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第三章
学校の七不思議と噂話 8
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私は先輩が言うように、日付と書籍タイトル、自分の名前を記入する。ノートに記載している間、先輩は私の横で私の手元をじっと見ていた。文字を書くところをあまり人に見られる経験がないだけに、なんだか気恥ずかしい。
「ふうん、香織ちゃん、可愛い文字を書くね」
昔からちょっと丸っこい文字を書く癖のある私は、少しでも綺麗な字が書けるように書道教室に通ったりしたこともあるけれど、結局は上達することなくコンプレックスが解消されることはなかった。
「子どもみたいな字を書くと、よく言われます……。恥ずかしいので、あまり見ないでください」
このノートに書かれている先輩の名前は、文字がちょっと角張っている。私とは対照的だと思っていると……
「いやいや、僕も文字については人に偉そうなことを言えないからね。ほら、これ」
そう言って、先輩は自分で自身の書いた文字を指差した。
「足して二で割ったら、いい感じになるのかもね」
ちょっぴりイタズラっぽく微笑む先輩に、私の視線は釘付けになる。
「そう、ですね……」
私は自分の名前を記入し終え、手を置きながら返事をすると、先輩が不意に私の右手に触れた。
私の右手から、先輩の熱が伝わる。と同時に、私の顔と身体が途端に熱くなる。
「うん、やっぱり香織ちゃんは全部が可愛い」
先輩はそう言いながら、私の右手に触れた手に力を込める。
「え……? あ、あの……、先輩……?」
先輩の大きな手が、私の手をすっぽりと包み込む。私は先輩が何をしたいのかがわからず、思わず口を開くと、先輩は優しく微笑んだ。その微笑みは、今まで見たどの表情より優しく、そして甘い。その視線をまともに見つめ返してしまった私は、今までに経験したことのない、言い知れぬ感情に包まれたていた。
「何だろう……、まだ知り合って日が浅いのに、香織ちゃんの前だと感情が突き動かされる。香織ちゃんのために、何かをしてあげたいって自然に思えるんだ」
私の耳に聞こえるのは、先輩の声だけだ。
部室の外では運動部の掛け声や吹奏楽部、箏曲部の練習音も聞こえているはずなのに、この空間にそれらは届かない。
今、この世界にいるのは、私と先輩の二人だけ。
なぜかそんな錯覚に陥っていた。
何ならこのまま、ずっと二人だけの世界が続けばいい。そんなふうに思えてしまうくらい、私の心は先輩に囚われていた。
どれくらい時間が流れただろう。
私たちは言葉を交わさずとも、お互い見つめ合っていた。
その沈黙を破ったのは、私のポケットにしまっているスマホのバイブレーションだった。さっき先輩と連絡先を交換した時に、緊張からうっかりマナーモードを解除していたようだ。
その音で我に返った私たちは、お互いの意識を自身のスマホへと向ける。私はポケットからスマホを取り出した。
私のスマホは中学生になった時、両親が買ってくれたもので、四年目の機種だ。三年以上経つと、さすがにバッテリーの消耗が激しいため、メッセージの受信などは通知音を切っている。バイブ機能も切っていたと思っていたけれど、うっかり切り忘れているアプリがあったようだ。
「大丈夫?」
緊急性のあるメッセージかどうか、先輩が私に問いかける。
「全然問題ありません。この前入れたゲームアプリの通知でした。通知切るの忘れていたみたい……」
「そう、なら良かった。……今日はもう、遅くならないうちに帰ろうか」
部室の時計は、もうすぐ十八時を指そうとしている。結局下校は昨日とそんなに変わらない時間だけど、先輩の声に私は頷いて、部室の外へ出た。
先輩が施錠をして、職員室へと鍵を返しに行く間、私は先輩の鞄を預かり中庭で待つことにした。
少しずつ、日が長くなっていく。
七年前のあの時は季節が秋だったから、今と逆に段々と日が短くなっていっていた。銀杏が舞い散る道路が、私と命の恩人の血で赤黒く染まっていく……
思い出しただけで、私の視界が段々と狭まっていく気がした。呼吸も荒くなり、やばいと思ったその時――
「香織ちゃん!?」
先輩が慌てて駆け寄ってくる。大丈夫だと返事をしたいけれど、言葉が上手く声にならない。指先が冷たくなり、手が痺れてくる。私はポケットの中からハンカチを取り出すと、それを口に当てがった。
