鋼鉄のヴェンツェル

第2部 煉海

１ ヘルジェン・レッド

　ヘルジェン王国の都、ディウムは開国の祖である英雄ヘルジェンが拓いた街だ。
　それから千年以上が経ち、赤煉瓦がずらりと並ぶ壮麗かつ整備された機能的な都市へと成長した。それを支えているのが、ヘルジェンの基幹産業の一つ、煉瓦レンガ製造である。

　恵まれた良質な粘土と砂、高い焼成技術、それを大量生産可能にする窯の開発、そして陸路と水運を利用した網目のような物流、どれを取っても他国の追随を許さない。

　ヘルジェン・レッドと呼ばれる煉瓦色は風雨に晒されるごとに深みを増し、なにより堅固だ。自国の城塞はもちろんのこと、海を隔てた先の国々では高値で取引されている。
　その根幹となるのがここ、フォードン煉瓦窯だ。

　冷却まですべての工程を終え、奴隷が搬出している出来立ての煉瓦を1つ手に取って、施設監督のヤムは後ろを振り返った。
「改良を施したばかりですが、出来は良好です」

「何よりだ」
　頷く姿も優雅な男は、国王アドルフ3世である。

「あの男はどうだった」
「大人しく…とは言えませんが、すべき事は理解していたようです」
「そうか」
　積まれた煉瓦をアドルフが左手で撫でる。その手は薄い鋼鉄に覆われた義手だった。

　3週間前にアドルフが連れてきた男の出自を聞かされた時には、無口で無表情なヤムでさえ目玉が飛び出る思いだった。
　そこにどんな意図があるのか、ヤムには皆目見当がつかない。

「そういえば」
　以前に国王が連れてきた年寄りもブレア国出身だった。

　バルタザールという年齢不詳の見た目老女は、異端扱いされブレア国から亡命してきたのだという。
　子供のような目で素晴らしいと驚嘆し、技術開発経緯を質問してきたにもかかわらず、こっちが答える前に自分の言いたいことだけを延々主張された。どこの国でもババアは一緒だ。

　今では国王の軍事顧問として、あの者が設計した新しい要塞の建築が始まっている。使われるのはもちろんこの煉瓦で、素地の改良研究にはヤムたち職人だけでなく、バルタザール自身も関わっていた。

「しかしバルタザールは研究者だが、彼は違う」
　捕虜みたいなものだと国王は言う。一通りの工程をさせろとヤムは命じられていた。期間限定、しかも最終日の今日、国王自らわざわざ迎えにやって来るなんて。

「なぜ敵国に、我が国の基幹産業現場を見せる必要がある」
　ヤムの不満を理解しているのか、アドルフは、
「お前にはいつも面倒をかける。予算を回すよう手配しよう」
と言って、肩にぽんと手を乗せた。そう言われては平伏するしかない。

「手を煩わせた。仕事に戻れ」
　頭を下げたまま、奥へと進んでいく緋色の髪を見送る。隣には黒い従者が亡霊のように寄り添っていた。

「よくそんな気味悪い奴を隣に置いておけるな」
　奴隷たちが固まって平伏する中、タメ口で平然とそう言うのは、汗だくになった上半身を裸に、窯の火力を確かめていた男だ。まるで寒さなど存在しないかのようである。

「人の目の前で悪口を言うもんじゃないと、ブレア王家では教わらないのか？ガロンは繊細なんだ、減らず口が口を慎め」
　やれやれと、アドルフは砂と埃とススで汚れた男の顔、しかしギラギラした水色の瞳を受け止めた。

「迎えに来た。体を洗い支度をしろ。着るものは用意してある」
　隣の奴隷に見送られながら、マンフリートは湯場に向かう。

「肉体労働は良いリハビリになっただろう。なかなかの体つきだぞ」
「…その腕、誰にやられた？」
　義手の左手に目を止めたその時、アドルフの顔に殺意が浮かぶ。

「『鋼鉄のヴェンツェル』という傭兵だ。知っているか？」
「直接は知らん。たしかジテ湿地戦の直前にフェルディナントに登用されていたな」

「嫌いだからと無視するのは言語道断だな。むしろ嫌いな相手こそ、手の内はより深く知らねばならん」
　いちいち説教臭い奴である。マンフリートは舌打ちしたいのをこらえた。

　奴隷たちは週に2度、髪と体を洗うことが許されている。共用浴場は露天の天然湯場で、隠すものは何もないが、構わずマンフリートは全裸になり、ざぶざぶ湯をかぶった。

「ここの奴隷たちは相当恵まれているな」
　湯編みもそうだが、食事もまともで、宿場は衛生的だった。

「余の国の基幹産業を支えているのは奴隷と市民だ。不衛生な環境や不摂生で疫病が流行すれば、直撃を食らうことになる」

　優秀な幕僚、官僚ばかりでなく、奴隷や異常者——この黒いセスディがそうだ——という、ブレアではおよそ人間と思われていない者たちをアドルフは実に上手く使う。それはマンフリートにとって目から鱗であった。
　
　体を拭くと、ガロンから服を手渡される。いかにも従者が着ていそうなヘルジェン・レッド色の野暮ったいジレとパンツだ。
「余のセレクトだ。さて、出かけるぞ。ついてこい」

　この男、国王のくせに身につけるものにはとんと無関心なようで、いつ見ても同じ服を着ているのだ。無論センスなど期待できない。
　目的地は言わぬまま歩き出すアドルフに、黙ってマンフリートは従う。

　なぜなら彼は捕らわれたのではなく、自らの意思でヘルジェンへやって来たのだった。