嫌いになりたい 〜4人の切ない恋が交差する連作短編〜

犬白グミ

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第4話 柴

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 伊野崎の様子がおかしい。
 仕事部屋にコーヒーを運ぶと、ノートパソコンの前でこめかみを押さえて俯いていた。

「どうした?」と訊いても「どうもしない」と返す声が掠れぎみのようだ。

 リビングに戻った柴は、薬箱から体温計を探して、仕事部屋に戻り伊野崎に渡した。
 
「頭が痛いんだろ。熱を測れよ」
 
 伊野崎が黙って体温計を脇に挟む。

 電子音が鳴るのを待つと、体温計に表示されたのは三十七度八分だ。

 眉間に皺を寄せる伊野崎を、柴は見下ろした。
「寝た方がいいんじゃないか?」

「そうする」
 伊野崎はマウスを動かし、パソコンの電源を切っているようだ。

「薬なさそうだったから、買ってくる。食欲はあるか?」
「食欲はない。頭が痛い」

「玄関の鍵貸してもらうからな」
 そう言って、柴は買い物に出掛けた。

 薬局とスーパーが隣接した店に行き、必要な物を買い揃えると急いで帰る。
 リビングに伊野崎の姿はない。

 仕事部屋にもいなかった。
 残るは寝室だけだ。

 ノックをした柴は「はい」という返事を待ってから扉を開けたというのに、伊野崎は着替え中で半裸だった。

「な…」
 なんで。
 着替え中だと言わない。
 
 背中を向けた伊野崎の綺麗な肩甲骨が動く。
 脇から腰のゆるやかな曲線を柴は目で追った。
 ゆったりとした薄いジャージにに包まれた臀部の膨らみ。
 
 在宅が多くなった伊野崎の肌は、艶めかしい白さだった。

 真っ白なTシャツに着替えた伊野崎が振り返った。

 柴は風邪薬とペットボトルを渡す。
「薬買ってきた」

 胸の突起を探してしまいそうになる。

 薬を飲むと伊野崎は布団に潜った。
 体が怠そうだ。
「柴、帰っていいぞ」

 伊野崎の乱れた髪がシーツに広がる。
 柴は溢れ出た唾液を嚥下した。

「リトに餌をあげたら帰るよ。夕方は何時にあげればいい?」
「…六時ぐらい」
 伊野崎が寝返りをうち、顔を背けた。

「伊野のごはんも作って置いておくよ。お粥かうどんどっちが食べたい?」
「釜玉うどん」

 伊野崎が体調を崩した時の定番メニューだ。
 柴は笑った。

「わかった。寝てろよ」

 リビングに戻った柴はソファーに座る。

 伊野崎の半裸が浮かんだ。
 何度も抱いた体だ。
 
 伊野崎とのセックスが鮮明に蘇った。

 唇を重ね舌を絡ませる。
 伊野崎の肌の感触。匂い。
 舌先で乳首を舐め、甘噛みする。
 手のひらで胸を撫で脇腹に降りる。
 伊野崎の喘ぐ声。

 後孔に入った感覚に目眩がする。
 射精する快感が押し寄せる。

 記憶の中と同じように、柴は久しぶりに下腹部に熱を感じた。
 しかし、下着の中を覗いて見ても反応はない。

 柴が伊野崎と出会ったのは、十七歳の高校生の時だった。
 他の男とは違い、伊野崎のそばにいると胸が高鳴り、肌が触れると疼くものがあった。

 そして、好きだと自覚した途端に、性的な欲求が渦巻いた。 
 男を好きになったことよりも、理性を失った己の行動に驚いた。

 伊野崎を抱いた。

 あれは、レイプだったのではないのか。
 合意だったのか。
 後から記憶を辿ってもわからない。
 
 告白してからの十年間、伊野崎だけを好きだった。

 それなのに。

 伊野崎に別れを告げた夜、
「別れてほしい。結婚することになった」と柴は乱暴に告げた。

「別れない」と言う伊野崎を切り捨て、身勝手に家を出た。

 外に出ると、満月が浮かぶ夜空の下で、柴は動けなくなった。

 今なら戻れる。
 伊野崎を愛している。
 立ち止まり考え続けた。

 そして、柴は愚かにも伊野崎から離れる方へ歩み出してしまった。
 忘れられると思ったのだ。

「にゃー」とリトが鳴く。
 茶トラの子猫が、足元に擦り寄ってきた。
 リトと名付けられた子猫を撫でる。  

 同棲していた頃、猫を飼いたいと言う伊野崎に反対してしまったことを柴は悔いていた。

 だから、購入した子猫を拾ったと嘘を吐き、伊野崎に預かってほしいと頼んだのだ。

 寝室を覗くと伊野崎はもう眠ったようだ。

 近寄って、寝顔を眺めると、愛おしさが込み上げてきた。
 どうして、伊野崎を捨てるなんてできたのだろう。

 クラス会の夜「俺も会いたかった」と伊野崎が言った。

 伊野崎がどんなに悩み悲しみ答えを導き出したのか、柴には容易にはわからない。

 伊野崎の愛を否定して逃げた柴は、拒絶されて当然なのだ。
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