私が過呼吸の発作を起こしたことに気付いた先輩は、背中を摩りながら私に声を掛ける。
「香織ちゃん、僕の言うとおりに呼吸できる? 吸って、吐いて。息を長く吐くんだよ。吸って、吐いて……。そう、上手だ。もう一度吸って、吐いて……」
先輩の声に合わせて呼吸をする。ハンカチで息を吸い込む量が制限されるのと、吐き出す息が多い分、少しずつ身体が楽になっていくのがわかる。
しばらくして、ようやく身体が落ち着いた。過呼吸の発作は過去にも何度か起こしたことがあるのど、自分でも対処することはできたけれど、先輩の指示が適切だったおかげで、発作はいつもより早く引いた。こうやって誰かにコントロールしてもらうと回復も早い。
「保健の先生、多分まだ残ってると思うから、保健室行ってみる?」
先輩の心配が私にも伝わってくる。そりゃ、職員室から戻ってくると、私がいきなり過呼吸の発作を起こしているのだから、びっくりするのも当たり前だ。
「いえ、大丈夫です……。ご心配おかけしてすみません。今日はこのまま帰ります」
私はハンカチをポケットの中にしまうと、カバンを持って立ち上がる。それを先輩が制した。
「いや、まだ動かないで。何かあった時に心配だから、泰兄呼んでくる。泰兄に頼んで家まで送ってもらおう」
先輩が心配してくれるのは嬉しいけれど、これ以上話を大ごとにしたくない私は、鞄を下ろして私の手を掴んだ先輩の手にそっと触れた。
「それなら母に連絡して、迎えに来てもらいますね」
私の気持ちを汲んで、先輩は渋々頷いた。
私は先輩の前でスマホのロックを解除し、通話アプリを起動させた。母のアイコンをタップして、通話ボタンを押すと、呼び出し音が鳴った。
少しして、母が通話ボタンを押し、会話が始まった。
「あ、お母さん?」
『香織? 珍しいわね、どうしたの?』
母の声に、安堵する私がいる。
「お母さん、ごめん……。学校へ迎えに来てくれる?」
私の声に、母の声色が変わった。
『何があったの?』
「ちょっと過呼吸の発作が出ちゃって……」
声に疲労の色が出ているのが伝わったのだろう。
母もすぐ反応する。
『わかった、今すぐ行く。香織は今どこにいるの?』
「学校の中庭に……。正門よりも裏門が近いから、そっちに車を回してもらえると助かるかな」
母はわかったと言って通話を終了させた。
先輩は私の荷物を持ってくれる。
私たちはゆっくりと裏門へ向かって歩き始めた。
「ふうん、香織ちゃん、可愛い文字を書くね」
昔からちょっと丸っこい文字を書く癖のある私は、少しでも綺麗な字が書けるように書道教室に通ったりしたこともあるけれど、結局は上達することなくコンプレックスが解消されることはなかった。
「子どもみたいな字を書くと、よく言われます……。恥ずかしいので、あまり見ないでください」
このノートに書かれている先輩の名前は、文字がちょっと角張っている。私とは対照的だと思っていると……
「いやいや、僕も文字については人に偉そうなことを言えないからね。ほら、これ」
そう言って、先輩は自分で自身の書いた文字を指差した。
「足して二で割ったら、いい感じになるのかもね」
ちょっぴりイタズラっぽく微笑む先輩に、私の視線は釘付けになる。
「そう、ですね……」
私は自分の名前を記入し終え、手を置きながら返事をすると、先輩が不意に私の右手に触れた。
私の右手から、先輩の熱が伝わる。と同時に、私の顔と身体が途端に熱くなる。
「うん、やっぱり香織ちゃんは全部が可愛い」
先輩はそう言いながら、私の右手に触れた手に力を込める。
「え……? あ、あの……、先輩……?」
先輩の大きな手が、私の手をすっぽりと包み込む。私は先輩が何をしたいのかがわからず、思わず口を開くと、先輩は優しく微笑んだ。その微笑みは、今まで見たどの表情より優しく、そして甘い。その視線をまともに見つめ返してしまった私は、今までに経験したことのない、言い知れぬ感情に包まれたていた。
「何だろう……、まだ知り合って日が浅いのに、香織ちゃんの前だと感情が突き動かされる。香織ちゃんのために、何かをしてあげたいって自然に思えるんだ」
私の耳に聞こえるのは、先輩の声だけだ。
部室の外では運動部の掛け声や吹奏楽部、箏曲部の練習音も聞こえているはずなのに、この空間にそれらは届かない。
今、この世界にいるのは、私と先輩の二人だけ。
なぜかそんな錯覚に陥っていた。
