちた証だ。
 アリカは無意識にシーツをかき寄せて、ハティへ背を向ける。

「……アリカ」
 
 ハティは指を滑らせて、赤銅の髪をすくいあげた。すん、と匂いを嗅ぐ音がしたかと思えば、直後、身体にきつく巻き付けていたシーツを取り払われた。

「案ずるな。お前が薔薇姫だということは、誰にも告げていない。お前の肌に触れるのは、この先俺だけだ」
「そんなこと……っひゃぁ」

 ハティが小鳥を撫でるように優しい手つきで、アリカの背中に触れる。その指先がなぞるたびに熱を帯びていくようだった。

「忘れたか、アリカ。俺が買ったのだ。お前は今、俺のものだろう?」

 耳元で囁いて、ハティはアリカの存在を確かめるように、首筋に甘く噛みついた。ぬるりとした感触が火照った肌を嬲る。
 そう、どう足掻いたって、今のアリカには逃げ場などない。ここはハティの領域。ネーヴェフィールとは違う。

「それで、ハティ様。あたしをどこに連れてきたのかしら?」
「ノルドフェルトの別邸だ」
「ノルドフェルト?」

 首を傾げるアリカへ、ハティは答える。

「ネーヴェフィールの隣領。ここからなら、帝都からも遠くない。皇帝陛下の招致にも、すぐに参じることができる」
 
 アリカは目を眇めた。
 執拗に確かめて連れてきたのだ、アリカを利用しようとしているのは明白である。
 ハティには一体どんな無茶苦茶な要求をされるだろうか。
 これまでアリカを頼ってきた、ドールの王侯貴族、果てはアリカと対立する関係にあった教会の連中は、いつだって馬鹿馬鹿しいことしか願わなかった。それでもアリカは、救済を望む者を見捨てたことは一度もない。
 白夜亭の皆が言うように、アリカは押しに弱いのだ。

 ハティはアリカの赤銅の髪を片手にとり、丁寧に梳かし始めた。寝所で乱れた髪に櫛が通れば、見る間に絹のような艶やかさが戻る。
 アリカはハティの行動がよくわからず、苦笑いを浮かべる。

「あたしを愛玩動物ペットにでもするつもりで、ここに連れてきたわけじゃないでしょう?」
「ペットか、それも悪くないな」
「やめときなさい。噛みつくわよ」

 どんなに睨みつけても、ハティは全く動じない。

「噛みつく、か。やはり、野放しは危険なようだな」
「……はるばる隣領まで連れてきて、情婦にでもするつもり? それなら他を当たって。あなたに買って欲しいと願う女は多いでしょう」

 暗に早く用件を言えと訴えて、じっとハティを見つめる。
 昨夜。不本意ながらも病魔を払った。解呪が目的ならば、ここまで連れてこなかったはず。即ち、ハティの望みは別にある。
 皇室の系譜を継ぐ貴族達が皆一様に病魔を患う。これは明らかに異常なことだ。
 中枢を担う貴族が相次いで倒れたら国は乱れる。今は小さな歪で済んでいても、いずれ取り返しのつかない事態を招くことになるだろう。
 ――国が乱れれば他国に付け入られる。
 国防の要――帝国軍士官の多くは貴族出身である。皇帝を守る騎士団も貴族中心で結成されている。有事の際には皇帝の出撃命令によって、彼らは動く。
 防人が病魔の影響を受けたとなれば、如何に西大陸の強国として名を轟かせているセラフィトとはいえ、防衛体制が崩れることは容易に想像できる。
 国境付近では辺境伯が睨みを利かせているが、その一人たるリッピ侯とて病魔を患っていることが発覚したばかり。
 帝都のある南東の空を見つめ、アリカは続けた。 

「あたしはね、縋ってくるものを無下にしないと決めているの。ハティ・フォン・フローズヴァン。――望みは何?」
 
 紅蓮の双眸と、薄紫の双眸が交差する。ハティは、静かに語りだした。

「お前も知っておろう。今、この国の中枢を担う貴族の殆どは、病魔に侵されている」
「……そのようね」

 顧客の中には貴族もいた――彼らは運が良かった。
 頷くアリカに、ハティは続けた。

「最初は、ただの流行り病だと思っていた。バルド――弟が病弱になったのも、風邪がきっかけだったゆえ。それが病魔だと気づくのに時間がかかった。ある時ネーヴェフィールの花街で枯れない薔薇を売る女の噂を聞いた。その女から薔薇を買い、褥を共にすれば病魔が治るという。破魔の力を持つものは、ドールの聖女以外にあり得ない。聖女は死んだとドール王が宣言した後ゆえ、半ば信じられなかった。何より、恋すら知らぬ聖女が娼婦の真似事をしているというのだから、余計に」

 それが狙いだったのだが、半信半疑ながらも、彼らは辿った――辿り着いてしまった。
 ハティはアリカの前に跪き、白魚のような手をとって口付けをした。祈るように、願うように優しく触れる唇に、アリカは何故か落ち着かない気分になる。

「貴女に願うことは、たったひとつだけ。皇帝へかけられた呪詛を解いて欲しい」
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