何ならこのまま、ずっと二人だけの世界が続けばいい。そんなふうに思えてしまうくらい、私の心は先輩に囚われていた。
どれくらい時間が流れただろう。
私たちは言葉を交わさずとも、お互い見つめ合っていた。
その沈黙を破ったのは、私のポケットにしまっているスマホのバイブレーションだった。さっき先輩と連絡先を交換した時に、緊張からうっかりマナーモードを解除していたようだ。
その音で我に返った私たちは、お互いの意識を自身のスマホへと向ける。私はポケットからスマホを取り出した。
私のスマホは中学生になった時、両親が買ってくれたもので、四年目の機種だ。三年以上経つと、さすがにバッテリーの消耗が激しいため、メッセージの受信などは通知音を切っている。バイブ機能も切っていたと思っていたけれど、うっかり切り忘れているアプリがあったようだ。
「大丈夫?」
緊急性のあるメッセージかどうか、先輩が私に問いかける。
「全然問題ありません。この前入れたゲームアプリの通知でした。通知切るの忘れていたみたい……」
「そう、なら良かった。……今日はもう、遅くならないうちに帰ろうか」
部室の時計は、もうすぐ十八時を指そうとしている。結局下校は昨日とそんなに変わらない時間だけど、先輩の声に私は頷いて、部室の外へ出た。
先輩が施錠をして、職員室へと鍵を返しに行く間、私は先輩の鞄を預かり中庭で待つことにした。
少しずつ、日が長くなっていく。
七年前のあの時は季節が秋だったから、今と逆に段々と日が短くなっていっていた。銀杏が舞い散る道路が、私と命の恩人の血で赤黒く染まっていく……
思い出しただけで、私の視界が段々と狭まっていく気がした。呼吸も荒くなり、やばいと思ったその時――
「香織ちゃん!?」
先輩が慌てて駆け寄ってくる。大丈夫だと返事をしたいけれど、言葉が上手く声にならない。指先が冷たくなり、手が痺れてくる。私はポケットの中からハンカチを取り出すと、それを口に当てがった。
私が過呼吸の発作を起こしたことに気付いた先輩は、背中を摩りながら私に声を掛ける。
「香織ちゃん、僕の言うとおりに呼吸できる? 吸って、吐いて。息を長く吐くんだよ。吸って、吐いて……。そう、上手だ。もう一度吸って、吐いて……」
先輩の声に合わせて呼吸をする。ハンカチで息を吸い込む量が制限されるのと、吐き出す息が多い分、少しずつ身体が楽になっていくのがわかる。
しばらくして、ようやく身体が落ち着いた。過呼吸の発作は過去にも何度か起こしたことがあるのど、自分でも対処することはできたけれど、先輩の指示が適切だったおかげで、発作はいつもより早く引いた。こうやって誰かにコントロールしてもらうと回復も早い。
「保健の先生、多分まだ残ってると思うから、保健室行ってみる?」
先輩の心配が私にも伝わってくる。そりゃ、職員室から戻ってくると、私がいきなり過呼吸の発作を起こしているのだから、びっくりするのも当たり前だ。
「いえ、大丈夫です……。ご心配おかけしてすみません。今日はこのまま帰ります」
私はハンカチをポケットの中にしまうと、カバンを持って立ち上がる。それを先輩が制した。
「いや、まだ動かないで。何かあった時に心配だから、泰兄呼んでくる。泰兄に頼んで家まで送ってもらおう」
先輩が心配してくれるのは嬉しいけれど、これ以上話を大ごとにしたくない私は、鞄を下ろして私の手を掴んだ先輩の手にそっと触れた。
「それなら母に連絡して、迎えに来てもらいますね」
私の気持ちを汲んで、先輩は渋々頷いた。
私は先輩の前でスマホのロックを解除し、通話アプリを起動させた。母のアイコンをタップして、通話ボタンを押すと、呼び出し音が鳴った。
少しして、母が通話ボタンを押し、会話が始まった。
「あ、お母さん?」
『香織? 珍しいわね、どうしたの?』
母の声に、安堵する私がいる。
「お母さん、ごめん……。学校へ迎えに来てくれる?」
私の声に、母の声色が変わった。
『何があったの?』
「ちょっと過呼吸の発作が出ちゃって……」
声に疲労の色が出ているのが伝わったのだろう。
母もすぐ反応する。
『わかった、今すぐ行く。香織は今どこにいるの?』
「学校の中庭に……。正門よりも裏門が近いから、そっちに車を回してもらえると助かるかな」
母はわかったと言って通話を終了させた。
先輩は私の荷物を持ってくれる。
私たちはゆっくりと裏門へ向かって歩き始めた。
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